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N氏  作者: 誇大紫
6/22

百物語

 それはまだ友人関係も築けていない青の時代。今ではお隠れになってしまったN氏が、私にぼそりと言った。

「お前だけずれてる……」

 ――ちなみに私はヅラではない。念のため。


★★★★


 さて、イマジン(想像してごらん)。

 貴方は友人と駅のホームに来た。待合席を探し、運よく二つの空きを見つけた。貴方の隣の席にはなにやら怪しげな、フードを被った老婆がいた。

 軽く「すいません」と言って座り、貴方は友人と話しはじめる。

 やがて電車がやってきて、すぐさま乗りこんで。

「なァ、先程のことだが、なにゆえに君は挨拶したのだい」

 友人の言葉に貴方は首を傾げる。

「何故って、隣の席に座るし、ちょっとした礼儀じゃないかな」


 そこで友人は衝撃的な一言を発した。


 ――さあここで選択肢である。


 A:「ただの人形に? 何故置いてあるのかは不可解だが」→老婆は人形だったのである。

 B:「誰もいないのに?」→老婆は存在しなかったのである。

 C:「確かに。さっき見たが、あのフードの男、血のついた包丁を持っていたからな。怒らせると面倒だ」→老婆は男だったのである。

 D:「水くさいな。いまさら僕に礼儀がどうのなどと」→老婆に挨拶したかと思いきや、実は友人に行っていたのである。

 E:「そっちには鏡しかなかったじゃないか」→老婆の正体は自分だったのである。

 F:「そのおかげだな。我々が話している時、老婆は君の方をじっと見ていたよ。まァ実はまだ君の後ろにいるがね」→終わった話と思いきや時間差。


 これらで何が「怖い」かは人それぞれであって、或いは怖くなどないかもしれないが、これらに共通して一つだけ言えることがある。

 それは、認識のずれに「怖さ」があるということである。あなたの見ていたものと友人の見ていたものが違った。あなたと他人の見ているものが同じである保障はどこにもない。

 あなたがカワイイと思って撫でているそのゴールデンハムスターは実は無数の脚を持つゲジゲジかもしれない。しかしゲジゲジに見えるものこそが他人にとってはゴールデンハムスターなのかもしれない。

 へけっ。げじげじ。

 怪談の基本は「認識のずれ」である。思い込みや時間差による共通認識の崩壊。そのずれた隙間に「怖さ」が潜む。


★★★★


 百物語をしようと言い出したのが誰だったかは失念したが、とにかく私は主催者の部屋へ来ていた。

 席に着き周囲を見回せば、当時は名前を覚えているかどうかまだ怪しかった――面々。全員、濃淡や大小やデザインの違いはあるものの、青いものを身につけている。

 夕暮れの弱々しい光は微かに残るばかり、やがて暗闇にお互いの顔が溶けていった。

「じゃあ、百物語を始めます。どなたか第一話を――」

 ぼんやりとしたヒトの輪郭が声を出す。私は手を挙げて。

「では私から……」


 中断するが、さて読者諸君は百物語の伝統的基本ルールをご存知であろうか。

 新月の夜に数人以上、L字型に三部屋ある場を使うのが望ましい。手前の一部屋を語りの間、二部屋目を通りの間、奥を灯の間とする。また、錯乱した者が出た際に危なくないよう、危険物は持ち込んではならない。

 手前の二部屋は明かりを消し、奥まった部屋に百本の灯と鏡を用意するのが望ましい。行灯には青い紙を張り、同じく参加者も青い衣を着るのが望ましい。

 ……望ましくとも現実にはそううまくゆかぬのが常である。何事においても満足或いは妥協は重要である。

 新月と青い服は用意できても、まずここはどう見ても一人暮らし用ワンルームなのである。

「そこで言ったんです――『今度は落とさないでね』」

 私は軽い拍手と共に王道の怪談を語り終えた。静かに立ち上がると居間を出て、後ろ手にドアを閉じる。

 真っ直ぐ数歩行った先には玄関、右にはキッチン、左にはユニットバスがあるはずだ。むろん全て暗闇である。

 手探りでユニットバスへ向かい、ドアを開くと蝋燭――というか大量のアロマキャンドルが橙色の優しい光と香りを放っていた。幻想的な風景にしばし見とれる。主催者の話では、バイト先が潰れたせいでアロマキャンドルが大量に手に入ったとのことである。

 私は一つ手にとって吹き消した。煙はティッシュが水に溶けるように消えた。私はホッと溜息を吐いた。

 やることはもう一つあった。洗面台の鏡を確認することである。恐る恐る覗くと、映ったのは眼鏡をかけた女の顔だった。

「……!」

 私は絶叫を上げそうになったがグッとこらえた。どう悪あがきしようが変わりそうにない一重の眼は、神が造型を間違えたとしか思えない。顎の肉は弛み、端的に言えばデブである。髪はアップでまとめているが、何故かテカテカとゴキブリの如く黒光りしており、元来の肌の蒼白さはもはや軟体動物の類という風情。そして見てくれの評価は初めから捨てて臨んでいるようなクマさんのダサいトレーナー。こんなものを着て外へ出るとは余程の勇者であろう。

