私と彼と、記憶と思い出
まず目に入ってきたのは、白い天井と、自分を囲む白いカーテンだった。
「……?」
脳裏をよぎる夜の出来事。でも、しっかりとは思い出せない。覚えているのは、強い光、衝撃、冷たさ。
それと、力強い腕の感覚。
「アカリ!」
見なくても、涙ぐんでいるとわかる声が聞こえた。
そっちを見ると、案の定目が赤くなるまで泣き続きたであろう顔の、中年の女性がいた。
「お母さん…?」
「よかった…目が覚めて…よかった…」
「3日も寝続けていたんだ。母さんだって心配するさ」
「お父さん…?」
なんだろう。思い出せない。この人たちが自分の両親だとは分かる。でも、それだけ。
頭の中に思い浮かぶ顔。
「直哉…?」
「今呼んでくる、ちょっと待ってろ」
お父さんはそう言って部屋を出ていった。
「お母さん…ここって病院?」
「ええ、明、3日前にあなた事故にあったの。直哉君が助けてくれてね、病院に運ばれたって、連絡もしてくれたのよ」
「すぐ来るそうだ」
お父さんが病室に戻ってきた。電話で伝えたのかな。
それからしばらく、検査があった。意識はしっかりしているか。体の中で動かないところはないか。しっかり自分の意思で思った通りに動かせるか。
順調のように見えたけど、私の中には、一つ、心配事があった。
「明…」
「直哉…」
検査が終わってすぐ、直哉、私の彼氏が病室に姿を見せた。
「意識、戻ったんだな。よかった」
「うん、ごめんね、心配かけて」
「いいって、異常とかは無かったんだろ?お母さんから聞いたよ。」
「うん、体も問題ないから、一応1週間くらい様子みて退院だって。そんなひどい事故だったの?」
「信号無視のトラックが突っ込んで跳ね飛ばされたんだ。柵越えて川まで落ちちゃってさ、慌てて飛び込んだよ。秋の川って、相当冷たいんだな」
「そうなんだ…」
直哉がそこにいてよかった。そう思った。
「退院したらさ、水族館行こうぜ。明日行こうって約束してたけど、入院しちゃってどうしようもないから」
「約束…」
「ん?どうした?」
「ううん、なんでもない」
とりあえずは誤魔化せたけど、今の言葉で私はさっきの心配が、現実だと確信した。
記憶が無い
記憶というか、思い出が、ない。
この人はこういう名前のこういう人、ここはどこか、今はいつか
そういった「知識」としての記憶はある。
でも、この人と何をしたか、ここにはいつ来たか
そういう「思い出」にあたる記憶が、なくなっていた。
先生や、親、直哉に言うべきかもしれない。
でも言う勇気が起きなかった。うまく説明できないかもしれない。変に思われて退院が伸びるかもしれない。そんなマイナスの考えが積み重なって、私は記憶をなくしたまま退院した。
退院したのは水曜日。
午後から授業にも出られるほど体調はよかったけど、お母さんに止められて一応明日から、ということにした。
水曜日の午後は、退屈だった。
平日のせいで友達にLINEを送っても授業中で誰も返さない。当たり前だ。Twitterもフォロワーはみんな授業や仕事。ネットをしていてもつまらなくて、私は外に出た。お母さんは心配みたいだったけど、1週間寝たままのせいで落ちた体力も付けておきたいから、定期的に連絡をすることを条件に、外出を許してもらった。
当てもなく歩き続ける。
学校の前を通るのは、誰かに見つかるんじゃないかとスリルもあった。
ゲームセンターの前を通る時は、巡回の警察官に見つかったら誤解されるだろうか、なんて考えてた。
夕方、日が傾いて、辺りがオレンジ色に染まり始めた。友達からのLINEが何件か帰ってきていた。事故を心配してくれた子もいて、体は大丈夫、元気であると伝えた。
家に帰って、夕食を食べる。
