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N氏  作者: 誇大紫
5/22

とある科学の幸福論騒動

 色の白い娘が毒々しい色彩のメロンソーダを吸い上げる。〈黒き真実の壷〉の置かれたテーブルを挟み、泣きそうな顔でN氏に話しかけた。

「彼にも相談したかったんですけどお……」

 ――チッ。彼氏いるんなら彼氏に頼れよ。

 N氏の顔を翻訳してみると、こんなところであった。

「でも彼、『呪い』で死んじゃってえ……」

 我々は顔を見合わせた。N氏の顔には「オイオイなんでこんなことに?」と書かれている。むろん私の顔にだってそう書いてあるに違いないのだが、しかし何故かと問うても答えは一つ、いつだってN氏の体質のせいというほかはないのである。


★★★★


 さて、怖いと思えば何だって怖いのである。しかし今回、読者諸君にはこの言葉の裏を提言したい。然るに「怖くないと思えば何だって怖くない」のであると。全ては「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というわけで、恐怖はあなたの五感と脳に巣くっている。

 ハイチに伝わるヴードゥーの「呪い」を知っているだろうか。それは対象者の恐怖を利用し、信じなければかからない。にもかかわらずハイチでは呪いが「実在」しており、実際毎年何十人と衰弱死している。この矛盾があなたをグラグラとした平均台の上に乗せる。あなたはまさか「呪い」を信じてはいないだろうが、どうなろうとその態度を崩さずにいられるだろうか?

 話を始めよう。

 N氏はひどくやっかいな男である。埋葬されて幾日か経ったような顔色、かもされた風貌をしてはいるが、人並み程度の悪意さえ持ち合わせていない人間である。しかし読者諸君が「ただの人間には興味ありません!」と彼を見限るのはいささか早計に過ぎる。「やっかい」というのは「厄」を「介」すると書く。彼の恐るべき霊媒体質は犬も歩けば棒に当たるといった風情で周囲や自身も含め奇妙なことに巻き込んでしまうのである。つまり彼は悪くない。非常に不運な運勢(ほし)の下に生きているだけなのである。

 そうした出来事が連なったせいで、ある日から彼は自室にて引きこもるようになっていた。そんな当時。

 珍しくN氏が出かけようとしていた。私の顔を見るなり「お前は来るな」と威嚇する。ひどい言い草である。

「あれ、何か面白いことがあるのかい」

「いや、ねえよ」

 即答するN氏。その愛想の無い態度は変わらないが、普段よりしっかりした生地が使われたチェックのシャツ、直前に風呂に入った様子、剃り残しの無いヒゲ――これは誰かに会いに行くということが予測できる。

 そしてそれは男ではない。何故なら長期的に引きこもり続けた彼はもはや自身の見てくれについて考えることをやめ、身嗜みを整えるなどという瑣末な事柄には囚われないという残念な方向に達観した男だからである。

 しかし相手がこと女性――特に運命と新たなロマンスと乳繰り合いへの欲望と寂しさと焦躁感と何かしらのトラウマを解決してくれそうな者か或いはそんな空気と全く関係のないほんわかふわふわした者であれば話は別である。滅多にないことであるが――これは……そうか、わかったぞ、間違いなく女性が相手だ! 

 私の頭の中の名探偵コナン・ザ・グレートはそう告げた。

 さらにここ数週間のN氏の動向を逐一チェックしていた私であるが、彼は外に出ていない。N氏は学業や単位などという瑣末な(以下略)だからである。となればネトゲ関連のオフ会ではないか?

 N氏がはまっているネトゲの名前をおもむろに呟いてみる。彼は素知らぬ顔で目を逸らしたが、その視線の先に見るべきものはない。反射的に逸らしたのだ。

 ヒット。ネトゲである。

 たまたま同じネトゲをやっていて、たまたまここ名呑(なのみ)町に住んでいて、たまたま会う気のある女性。

 ……そんな女、果たして存在するのか。

 様々なことが脳裏を過ぎったのであろう、N氏は携帯と交互に私を見ながら恐る恐る尋ねた。

「お前じゃ……ないよな?」

「何のことだい」

 とぼけつつ、自分の推理が概ね当たっていることを確認する。

「いや、いい」

 N氏は自転車に跨がると、颯爽と漕ぎ出した。私は見送りながら内心苛々している。誰かが幸せになりそうな状況は非常に腹立たしいものである。読者諸君も異論は無かろう、N氏のフラグを全力でバキ折りに行こうではないか!

