削り秒
「午前四時台から削るのが、最も合理的です」
都築が言い終わらないうちに、番場は湯呑みを置いた。底が机を鳴らした。「四時台にはパン屋がいる」
「パン屋は四時十三分にも焼けます」
審議室の長机には、今年ぶんの陳情書が輪ゴムで束ねられたまま七千二百通積んである。地方局から回ってきた分は封を切った時点ですでに湿っていて、紙の匂いというより、紙が吸い込んだ他人の家の匂いがした。都築はその束を三つ、自分の資料の脇に押しやってから、正面のスクリーンに分布図を出した。三層が重なって、暗い川のように流れている。
「経済事象、医療事象、法的事象。この三層を秒単位で重ねて、いずれの層にも属さない秒を抽出しました。地上のどこでも、記録に残ることが何ひとつ起きていない秒です。今年、条件を満たしたのは全国で十一。そのうち向こう十年、条件を維持し続ける秒は一つだけです」
都築は資料を見ないで喋る。数字は全部頭に入っているし、頭に入らない数字は最初から使わない。
「四時十二分三十四秒。ここを削ります」
沢井課長が老眼鏡を持ち上げて、番場のほうを見た。番場は見られていることに気づかないふりをして、湯呑みの縁を親指で拭っている。六十三歳の主任技官の手は、指の腹だけが妙に平らだった。
「番場さん、ご意見は」
「除外で」
「理由を」
「今年は」番場は天井を見上げた。蛍光灯が一本だけ、細かく明滅している。「水曜だから」
誰かが笑った。笑いは長机を伝って端まで届き、そこで沢井課長に受け止められた。「出ましたね、番場さんの水曜」
「笑い事ですか」都築は束のいちばん上を抜いた。「今年の陳情、読み上げます。『毎年三時台ばかり削られては困ります。私はその時間に鶏を起こしております。鶏は約束を守る生き物ですが、こちらが約束を破っております』。養鶏業、六十八歳。三時台に事象が集中しているのは、我々が十四年連続で三時台から削ってきたからです。層が痩せる。痩せた層は次に測るとき精度が落ちる」
「もう一通くらい読んでよ」と課長が面白がって言った。
「『私は眠れません。明け方の四時台だけが眠れます。あの一時間にだけは触らないでください』。四十九歳、無職」
「それは君の分布に入るのか」
「入りません。感情は事象ではない」
「じゃあ君、何通読んだ」
「七千二百通」都築は言った。「全部です」
課の誰かが小さく口笛を吹いた。この課で陳情書を全部読む人間は都築しかいない。集計は外注で、要旨は係が作る。読む必要はどこにもない。
「入らないものを、なぜ読んだ」
番場が言った。都築は答えなかった。答えは一つしかなくて、それは分布の話ではなかったからだ。
結局その年の削減は〇三時四一分〇七秒に差し替えられて可決された。都築の案は挙手の前に消えた。執行は三月三十一日、鍵を回すのは主任技官の職務で、番場は「はい」とだけ言って冷めた茶を飲み干した。
その夜、都築は書庫から三十年ぶんの議事録を出した。番場の除外理由は毎年きちんと記録されていた。昭和期、当該秒は地磁気の影響が強く執行装置の腐食を招く恐れがある。平成期、当該秒は湿度が高い。令和期、気分。
三十年、一度も本当のことを言っていない。都築はそれを、腐食でも湿度でもなく、統計的な異常として受け取った。
*
三月の第一週、都築は午前三時四十分の街に立っていた。来年度の案を無修正で通すには、四時十二分三十四秒に何も存在しないことを、分布ではなく実地で示す必要がある。感傷ではない。反証を先に潰しにきただけだ。
この時刻の街は、昼の街の骨格だけを残して肉を落としたように見える。自販機の白い光が舗道を四角く切り取り、集積所からは生ゴミの甘い腐り方が上がってきていた。バス車庫の暗がりで一台だけ暖機していて、低い唸りが背中の高さで震えている。信号は誰のためでもなく青に変わり、誰も渡らないまま赤に戻った。端末の時計は三時五十二分を出していた。あと二十分。
商店街の四つ角に「暁ベーカリー」の看板があり、シャッターは下りているのに裏口だけが開いていた。開いた戸口から出てくる空気の温度が、外気とはっきり違う。二メートル手前で、都築は自分の眼鏡が曇りはじめたのを感じた。