 なんのかんのと言ったが――然るにそれは紛れも無く私であった。

 まさか私がこのような醜い女だったとは。そのうえでこのような性格を抱えているとなると、風呂場のカビにも劣る無価値生物ではないか。鏡などろくに見もしない生活が続いていたせいで忘れていたぜ。なんと怖い。これこそ一人時間差、認識のずれ。怪談の本質であることは読者諸君にも異論はあるまい。

 九十九本のアロマキャンドルを尻目に参加者の待つ居間へと戻った。先程まで明るい部屋にいたせいで何も見えない。手探りで行くうち思わず温かく柔らかい二つの丸いものに触れる。それが何かはわかったが、触られた本人が何も言わないので私も気づかなかったことにしてラッキースケベ展開を回避した。この話は腐ってもホラーなのである。

 なんとか着席すると二話目が始まった。何かなかったか聞かれず若干の寂しさを感じる。

「じゃあ、次はあたしが話しますね」

 高い女の声。先程、百物語を開始した声と同じである。

「福岡に有名な心霊スポット、犬鳴峠っていう場所があるんです。あたしホラ、百物語とかやるくらいですから。そういうの好きで、高校の時、友達と一緒に行ったんです。そこの犬鳴トンネルがやばいって話でした。今では新トンネルができてそっち通るばかりですけど、出るのは旧トンネルなんですね」

 穏やかに紡がれる言葉は、黒い背景に吐き出されたとたん現実へ変化していく。

「行ってみると、入口は柵に囲まれて――立入禁止でした。電気もないし、ヤンキーがいても嫌ですし帰るかどうか相談してたら……柵の一部が壊れてるのに気付きました。誰かが策を壊して先に入り込んだ跡があるんです。あたしたちは三人。泥に残る真新しい足跡は一人か二人分。向きからして行きの分しかありませんでした」

 声はそこで止んだ。擦れる音。何かを飲み下す音。テーブルの上でペットボトルと液体の音がした。

「物理的に危ないのは勘弁ですけど、その時は『あたしたちの他にも見に来てる人がいるんだ、よかった』としか思いませんでしたね。まだ夕陽が出ていて明るい時刻でしたし。で、入っていきましたよ。犬鳴トンネルにはあるルールがあるんです。それは『手を余らせないこと』。一人で行く時は両手を握りしめて。二人で行く時は片手を繋いで、余った手を握りしめること。トンネルの中ではずっとそうしておかなくちゃいけないんです。あの世に引きずり込まれるとか何か持たされるとかそんな話がありました。で、三人ですからじゃんけんで勝ったあたしを真ん中にして手を繋ぎました。みんな怖いから真ん中に居たいんですけど、心霊写真なんかでも三人組の中央の子が何かされる確率が高いですよね……。そうだ。ちょっと今、手を繋いでもらってもいいですか?」

 そう言って乾いた笑い声がした。誰かの吐息がやけに大きく聞こえた。唾を飲み込む音も。私は右手に冷たい手を受け、左手に大きな手を掴んだ。お互いに握り合うと怖さが消える。

「しっかりと手を持って真っ暗な所――今みたいに少しも先が見えない中を歩きました。水溜まりをパチャパチャ踏んで、かび臭さを我慢しながら進んでやっと抜けました。当然ですけど別に崩れて閉鎖になったわけではないので、通り抜ければ全然、道として使えるわけです。足跡だって一方向にしかなくても不思議じゃありません。ほっとして周りを見ると、端はガードレールもない崖です。ここから車が転落したという話をよく聞きます。『あれって……』。友達に肩を叩かれて振り向くと、崖っぷちに靴が揃えて置いてありました。あたしたちは怖くなって、誰かが走り出したのをきっかけに逃げ出しました。何も逃げることはなかったんですけど、置いていかれたくなくてあたしも必死に走りました」

 暗闇から息切れが聞こえてくる。それは或いは自分のものかもしれなかった。繋いだ左手と右手はそれぞれ少しだけ汗に濡れていた。

「トンネルの半ばであたしたちはやっと落ち着いて、お互いに手を繋ぎました。なんで逃げるんだよ、なんて冗談を言い合いながらトンネルを出ました。いつも暮らしている雰囲気へ変わったのがわかりました。その時、安心した皆がこう言ったんです。『ああ怖かった――あたし真ん中でよかった』」

