起-2-
「大変な時くらい、頼ってくれたっていいじゃない。あたし達は、そんなに無力? 貴女には、そんなに頼りなく映っているの?」
一度、二度、顔を埋めたまま胸を叩くその拳に籠められる力は、次第に失われていく。
「貴女が護りたいと思うように、あたし達だって護りたいのよ。あたしは、貴女を失いたくない。その為だったら、どんな事だってするわよ」
目の前で大切な人を失う痛みを知る者がその与え手になってはいけない。そう、彼女は臣に言った。妖の住む森で異形に絡め取られて、死を覚悟した。自分が犠牲になることで彼等が助かる可能性が出てくるのなら――そんなものはただの言い訳で、ただ諦めただけ。届かないと知りながら手を伸ばし、何も変わらないと理解していながら、それでも友の名を呼び続けた宵の方が余程、傍らに忍び寄った死神に抗った。
臣は、助けてと、誰かに縋る事さえしなかったから。
結果的に大切な仲間達に、何よりも弟のような存在の宵に、幼い頃の絶望を再び与えるところだった。
そんな臣を、仁は叱った。その彼女が今、同様の感情をぶつけられている。
「あたしが呼んでも、貴女は応えなかった。その時の絶望が、どれ程のものか……あんたに……ッ」
慟哭にも似た弾劾が、宵と臣にも突き刺さる。上下関係が厳しい高見家において、高弟の玻綾が階位が下の宵達に感情を覗かせる事は珍しい。それでも、心優しい先輩がいつでも後輩達を思っていてくれることは、第七鍛練場の門下生ならば誰もが知っていた。
臣は、先程からずっと沈黙を守り続けている仁を見遣る。仮令そこに大した力は籠められていなかったとしても、胸元を叩き続ける拳は傷に障るだろう。それでも、その痛みこそが罰であるかのように、受け止め続けている彼女は、どんな思いで友の言葉を聞いているのだろう。
ふと、臣の脳裏に蘇る声があった。自分も人の事を言えないと、あの時は気に留まることのなかった呟きは、自身の行動が他者にどんな影響を与えるのかを知っていたからこそのものだったのか。
「知っているよ、玻綾」
病室を吹き荒れていた激情の波がいったん引いたことを読み、仁が沈黙を破る。
「君が私を呼ぶ声の痛みを。全部、知っているよ」
緩慢な動作で伏せていた顔を上げた玻綾の横顔は長い髪に隠されて宵達からはよく見えなかった。伸びた左手が、その細い指でそっと眦を撫でる。それは涙を拭う動作で。
それでも、と。優しい指先とは裏腹に、継がれた逆接詞。
「優先順位は変わらない」
護れないかもしれない、失うかもしれない、その嘆きは、絶望は、所詮は一時のもの。手の届かない所に行ってしまった時のそれに比べれば、天秤に掛ける必要性すら皆無。
「だから、謝らない」
揺らぎないそれは、信念とでも呼ぶのだろうか。その生き方は、在り方は、より強い思いを寄せる者にとっては残酷だ。向けられる心がある事を知って尚、優先すべきはあなたの命なのだと、そう言われているのだから。
なら、想うことさえ、無意味なのか。
「その心を、絶対に裏切らないから」
澄んだ声音が凛と響く。どちらが年上なのか、宵達にとっては姉のような存在も、友人という関係性だからこそ、その言葉はきっと意味を持つ。
「……裏切ったら、呪うわよ」
顔を寄せた玻綾の、地獄の底から響いてくるような念押しに、仁は苦笑する。けれどその横顔には確かに、嬉しそうな色があった。