第十七話「本当の――話」
「ごめんね」
と、
「もう大丈夫だよ」
と、
「全部、『嘘』だから」
と。
ドアの向こうから、『彼女』が僕を安心させるようにそう言った。
……ああ、そうか。すっかり忘れていた。
今日がいったい何の日なのか――今、やっと思い出した。
四月一日――『嘘』を吐いてもいい日なんだ。
僕は何処にでも居る、極普通の中学生だった。
日々丸回裏という名前ばかりは、胸を張って普通と言い張る事は出来ないのだけれど、それでも極一般的な、極小市民的な、極々普通の中学生だった。
そんな普通の僕にも、普通で済ます事など決して出来はしない、誇りにさえ思ってる事があった。
僕には、付き合ってる彼女が居たのだ。
神田川中学一年のクラスメイトとして出会った彼女の名は、神楽坂めめ――何処にでも居る、普通に可愛い女の子だ。普通と言うと失礼かもしれないが、普通に優しいし、普通にいい子だから、そう言う他にはなかった。
そんな彼女と僕がどうして付き合う事になったのか――それは、入学初日、神楽坂の方が僕に一目惚れをした事に起因する。積極的に僕に話し掛けてきた初日から友達になり、二日目には告白をされ、特に断る理由もなかった僕は、神楽坂と付き合ってみる事にした――というような、ラブコメみたいにじっくりとは行かず、あっという間に、あっさりと、僕達は彼氏彼女の仲になったのである。
神楽坂と話すのは楽しいし、いつもの日常の中において、一番好きな時間だった。
彼女の事も、だんだんと、本当に好きになりつつあったのだ。
――けど、僕は……。
一学期も終わりに近づいてきた、七月七日の日。
僕のクラスメイトにして、不良と呼ばれている鬼頭内金具に、僕は呼び出された。
彼と話したのは、その日が初めてだった。
同じクラスなのだから、わざわざ呼び出す必要はないのではないか? そう思ったが、僕は規定通りに一人で、規定通りに体育館裏で、規定通りに放課後、そこへ赴いた。
――殴られた。
問答無用どころか、来て早々、顔面に一発、パンチをお見舞いされたのだ。わけがわからなかった。
不良というものを、ナメ過ぎていたのかもしれない。
僕を殴った鬼頭内は、苦しむ僕の胸倉を掴み、持ち上げて、一言だけ、こう言った。
「神楽坂と別れろ」
拳を振り上げ、答えなければ殴ると目で訴えかけ、そして――僕は。
恐怖に駆られた僕は、首を縦に振った。
振って――しまった。
彼女の事も、僕から、振って、しまった。
その日、『全て』が嫌になった僕は、二度と学校には行きたくないと思った。
夏休みを前にして、僕は学校を休むようになった。
最初は熱を出しての病欠だった。本当に熱を出してしまったので、親からしても、休むのは当然だと思っていただろう。
しかし、熱が引いた後も、僕が学校に行く事はなかった。両親は、特に家で主婦をしている母は、何とか僕を登校させようとしたが、ちょっと抵抗したら、その日は諦めた。
だが、次の日も、また次の日も、そのまた次の日も、僕は学校に行こうとはしなかった。
母は自分だけで解決出来る問題ではないと判断したのか、父を交えての家族会議をする事になった。
それでも僕は、抵抗し、反抗し、決して、学校に行くという意思は見せなかった。
というか、そんなもの、ないのだから、しょうがない。
しばらくして、神楽坂がしょっちゅう僕の家を訪れるようになった。今まではメールで誤魔化していたが、さすがに僕の様子がおかしい事に気づいたらしい。
鬼頭内との事は、いつからかは知らないが、少なくとも、僕の家に訪れるようになった日には、既に知っていたらしい。神楽坂には別れる事しか告げてないから、鬼頭内自身が話したのだろう。
無論、考えるまでもない事だが、告白をされたらしい。
でも、神楽坂はちゃんと断ったらしく、それを聞いた僕がホッとしているのを見て、楽しかったあの時のように笑っていた。
僕は僕で、何をホッとしているんだと自分の事が嫌いになった。
どんな理由であっても、彼女を振った事には変わりない――なのに、僕は……。
家にひきこもり、不登校となった僕は、よくパソコンを使うようになった。
そこでネットゲームなるものと出会い、僕はますます家から出る意味を見い出せなくなっていく。
いつしか、部屋には鍵をかけるようになり、神楽坂の顔も見ないようになっていった。
ドアの向こうから聞こえてくる声は、それでも変わる事なく僕を呼び続ける。
何と言っていたか? 他愛のない、今日の出来事を一方的に話したり、外出という名のデートのお誘いだったり、将来の僕達の事を勝手に考えて話したり、ほとんど病んでるストーカーと化してきた神楽坂の事を、それでも僕は、決して『見よう』とはしなかった。
そして話は、件の四月一日に戻る。
勿論、ひきこもりが治ってるなんて素晴らしい事など全然なく、いつものようにネットでゲームをしていた僕に、神楽坂は今日も僕の家――僕の部屋の前にやって来ていた。
「日々丸くん」
いつもと同じ声。
「来ちゃった」
決まって彼女は、最初にそう言うのだ。