 空気が薄くなったように息苦しくなった。右手の先と左手の先は見えない。それまで信頼していた他人の手が急にそら恐ろしくなり――お互いに手を離した。

「じゃあ、蝋燭っていうかアロマキャンドルを消してきますね」

 気配が動き、ドアを開けて出ていった。誰も何とはなしに足音に耳を傾けて黙る。

「次は誰が話しますか」

 既に陽も落ちて何も見えないが、私は人がいるはずの場所に向けて話しかけた。

「あー。誰もいないなら俺が話すが」

 低い声が返ってきた。


 第二話を語った者――声からしておそらく女性――が帰ってきた。

「何かありました?」

「いや、ないですよ。まだ二本目じゃないですか」

 クスクス。姿が見えずに笑い声だけ。チェシャ猫に会ったアリスはきっとこんな気分に違いないであろう。

「あー。次は俺が」

 野太いくせにやる気のない声がする。

「俺は体質のせいで妙な奴に会うことが多いんだが……実家に帰った時、町で名前を呼ばれたんだ。振り向くと全然連絡をとらなくなってた小学校の知り合いだった。顔はわかっても名前が思い出せなかったんだが、とにかく話を合わせるまま喫茶店に入った。そこで思い出話に花が咲いてな。そのうち『悪者』って呼ばれてた奴の話になった。俺は頑張ってこどもの頃の記憶を掘り起こしてたんだが――なあ、こどもの頃の記憶ってよく美化されるよな」

 返事はなかったが、構わん続けろ、と場から聞こえない声がした。

「思い出補正って言葉があるくらいで、俺が大好きだった場所も今見ると何が良かったのかわからんドブ川だったりするんだ。人に聞いても昔からそうだったらしくてな。で、もしかして『こどもの頃の自分』ってのもそんなもんで、わりとマトモに、平凡にテキトーに生きてきたと自分では思ってても忘れてるだけで――最悪のドブ川だったりしてなって思うんだ」

 低い声は嬉しそうにでもなく、悲しそうにでもなく、ただ淡々と吐き出された。

「小学生の時、俺はわりと田舎の方に住んでたんだ。で、そこのクラスに『悪者(わるもの)』がいた。どこの学校にも一人はいるような典型的な『悪者』。父親が酒飲んで町でよく暴れて、母親がそれを止めようとして殴られて入院とか。よく大人が噂してたから今考えると可哀相な奴だったのかもしれん」

 数年経って改めて考えるとわかるのはよくあることだ。

「でも悪いものは悪い。俺だって原付に乗ったそいつに轢かれかけたしな。『悪者』は金を脅し取るなんてよくやってたし、すぐ殴るし、煙草の火を目に押し付けられて失明寸前になった奴もいた。学年が上がるごとに手がつけられなくなって皆が迷惑してたんだ。全員にもれなく嫌われて『死ねばいいのに』って、陰では皆そう言ってた。それでも先生が動かないのは、そいつの飲んだくれオヤジが極道と関係があったからなんだ」

 金太郎アメみたいにどこを切っても周囲に迷惑をかけまくる奴らである。くたばればいい。

「小六の冬だ。俺と友人は『悪者』を懲らしめてやることにしたんだ。学校の裏山に呼び出す手紙を女子に書いてもらって、二日かけて落とし穴を掘った。クラスの皆の応援を受けた俺たちはなんだかヒーローみたいな気分だった。正体がバレないようにビニール袋に目の穴を空けて被ると、完全に正義の味方だと思い込んだ」

 誰も何も言わなかった。呼吸音さえしない。

「のこのこやってきた『悪者』を後ろから突き飛ばし、作った穴に落とした。深さは二メートル半くらいかな……傍にある木に結んだロープがなくちゃ、俺たちも上がれないくらいだった。姿を見られないよう、すぐにスノコを穴に被せた。泣き叫ぶ『悪者』の声を聞いて、ビニール袋を被った俺たちはお互いに手を叩いて笑った。一晩反省させてやろうって、そのまま家に帰ったんだ」

 白い袋を被った正義の人々……KKKのようだ。

「でも俺はテレビの天気予報を見てたらやっぱり気になって、夜に一人で様子を見に行ったんだ。もう雪がちらついてた。『悪者』はかなり弱ってた。それで俺は『もう迷惑かけないか、もう悪いことしないか』って言った。『悪者』は泣いてずっと謝ってた。それで俺は出してやった。俺の地元は冬にはかなり雪が降るからよ、その晩に出さなかったら危なかったところだ。で、俺は卒業して中学は皆と別んところに行ったからさ、『悪者』に関しちゃそんな記憶なんだ」

 誰ともなくほっと息を吐いた。

「ところがさっきの、小学校の知り合いが――たぶん一緒に穴掘った奴だと思うんだが――おかしなことを言うんだ。『あいつ、あれから行方不明なんだよな』って。『積雪で三月まで捜索できなくて、そのうちなし崩しにあいつのオヤジと母親はどっか逃げて、それっきり』って。それで俺の顔見て言うんだよ。『お前、出してやったって言ってたな……?』。俺は頷いた。だって俺の記憶じゃ、ちゃんと出してやったんだよ。『まあ、どうなってたとしても今からあの穴を確認するのもアレだけどよ……』ってそいつは言った。俺は『まあな……』って言って別れたよ。俺の記憶違いか、そいつの記憶違いかわからんが、まあ皆最悪のドブ川みたいなことやってるかもなってことだ」