「役所の人?」
厨房の奥から声がした。三十五度はある。湿度も高い。照明の下に小麦粉の微粒子が浮いていて、光の柱がそのまま形になっている。鉄板の焼ける匂い、酵母の酸っぱい甘さ、排気ファンの回る音。店主は前腕の太い女で、都築を見ると露骨に嬉しそうな顔をして、それでも手はまったく止めなかった。
「暦調整局の都築です。当該時刻の作業実態を」
「削るんでしょ、うちの時間」
「削れるかどうかを確認しています」
「三十になってから役所の人と話すの、二回目。一回目は保健所」彼女は生地を台に打ちつけた。鈍い、重たい音がした。「毎年おんなじ日に、役所のおじいさんがひとり来るんですよ。開店前に。食パン一斤だけ買って、何も言わないで帰る。三月の、ええと、二十九だったかな」
「代金は」
「二百八十円。うち、五年前に二百六十円から上げたんですけどね、あの人、上げた年からちゃんと二百八十円出すの。しかもきっかり。小銭で」
「レシートは」
「開店前だから、レジ開けてない。ポケットに入れちゃう」
都築は端末に何も打たなかった。打つ欄がなかった。
「四時十二分の工程を教えてください」
「一次発酵の見どころ」
「それは四時十三分ではいけませんか」
彼女は笑った。声が高くて、厨房の壁に短く跳ね返った。それから都築の手首を掴んで、返事も待たずに、発酵箱から出したばかりの生地に指を押しつけさせた。
都築は息を止めた。
温度は体温より少し低い。押した指の跡が、沈んだところからゆっくりと戻ってくる。押し返してくる。粘弾性という語が浮かんで、生地の網目に二酸化炭素が捕らわれている図が浮かんで、その全部が、指の腹に伝わってくるものの説明として一秒も持たなかった。
戻り方が遅ければ待つ。速ければ急ぐ。彼女はそれを毎朝、時計ではなく指で読んでいる。
「今日はちょっと早い」と彼女は言った。「昨日より二度あったかいから」
「二度」
「二度」
「時間って、国のものなんですか」彼女は生地を分割器に流し込みながら言った。刃が下りて、均等な塊が並んだ。「うちのぶんまで削られるの、筋が通らなくないですか」
「所有はしていません。管理をしています」
「じゃあ去年ぶん、返してくださいよ」
「返せません」
「でしょうね」
都築の端末が四時十二分を表示した。彼は画面を伏せて、秒だけを頭の中で数えた。三十二。三十三。
三十四。
その一秒のあいだ、彼女は生地の縁を内側へ折り込んでいた。折り込んで、手のひらの付け根で軽く押さえた。それだけだった。写真に撮っても何も写らない。売上は立たず、診療も契約も発生しない。三層のどこにも、この一秒は落ちてこない。
「はい、終わり」と彼女は言った。「見どころ、過ぎた」
「何が変わったんですか」
「変わったから終わったんですよ」彼女はまた都築の手を掴んで、生地に押しつけた。さっきより硬い。硬いというより、張っている。指を離すと、跡が浅く残ったまま戻らなかった。「ね」
都築は「はい」と答えてしまってから、自分がいま何に返事をしたのか分からなくなった。
外に出ると、東の空の下端が灰色に浮きはじめていた。バス車庫の唸りはまだ続いていて、街灯が一本ずつ、順番ではなく気まぐれに消えていく。都築は歩きながら、来年度案の第一候補の欄を確認した。四時十二分三十四秒。そのままにした。
指がまだ粉っぽかった。端末の画面に細かい白がついて、拭いても薄く残った。
*
問題は、局に戻った翌週に出た。
都築は三晩かけて、自転の角加速度そのものの時間微分を取り直していた。誰もやっていなかったわけではない。やった人間はみな、二次の項を観測誤差として落としていた。落とす判断には根拠があり、五十年前まではそれで合っていた。合わなくなったのは十二年前からで、誰も検算をやり直していなかった。
落とさずに積むと、削減量は来年二秒、五年後に四秒、二十年後に十五秒になる。
三晩目の午前四時、局の窓の外がまた白みはじめたころに出力が出た。都築はプリンタの排出口から出てくる紙を、印字が追いつくのを待ちながら引き出した。紙は温かかった。彼はその数字を三回検算した。三回とも同じところへ落ちた。