家に居る母は、どうしてこう何度も家に入れるんだろう。
いい加減、彼女のためにも、断った方がいいのではないかと僕の方が心配してしまう。
それとも、神楽坂が無理言ってるのかもしれない――そう思ってしまうほどに、彼女は『異常』なのだ。僕が普通ではなくなったように、彼女もまた、普通ではなくなった。
「もう四月だね」
それが皮肉でない事はわかるが、僕はその言葉に若干の苛立ちを感じた。
もうすぐ春休みも終わるというのに、僕はまだ学校に行こうという気が起きない。だから、そんな自分に苛立つのだ。
鬼頭内に殴られたからとか、神楽坂に最低な別れ話をしてしまったとか、ネットゲームにハマったとか――僕が不登校になったであろう原因は、いくらでもあげられる。
でも、そんなもの――
全部、『嘘』なんだ。
僕はただ、繰り返される日常に、つまらない学校生活に、ピリオドを打ちたかっただけだ。
学校に行かなくなったらどうなるだろう――と、変化を求めた結果が今だ。
興味本位。
普通である事に飽き飽きした凡人が、ちょっとした切っ掛けを利用して、今を変えた。変えてみた。
勿論、後悔がないわけではない。
自分でも自分を酷い奴だと思ってる。
でも、どうしようもなかった。
家にひきこもって不登校になる奴の気持ちなんか、本人ですらわからないのに。
「……ねえ、日々丸くん――日々丸回裏くん」
僕が返事をするわけないのに、彼女は毎日、何度も、何回も、僕の名を呼ぶ。
「今日が何の日か――知ってる?」
「……?」
その言葉で僕は、キーボードを打っていた手を止めた。
毎日がどうでもいい。現実逃避をしてネットゲームに興じる。そんな現実に無関心な僕が、さて、今日は何の日だったろう――と、一瞬だけ考えてしまうのだが、答えが出る前に、神楽坂が続けて言う。
「今日はね――長い長い一年の中で、『うそつき』が一番多くなる日なんだよ」
そして、夢を見た。
果たして、アレが夢だったのかどうか、僕には判別出来なかったけれど――その夢の中で僕は、普通に登校していた。
鬼頭内と悪友で、転校生に一目惚れをしたりする日常と、言葉通りになってしまう妙な能力を手にした非日常と。
そんな『嘘』に騙されて――いや、『嘘に騙されたふり』をして、最後には結局、いつものように絶望しか残らなかった。
布団に包まって、悲しくて泣いて、それでも涙は、枯れてしまって出てこない。
僕はどうして、こうなってしまったんだろう。
自業自得なのはわかってる。
誰のせいでもない、自分が犯した過ちなのだ。
取り返しのつかない事をして、取り返しのつかない事になってる。
それだけだ。
それだけで、僕は今、泣いている。
泣くような事を、しなければよかったのに。
時間は戻らない。
わかっていたはずなのに、今頃になって気づかされるなんて――間抜けにもほどがある。
「……日々丸くん……ごめんね。もう大丈夫だよ。全部、『嘘』だから。私が『彼女』で居られる事なんて、本当はもうないのに……わかってるのに、あんな事を、言ってしまって……」
本当にごめんなさい、と。
彼女は僕に告げ――まるで泣いているような声でその意思を伝え、ドアから離れようとする。
帰ろうと――している。
僕は思わず、布団から出て、ドアノブを手で掴んだ。
……それでも僕に、このドアを開ける勇気は、ないのか……?
「……か、かぐ……」
「……え?」
聞き取れないぐらいの小さな声だったが、神楽坂は僕の声に反応し、振り向いてくれた気がした。
「……か、神楽坂……」
「日々丸くん!」
神楽坂が戻ってくる。
ドアに振動が走った。
彼女は今、ドア越しに――すぐそばに居る。
すぐそばにいて、でも、凄く遠い所に居るような気がした。
「ぼ、僕……の方、こそ……あ、謝りたい……」
本当はわかっていた――僕はそう思っていながら、わかろうとはしなかった。
努力する事を諦めて、逃げていただけだ。
僕は――自分よりも大切な人を悲しませてしまっていた。
自分の事ばかりで、周りを見ようともしないで、僕は僕だけの『世界』しか知ろうとはしなかった。
もう、最低だという言葉すら生温い――けど、だからこそ、僕はようやく決意出来たのだろう。
嫌な事にも、嬉しい事にも。
苦しい事にも、楽しい事にも。
目を逸らさずに、まっすぐに前を見て、進み出すための――決意。
「……ごめん、なさい……!」
「……うん……うん。いいの。私の方こそ、ごめんね……。日々丸くんの事、助けてあげたいのに、何も出来なかった……」
「僕を、助ける……?」
「もっと考えれば、方法だってたくさんあったはずなのに……私の頭が足りなくて、本当にごめんね……」
「神楽坂……」
悪いのは僕なのに、神楽坂もずっと悩んでいた。
こんな僕のために、悩んでくれていた。
自然と、僕の手が、ドアノブを回していた。
――眩しい。
どうやら僕の部屋は、かなり暗い状態にあったようだ。
外に出たわけでもないのに、眩しかった。
「……お帰り――日々丸くん」
「……うん。ただいま――神楽坂」
眩しいほどの笑顔が、僕を迎えてくれた。