0夜目―2
異世界は、物語の中にだけ存在するファンタジーだと思っていた。
だからあの頃の私には、18歳の誕生日をこの世界で迎えることになるなんて全然想像も出来なくて、ただただ毎日を平穏に過ごしていた。
あの日は私の15歳の誕生日。
部活の片づけで遅くなり、家路を急いでいた。朝、お母さんに「早く帰って来なさい」と言われていたのに、もう夕日は沈み、月が顔を出す時間になってしまっていた。
慣れた道を迷いなく足早に進む。通り過ぎる家々からは夕食の匂いと、暖かな灯りが漏れ、時折笑い声も聞こえてくる。
「早く帰らないとお姉ちゃんに全部食べられちゃう!」
7歳の離れた姉とは仲が良く、休日には二人で買い物によく出かけた。大学生になって一人暮らしを始めてからも、私の誕生日は変わらず一緒に過ごしてくれる。
姉は食いしん坊だ。誕生日には好物を作ってくれる母。好物が一緒の姉に全て平らげられてしまう。
私はハラハラしながらも、誕生日を踊るように待ちわびていた心に突き動かされるように走っていた。
その時、きらりと光る物が目の端をかすめる。
「ん?」気になった私は足を止め、その光る物を探すと、そこには午前中に降り、午後には止んだ雨が作り上げた水溜りが在った。
何かおかしい。そう思い近づいて行くと水面に揺れる月が映っている。
じっと見つめ、空を見上げる。そこには黄色に光る満月が。
再び視線を水溜りに移した。そこには青く光る月が映し出されている。
不思議に思い、辺りを見回す。もしかしたら街灯の色でそう見えるのかも……。
しかし、街灯の光は青くない。
首を捻り、不思議な現象に答えが出ないまま帰ろうと歩き出した。途端!世界が大きく揺れた。
「地震!?」
4つのプレートの上にある日本では、年間何千回と言う地震が起こっていると聞いたことがある。
身を低くして揺れが収まるのを待つ。だがその時気付いた。
「木が、揺れていない?」
木だけではない。電線も緩く垂れ下がったままの形を崩すことなく電柱の間にぶら下がり、猫避けで置いてあるのだろう、塀の上に置いてあるペットボトルも平気で立っていた。
なら、これは単なる眩暈か。
そう解釈した私は壁に手を当てて慎重に立ち上がった。
その時、再び大きな揺れが体を襲う。
前のめりに倒れ込むようにして一歩踏み出した足は、青い月が映る水溜りの中へと落ちた。
そして気が付くとこの世界に来ていた。
目を覚ました私は、夢の中なのではと思い、何度も頬を抓る。
しかし何度やっても痛みは現実で、ここが夢ではないと告げていた。
「だれか……。誰かー!!」
空気が違う。匂いが違う……。
ここは、どこ?
お願い、だれか……。
助けて……!
誰でもいい。人に会いたかった。そうすればここがどこだか分かる。
そう思い叫ぶと、騒ぎを聞きつけた初老の男性が家から出て来た。
私はその人の庭先で気を失っていたらしい。
駆け寄って声を掛けてくれるが、まったく理解できない言葉。学校で勉強している英語でも、テレビで聞く海外の言葉でもない。初めて耳にする言葉と発音。
なんとか身振り手振りで迷子だと伝えると、家へと連れて行ってくれ、温かいミルクを飲ませてくれた。
飲み終わるとタオルを持った男性の奥さんと思われる人が、お風呂へと案内してくれる。
私が警戒しないようにと優しく笑い、言葉を掛けてくれるが理解出来ない。
「ごめんなさい」「ありがとう」と日本語で伝えるが、首を捻られるだけだ。
それから私は二人の養女となり、今もここで暮らしている。
それが今のお義父さんとお義母さんだ。
初めに勉強したのは言葉。最初は名前から。発音が上手くいかないとマシューは首を振り、「それではだめだ」と言うと、ジャクリーンが先生となって根気良く教えてくれた。
指を指した物の発音と名称を日本語でノートに書き、ジャクリーンがその下に単語を書く。
同じことを繰り返し、3年経った今では日常会話程度なら困らなくなった。
「まったく!ユーリは警戒心が無さすぎる。私たちが悪人だったらどうするつもりだったんだね」
会話が出来るようになった頃、マシューにそう怒られた。
この世界では子供を誘拐して売る人間も居るのだと、過ごす日々の中で知った。
あの時の私は形振り構っていられなかった。混乱していたのだから仕方がない。善悪の区別がつかない状態だったのだ。
見ず知らずの行き倒れた私を拾い、その上養女にしてくれた二人には本当に感謝している。
だから夕食で言った言葉に嘘は無い。
二人に出会わなければ私はきっと死んでいた。
こちらに来て3年。
未だ帰る方法は分からないまま……。