 数十分後、私は近所のファミレスで目をみはっていた。遠いテーブルでN氏が楽しげに話しているが、その向かいに座った娘は――非常に可愛いらしかった。

 線のような目でドジを穏やかに笑ってごまかす。口元にあるほくろとストローを吸うために髪を耳に掛ける仕草がエロく感じるのは私がアホだからであるわかっている気にするな。また天然気味な彼女にN氏がツッコミを入れるなど良い雰囲気である。二人のバックにぷりぷりした肉付きの良い天使がラファドラソーラファドラソーとラッパを吹いている。ああ、N氏がこのような陽の当たる場所にこようとは。

 食事を終え、二人がジュースやココアを挟んで和やかに談笑していると、急に娘の方が深刻な顔になった。N氏も目を細めて頷いている。

 こうなると、声の聞こえないのが悔やまれる。やはり盗聴機を導入するべきか――などと考えていると、娘がおもむろに「壷」を取り出しテーブルの上に置いた。そして熱に浮かされた様子で饒舌に語り出した。

 一瞬で状況がわかったN氏の顔は凍り付き微動だにしない。おうおう、さすがはN氏。全く、不幸キャラを徹底している。彼女が一生懸命話せば話すほど、N氏の態度は悪くなっていく。頬杖をつき窓の外を見て露骨にため息を吐いた。

 右肘のあたりをボリボリと掻く。私がフラグをどうこうするまでもなかったか。

 私は立ち上がり、N氏達のテーブルへ行った。彼は既に気づいていたのか慣れているのか驚かない。私への挨拶もそこそこに娘は「壷」についての説明を始めた。

 どうやらこの娘は新興宗教「とある科学」の信奉者らしい。小さな黒い壷を愛しげに撫でている。

「この〈黒き真実の壷〉を買うと真実がわかるようになるんですう。おかげで、私ホントに騙されなくなったんですよお」

 ――あんた既に騙されとるがな!

「騙されたと思って使ってみて下さい!」

 ――いや、騙されたと思って騙されるんでしょうが。目の前に有意義なサンプルがいるのでこれでわからなければアホである。

 娘の説明を聞いていると、私は胃袋の底から苛々した気持ちが這い出てくるのを感じる。つい私は一つ一つにツッコミを入れ、次第に声が大きくなりボルテージが上昇していく。

「大体、人を騙すのは悪いことだって知ってるでしょう!」

 テーブルを叩くと、娘は鍋に入れた白菜のように萎んだ。N氏が苦々しい顔で呟いた。

「お前……自分を棚に上げてよくそんなこと言えるな」

 言えるとも。しかし。

「勘違いするなよ。N氏を騙すのは、この私だけだ」

 空気が止まった。音も無い。周囲の食事客もいなくなったように感じる。

「え……いや……え? どういうことだ? そんな話してたか?」

 N氏と娘は困ったような目で私を見た。なんとなく勢いで発言してこんなことになり私だって困っている。むしろ私が一番困っている。

「さて」

 無理矢理仕切り直した。

「この壷が本物だとしても、そんなものにお金を使うなんて『私は騙されるアホです』と言ってるようなもんだよ。つまりは敗北宣言。絶対に私もN氏も買いはしないし、既に君が哀れに思えてきている」