久しぶりの家出の食事、お父さんは今日は会社を定時退社してきたらしい。お母さんは張り切って豪華なご飯を作ってくれた。
一人娘だからって、影響されすぎじゃないかなって思ったけど、口にはしないでおいた。それくらい大切にされてるんだってわかったから。
翌日、通っている高校、杉枝高校に登校した。
クラスに入ると、何人かの仲のいい子が
「大丈夫だった?」
って声をかけてくれた。
「大丈夫だからここにいるんだって」
と笑いながら返す。
「明」
後ろの席から声が聞こえた。騒がしい教室でもよく通る声だ。
「久しぶり」
「ん、ごめんね、心配かけて」
一番の親友、阿賀野由香里。明るくて人の好き嫌いのない、ポニーテールの女の子。結構可愛くて由香里のことが好きな男子もクラスにちらほらいるようだ。
「昨日LINE来てすごいホッとしたもん。事故に遭ったって聞いた時ビックリした」
「私も自分が事故に遭うなんて思わないって」
由香里と談笑していると、担任の福谷先生が教室に入ってきた。
「あー、谷本、大丈夫か?」
「大丈夫じゃなかったらここにいませーん」
先生の心配に軽口で答える。クラス中が笑いに包まれる。先生も
「そりゃそうだ」
と笑っている。私は知ってる。こういうクラスだって。笑いの絶えない、明るいクラス。仲の悪い子はいるけど、いつも喧嘩してるわけじゃない。完璧ではないにせよ、良いクラスだとは思う。
でも、全く懐かしいって思わない。むしろ新鮮。
当たり前だ。ここでクラスの一員として過ごした記憶が無いんだから。
1日で何回心配の言葉を投げかけられただろう。
1日の授業6時限の担当の先生。廊下ですれ違った去年の担任の先生。クラス替えで別れた友達。中学の時からのの後輩。
私は幸せなのかな。記憶がなくなっても、ほかの人はそれに関係なく接してくれる。関係なくじゃないか、知らないだけだ。知ったらきっと、少なからず離れていく。人間は、そういうものだ。自分の思うことと相手の思うことが違えば、ずっと一緒にいたいとは思えない。
下校する時、校門に寄りかかっている直哉を見つけた。
「直哉」
声をかけると、顔を上げて
「おう」
と返してくる、私の恋人。別の高校に通ってるけど、下校時間が直哉の高校の方が早い。私の高校の下校時間には、校門で待っていてくれる。
手をつないで帰る道、いつもこうしていたんだろうか。思い出したいのに、思い出せない。
「動物園、いつ行く?」
そうだ、そんな約束してたって言ってたっけ
「んー、私は今週末でもいいよ、予定無いし」
「んじゃ土曜日に、明の家に行くわ」
「わかった」
私が彼を好きだという気持ちは、事故のあとも続いている。記憶には関係ないんだろうか。
金曜日はクラス全体に、無くなりかけていた活気が少しだけ戻る。今日さえ乗り切れば休みだ。みんながそう思う中、私は少し違った。今日さえ乗り切れば直哉とのデート。記憶がなくなってからは初めてのデート。思い出がないということは、まだ誰にも話してない。話した方がいいのかもしれないけど、それで今の関係が壊れるのが、怖かった。
木、金は8時に起きてすごく焦ってたのに、今日に限って6時に目が覚めた。直哉との約束の時間まで4時間もある。休日の早朝なんてTwitterとかLINEの知り合いも誰も起きてないし、ゲームはなんとなくやる気にならない。二度寝しようにも、目が冴えてしまって寝られない。
課題終わらせちゃうか、と思い至って、勉強机に向かう。今週末の課題は数学と生物。どちらも苦手科目でこの二つが課題に出る週は週末が憂鬱だった。でも今週は、ご褒美がある。この課題の量なら、休み休みやって2時間で終わるだろう。それが終われば、直哉とのデートだ。
2時間半後、無事に課題を終わらせ、ちょうどお母さんが起きてきたから一緒に朝ごはんを食べて、直哉と出掛けるって言ったらお小遣いをくれた。