 彼はゆっくりと立って、見えないはずだが全員の顔を見回しているようだった。それからアロマキャンドルを消すため部屋を出ていった。あまりにも後味が悪く、地蔵のように全員が口を閉ざした。

 私はいたたまれなくなり、次の語り手は誰か尋ねた。そもそも何人で参加していたかおぼつかないので、どんどん自分から話してもらうしかないのである。まだ話していないのは誰かとざわつき始めた頃、正面から声が聞こえた。

「ほな、次おれが話します」


 それなら。

 そんなら。

 ほんなら。

 ほなら。

 ほな。

 ほな、とはつまり「それなら」の意であることは賢明な読者諸君なら知っていよう私はわざわざ方言辞典を引っ張り出して調べてしまったが。

 第三話を語った低い声の男が帰ってきた。誰かとぶつかったらしく、「おー、悪い……」と間延びした声が聞こえた。

「ほなおれですね」

 今までに話してきた者とは若干違うイントネーションが、ぽつりぽつりと様子を伺うように話し出した。

 ――おれの実家は田舎なんですけど。昔っからたぬきが有名で何でもたぬきのせいにするんです。ぬりかべも狐火も。狐火がたぬきってどういうことだって思うでしょがそんなん安直に変えますよ。たぬき火ってな。地元の若い奴はそうでもないですけど、じいちゃんばあちゃんらはたぬきが化かすって今でも本気で言いますから。

 最近はもう携帯ばっかりですけど、そん時は電話ボックスがたくさんありました。今でも大学に一応ありますけど。で、実家の近く、気色悪い電話ボックスが田んぼだらけの道に一つぽつんてあったんです。

 小さい時から友達の間で有名で、えらい怖いなあって思っとったんですけどね。

 あれは中学生くらいやったかなあ、なんでああなったか詳しいことは覚えとらんのですけど、塾の居残りか出かけた帰りか――夜遅くにあの近くをたまたま通って。

 ここらとは比べもんにならん田舎ですから、何するにも車がいるんですよ。やで、いつも家に電話かけて迎えに来てもらうんです。そうせんかったらそこから三十分くらい歩き通しですから。

 ほら、手入れしてない――藻の生えた水槽ってありますよね。ザリガニとか飼ってたけど皆そのコトを忘れてしまって藻だらけで中がおぼろげにしか見えんやつ。そんな感じのえらい汚い電話ボックスでした。

 躊躇しましたけど、もう腹は減ってるしくたくたで、結局入りました。昼間にもらったパンをかじりながら電話かけると、すぐに親が出ました。電話ボックスのある場所なんか限られててすぐわかるんで、もう親もいつものことやってわかって一言で済むんです。

「迎えに来て」

 受話器をおろす。

 瞬間、外に黒い影が二、三人出てきて、ガムテープでボックスごとグルグル巻きにしだしたんです。おれは何が起こっとるんかわからんで動けんかったんです。

 ハッとして開けようとしてもびくともせんで。そのうちぼろぼろの服着た一人が画用紙を取り出して俺に見せた。そこに汚い字でこんな風に書いてありました。


 おかねくだちい? ごはんも?


 ことばがうまくできないみたいでした。おれ、笑えばいいのか迷ったけどそいつら目が真剣で。おれのぞうりが濡れてきてるのに気づいたら、なんか別の奴が透明な液体を電話ボックスの足元に流し込んでました。

 臭いを嗅いだ時、やばいってことが初めて理解できて。その液体、ガソリンだったんですよ。んで目の前の奴はライターにカシュッて火を点けてた。

 大慌てで財布と食いかけのパンを下から通して渡したら、そいつらえらい速さで田んぼに消えてったんです。おらんなってから想像力が働いて怖くなりました。中からガムテープをハサミで切って出ましたけど、少しでも明るいところに行きたくて自販機の前にいたら実家の車が来ましたよ。

 家に帰って、ばあちゃんと親になんべんも死ぬところだったって言っても信じてくれませんでした。

「たぬきやろ。死なん死なん」

 って一言で片付けられて。

 しばらくしたら電話ボックスも取り壊されて、おれも何回もたぬきたぬき言われてなんとなくそんな気になってましたけど。

 ある時、ニュース見てたら実家近くの山が出てきて、そこで密入国者が捕まったって言ってたんです。田んぼばっかの、人通りが少ない道で強盗をしてたと。山の根城には死体が三人分埋められてて、それは動物に食い散らかされた跡があったんだと。

 やっぱあれは人間の仕業やったんや。

 そう言ったら、ばあちゃんはお茶を飲んで渋い顔をしました。で、呟いた。

「危なかったなあ……あの人らも、たぬきに操られとったんやなあ」

 どこまでたぬきにする気やって思いますよ。


 私は爪の先で頬を掻いた。たぬきの男は立ち上がって四つ目の蝋燭を消しに向かった。洗面台の鏡に映った彼の姿は――いや、暗闇でわからないだけで今まさにそうかもしれないが――たぬきかもしれなかった。そういうのも「怖い」。