 N氏が頷いた。正面の娘は口をきっと結び、俯いて震えていた。のみならず目に涙さえ浮かべていた。さて傍から見れば悪者は誰だ。男二人が娘さんを泣かせている。

「キモいあんたらなんかに私のことがわかるもんかー!」

 言うてはならぬことを吐き捨てて、娘は立ち上がり走っていく。むろん我々はすぐに追いかけた。

 N氏が彼女の腕を捕えて引き止める。

「もうやめて! 誰も私のことなんかわかってくれないのよお!」

 娘が叫んだが、N氏は複雑な表情で静かに言った。

「いや、俺、あんま金ないから……自分の分くらい払ってくれ……」

 N氏がレシートを渡す。私もついでに手に持ったモノを渡す。

「忘れてるよ、〈黒き真実の壷〉」


★★★★


「……じゃあ、話を聞いてください」

 我々の振る舞いの何がどう彼女の心に作用したのかわからないが、とにかく席に戻って相談を受けることになった。

 驚くなかれ、十代にしか見えない彼女――丸木戸(まるきど)サド子は年齢詐称をしていて三十歳である。彼女は天才的に騙されやすく、これまで幾度となく詐欺やスピリチュアルな何かに引っ掛かってきた歴戦のカモであった。その原因は極度の不安神経症――要するに「怖がり」であり、何か不安を煽られると馬鹿馬鹿しいとは思いつつも気になりすぎて夜も寝られず最終的には騙されてしまう。

 余りにも騙されて人間不信に陥ったところを宗教「とある科学」に救われ入信してしまったらしい。

 すかさず「全然人間不信になってねえ!」と言ったのはN氏であるが、丸木戸さんは平然と「ちっぽけな人間など信じていません。信じているのは大いなるクトゥルフ神ですから」といっそ清々しいくらいの騙されっぷりであった。

 そこで〈黒き真実の壷〉を買い、騙されるという不安からは解放されたのだが、今度は教団の言う「終末と呪い」への不安が押し寄せてきているというのである。

 この壷を一人三つ以上広める――端的に言えば「売る」――ことができなければ深海に潜むクトゥルフとやらが起こす終末が近づき、その「呪い」により死ぬらしい。何故そんな迷惑きわまりない神を信仰しているのか全くわからない。また我々に言わせれば一人三つなど、どうせ経理部の作成したノルマであろうとしか思えなかったが。

「私の彼、呪いで死んじゃったんですう……」

 丸木戸さんは辛さと寂しさの入り混じった沈痛な面持ちになった。

「期日までに〈黒き真実の壷〉を売れそうにないって言い出したあたりから呪いが――彼の周囲が〈四〉だらけになっていったんですう」

「〈四〉だらけ?」

 彼女はゆっくりと頷き、垂れてきた前髪を留め直した。

「はい。彼が揃えたわけでもないのに気付けば部屋には〈四〉つの空き缶、〈四〉つのぬいぐるみ、それも〈四〉つ足のもので、携帯には毎日〈四〉つの着信と〈四〉つのメール――数え上げればきりがないのお」

 N氏がうんうん唸った。うなされているような声だったが、どうやら思考中のようである。ふとひどいクマのある顔を上げた。

「それ、見覚えのあるものが〈四〉になってるってことだよな? 例えば見知らぬぬいぐるみが勝手に増えて〈四〉つになってるわけじゃなくてよ」

 なにそれこわい。

「ううん、一つ一つのことは起こりうることなんだけどお、〈四〉だらけになるんです。それで先月、彼は午後〈四〉時〈四〉十〈四〉分に死んだ。でも彼、すごく怖がってたから――今は不安から解放されてよかったのかもしれない。『とある科学』もあんなに大きなセレモニーを開いてくれたし」

 丸木戸さんが手で包むように持っていたせいでメロンソーダの氷が溶けた。ストローがコップの縁を滑った。

 なるほどこの世には死より強い不安というのがよくあるものなのか。

「死んで、よかったもクソもないな」

 N氏は相手を頭から真っ二つに切り捨てるように言った。彼女は下唇を噛んで泣きそうな顔になった。私は人前ですぐ泣くような人間は――あまり好きになれない。涙は他人を動揺させて言うことを聞かせようとする。