だが本当の結果はそこではなかった。
「選べる秒が尽きます」
都築は課の全員の前でそう言った。「三層のいずれにも属さない秒の総数を、削減量の増加と活動密度の上昇の両方で外挿すると、三十一年後にゼロになります。ゼロというのは、その年から先、我々が削る一秒には必ず誰かの生活が入っているという意味です」
都築はスクリーンに年次の折れ線を出した。三層の隙間の総数を表す線が、右へ行くにつれて痩せ、三十一年目で床に触れる。線が床に触れるところに、彼は目盛りを一本だけ引いておいた。
「それ以降は、選ぶ作業がなくなります」と彼は言った。「残るのは、誰の一秒を取るかを決める作業だけです」
沈黙は三秒あった。それから沢井課長が言った。
「じゃあ、個人負担制度でも検討しますか」
都築は課長を見た。課長は真顔だった。
「今年の陳情に来てるんですよ。『一秒くらいなら私が個人的に負担いたします。私の持ち時間から差し引いて結構ですので、日を縮めるのはおやめください』。七十一歳、無職。法人からも来てます。『削るなら弊社の始業前から削ってください。ただし給与計算は据え置きでお願いいたします』」
「据え置きは無理でしょう」と若手の女が言った。
「無理ですかね。一人一秒ずつ供出してもらえば、人口ぶんの秒が」
「課長、それ足し算が」
「足し算が?」
「時間はプールできません」
局は本気で三十秒ほど検討した。三十秒ぶん、誰も笑わなかった。番場が湯呑みを持ち上げて「湯呑みの数だけ秒があればな」と言い、そこで隣の席の男が茶を吹いた。
「都築くん」笑いの残っているうちに、課長が世間話の調子で言った。「本庁の政策課、来年度から二枠空くらしいよ。君の名前、出てるって」
「そうですか」
都築は書類を揃えながら答えた。答えながら、耳が熱くなるのが分かった。三年、そのために来た。原案を一本、無修正で通す。それだけあれば足りる。あと一本だ。
笑いが引いたところに、市役所からの照会が回ってきた。
様式は素っ気なかった。出生届受理保留通知、備考欄、別紙のとおり。別紙には出生証明書の写しが付いていて、時刻の欄だけが空白で、その空白に鉛筆で薄く「〇三:四一:〇七」と書き込んで、消してある。消したのは役所の側だろう。存在しない時刻は記載できない。
昨年削られた〇三時四一分〇七秒。時計は〇六秒の次に〇八秒を表示したので、記録上、その秒は存在しない。役所は次の秒へ繰り上げて受理しようとし、母親が拒否した。添付には、母親の言葉が一行だけ引かれていた。
『この子は、繰り上がっていません』
「記録上の処理の問題です」と都築は即答した。「出生の事実には影響しません」
正しかった。誰も反論しなかった。番場も何も言わなかった。その沈黙が、都築は怖かった。
自席に戻って、都築は経済事象層に照会をかけた。条件、三月二十九日、〇四時一二分前後、当該商店街。
該当なし。
範囲を広げた。その日のその時間帯、あの四つ角で記録された経済事象はゼロ件だった。二百八十円は、どの層にも存在しない。現金で、レジを開けずに、開店前に渡された金は、この国のどこにも起きなかったことになっている。
都築は画面をしばらく見ていた。三層は、記録に残ったものだけを層と呼んでいる。残らなかったものは薄いのではない。最初から測っていない。彼の分布図の「何も起きていない秒」は、正しくは「記録に残ることが何も起きていない秒」で、その二つの違いを、彼は三年間、字数の節約だと思って書き分けてこなかった。
それから立ち上がって、書庫の前で番場を捕まえた。
「三十年ぶん読みました。地磁気も湿度も嘘です。気分に至っては理由ですらない」
「そうだな」
「あなたが守っているものは、どの帳簿にも載っていません」
「載ってないな」
「載っていないものは、守れません」都築は言った。自分でも声が硬いと思った。それでも止めなかった。止めれば、あと一本が消える。「来年度、私が主任です。四時十二分三十四秒を削ります」
番場は都築の顔を少し長く見た。それから言った。