 次は誰が語るのか、いっこうに名乗り出ない。もしかして一周してしまったのか。私が行こうか。しかしあまりがっつくように怪談を牙式連発銃の如く繰り出すのはいかがなものか。ネタ切れで後半黙っているだけとなるのは寂しい。

 百物語は計画的に、である。私は計画を考えるのが好きな計画的な人間である。時には計画を練りに練りすぎて石橋を叩き壊すように破綻させてもやぶさかではないという、計画に全力を尽くす計画道を極めた計画王である。

 そこで私はかねてから頭に釣り針のように引っ掛かっている一つの疑問を口にした。

「あの……これって九十九話でやめるんですかね」

 口ぶりと仕切りっぷりからおそらく主催者であろう、第二話を語った女性へ聞いた。

「ええ、百物語は本当に危ない儀式ですから。大丈夫、九十九話でもけっこう怖いことは起きるみたいです」

 それならば問題はない……問題があるとすれば私の方であった。


 百物語を始めてまだ四話が語られた段階であるが、困ったことに私は早くもある現象に遭遇していた!

 なんというかなんといえばいいのかむしろもう言うなと怒られそうで申し訳ないけれども――飽きた。

 私の飽きっぽさは我ながらあっぱれというもので、食事をとりながら飽きて本を読みだして飽きてテレビをつけて飽きて音楽を聴いて飽きて食事に以下略といったことが日常茶飯事である。一時期自殺を考えていたがそれにも飽きて部屋の中央には今でも首吊りロープがぶら下がっている。ある日片付けようとして、首をかける輪の部分を解いたところで飽きてそのまま何の変哲もないロープが垂れているだけとなりもはや何のことやらわけがわからない。

 ……というのは嘘だが、こんな脇道に逸れたくなるほどもう飽きあきだというのは真実である。こうして妄想で時間を潰しているうちに既に六十話近くまで来ているが、もう一つ一つの違いなどというものは思い出せない。

 なにせ怪談というのはパターンだらけなのである。怪異が起こる場所もたいてい決まっている。

 神社・トンネル・トイレ・山・海・宿泊施設・ボロアパート・廃墟など。

 そこにいわくや禁忌や儀式を足す。

 自殺の名所・~の怨霊・そこに代々伝わるアイテム・「~してはいけない」・「~すると~が起きる」など。

 最後は「おまえだ」などのビックリ要素か、ちょっと考えると意味がわかって背筋が寒くなるオチを入れておく。スパイスとして地元の場所を舞台にしてもいい。データベースだけ集めて、まるで自動生成ソフトでも作れそうな勢いだ。既に怪談をある程度収集してきた私の耳には聞き慣れたフレーズばかりで困ってしまう。自分の話でもそうなってしまうし、私は自分で話す怪談を自分で怖がるようなアホでもないので何一つ楽しめない。

 そこで。

 怪談を繰り出しながら私は考えた。

 一つ「ずらす」のである。

「――たすけて、たすけて、たすけて、たすけてってびっしり書かれてたんです」

 ありきたりな六十一話目を語り終え、私は早々にアロマキャンドルの間へと向かう。

 私が欲しいのは予想外にして確実な恐怖。予定調和に「ああ怖かったねえ。何か起きてたのかな? ひどいこと起きなくて良かった良かった。解散!」では残念至極の噴飯モノである。

 私は用意された九十九本のうち、半分以上が消えた蝋燭の群れを見つめる。メンバーの中には、律儀に毎回正確に数えて消している者がいるだろうか?

 話している数と蝋燭が一つズレていることに気づく者がいるだろうか? 否、である。

 洗面台の鏡には、不気味にほくそ笑んだ女の顔が浮かぶ。それは低い声で呟いた。

「これは百物語だしねえ……」

 私は六十一話目の火を消さずに戻った。これで黙っていれば、終了予定の九十九話を語り終えた時点でまだ一本だけ火のついた蝋燭が残ることになる。語られた怪談の数を正確に覚えている者はいない。いたとしても一つ違うくらいなら自分の間違いだと思うだろう。しかし一話違えば九十九物語が百物語に変わるのである。それも私以外は九十九話と思い込んだ状態で。

 俄然楽しくなってきた。私は戻って座った。既にネタ切れした者が出ているので語り手は挙手制となった。私は嬉々として怪談を口から垂れ流す。一人が連続で語ることで場の怪談数を曖昧な状態にし、蝋燭から逆算しなければならなくした。

 そうしながら脳内では真の数をカウントしていった。正直こんなことにだけ集中して頭の回転が速くなるのはいかがなものだと思うし、常に今のような状態でいられたならば既に私は賢者にでも転職しているのではあるまいか。

 いや可能性の現在を考えるのはよそう。現況の私を全力で肯定するのだ。私は怪談で他人を騙すのが好きな女でありさらに見た目も酷い。ええいそれがどうした鏡なんか二度と見るつもりはないぞ私は。

