名古屋が近い
バスは再び動き出した。もう愛知に入ったらしい。冷たいと思った空気も、思いの外暖かかった。どんなに孤独だと思っても、我に返ればまわりには意外と人間がいる、僕と繋がりのある人がいる。そんな風に気づかされた時の空気と似ていると思った。
また、路肩で発煙筒の赤い光が見える。また事故か。もうこれで3度目だ。トラックと潰れたワゴン車の脇をバスが通り過ぎる。まるで自分には関係ないぞというような態度はいただけないが、それでも仕方がなかろう。ここまで分業化された時代に、わざわざ圏外なことにまで首をつっこむのは愚かというものだ。昔だったら助けに行っただろうか。行ったかもしれない。少なくとも今の僕にはそうしたい気持ちがあるから。もしそうしたくない気持ちがあったら?きっと行かざるを得なかったに違いない。八分られるのが怖いから。昔は何をするにもみんな一緒だったのだ。そうやって助け合い、秩序を守らなくては生きていけなかった。そういうものを当たり前として大事にしてきた。だが今、その当たり前が崩れようとしている。
僕は今に生まれてよかったと思っている。みんながみんな一緒の方向を向く必要はない。たまには後ろを向いて耳に痛いことを言う人間もいるべきだと思う。しかし、昔の人が当たり前としてきた事を覆す以上、それに代わる何かを見出す必要がある。しかし未だ現代人はそれを見いだせていない。渋谷のスクランブル交差点のように、ひとびとは思い思いの方向を向き、歩いては肩をぶつけ合い、そうしてどうして良いかわからず戸惑っている。
街には段々と高い建物が増えてきた。これはきっと名古屋が近い。橋から現代の街を眺める。区画整理もままならず、思い思いに急速に成長してきた街。一見雑多な街もこうして俯瞰してみると、息をのむほどに美しい。この美しさはどこからきたのか。どこからもやってはきていない。それはきっと、もともとあったものなのだ。全く秩序のない世界でも、そこに生命の営みがある以上、全くの混沌にはなりえないのだと思う。現代の人々は、こうやって今の状況を俯瞰して見るのも必要なのかもしれない。