「あんまりあなた達デート行かないから、関係崩れないか心配だわ。お金は気にしなくていいから、もっと行ったら?」
そう言って嬉しそうに笑うお母さん。デートの時のお小遣いは毎回のことのようだ。
「行ってきます!」
呼び鈴が鳴るなり、リビングを飛び出して、カバンを掴んで玄関に走る。
「よう」
玄関を開けると、笑顔の直哉がいた。
「おはよ」
事故の後、初めて見る直哉の私服。彼は服にあんまり神経を使わない主義らしい。Gパンと黒いコートという、なんの特徴もない格好だった。
「んじゃ、行くか」
自転車に跨る直哉。私も自分の自転車を取りに行こうとする。
「あれ、乗んないの?」
「えっ?」
「いや、自分のチャリで行くならいいけど…」
「乗る!」
なんてこった。以前の私は直哉に後ろに乗せてもらってたらしい。早々やらかすところだった。
「どこの水族館行くの?」
「忘れたのかよ、すぐそこ、杉枝水族館」
軽く笑いながらいう彼。忘れたのって言えるはずがなくて笑って誤魔化した。
入ってすぐ、入口正面にいるアロワナに目を奪われた。オレンジ色の大きな体で悠々と泳ぐ姿はとてもかっこよくて、いつか飼いたいな、なんて思ってしまうほどだった。
それからピラルクやガーとかの大きな淡水魚を見て回った後、海の魚がいるコーナーに向かった。小型のサメや鰯の群れ。いろんな魚を見ていると、直哉が肩をつついてきた。
「ずいぶんテンション高いな」
別に棘のある言い方でもないし、彼としては普通の感想を言っただけなんだろう。でも私は、テンションが上がっていたせいで、つい下手なことを言ってしまった。
「だって水族館なんてなかなか来れないじゃん?」
「え?月一くらいで来てるだろ?」
「あっ……」
彼の言葉を聞いて、しまった、と思った。
「明…なんか変だぞ?大丈夫か?」
「うん…」
もう、言った方がいいだろう。
「ちょっと、座ろっか」
水族館の中にある休憩スペースのテーブル席に座る。
「私ね、記憶、ないんだ」
「あの事故で?」
「うん…多分。これが誰で、どういう人かってのは分かるんだけど、その人とどういう話をしたか、どこに行ったかとかの「思い出」が全部無いの。だからここに来る約束とか、これまで行ったデートとか、全部忘れてるの」
「そうか…」
「ごめんね、忘れちゃって、大切な時間だって、わかるのに」
「俺は、別に気にしないよ、記憶が無くなろうが、俺と明がこういう関係だってのは、覚えてるんだろ?それだけで十分だよ」
そう言って彼は、泣いている私の頭を撫でた。
それだけなのに、とても救われた気がした。
そこから水族館デートは再開した。
まずふれあいコーナーで2人でヒトデや小魚を触った。
おとなしくて小さなサメもいて、鮫肌を指で触ろうとして、直哉に「切れるよ」と脅かされた。
「それにしても、前は明、ここ来たがらなかったな。手が生臭くなるし、ヒトデは気持ち悪いしって」
「そうなんだ」
他愛もない話をしながら、いろんな所を見て回った。
そのうち、私はあることに気がついた。
…あれ?
さっきスッキリしたはずの心の中に、ぼんやりとモヤがかかってきていた。
そんなこんなで夕方、思う存分水族館を満喫して帰る。
直哉の家の前で止まったので、自転車を降りて帰ろうとする。
「あれ…あ、そっか」
「ん?、どうかしたの?」
「いや、デートの後って毎回俺の家に泊まってたからさ」
まただ。水族館での話の途中も、ずっと心の中に浮かんでくるモヤ。なんなのか分からないから放置してるけど、そろそろ無視出来なくなってきた。
……え?
「い、家に泊まる!?」
「うん」
え…恋人同士で彼氏の家で夜過ごすって…
そういうことだよね?