 そしてとうとう私は脳内カウントでの九十九話を語り終えて立ちあがる。残りの蝋燭は今から消す分と真の百話の分で二本のはずである。しかしユニットバスの部屋に来た私を待ち受けていたのは。

「九十九、百、百一話……?」

 残り「三本」のゆらめく蝋燭であった。


 小さな火が踊るように私の影を伸縮させる。百物語開始時に比べればユニットバスの部屋はかなり暗い。なにせバスルーム中にあった火のついた蝋燭は今やたった三本になっているのだ。

「とりあえず一本は消すか……」

 アロマキャンドルを一本手にとると、蝋燭に見立てた命の灯を消す落語を思い出した。サゲでは主人公がうっかり自分の命を吹き消してしまうのである。私はじっと火を見つめる。

 ――フッ。

 アロマキャンドルの煙は空気に馴染んで消えた。負けぬ。怖いと思えば何だって怖いのである。これは低い声の男が先程言っていた言葉だ。

 私は手に滲んだ汗をトレーナーで拭いた。残り二本。既に実際の話数は九十九話まで終わっている。しかし蝋燭の数を反映すれば百一話で終わり。これをどう考えるか。

 あのメンバーの中にお茶目な人間がおり、私と同じように百物語にしてやろうとずらしたに違いない。私は鏡を見て尋ねる。

 ――そうだよね?

 溢れださんばかりの知性がオーラとして放出されている女が頷いた。

「さあ、残り二本ですよ。九十八話目は誰がいきますか」

 私は何事もなかったように戻って再開した。広く世間に認知された百物語であっても、百一物語というのはとんと聞いたことがない。百話で怪異が起こるのであれば、百一話ではもう一つぐらい怪異をサービスしてくれるのではなかろうか。

 期待を込めて私は深呼吸する。こだまするように、闇の中にもう一つ誰かの深呼吸が聞こえる。

 次はいよいよ待ちに待った百話目である。それを知っているのは恐らくずらした私と――もう一人の「誰か」だけである。

「じゃああたしが九十八番目を。九十九番目は嫌ですからね……」

 右側から女性の声。主催者である。

「何にしようかな。そうだ、『百一物語』って聞いたことありますか」

 口に何か含んでいたら私はきっと噴き出していたであろう。懸命にリアクションを抑えて沈黙した。誰も発言しない。気のせいかもしれないが主催者の視線が暗闇を突き破って私を監視しているようで、思わず俯く。

「あれ。皆さん知りませんか。誰か一人くらいは知ってると思ったんですけど」

 そうして主催者は語りはじめた。

「百物語がどうして百なのかというとですね、百鬼夜行みたく、『百』がたくさんのものを表すからなんですね。じゃどうして『百』はたくさんなのか。それは桁が変わって次の呼び名に移るからです。一から十、十から百、兆から京、那由他から不可思議と、一つのコップの水が限界を超えて溢れ出すイメージが『たくさん』の意味するところです。狭い場所・短時間で多数の怪談を語って怪異を呼び込む。やがて怪異は一定量を超え、こちら側に溢れ出してくる。大事なのは九十九から百への瞬間です。普通に蝋燭を百本用意して百話語っても、たいていは何も起きません。それはまだ『百』というコップの中におさまっていますからね。だから今回、あたしは――九十九本の蝋燭――『九十九』というコップを用意したんですよ」

 冷房が至近距離にあるように、背筋がひんやりする。夜も更けて気温が下がったせいに違いない。

「用意した蝋燭は九十九本なのに、何故か一本増えていて百話語ってしまう。それが本当の百物語。そして百一物語っていうのはそこから更に一話語り足すわけです。それはもう『百物語』ではない。怪異を呼び出した『百物語』をわざわざ『百一』にずらして破壊するんですから」

 これは私へのあてこすりだろうか。主催者は全てを知っていてこの話をしているのだろうか。

「昔から百一番目は誰が語ろうがどうしても同じ話になるそうです。その場に集まった人達に関する『ずれ』って話なんですけど、とにかく後味が悪い。すぐには息ができなくなるほど怖い。得体のしれない不気味さを湛え、アイデンティティの『ずれ』に精神が耐え切れずに――ぷつん、となる人が出る」

 暗い場所に糸の切れた操り人形が浮かぶ。妄想であるが、それは無機質な青い目で私を見ていた。やめろ。百一話を語ることになったのは私のせいではない。もう一人の「誰か」のせいだ。

「大丈夫ですよー。今回はたとえ一本増えたところで百本。通常の百物語になるだけですからねえ。それじゃ九十八話はこれで終わります」

 実際のところの百話目を語り終えた主催者はあくまで明るく静かな声だった。席を立ち、ごそごそときぬ擦れの音がしてドアが開き足音が遠ざかる。

 再びドアが開いた時、柑橘系の香りが鼻をくすぐった。アロマキャンドルを一本持った黒髪の女が部屋に入ってきた。背が低く色が白い。眼鏡をかけている。

 どうやらこれが主催者の顔らしい。

「最後の一本なんで、ここで消しましょうか」

 そう言って中央のテーブルに置いた。今まで語っていたメンバーは火に照らされて、オレンジ色と影のコントラスト顔を披露している。

 正面のたぬき男は幼さを残した垂れ目がちの顔であった。左側にいる低い声の男は――医者が十人いれば八人は「死んでいる」と診断するに違いない。残る二人は「ゾンビ」と診断するであろう。