 とはいえN氏の言い方は、身近な人を失った者にかけるにしてはあまりにも彼らしすぎた。私はN氏の脇腹を肘で突いた。

「……ホラ、今から丸木戸さんは呪いで死なないように構えなくちゃいけないからですし。N氏が言いたいのは死んでいいとか言ってちゃダメだっていうことじゃないですか」

 フォローになったのかわからなかったが、彼女は話を続けた。

「でも私も、もう〈四〉の呪いは始まってるんですう。例えば」

 丸木戸さんはテーブル上にあった楊枝入れから、一本一本袋詰めされた楊枝を並べていく。思い詰めた顔で。

「……四十二、四十三」

 楊枝入れにはそれだけだった。しかし塩の小瓶に隠れるように落ちていた最後の楊枝を拾う。

「四十四。ね?」

 戦慄を覚えた。どこにも仕込む隙はなかったのである。N氏はじっと楊枝を睨んでいる。

「その壷、いつまでに売らなきゃならないんですか」

「今日。あと一つだけなんですけどお、買って……くれないよね」

 我々は強く頷いた。そんな金があるわけないのである。彼女は力無く笑うと、レシートを持ってレジに向かっていった。

「どう思う」

 腕を組んで黙ったまま、N氏が視線で尋ねた。私は立ち上がりながら言う。

「今の楊枝はすごいけど……やっぱり騙されてると思うよ。彼氏さんのくだり、おかしくなかった?」

 N氏も荷物を持って立ち上がった。首を捻る。

「午後四時四十四分に死んだ。死亡推定時刻って、そんな正確にわかるもんかな? それに〈四〉が並ぶと言いつつ、午後〈四〉時というのは十六時だって『言えてしまう』。どうして午前四時ではなかったのかな」

 我々は彼女に追い付いた。別々に払うと思ったらまとめて計算されていた。

「一四四四円ですね」

 レジの女性は笑顔で言った。丸木戸さんは表情を曇らせた。しかしながら我々の分を払おうとする。私はN氏が財布を開くのを見つつ主張するように身を乗り出した。

「あの、これもお願いします。それから、別々で支払いを」

 私はポケットから自分のテーブルのレシートを取り出してレジ係に渡した。合計は一六六○円になった。丸木戸さんが振り向いた。

「ここは私が払いますう。迷惑をおかけしましたから」

 払ってもらうのはやぶさかではないが、そうなると何か代償を求められている気になる。N氏は露骨に嫌そうな顔をしているが。

 ――でもごめんN氏、これは面白そうなことだと思う。あと私、財布忘れたんだ。

「じゃあ御馳走になります。代わりに『呪い』を解くのを手伝いますよ」

 私に向かって、N氏は半笑いで言った。

「それ勝手に俺を入れてるよな」


★★★★


 丸木戸さんの住んでいる家まで行く途中、私は今日が四月十三日だということに気がついた。流れ通りならば彼女は恐らく明日の四時あたりに死ぬことになるのであろう。

 私とN氏は家にお邪魔してその時刻まで一緒にいることにした。彼女の母親に笑顔で迎えられ、部屋へ向かった。

「もう、おかーさんってば一つ多い!」

 後から母親が持ってきた盆には麦茶が四つ並んでいた。

「あら……四人じゃなかったかしら」

 母親は首を傾げたまま、一つ持って居間に戻っていった。我々の全員が「〈四〉つか……」と思っているのは明らかであったが、口には出さなかった。

 部屋に落ち着くなり丸木戸さんは口火を切った。

「それで『呪い』を解くって、どうやるのお」

 氷の入った麦茶を傾け、N氏が渋い顔で答える。

「世の中、不思議なことは何だってあるもんだ。幽霊だって俺はよく見る。部屋代の半分は払ってもらいたいくらいな。で、幽霊にゃ理屈はないが『呪い』は人間が使っている時点でルールがないとおかしい。そして――それくらいしか俺にはわからん、具体的にはこいつに聞いてくれ」

 おい。不意打ちで投げっぱなすくらいなら話すなよ。ちょうど口を出したかったところではあるが。

 丸木戸さんが迷子の子どものような顔をして私を見つめた。何故か手伝ってあげたくなる。

「まず彼が今言ったことは全部信じないでください」

 N氏は壁に寄り掛かったまま、にやりと笑った。

「怖がりの人は、幽霊や呪いは信じないこと。度胸試しもしない近づかない徹底的無視。それが一番です」

 幽霊をよく見るN氏を全否定だが、私は怖がりにしてオカルトを信じてはいない。オカルトは「本当だったらいいな」「夢があるな」というスタンスである。奇妙なことはあるかもしれないが基本的に幽霊はいないのではないか。見間違い、幻覚、思い込み。もちろん私はそうして否定して否定して否定して、しかしそれでも否定しきれなかったものは信じる。それが真に怖いものを見つける近道だからである。

