ガラテイアの堕落
突然のことで聞き逃すところだった。
「芸術とは無価値である」
彼女の言葉に僕はペンを止めた。鈴の音を思わせる呟きを反芻し、数瞬の後にそれがワイルドの著作からの引用だということに気づくと、出来るだけ平静を装って不格好な笑みを作った。
斜向かいに座る紺色の制服に身を包んだ彼女は僕の方を見向きもせず机の上に開いた本へと視線を向けている。覗き見る。不思議の国のアリスの原書だった。
「ドリアン・グレイの肖像、オスカーワイルド」
僕の返事にも、果たして彼女は無反応だった。
開け放たれた窓から季節遅れに咲いた金木犀の香りが図書室に流れ込んでくる。鼻腔をくすぐる甘い匂いに彼女はおもむろに顔を上げ、まるで旧知の友を見つけたときのような期待の眼差しを窓の向こう側へと向けるが、そこには金木犀の木が一本、オレンジ色の花を抱きながら僕たちを睥睨しているだけだった。
我が子を見守る聖母のように彼女は一瞬柔らかな微笑みを湛えたかと思うと、次に吹く風にいつもの無表情に戻った。下層の流れを覆い隠す湖の氷のような、様々な感情を秘めた自身に封をする表情だ。
僕は彼女に悟られないように静かにノートを閉じて、彼女が見つめている窓の外を眺める。図書室の窓枠という額縁に飾られたこのありふれた風景の向こう側に彼女は一体何を見出しているのだろう。きっと僕の知見では遠く及ばない高尚なものなのだろう。
「芸術とは、無価値、である」
彼女がその言葉を再び口にする。独特なアクセントは無価値という意味を強調したいのか、それとも知識階級に則る彼女にしては珍しい衒学的な欲求が故なのか、僕が判断に思いあぐねいていると、例の鈴の音の声が再び鳴った。
「よく、わからないの」
そう言って机の上に開かれた本へと静かに手を重ねる。あやし方の分からない子供を撫でるような手付きで、白く細い指が英字をなぞった。
「アリスは、言葉遊びがあるからね」
僕は得意げに原書の一節を諳んじた。
―――"I beg your pardon?" said Alice. "It isn't respectable to beg," said the King.
「日本語に訳すには難しい表現らしいよ」
しかし彼女はその無表情を少しだけ不安に曇らせて、「そうじゃないの」と呟いた。
「意味はわかる。でも、これが名作として知られている理由が、分からないの」
他に誰もいない図書室の静寂が、彼女の不安と孤独をより一層引き立たせているように感じた。
孤独。そう、孤独だ。
「なにが面白いのかしら」
そう言い残して、彼女は本を閉じた。優雅な動作で窓際に立ち、頬を撫でる秋風に目を細める。と、ひときわ強く風が吹き、その随に漂う髪の毛が絹糸の束を解くように宙を泳いだ。濡れ羽色の艶やかな瞬きが彼女の周囲に拡散する。彼女は光のベールを纏いながらも、どこか寂しげな面持ちである。
孤独。孤高。彼女はいつも一人だった。教室にいるときも、街ですれ違うときも、友達と話しているときでさえ、彼女は一人だった。彼女には友人が多い。しかし、教室で笑う彼女は彼女ではない気がした。周囲に合わせた服装で景色に溶け込むように、彼女は出会う人によって仮面を付け替える。こうして毎日図書室で会う僕にだって彼女の素顔は分からない。
何を思い、何を見つめ、何を好み、何を嫌い、そしていつも何を探しているのか。それを理解できる人は、たぶん、どこにもいない。侵してはならない聖域に彼女は立っている。薄い膜を隔てた向こう側にいる彼女は、どれだけ近づいても絶対に触れることの叶わない存在だった。
「芸術作品への意見がまちまちなのは、すなわち作品が斬新複雑で生命力に溢れていることを意味している。―――同じくドリアン・グレイの肖像の序文だよ」
彼女は僕の声が届いていないのか、窓際に立って無言で外を眺めている。名のある画家が休日に筆を走らせたような、自然と人、義務と自由、複雑な要素の融和、僕の脳裏にはそういったどこか矛盾を内包するような言葉が思い浮かび、しかし彼女という存在を言い表すにはどれも物足りないように思えた。彼女は美しい、しかし美しいと評するにはあまりに言葉の意味が単純すぎる。彼女にそんな俗な言葉は似合わない。常に僕らの一段上から見下ろしている超然主義者なのだ。
「否」
僕は誰に言うでもない口中の呟きで直前までの思考を否定する。彼女のことは僕にだって分からない。その憂いを孕んだ瞳を、相手の見えない囁きを、彼女の一挙手一投足を眺めて想いを馳せることしか出来ない。
しかし僕にはそれで十分だった。彼女を手に入れたいという泥と手垢で汚れた欲を自身の内に認める一方で、それが絶対に叶わない望みであるということには気づいているのだ。それは信仰と愛を錯覚した信教者や、彫刻に恋したキプロス島の王と似ている。僕のこの思いは絶対に彼女には届かない。だからこそ恋焦がれる。
僕は静かに手にペンを握り、ノートを開く。
そこに描かれていたのは、彼女のデッサン画だった。
「芸術に普遍性なんて無いんだよ。全ては主観であり、そこに客観的絶対的価値を求めるのはナンセンスだ」