恥ずかしい想像をしてしまい、私の顔が真っ赤に染まるのが自分でもわかる。
「あー、今日はやめとくか?」
「泊まる!」
つい食い気味に答えてしまった。
「お、おう、んじゃちょい待ち、チャリしまってくる」
直哉が自転車をしまって、玄関のドアを開ける。
「あ、毎週末は俺の家親いないから」
…なんでそういう意識させるような発言をするのかな
翌朝、直哉に自宅まで送ってもらった。
昨夜のうちにある決意を固めていた。
「ただいまー」
「おかえり、どうだった?」
「楽しかったし…あとは想像に任せるわ」
「え…?」
「ん?どうかしたの?」
「いや、いつもだったら顔真っ赤にしながら反論してきたのになんか変だなって」
「うん…その話なんだけど、お父さんは?」
「部屋にいるはずよ」
「お父さーん!」
大声で2階のお父さんを呼ぶ。
「なんだ?」
「ちょっと話がある」
それから私は、両親に記憶が無いことを告白した。
でも、これが誰かとかは覚えているから、日常生活に支障はないこととかも、一緒に言っておいた。
2人は相当ショックだったみたいだけど、私が落ち着いてるからか、あんまり騒がなかった。
翌日、学校に来た由香里や、他の友達にも同じことを伝えた。色んなところに噂が広まって、しばらくの間休み時間は落ち着けそうにないな、と他人事のように思ってた。
ピロン
LINEが来た。スマホを開いてみると、直哉からだ。
『今週末、ちょっと遠出しようぜ』
『どこに行くの?』
『秘密』
それからは授業も集中できなかった。
どこに行くんだろう。この時期海はない、冬も近づいていて、お祭りもやってるところは少ないだろう。色々想像をふくらませて週末を楽しみにしていた。
でも、ワクワクする気持ちと同時に、あのモヤも心の中に浮かんできた。
(なんか…怖いな)
彼と会うのは楽しみだけど、彼と過ごすのが、怖い。
そんなふうに思い始めたのは、直哉が家に迎えに来る直前だった。
呼び鈴が鳴る。
「行ってきます」
お母さんにお小遣いも貰い、直哉の自転車の後ろに乗る。
「どこ行くの?」
「秘密」
もう…着くまで教えてくれないのかな。
駅で自転車を降りて、640円の切符を買う。
電車の中は休日とは思えないほど空いていて、2人がけの窓側に座った。
ワクワクして夜更かししたせいか、電車の音を聞いてるうちに眠くなってきた。
「明、もう着くよ」
「ん…」
すっかり眠りこんでしまったらしい。
直哉に起こされて、体を伸ばす。電車の中は少し混んできていた。
『有山ー有山ー、お出口は左側です。JR線は、お乗り換えです』
有山…あんまり聞かない駅だ。
二人で電車を降りて、閑散とした無人駅の改札を通る。
昨日のテレビや、Twitterで見つけた話とかをしながら、10分くらい田舎道を歩くと、薄いピンク色の花が咲いた木が何本もあった。直哉がその中のベンチに腰を下ろす。
「ここ、来たかったところ」
「何?この木 なんかあるの?」
「いや、得になんにも。ただ一緒に来たかっただけ」
「なにそれ」
笑いながら彼の横に腰を下ろす。
「ほい、昼飯」
「あ、ありがと」
直哉がカバンから取り出したのは、ラップで包まれたサンドイッチだった。
「これ、作ったの?」
「ん?あぁ、それくらいなら簡単だぞ?」
「……普通逆だよね」
「そうか?作れる方が作ればいいだろ。まぁ今回は明の番だったけど、覚えてないかもしれなかったから俺が作ってきただけだから」
「そう…なんだ」
少し沈んだ気持ちになって、気を紛らわすためにベンチの横にあるこの木の案内板を読見始めた。
『山茶花 さざんか
樹齢30年
冬が近づくと花が咲き、強い香りを放つ
赤、白、桃などの色があり、それぞれに花言葉が付けられている。赤は謙譲 白は愛嬌 桃は永遠の愛』
周りを見渡してみる。ここにあるのはみんなピンク色の山茶花だ。