 殆どの怖さは見極めて、離れて愉しむだけのエンターテインメントだ。

「ところでハイチに伝わるヴードゥーの『呪い』を知ってますか。ハイチでは毎年何人も『呪い』で死にます。『呪い』の多くは細かい点を除くと同じメカニズムなんです。さてその手順はこうです。

 一、まず対象者が『霊的なもの』が実在すると信じていること。信じていなければかからない。

 二、呪術者は対象者に『呪い』をかけたことを告げる(死の予言)。この際、客観的事実として受け入れられやすい第三者によって知らされるのがベター。

 三、対象者は不安と恐怖から『呪い』の予言を自己実現させてしまう。ありふれた日常の偶然を、予言された『呪い』のせいだと思う。やがて自分は死ぬに違いないと思い込み――飲食が不可能となり、飢餓・脱水症状を起こす。

 四、対象者が死ぬか入院するかして、その界隈に『やっぱり呪いは実在する』と信じる者が増えて悪循環する。以上です。『呪い』というのは基本的にこの形式に則るので、信じなければかかりません」

 丸木戸さんはうんうんなるほどと頷いている。素直すぎる。なんとなく彼女が騙されやすい理由がわかった。

 これなら明朝四時までに「呪い」を信じなくなるのも可能だろう。そこへN氏がしたり顔で口を開いた。

「まあ、その手順の説明も〈四〉つになってるけどな」

 心底余計なことを言う男である。私に何か恨みでもあるのか……と思ったが身に覚えがありすぎて困る。

 丸木戸さんはいっそう不安げに我々を見た。これは、信じないようにさせるのは骨が折れるやもしれぬ。

 信じたまま「呪い」を解く方法はあるのかわからない。私は咳ばらいをして続けた。

「五、気をつけねばならないのは、対象者の受けた『呪い』は他者に渡すことができること。初めの対象者は助かり、今度は渡された者が『呪い』にかかるという点」

 こうした「呪い」は意識の問題なので、誰かに渡すことさえ可能なのである。風邪は他人に移せば治ると思い込むのに近い。というのをたった今、私が付け足した。嘘である。しかし信じれば本当である。

「で。丸木戸さんは『呪い』の話、誰から聞きましたか」

 見当はついている。

「死んだ彼から、だけどお」

 そういうことなのだ。

「そして――彼が死んでいる様子を、丸木戸さんは見てませんよね。又聞きでしょう?」

 彼は何故午後四時四十四分に死んだのか。まず単純にそんな正確に死亡時刻は割り出せない。となると彼女にそう教えた者がいるのだ。

「うん。教団の人に聞いて……」

 第三者を装って「呪い」を強化している。

「教団『とある科学』の葬式のやり方は?」

 丸木戸さんが怯えたように答える。

「夜にしか行えないセレモニーをしてえ、誰も見ないように灰にして海に流します。クトゥルフに還るように」

 なるほど。

 やはり午前四時に死ぬと困るのは、故人と会わせることのできる時間をなくすため。できるだけ早く――その日の夜には教団内でセレモニーを行い「彼が呪いで死んだこと」「灰にして海に流されたこと」を認識させるためである。

 丸木戸さんにしてみれば、彼の死体を一度も見ないまま「呪い」だけ残されたということになる。

「おそらく彼は『呪い』をあなたに渡しています」

 さっき母親が、私達を四人だと思った、と言った。恐らく玄関の時点では四人目が傍にいたのである。

「彼は生きています」

 二人は一瞬理解できなかったようで眉をひそめた。私は指差し、N氏と丸木戸さんの視線を誘導した。うずくまる影が薄いカーテンに映っていた。ベランダのそれは立ち上がり、窓をカラカラと開けて入ってきた。

「……すまん、サド子」

 坊主頭に、金のピアスを付けた耳。細い目に紫色の唇。煙草の臭いが漂った。頬がこけ、裂けそうなほどにV字の口を不快にニヤニヤさせる。ドラッグでもやってんじゃあないか?