「削っていい」湯呑みを持ち上げた。「鍵は、君が回せ」
「当然です。主任の職務ですから」
「そうだ」番場は書庫の扉を閉めて、鍵をかけた。かける必要のない扉だった。「三月三十一日、〇四時一二分三三秒に手をかけて、三四秒で倒す。〇・二秒ずれると翌秒が飛ぶ。手順書には書いてない」
「では、書いてください」
「書けん」番場は歩き出した。「握れば分かることだ」
都築はその背中を見送りながら、いま自分が何を言われたのかを考え、考えるのをやめた。手順の話をされただけだ。
*
母時計室に入るには、二重扉のあいだで三十秒待たされる。乾いた空気が服の水分を持っていく。中は窒素で置換されているので匂いがない。匂いがないということが、匂いのように鼻の奥に残る。十八度。セシウムの発振器が低い連続音を出していて、その音は耳で聞くというより頭蓋の中で直接鳴っている。
壁に真鍮のレバーがある。削減鍵。執行の瞬間、これを人間の手で倒す。自動化の提案は過去に四回出て、四回とも否決された。
都築は予行に来ていた。回すのは自分だ。手順書は暗記している。それでも、初めて触る金属の重さだけは暗記できない。
握った。
手のひらに違和感があった。真鍮の握りは三十年ぶんの脂で磨り減って、そこだけ金色が黄色くなっている。だがその摩耗の位置が、都築の手とずれていた。都築は握り直した。もう一度ずらした。窪みに指を合わせると、手首が内側へ寝る。
その角度からでは、レバーは倒せない。
都築は動かないまま、自分の腕の形を見ていた。倒すために握れば、摩耗はもっと上につく。倒さずに握れば、ここにつく。三十年で三十回では、真鍮はここまで減らない。減るとしたら、執行の日以外にも誰かがこの部屋へ来て、この角度で握っていたということだ。何度も。倒さない持ち方で。
都築は入室記録を呼び出した。予行のための自分の入室は、番場の承認印で通っていた。その下に、三十年ぶんの履歴が並んでいる。執行日の入室が三十件。そのほかに、執行日ではない日が毎年一件ずつ。日付は三十年とも同じだった。三月二十九日。滞在時間はいずれも十分未満で、装置の操作記録はどれもゼロだった。
発振器が鳴っている。原子が九十一億九千二百六十三万千七百七十回振動するあいだを一秒と呼ぶ。呼ぶだけだ。地球のほうは何も約束していない。三十一年後に選べる秒が尽きることも変わらない。誰が何を握っていようと、日は短くなり続ける。
都築は端末を開いて、出生記録に照会をかけた。出生時刻〇四時一二分三四秒、市内在住。
該当、一件。三十年前の三月二十九日。性別、女。業種欄、パン製造。氏名の列は、照会理由を入力しないと展開されない仕様になっている。
都築は理由の欄に何も入力しないまま、画面を閉じた。
*
翌朝、都築は起案を出した。削減案ではなかった。
「残秒表?」沢井課長が用紙を裏返した。裏は白かった。
「どの秒を削るかを毎年決める会議を、どの秒を残すかを先に確定させる会議に組み替えます。根拠は三十一年後の枯渇です。削る側から詰めるやり方は必ず破綻する。残す側から詰めれば、破綻の日付が決まります。決まった日付は、政策の対象になります」
「合理的だな」
「合理的です」都築は言った。「向きが違うだけです」
課長は用紙を番場のほうへ滑らせた。「番場さん、定年前に厄介なものが来ましたね」
番場は老眼鏡を鼻の上でずらして、しばらく起案書を眺めていた。それから言った。
「様式が違う」
「様式」
「甲十二号じゃない。これは乙だ」
都築が何か言う前に、番場は判を押した。乙の欄に、まっすぐ押した。
残秒表の第一欄は空いている。都築はペンを取った。書きながら、粉のついた指のことを思い出したが、思い出したことは誰にも言わなかった。生地は押せば戻ってくる。二度あたたかければ早く戻る。それはどの層にも記録されないし、記録されないものが世界から消えるわけでもない。
番場は湯呑みを持ち上げたまま、都築が書き終わるのを待っていた。待って、それから底を机に打ちつけた。乾いた、短い音だった。
都築は顔を上げた。
「午前四時十二分三十四秒から残すのが、最も合理的です」