「じゃあ九十九話を……どなたが」

 突然、風もないのに蝋燭が消えた。声が漏れ出た。視界がどこまでも続く黒になり、音だけでなんとか場所を把握しようとする。

 酷い腹痛が始まる前触れのように、内臓に嫌な感じが渦巻いた。

 ピン……ポォーン。

 インターフォンが鳴った。

 ピンポンピンポォーン。

 執拗に何度も押してドアを叩いている。もう深夜のはずだ。ろくな人間ではあるまい。それが人間であればの話であるが。家主である主催者は出るべきか迷っているようだった。

「これは出なくても……いいですよね」

 メンバーに尋ねた。全員が無言で頷くのがわかった。しかし主催者は、言葉とは裏腹に玄関へ向かった。静かになる。一瞬何をしているのかわからなかったが、どうやらドアスコープを覗いているらしい。読者諸君、見よ。あれが真のオカルト者の姿である。諸君にはできるだろうか私にはできない。

 それからそっと部屋に戻ってきて呟いた。

「まだ九十八話までしか話してないはずなのにな……」


 百話目の怪異。

 叩かれるドアの音を聞きながら、私はそう言いたくなるのを堪えた。

「ドアの外、誰かいたんですか」

 主催者は柳が枝垂れるように俯いた。

「『誰か』っていうか……『何か』」

 カパ。

 玄関ドアの郵便受けが開かれた。居間のドアは閉じられていて確認できないが、恐らく室内を覗いている。目玉が動く。全員が微動だにせず息を潜めた。

 主催者が、あの……と小声で話し出す。

「皆さんに聞きたいんですけど。ウチに最後に来たのは誰ですか? あたし、よくわからなくて」

 真っ黒い沈黙。

「俺は一番に来たが」

「私は二番目かな、誰がいたかあんまり覚えてないですけども」

「ほな、おれかな?」

 たぬきの男が言う。

「鍵、かけました?」

 主催者の強い口調に、彼は戸惑った。

「や、いや、閉めたと思うけど……」

 ――カチャリ、バタン。

 玄関ドアを開けて「何か」が入ってきた。ゆっくり、とすんとすんと音が響き、居間への閉じたドア前で立ち止まった。自分の鼓動が重低音ドラムのようである。

 と、目の前が真っ白になった。私は死んだ、などという気分もそこそこに突然室内灯が点いたのであった。後ろ頭をかきながら、間延びした声の女性が入ってきた。

「……ごめんよー」

 主催者以外の全員が、部屋の隅で団子になっていた。低い声の男などは携帯を開いて警察に電話するところであった。


 明るい部屋はよくよく見れば可愛い人形もゲーム機も洗濯物もあり人間が住んでいると言われれば納得しかできないようなごく普通の部屋だった。落ち着いて話を聞けば、主催者と新登場の女性――猫鳴ネコナキさんによる「サプライズ」であった。

 主催者は蝋燭が残り一本になった時点で、こっそり蝋燭の間で彼女に連絡した。続いてドアスコープを覗く時にそっと鍵を開ける。そして怖がらせながら現在に至る。「百話目の怪異」は彼女らに造られたものだった。

「ごめんよーごめんよー」

 猫鳴さんはしきりに謝っている。対して元凶の主催者は「幽霊じゃなくてよかったでしょ?」とうすら笑いを浮かべた。眼鏡の奥の開き直った瞳を見て、私は何も言えなかった。

「でも、あのタイミングで蝋燭が消えたのは神懸かってたでしょ? 皆の目を盗んで消すの大変だったし」

 主催者はにこやかに言う。たぬきの男もつられて笑顔になった。一同は胸を撫で下ろしているが、私はこのエンディングに納得がいかない。

 これでは何も起きていないのと同じではないか。読者諸君も、もっと何かないのかお前ら酷い目に遭えふざけるな死ねと言いたいところであろう。やめろ、物を投げるんじゃあない。

「なあ、えーと……なあ? お前さんよ」

 妄想に浸っていると、低い声の男――他のメンバーにはN氏と呼ばれている――が私の肩を叩いた。そういえばお互いに名も知らぬ仲である。

「お前だけずれてる……」

 何のことかわからない。先程もみくちゃになった際にずれたブラのことを言っているのか、空気が読めないことを言っているのか。どちらにしろ失礼なやつである。

「お前、誰なんだよ」

 室内が静まりかえっていた。全員が私たちに注視している。私が誰であるか?