 はっきり言って苦手な類である。コンビニの前でたむろして酒を飲んでは大声で下ネタを叫ぶ類。どれだけバカで悪いことをしたかで評価が決まる類。フリスクをラップに包んで裏通りで「マジに効くから気をつけろよ」と一粒五千円で売れば勘違いして買うような類。

 というのが私の顔に出ていたのであろう、N氏がぼそりと「たぶん俺もあいつ嫌いだわ」と耳打ちしてきた。

「人を見かけで判断するんじゃないよ」

 N氏が「こいつ信じらんねえ」という顔をした。

「マゾ太……」

 丸木戸さんが彼に抱きついた。

「『呪い』を渡したのはオレだ。教団の言う通りにすれば『呪い』をなんとかしてくれるって聞いてな……許してくれ」

 丸木戸さんは既に許している。「呪い」をなすりつけて自分を死なせようとした相手をだ。これが愛? クソ喰らえとはこのことである。

 言葉とは裏腹にマゾ太さんは目が笑っている。どうせ許してくれるだろうと思っていたのか、本気で謝る気はないのか。どちらにせよ、あまりいい人間ではない。丸木戸さんは男にも騙されているのではないか。

 N氏の顔を見れば怨念と呪詛と憤怒と呆れが入り交じり、さながら地獄絵図であった。彼の言葉をあえて読み取れば「世界など今すぐ終われ」といったところである。

 丸木戸さんとマゾ太さんがいい感じになってきた。我々が荷物を持って退散しようとしていると呼び止められた。

 マゾ太さんは薄ら笑いを浮かべ、見下して命令するように言う。

「おい、お前ら『呪い』を解けるんだろ。解いてくれよ」

 ああ、そんなのあったね。傍らのN氏が眉間にシワを寄せた。

 彼は忍耐強い男である。忍耐が強過ぎて、こちらから聞き出さねば滅多に内心を語らない男である。抑え切れないストレスが態度から放射能の如く漏れだして傍から見れば「ああ……キレてんな」とわかるほどになってもまだ忍耐を続ける忍耐中の忍耐野郎である。

 然るに彼はこういった相手に対して忍耐強いのに何故かケンカ腰である。

「うるせえな、信じなければかからないんだからよ、そういう風にたぶんイチャついてれば――」

 ごん。

 N氏の頭が揺れて壁にぶつかった。マゾ太さん――マゾ太――クソ太が殴ったのだ。

「サド子の生死が懸かってんだ。今すぐなんとかしろよ!」

 丸木戸さんはひたすらオロオロしている。自分の彼氏なら止めろよ。

 今度はN氏が掴みかかった。私はN氏を全力で引きはがす。

「何で止める……!」

 N氏は私の顔を見て口を噤んだ。小声で語りかける。

「弱くて不安を他人にぶつける。奴は増水した川の中洲で不安になってる子犬だよ。助けてくれる相手の手を噛むような。さて、そんな時N氏はどうする? 子犬を見殺しにするかい? 噛まれながらでも助けるのが粋なんじゃないかい?」

 N氏はしばし考え、口を開く。しかし私は先んじて言う。

「答えは聞いてない」


★★★★


「さっきは悪かったな……殴ったりして」

 マゾ太がN氏に頭をさげた。

「いや、もういいです」

 キューバ危機にも匹敵する険悪なムードはある程度の雪溶けを迎え、その頃には四時になっていた。もう四十分程度しかない。

「じゃあ、『呪い』を解いてくれるのお」

 快く頷いた。私はマゾ太さんをベランダに出した。

「いいと言うまで絶対に入ってこないで下さいね」

 にこやかに笑って窓を閉めた。明かりを消す。部屋は指先も見えない暗闇の世界へ変貌する。

 N氏と私、それに丸木戸さんは部屋の中央で三角形になるよう、それぞれ座布団を敷いて座っていた。さらに座布団と座布団の間には紐を通し、踏めば道筋がわかるようにしてある。

「じゃあ始めるぞ」

 暗がりに気配が動き、一度止まり、やがてもう一つの気配がやってきて背中を叩かれる。次は私の番である。紐を踏んでいきN氏――であるはずだ――にタッチする。彼もまた誰かにタッチするまで進む。

 有名な「四隅の怪」「お部屋様」「ローシュタインの回廊」などと呼ばれる降霊術を知っているだろうか。

 四人で四角い部屋の四隅に立ち、反時計回りにそれぞれA、B、C、Dとする。Aの隅からスタートした一人目が一辺をなぞるようにBの隅に達する。そこで二人目に交代し、一人目はBの隅で待つ。同様に二人目はCの隅に行き交代――を繰り返すと何故かひたすらグルグル続く。