ピンク色の山茶花の花言葉…永遠の愛
直哉がそのことを知ってるかどうか分からない。でも、誘ってここまで来たんだ。多分知ってる。急に恥ずかしくなって、サンドイッチを頬張る。
食べ終わって少し経つと、眠くなってきた。冬が近いとはいえ、日が当たる上にサンドイッチを食べたあとだからかな。
「眠い?」
「うん…」
直哉は軽く笑って、自分の太ももを叩く。
「えっ…?」
「膝枕」
「いいの?」
「もちろん」
「じゃあ…お言葉に甘えて」
ベンチに横になって、直哉の太ももの上に頭を下ろす。ベンチが北向きなお陰で、日差しは直哉で遮られて顔には当たらない。眠気に逆らえずに、すぐに私は眠りに落ちた。
「おーい明、そろそろ帰るぞー」
直哉の声で目を覚ます。
「今何時ー?」
頭をあげながら彼に聞く。
「3時くらい」
「もうそんなに?」
「よく寝てたもんなぁ」
彼は軽く笑って、立ち上がる。
私も立って、服のシワを軽く伸ばす。
帰りの電車の中で、直哉と色々と話をしていたけど、私の心は沈んでいた。
また…覚えてなかった。
お昼ご飯を作る順番。知識なのか、思い出なのか、その境界はどこにあるんだろう。いつか思い出せるんだろうか。思い出せないなら、毎日が憂鬱になる。直哉は、覚えていても覚えていなくても、明は明だって言ってくれた。でも、私が嫌だ。
電車が駅に着く。
「それにしても、明ってよく寝るよな」
「え?なんで?」
「前に行った時も、あんな風に膝枕して寝てたんだよ」
……もう、嫌だ
「直哉…別れて、くれない?」
「えっ…」
「ごめん、もう、耐えられない」
「なんか悪いことあったか?何かしたなら謝る!」
「ごめん!」
私は走って逃げた。直哉は自転車がある。追いつこうとすればすぐに追いつける。そんなこと分かってたけど、彼と顔を合わせるのが辛かった。
「どうかしたの?彼氏に振られた?」
声をかけてきたのは、金髪とピアスという、いかにも自分ヤンキーです、と主張してる男の人だった。
「なんでもありません」
「いやー、泣きながら走ってるからさ、気になって」
腕を掴まれて、逃げられない。
「放してください!」
「んー、そこの人?」
「あぁ?」
必死に振りほどこうとしていると、女の人の声が聞こえた。
「そんな嫌がってる子より、私と楽しいコトしない?」
そっちを見ると、黒いスーツを着た髪の長い女の人が立っていた。相当な美人だ。
「へぇ…」
掴まれてた腕が放されて、すぐに私は男から離れた。
「かわ…可愛がってあげるからね?」
……え?
気のせいかもしれないけど、気のせいだと思いたいけど。「彼女」の言葉の最初、すごい低い声に聞こえた。
「……カマかよ、気持ちわりぃ」
やる気が失せたのか、男はそのまま去っていった。
「災難だったわね」
「いえ…ありがとうございます」
………
「あの?」
なんだろう、じっとこっちを見てくる。
「……覚えてない?」
「え?」
「ほら、毎朝すれ違うじゃない」
「あ…えっと…」
「人違いだったかしら?」
「あ、いえ、多分合ってると思います…」
「なにかあったの?」
とりあえず、立ち話もなんだからというので近くの喫茶店に入る。
「私、記憶が無いんです。事故にあって」
「あぁ、それで…」
彼女はそれだけで納得してしまったようだった。
彼女は、柴田理恵と名乗った。記憶がなくなる前の私と、毎朝すれ違ううえ、私から挨拶もするようになったので、印象に残っていると。
「良ければ、さっき泣いてた理由も、聞かせてもらっていい?人生の先輩として、アドバイスくらいはできるかもよ」
毎朝すれ違うだけの高校生に、何でここまでしてくれるのか。疑問だったけど、今自分の中に溜め込んでいるものを吐き出したかった。
「記憶が無くても、知識はあるんです。この人はどういう人か、これはどういうものか。でも、思い出が無いんです」
