起-6-
やがて、耳元で落とされた吐息は、酷く弱々しいもので。珍しく抵抗されることもなく、大人しく腕に収まってくれているこの温もりを、もう少しだけ感じていたかった。けれど、無情にも鐘は鳴り響き、閉じた世界は切り裂かれてしまう。
「行ってください、聡耶」
抱き締めていたその華奢な温もりを解放し、それでも腰を上げようとしない聡耶に、仁は困ったように笑った。
「当主」
敢えて名称で呼び、仁は一線を引く。
促すように碧色の瞳が病室の扉を一瞥し、聡耶が立ち上がった時には既にその顔は高見家当主のそれに変わっていた。大人しくしているように、との意味を込めてその銀髪を撫でたのは、最後の我儘。
厳しい試練に向かう錬士達を鼓舞する為に病室を出て行った高見家当主の背を、静かな光を湛えた湖底の瞳が見送る。その気配が完全に消えたのを確認してから、ようやっと手元に返ってきた本を読むのかと思いきや、仁はベッドから降り立つ。隔たりは数歩で埋まり、窓際のベッドを覆うカーテンを左手で捲った。
振り返った蒼葉と目が合う。無言で入室を許可されて、仁は彼の邪魔にならないよう注意しながら、未だ眠ったままの少女の枕元に立った。
「あれだけ五月蠅くしたというのに。まだ目を覚ます気配がありません」
不思議ですね、と。
検温、側脈、血圧測定など一通りの生命情報の確認を終えた蒼葉は、聴診器を首にかけて仁の隣に並ぶ。
「長時間瘴気の中に身を置いていた傷を癒しているんだよ。大丈夫、今日か明日には目を覚ますよ」
「はあ……医者の僕にはよく解りませんが。医学的に問題がないのならそれでいいです」
考える事を放棄している訳ではない。ただ、医者として踏み込む必要がない事には敢えて言及しない。
「いつも思うけど、蒼葉。君のその潔さは心地いいよね」
「そうですか? 僕はただ分を弁えるべきだと教わってきただけですけど」
命という神の領域に手を掛ける者だからこそ、陥り易い心理。医者でも助けられない命はある。医学では到底説明がつかない事象も、医術ではどうにも出来ない患者も、この都には存在する。
だから、決して驕るな。
彼が師と仰ぐ老医師達がそれこそ魂に刻み込むかのように、常に唱えていた戒めだ。
「貴女が大丈夫と言うのなら、僕はそれを信じるだけです」
蒼葉にとってはそれだけが真実だ。
医術では説明のつかない事象に関する専門家。その言葉を疑う余地など存在しない。
ただそれだけなのに、自分の隣に立つ人は驚く程に、他者の自己に対する評価が低い。
本当は、貴女が思っている以上に、周りは貴女の事をよく見ているんですよ。
そんな事を言うつもりはないけれど。
「ただ、記憶の混乱を引き起こしていなければいいのですが。そういう事がある……んでしたよね? 確か」
「うん。一時的である事が殆どだけれど。前に、そんな話をした?」
「しましたよ。老師を筆頭に高見家の医家は皆好奇心旺盛ですからね。治療の役に立つなら、と。いつかの昼下がりの茶話会で」
覚えていないんですか、と。
そこに僅かな非難を籠めて横目で見遣れば、その口端に刻まれたのは否定とも肯定ともつかない苦い笑み。
ほら、貴女はまたそうやって本心を隠す。触れられそうになった途端、躊躇いなく離れていく。
「〝アワイ”とは、人とも妖とも言えぬ狭間の存在。負の感情に引き摺られて、瘴気に呑み込まれてしまえばやがてケガレとなり、人に害をなす」
忙しくなる前の緩やかなひと時、皆で茶卓を囲んでいるところへ、突如として彼女は舞い降りてきた。文字通り、高い壁を飛び越えてきたのだ。流石に驚いて声も出ない医家の一人に腕に抱いていた少女を半ば押し付ける様に預けて、戸惑う自分達に、栄養剤を打って寝かせておけば大丈夫だから、と。己の方が余程重い傷を負っているにも拘わらず、生きているのさえ不思議なくらいの低体温の幼子を病室へ送った。
勿論、その後しっかりと背中の傷の治療は施したけれど。止血の為とはいえ、傷口を氷付けにするというあまりにも乱暴な応急措置に、緊急事態で仕方がなかったということは理解できたが、それでも医家達の説教が飛んだのは当然の結果だ。
ちらりと、蒼葉はその紺色の瞳を傍らに立つ仁の右腕を見遣る。
カーテンを捲り上げる手は、左だった。
「よかったですね。人のままで」
その事実には敢えて触れず、蒼葉は微笑み掛ける。背に負った傷と引き換えに護ったものだ、今はただ、医者として喜びを伝えるだけでいい。
そうすれば、ほら。貴女はそんなにも静かに笑う。