 四人目がDからAの隅に来た時、そこには誰もいないはずなのに続く。

 という怪談である。実際に行う場合には、一人目か四人目がサプライズ好きなお茶目人間だと続いてしまうので注意が必要である。

 今、これを三人で行っている。「呪い」を信じたまま回避するためには誰かに渡すことが有効なことは、マゾ太さんや「とある科学」の手法により証明されている。

 では誰に渡すか。

 N氏に? 私も彼もクトゥルフ神や「呪い」の存在を信じていないので渡すことはできない。マゾ太さんは嫌がったので渡さない。

 そこで「四人目」の登場である。意識として対象者から他人へ「呪い」が渡ったと感じるのは、他人が多くの〈四〉の要素を持った場合である。

 ならば一つ減らした三隅の怪を行い、四人目の霊を呼び、それに「呪い」と「死」を持っていってもらおうというわけである。〈四〉番目に現れるのだからそうなるだろう。

 いない席は素通りする。そうして繰り返し全く出ないまま三十分が経った頃、それはルーティンワークと化し、無駄口を叩けるようになっていた。

「今、四時半くらいですかね」

 丸木戸さんに尋ねる。暗闇から声が返ってくる。

「多分ね」

「あの……N氏? さっきマゾ太さんに掴みかかった時にさ」

 んー、と軽い返事がある。

「小銭がいくらか落ちたんだよ。マゾ太さんのポケットから。ちょっと渡すの忘れてたけど……そのお金さ」

 私の番だったが、途中で一旦動くのをやめた。

「〈四〉百〈四〉十〈四〉円だった」

 息を吸う音が聞こえた。

「考えてみたらさ、あの人のピアス両耳合わせて〈四〉つで、あのお茶の数を〈四〉つにしたのもあの人のせいだよね。ここにきて丸木戸さんより〈四〉を呼び寄せてない? 私はまた『呪い』が丸木戸さんからあの人に渡されたんじゃないかと思うんだ……まあもうすぐ〈四〉時〈四〉十〈四〉分だろうからすぐに結果が出ると思うけど」

 そこまで話すとベランダの窓が開いて、マゾ太が入ってきた。どうやら話を聞いていたらしい。そして「呪い」は気にしたら負けである。N氏が警戒して静かに電灯をつけた。

「おい、オレに渡したのか? オレ、死ぬのか。ざけんな!」

 マゾ太は部屋のごみ箱を蹴る。〈四〉つの紙屑が散った。机を殴り、こぼれ落ちた鉛筆は〈四〉本。暴れ回る。

「注意したんだけどな。絶対に入るなって。この場に入らなければ要素が増えずに助かったのにね……ようこそ、〈四〉人目」

 現れない四人目の霊の代わり。彼の顔は青ざめていた。

 彼は部屋から逃げ出して、ベランダを走り道路に出た。私たちはすぐに追った。彼は……。

 偶然トラックに撥ねられた。

 偶然反対車線を走る車にも撥ねられた。

 偶然救急車が通り、轢かれたが気づかれなかった。

 偶然ワゴン車が倒れた彼の脚を轢いて血を飛び散らせたが、もはや何の反応もなかった。

 計四回轢かれたことになる。

「四時四十四分ですね」

 私は時計を見て、丸木戸さんに言った。


★★★★


 複雑な表情の丸木戸さんにお礼を言われて別れ、かわたれ時の道をN氏と歩く。爽やかな空気を胸一杯に吸い込み、肺の中に溜まって澱みきった空気を吐き出した。

「なんで奴が入れないように、ベランダに鍵かけなかったんだよ」

 彼が苦い顔で言った。

「ちゃっかり忘れちゃって。まさかあんな結果になるとは思わなかったなあ。偶然って怖いね」

 N氏はため息を吐いた。

「俺に話した、子犬を助けるって話は」

「私、犬嫌いだからさァ……」

 話しながら、彼の膝のあたりに血が付いていることに気がついた。マゾ太が死んだ時の血であろう。血は点々と……四つあった。

 私は逡巡したあげく、言うのを控えることにした。結局のところ、気づかなければ「呪い」など存在しないのだから。

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