 そんな抽象的なことを言われてもわからない。しかしN氏は続ける。

「なあ、皆、聞いてくれ。この中で『彼女』を覚えてる奴いるか」

 メンバーは黙った。顔を覗き込むが、直視に堪え難いものでもそこにあるかのように目を逸らしてしまう。いてはいけない者がいるように。

 何だこれは単なるいじめではないか。白人の子供達に地図を見せ、黒人の一家が住む地区を指して「何がありますか」と尋ねたら「ここには何もありません」と返ってきたとかいうアレではないか。

「私は初めからここにいましたよ!」

「いや、いたんだよな。たぶん。ただ、ずれてるんだ。学生証を見せてくれ」

 N氏は違和感を感じているが、具体的に何がどうとは言えないようである。まるで四次元間違い探しのようなもので、もどかしい。眉間に寄ったシワは必死さの現れだった。私は死人のような彼の、そこを信じることにした。

 学生証を取り出してみる。私の指は何故こんなに震えているのだろう。歯の根鳴るな。

「これだな……仕方ねーな」

 N氏に手を引かれユニットバスへ向かう。他のメンバーは怪訝な顔つきで私を見た。何故か私は笑ってしまう。

 背中を押されて洗面台の前へ。暗闇の下、鏡を眺める。「女」がいる。N氏が明かりを点けた。暗闇は消滅し、眩しい光が辺りを照らした。

 そこには「男」がいた。眼鏡はかけているが、トレーナーは着ていない。焦げ茶のジャケット、薄手のシャツにジーパン。ヒゲを剃り忘れてうっすらと顎が黒い。

「あ、私……だ」

 気がつくと実物の方もそうなっていた。そう。これが本来の「私」なのである。何故わからなかったのか、何故思い出せなかったのかわからない。「ずれて」いたのだ。

「これが百話目の怪異か。気をつけろよ」

 N氏が呟き、先に居間へ戻っていく。具体的に何をどう気をつければいいのかは言わないまま。

 続けてユニットバスを出ると、N氏以外の全員は「何事も起きていない」ことになっていた。私が女性だったことを覚えていない。ずれが元に戻ったのだろうけれども、孤独を感じる。今夜の経験を彼らにいかに語ったところで、そんなもの彼らにしてみれば無かったことになっているのだ。

 ……ただ一人、頬のこけた死相の男――N氏を除いて。

 主催者と猫鳴さんが冷蔵庫から、人数分の高級そうなお菓子を持ってきてくれた。N氏の分だけがなかった。確かに運の悪そうな顔つきである。

「食べる?」

 目配せして私は自分のケイク・ド・ショコラを半分差し出した。

「いや、甘いものは嫌いだからいい」

 いいから食え、とN氏の口に押し込んだ。私たちは談笑しながらお茶とともに流し込み、カーテンの隙間から朝陽が洩れ出てくるのを見た。

 それから白んでいく群青色の空の下で、解散した。去っていく人々の背中は満足気で結構だけれども、私には一つの違和感――「ずれ」がそこにあった。

 百一話目の怪異について。主催者が「百話目」を語った。それから私が変化しているという「百話目の怪異」の登場、そしてそのことをN氏が指摘するという「百一話」。今はこの時点のはずで「百一話目の怪異」がまだ起こっていないのである。或いは既に起こっていて気づかないのか。

 本当は百話目の時点で起こったであろう怪異「性別の変化」でさえ、私の記憶は改竄され最初から女性であったかのように思い出すし、語る際には奇妙なことにそうなってしまう。現在が過去を変えてしまっている。私というフィルターを介して語る限り、起こった時点は関係ないのである。問題の中心は「ずれ」に気づくかどうかである。

 そこで考えてみてほしい。

 主催者側が参加者数を確認し、一人ずつに用意されたはずであるケーキの数が「一人分」足りていなかった。フォークと皿の数も、開始当初に出されたペットボトル入りのお茶の数さえ。私は百物語を始める前の状態を必死に思い出すが「本当は」誰がそこにいて、誰がそこにいなかったのか、霞がかったようにぼんやりとしているのである。よくあるだろう――考えてみれば一人増えていたという怪談が。二話目、暗闇で私が左手を繋いだ彼は何者だったのか。

 帰り際に確認すると、彼以外のメンバーはペットボトルを持っていた。周囲は彼のことをN氏と呼んでいるが、果たして本名を知っているのか? 以前から知っているような気がするが、彼は一体誰の知り合いだ? 顔見知りだけでやっているはずの、この百物語全体に漂う妙なよそよそしさは何だ?

 N氏こそが「ずれ」。

 百一話の怪異。

 増えた一人。

 元々は存在しない人間。

 本人が関知しているかどうかはともかくとして。

 何が「お前だけずれてる……」か。お前こそずれているのだ。しかし私はずれを正して――たとえば戸籍や証拠を集めて――N氏を「なかったこと」にはしない。このまま黙っていることにする。

 N氏はただのいい奴であり私のずれを正してくれた恩人だからというのは嘘で、当然そちらの方が「面白い」からである。

 ――そして認識しうる限りの記憶上では、これがN氏との縁の始まりであった。

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