起-7-
その横顔を認めて、穏やかに目を細めたのも束の間。すぐに医者のそれに戻る。
「仁さん」
呼びかけに視線を向けた仁へ、蒼葉は手を差し出す。小首を傾げる相手、白々しい。意図を汲めないはずがないだろう、病人へ送った笑みは、先のそれとは明らかに性質を異にしていた。
「煙草、お預かりします」
彼女は患者で、ここは病室で、そして蒼葉は医者だ。
笑顔という脅しをかければ、形の良い片眉が跳ね上がる。まさかこれ以上の狼藉が許されると思っているわけではあるまい、不服そうな様子ながらも仁は素直に煙草入れを蒼葉の掌に乗せた。
「右手が使える様になったら、ちゃんとお返ししますよ」
碧色の視線が自身の右手に落ちる。肘を曲げるが、指先は動かない。長時間の保持も難しいようで、曲げていた腕も直ぐに戻してしまった。
それでは到底、使えているとは言えない。
覗うようにちらりと向けられた視線に、蒼葉は完璧な笑顔で応える。元々引け目があった相手だ。抗議を封じるには充分過ぎる。
零された溜め息は最後の悪足掻き。微かに沈丁花の香りを纏う仁は、そっと、幼子が眠るベッドに腰掛けた。髪を撫でようと伸ばしたその手が、不意に、止まる。
「ん……」
微かに零れた声。目が覚めたのかと身を屈めた蒼葉は、視界の隅で自分とは対照的に眉根を寄せた横顔を捉えた。
「……ぅ……ぁ……」
意識が戻ったのかと、蒼葉の期待はすぐに裏切られる。小さな唇かれ漏れるそれは苦しそうで、それでも、医者として出来る事は何もないと悟った蒼葉の前で、もみじのような手が伸ばされた。
それは、必死に何かを求めるような仕草で。
悪夢に魘される幼子が希求するそれを決して与えてあげられないと知りながら、躊躇いなくその手を取ったのは、仁だった。
小さな手を引き寄せて、右手の不自由さを感じさせない手付きで抱き上げる。幼子にしてはまだ低い体温を慮ったのだろう、毛布でくるむその仕草もとても手慣れたものだった。
「永久に届け 願う心は哀しくて
椿は落ち 桜は散る 摂理の中で」
ぐずる幼子をあやす様に、左手が優しく背を叩く。その薄い唇が、透明な歌を紡ぎ出した。
「雪は解け 夜は明ける 朝が来て
残した想いが 闇に竦む心を包むでしょう」
伸ばした手が掴みたかったのは、きっと、この温もりではない。それでも、謡う仁の首に回された細い腕は、安堵の証だった。
清らかな歌声は悪夢を祓う。邪魔をしないよう、蒼葉はそっとカーテンの外側へ出た。
「その髪に 頬に 温もりに 触れることは叶わないけれど
記憶の底で 追憶の夢で 懐古の海で
瞳を閉じる度に 傍にいると
囁きを 願いを 月明かりに託しましょう」
その背に、優しい子守唄を聞きながら。蒼葉はそっと、医務室へ続く扉を閉めた。
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