これまで何回も言ったセリフだ。
「さっき泣いてたのは、彼と別れたからです。彼からじゃなくて、私から。彼が、記憶がある頃の私との思い出を話す度に、胸が締め付けられて。彼が悪くないのは分かってるんですけど、どうしても、彼が話す「私」と自分を重ねられなくて、何回聞いても、別人のように思えて。前の彼女との思い出を聞かされてるみたいで、でもそれは私との思い出で。その落差が耐えられなくて。最低な女だって、自分でもわかってるんです。勝手に事故で記憶なくして、自分の思い出を他の人だと思い込んで。それでも彼に、記憶がなくなる前の話はしないでほしいなんて言えなくて。それって前の私と分かれてほしいって言ってるようなもので」
次々と溢れ出る、自責の言葉。
彼女は何も言わず、私が話すことをずっと聞いていてくれた。並んで座ってるおかげで、顔を見ずに、一人で喋ってる気分になれて、全部吐き出せた。
また涙が溢れてきた。彼女はそんな私の頭に軽く手を乗せて、髪を撫でる。
「あなたは最低な女じゃない、彼のこともちゃんと考えて、我慢してるじゃないの」
「でもそのせいで、耐えられなくて、一方的に振って」
事実だ。ダムのように溜め込んでいるくせに、放流せずにいたせいで決壊して、周りに被害を及ぼしてしまう。
ふと気がつくと、彼女はいなかった。
今日散々寝たはずなのに、泣き疲れて寝てしまったようだ。外を見ると日は落ちて、もう真っ暗だった。店内には私以外にはカウンターの向こうで新聞を読んでいる喫茶店の店主しかいなかった。
呆れられたかな…
落ち込みながら、お金を払おうとする。
「連れの人が払ってったよ」
「えっ、あ、はい」
「大変そうだけど、頑張って」
「あ、ありがとうございます」
時計を見ると、8時を過ぎている。確かここの営業時間は7時半までだったはずだ。
「すみません、長居してしまって」
「いや、いいよ。迷惑だったら起こしてるし」
「ありがとうございます」
お礼を言って、店を出る。暖房が効いた部屋から出たせいか、寒さが身にしみた。
「明」
帰ろうとすると、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
「なんで…ここにいるの?」
「さっき探し回って、見つけたんだ。出てきたら声かけようと思って。」
「そうじゃなくて!なんで私なんか探してたの!」
「明のことが好きだから」
「…」
「それと、謝りたかった。ごめん。俺、明のことなにも考えてなかった。前の明なんて、今の明にとっては別人、なんだよな、それなのに俺は、前の明の話ばっかりして、傷つけた。ごめん」
「それは…私がちゃんと言わなかったから」
「それでも、俺が何も考えてなかったことは無しにはならないから」
……
「明、忘れるとは、言わないけど、前の明のことは、極力言わないようにする。だから、俺と…俺と、付き合ってくれませんか?」
私は、まだ直哉のことが好きだ。その事実は消えない。でもさっきので、直哉には嫌われたと思ってたから、また告白されるなんて思わなかった。
まだ直哉が私のことを好きでいてくれる上に、前までの話はしないとまで言ってくれる。
「でも…いいの?記憶がある頃の私と別れるっていうのと同じなんだよ?」
「今のままだと、明を傷つける。それはもう嫌だから、今は、前の明とは付き合わない。でも、いつか記憶が戻ったら、また色々話をしたいから」
そこまで想ってくれる。だったら、私が断る理由なんてなかった。
「もう1回」
「え?」
「告白。もう一回言って」
「お、おう…俺と、付き合ってくれませんか?」
私は無言で、彼に抱きついた。OKのサインを、言葉で表すのは、恥ずかしかったから。
直哉はそのまま私を抱きしめて、頭を撫でる。なんだろう、彼に撫でられると、安心する。
その夜、彼の家に泊まった。
