人生に飽きた男
昼間は青かった空は次第に朱が射し始め、今まで忙しなく動いていた人々は満足感や倦怠感など、様々な感情を抱きながら帰路へと向かい始める、そんな時間帯。
とあるビルのオフィスの一室では一人の男とその上司に当たる初老の男性が背中に沈み始めた太陽の光を浴びながら、オフィス内の社員全員の視線を浴びている。
「松井君、何か最後に言いたいことはあるかね?」
「……そう……ですね」
初老の男性に「松井」呼ばれた男は、緊張気味の身体を少しでもほぐすために深呼吸を一度行った後に自信が作れる最大限の笑みを顔に張り付け、言葉を放つ。
「今までの6年間、お世話になりました。人によっては短い間だったかもしれませんが、今後も皆さんのご活躍を期待しております。本当にありがとうございました」
短い挨拶を終えた後、男はこの6年間何度下げたか分からない頭を深々と下げる。男の前であいさつを聞いていた者達は形だけでもとその手と手を叩き始めた。
「松井君は私たちとはこれから違う道を歩く。しかし、元はこの会社での仲間だ。私たちも君の活躍を期待しているよ」
一通りの拍手を終え、初老の男性はどこかで聞いたような言葉を言い終えると、男を出口へと導く。そんなありふれた言葉が男の心に響くわけが無く、男は顔に笑みを張り付けたままその場を後にした。
年齢―28歳、性別―男、身長―176㎝、趣味―無し、女性関係―零、持ち家―無し、両親―健在、兄弟―無し、友人―そう呼べるのは5人程、貯金残高―5,093,598円、職業―無職。
それが、6年間勤めていた会社を今まさに退職した男――松井 利道である。
・・・
男は自身の暮らしているマンションの一室へと帰ると、もう行くことのない元勤め先の会社で受け取った最後の土産である花束をゴミ袋へと投げ捨て、机の上に置いてある一冊のノートを取り上げる。
「……とうとう辞めちゃったなぁ」
男は残念そうに、しかしどこか楽しそうにそのノートの文字を眺める。ノートの表紙、題目を書く欄には気取らない字で「自殺計画帳」と書かれている。
男はノートをぱらぱらとめくると、そこには今日会社を辞める事と日本各地の情報に自殺の方法。これだけ聞くとそれなりに量があるようにも思えるが、実際にはそれだけの情報を10ページに集約している為、ほとんどが白紙に近い。その上、その中で決まっている事と言えば会社を辞めるまでの予定と、目立つように黒丸が付けられている「睡眠薬」という自殺方法のみだ。
「さってと、自殺に向けて生きますか」
男はそう自身に言い聞かせるように呟く。しかし、「自殺」という言葉を発している男の声に悲しさというものは無く、どちらかというと楽しげなものだ。男はスーツを言葉の通りゴミ袋へと脱ぎ捨て、Tシャツとジーパンという身軽な格好に着替える。
「じゃ、お世話になりましたっと」
男はノートを大きめのカバンへと入れると、そんな軽口を言った後にゴミ袋とカバンを持ってマンションを後にする。
男自身、自分の人生に絶望したわけでは無い。
平凡に学生生活をし、平凡に就職し、平凡に働く。そんな毎日を繰り返している彼だったが、特別大きな悩みもなく、かといって特別楽しいと思えるようなイベントもない。そんな平凡を絵に描いたような人生を生きていた彼だったが、ふと、ある日思う。
(俺は何のために生きているのだろうか……?)
世の中の人々は何を考え、何を思い生きているのだろうか。
たとえば、ドラマなどで仕事帰りの父親がビールを飲み、「この一杯の為に生きてきた」と言うシーンがある。
本当にこんな人物がいるのか、本当にそんなことを本心から思っている人がいるのかは分からないが、仮にそうだとしたらどれだけ素晴らしいか。そんな風に考えてしまう。
他にも、子供の為に働く人、仕事を楽しむ人、上に立とうとする人、自身を磨くためにバッグなどを買う人、アニメグッズを買い漁る人、自身の趣味に打ち込む人……。
中には他人に揶揄されるようなものもあれば、くだらない、つまらないと一掃されるものもあるが、それでもその行為を自身の生きる糧としている人々がいる。
だが、彼にはそれが無い。彼自身、生きる為に生きている。それこそ特に意味も、目的もなく。そのせいか、それこそいっぱいのビールに生きる糧を見つけている人にさへ、嫉妬にも似た羨ましさを感じ、対照的に自分がどんなにからっぽで乾いているのかを実感させられ、そして考えるようになった。
――なぜ、俺は生きているのだろうか、と。
もしかしたら、結婚や趣味などで今後の人生で自身の生きる糧を見つけられるのかもしれない。
だが、それはこの28年という年月を生きても得られなかったものであり、仮にそれが得られないのであれば彼自身がこのまま生き続けたとして、ただ死ぬのを待つだけになるのは明白であり、それは――
緩やかな自殺
――と、言える。
で、あるならば特に思い入れの無い自身の人生にしがみつく必要はない。そう考えた彼は一冊のノートに自身の性格を反映したような適当な自殺計画を綴る。