僕は自分に言い聞かせるように言葉を繋ぐ。
「審美眼は各々が各々の基準で備えている。僕も君も、他の誰にも理解出来ない世界を見てるんだよ」
話しながら慣れた調子でペンを走らせた。流れる黒髪、陶器のように滑らかな頬、視界に焼き付けた彼女の姿をそのままノートに映す。許しをもらっているわけではないが、彼女が僕のことを気にかける様子は無い。
僕はこれまで絵を描いたことはないし、別に興味や技術があるわけでもない。しかし不思議と彼女に関しては特別だった。ペンを握ると、その輪郭が紙に浮かんで見えるのだ。僕がそれをなぞると、いつの間にか絵が出来上がっている。これが唯一、僕の手中に収めることの出来る彼女だった。
スケッチの彼女はいつもと変わらぬ多感の無表情を湛えている。虚空を捉える彼女の瞳は一度足りとて僕に向けられたことはない。燦然と輝く黒髪も、風を撫でるシラウオのような指も、絵の中でさえ彼女は孤独だ。隣に何かを描き足してみようかと思ったことはある。しかし僕の知り得る世界には彼女の隣に立つにあたう者は存在しなかった。真の意味で彼女の傍に並べるのは彼女の柔和な瞳が映す僕には見えない何かなのである。
あぁ、なんとやるせないことなのだろう。
―――神は、我々を人間にするために、何らかの欠点を与える。
彼女は人として在るために理解者を奪われたのだ。彼女の世界から一切の現実は失われた。
人として生きる彫刻。的を射た例えだ。意識の中であっても彼女という存在を弄することは禁忌のように思えたけれど、その姿や声が僕の思考を大きく占領している以上仕方のないことだった。
我が物にしたいとは思わない、むしろこの手の届かぬところにあるべきだ。天上人は天上に座し、神の御許に至る道程こそが信仰の証である。絶対的な隔絶感こそが彼女を彼女たらめる要素であり、僕はそんな彼女に身を焦がすような穏やかならざる邪恋を抱くのだ。
その何たる滑稽なことか。壁の向こうの彫像に恋慕の情を抱くなどまるで道化ではないか。喉元に押し留めた小さな自嘲の笑いは、わずかな音をまとった吐息となって唇を震えさせた。
両腕を失ったヴィーナスを見つけた小作農の男もきっと同じことを考えていたのだろう。
この世はくだらない。一掬いの蜂蜜にすら劣る世界で何を愛する必要があるのか。季節が百度移ろう刹那ではこの身を捧げるほど有意なものなど見つけられはしない。
ならばせめて願い続けるのだ。ピュグマリオーンがそうしたように。象牙の彫像に口付けを交わし、世界に怨嗟を唱えながら祈りを捧げるのだ。
神よ、私にお授けください。象牙の乙女に似た女性を。
叶わぬからこそ美しいと分かっている恋をそれでもなお求め続けるのはいったいどんな欲求からなのだろう。僕はその答えを見つけられるほど賢くはなかった。
静かに息を吐きペンを置く。ノートに描かれていたのは窓際に佇む彼女だ。風が優しくその身を包み、スカートの裾が舞うように揺れている。
「そう……」
彼女が言った。スケッチの彼女と目が合った気がした。次いで感じた不安に顔を上げる。
そよ風の吹き付ける窓の隣で、彼女が小さく微笑んだ。まがうことなき人間の柔らかさ、血の通った体温。
僕は彼女の変化に絶句した。この温もりは人のものである。決して彫像には成しえない。ピュグマリオーンに神が与えた恩寵そのものだった。
思考は困惑に塗りつぶされ、心臓が強く脈打つのを感じた。全身を舐めつけるような感情の名前は思いつかないけれど、それが今の僕にとって負の意味を持つのだろうということは何となく分かった。
なんということをしてくれたのだ! 僕は口中で嘆く。
「その絵、今度見せて欲しいな」
変わらない鈴の声だった。だが、彼女は同じではなかった。
彼女は僕を向いて微笑んだ。その愛らしさは筆舌に尽くし難いのだが、これは僕が求めていたものではない。彼女は死んでしまったのだ。神の寵愛で彫刻から人となったガラテイアは、以前のような超然とした美しさを失い、人間という矮小な存在へと落ちてしまった。
唐突に泣きたくなった。胸にこみ上げる喪失感や絶望をどう扱えば良いのか分からない。届いた願いの先に残るのは灰色の現実とただ無為に広がる喪失だった。
僕は堕落したガラテイアへと向き直ると、そのどうしようもないほど美しいかんばせに耐え難い悲しみを感じながら、
「大したものじゃないよ」
と言ってノートを閉じた。
ピュグマリオーンというのはギリシャ神話に出てくる王様です。
なんやかやあって女性不信になった彼は自ら彫ったガラテイアという理想の女性の彫刻に腰を振る非モテライフを満喫していたのですが、それを見かねたアプロディーテーという女神が彫刻に命を吹き込み、ピュグマリオーンはガラテイアを本当の妻として迎え入れる、という伝説がこの話の下敷きになっています。
元の伝説ではハッピーエンドですが、『僕』としては人となった『彼女』が以前と同じ彼女なのかわからずに困惑している、という内容でした。
説明が無いと分からない作品は駄作だと自分でも思うのですがこれを書いた当時は部誌の〆切りが近くてそれどころではありませんでした。