2週間ぶりの、幸せな時間。もちろん、今までも幸せだった。それでも、どこか心に穴が空いていたから。
翌日も、私達は夜まで一緒にいた。
「明日から学校だなー」
「うん…」
「来週、どこ行くよ?」
「んー、ずっと家でもいいけどね。どこかに行かなくても、私は直哉と一緒なだけでいいし」
「やめろ、照れる」
私の家に、彼に送られながら歩く。自転車でもよかったけど、ゆっくり彼と話したかった。あたりはすっかり暗くなって、ブレーキランプやヘッドランプが眩しかった。
そのうち、私が事故に遭った交差点に差しかかった。
東には川が流れている。私、あそこに落ちたんだ。
青信号になって、歩き始める。
眩しい。
「明!」
直哉の叫ぶ声。思っていたより、ずっと軽い衝撃。地面に倒れた痛み。周りの人の叫び声。
「大丈夫か!」「救急車!」
「…直哉!」
倒れている直哉に駆け寄る。
「明…怪我は?大丈夫か?」
「私なんかより!直哉は大丈夫なの!?」
「わかんねぇな…人生どうなるか」
「何言ってんの!」
「前に明が事故に遭った時な、俺、見てるだけしかできなかったんだ。もう、そんなことは嫌だから」
「誰か!誰か助けて!」
必死に叫ぶ。直哉が死んじゃう、そんなの嫌だ。やっと新しいスタートラインに立てたのに、1日で終わりだなんて、嫌だ。
「明…言って、くれたよな、一緒なだけで、いいって。ずっと、そばに、いるから」
………嫌だ。そばにいてくれたって、触れられないなんて、嫌だ
「うん…わかった」
嫌だったけど、ここでそれを言ってしまうと、彼に未練を遺させてしまう。彼の手をそっと握る。
「待ってて、あと60年もしたら、私もそっちに行くから」
「長いな…」
彼は軽く笑う。
「まぁ…明と、一緒にいれば、すぐ…か…」
彼の手から力が抜ける。涙が溢れる。救急車のサイレンが聞こえた。
翌日、私はいつも通りに学校に行った。起きる時間は登校時間ギリギリだった。昨日の夜、涙が枯れるまで泣いたんだ。当たり前だろう。
「あ、由香里、おはよ」
「おはってどうしたのその目!」
「あ、やっぱり赤い?」
「なんかあったの!?」
「ん…直哉が、事故でさ」
「え…明、平気なの?」
「ずっとそばにいてくれるって、最期に言ってくれたからさ。私の知らないところで死んじゃうより、ずっといい」
「そう…」
その日、いつも通りに過ごして、家に帰る。
「着替えるから、向こう向いてて」
彼に言う。
今日目が覚めてから、ずっと感じている気配。
彼だ。
約束通り、そばにいてくれるみたいだ。私の声が聞こえるかどうかは分からない。でも、優しい彼のことだ。言わなくても、私の着替えるところを見ることはないだろう。
私は、ある決意があった。
「直哉、私ね、一つ、小説書こうかなって思うんだ。記憶が戻る前に、事故から今まで話、全部まとめてみようかなって。記憶が戻っちゃうと、今の気持ちも少し変わっちゃうかもしれないから、これまでの悲しいこととか、嬉しかったこととか、全部ひとつの話に入れちゃいたいなって。誰かに読まれるかは分からないけど、今の私を忘れちゃっても、思い出せるように」
そう言って私は、原稿用紙を取り出した。夏休みの作文用に買った余りだ。
ペンを持った右手と、頭に、仄かな暖かさを感じた。
どうも、初めて投稿させていただきました。サカジョーです。
いきなり恋愛という難しいテーマで投稿させていただく訳ですが、とても難しいですね。
心の動きやその他の描写をすべて書くとダラダラ続いてしまう文章になってしまうし、省きすぎると話の進みが速くなりすぎてしまう。(今回そうなってるかもしれませんが)
あえて今回は、最後の話の進みをマッハにしてみました。違和感バリバリです。
これからもネタが思いつき次第、ジャンルにこだわらず書いていこうと思っております。宜しくお願いします。