決して自殺願望があるわけでは無い。しかし、死に対してそれほど恐怖も感じていない。ならば自身がつまらないと、それ以上に苦痛にさえ感じている仕事を続けてまで自身の人生に生きる価値を見いだせなかった彼は自身に命の期限を決め、決して多くは無い金を引っ提げ、会社を退職した。
・・・
(寿命が売れればよかったんだけどなぁ)
男そんな事を思いながら電車の車窓から見える景色に視線を向ける。
(……いや、仕事自体、寿命を売って金にしてるようなもんか)
窓の外の景色は自身の暮らしていた人工物の多いビル街から山々や畑など、濃い緑と青で造られた自然の風景に変化している。
(しかし、なぜ人々はこんな世の中を生きられるのだろうか)
男は窓から車内の人々へと視線を移す。すでに都心からかなり離れている為か車内にいる人々はまばらであり、どこかの社会風刺の絵のように皆一様にスマートフォンに視線を落としている。その為か、唯一スマホを持っていない、というより社会のしがらみから解放されるために捨ててきた彼は車内で少しだけ浮いているように見える。
(便利な世の中も考えものだな)
皆が液晶画面に目を落とす。そんな10年か20年前であれば異様な光景になったであろうそれを見ながら、少しだけ優越感に浸りながら再び車窓の風景を眺めていると、電車が駅に停車し一人の少し大きめの荷物を抱えた老婆が車内へと来る。
老婆は荷物を席へと下ろすと、自身の2つ隣の席に腰を落ち着け、少しだけ辛そうにしわくちゃの手で背中を叩く。
「……暑いねぇ」
老婆はそんなことを呟きながら荷物に下げていた水筒から水分を補給し、荷物の中から何かが入っている風呂敷を取り出しそれを広げると、その中に入っていた5つのみかんの内一つを取り上げ、皮をむき始めた。
(この人はどんな思いで人生を過ごしたのだろうか)
男は自身と同じく、スマホへと視線を落とさない老婆に少しだけ仲間意識を感じながら老婆を観察する。老婆はしわくちゃな顔に思った以上に綺麗な目をみかんへと落としている。
「ん? どうしたんだい?」
老婆は一粒のみかんを口に運ぼうとしたときにこちらに気付いたようで、みかんを運ぶ手を止め、こちらを見つめる。
「あたしの顔になにか変な物でも付いていたかい?」
「あ、いや……その……」
誰彼構わず話しかけるような性格でもない彼は、少しどもりながら返答となる言葉をさがす。しかし、初対面の見知らぬ老婆に掛ける言葉を彼は持ち合わせておらず、視線を自身の膝へと動かし小さな声で「すみません」と社会人の時に何度も吐き捨てた感情の籠らない返事を返す。
「なーに謝ってんだい? あんたなんか悪ぃ事でもしたのかい?」
「……」
そんな少しだけ気持ちの沈んだ男とは対照的に老婆は快活な声を男へ発する。男自身、特に何か悪い事をしたという気持ちは無いものの、少しだけ不信感を持った老婆の声は男に僅かな罪悪感を植え付け、男は返す言葉を完全に見失ってしまった。
「はぁ、最近のはそんなんばっかだねぇ」
老婆は呆れた声でもう一度みかんを口へと運ぶ。
「最近のはなんというか、覇気がないねぇ。いつも申し訳なさそうに、てめぇが悪いわけでも無いのに一歩引いてると言うか……」
老婆はぶつぶつと呟く。男は何か面倒なことに巻き込まれたように感じ、「老婆」という名の嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。
「で、あんた、どうしたんだい?」
「……へ?」
何かこの社会への文句をぶつぶつと呟いていた老婆は唐突にそんな言葉を男へと投げかける。男は我に返り、老婆へと間抜けな声を上げた。
「だから、どうかしたのかい?」
「え? いや、何が……?」
「あんた、酷い目をしてるよ?」
老婆の言葉に、男は眼前の窓に映る自身の顔を眺める。男には自身の顔が社会人の時よりも良い、疲れから解放されたものに見える。
「……そんなに酷いようには見えませんが」
「そうかい? ならいいんだけどね」
老婆は興味が失せたのか、話が終わったとばかりにみかんを口に運ぶ作業を再開させる。男は嵐が過ぎ去ったと感じながら車窓へと視線を戻す。
「ほら」
車窓の風景を眺めていると、突然眼前にみかんが出現する。
「あ……どうも」
突然の事に男はそれだけを返し、みかんを受け取る。老婆はそれを確認すると、来るときに背負っていた荷物を再び背に乗せ、電車を後にした。
「……変な人もいるもんだ」
男は唖然としながらも、受け取ったみかんへと視線を落とす。
普段であればこういう見知らぬ人物から受け取った物を口にする男ではないが、ただ何となく、今あった不思議な出来事を噛み締めるようにみかんを口へと運んだ。
(……すっぱ)
恐らく旬のものでは無かったのだろう。みかんは酸味が強く、食えなくはない物の、決して美味い物でも無かった。
男はみかんを何とか完食し、老婆の降りた次の駅に降り立つと、当てもなく行先もない歩みを進め始めた。