マスクドなんとかさん騒動
一時期、N氏が本気で参っていたことがある。ただでさえ少ない口数は減り、口を開けば眠れないと言う。表情筋は動かない。これはもはや本人が気づいていないだけで実は死んでいるのではあるまいかと疑わせるほどであった。これはそんな当時の話だ。
さて読者諸君には全く興味のないことであろうが、私は祭りがひどく怖い。人間の意思が詰まったスクランブル交差点じみたあの空間は、卑屈かつ社交性皆無の精神に塩をすりこみ、見事に萎えさせてくれる。
お祭りというのはハレの舞台であり、そこは日常から乖離した異界である。神社で行われるのも頷けるが、そんな場所で人間の姿でいるのはむしろ場違いだ。プリキュアやらライダーやらのお面をつけて別の者になるのはそういう意味で至極正しい。
イタリアはヴェネツィアで開催される謝肉祭では、古くは仮面で身分の差を隠してハーレクインロマンスめいたことを行ったというので、やはり「祭りと日常の自分を隠すこと」は関係が深い。多数の人間が集まり、しかし仮面によって匿名性が保たれる。まるで肉体を捨てた人間の意思だけが集まっているような。そこに「ヒトならざるもの」が混じったとしてもおかしくあるまい。
似たような理由でとあるネットゲームも嫌いである。いや、嫌いというよりもやはり怖いのだ。そこの奴らは「年がら年中ハレハレユカイ、楽しまなくちゃウソでしょ」状態であるので。当時のN氏はまだ、匿名の悪意という怖さを知らなかった。
さてようやく本編。
それは先日消滅なされたN氏が、ある年の冬に経験したことである。彼は季節感を大切にする男で、秋には異常に食いまくり冬になると大学にも来ず引きこもってしまう。友人たちはそれを「冬眠」と呼んでいた。
私が冬休みで実家に帰っていた頃、なんとなく買ったばかりのアイフォンを見ていると冬眠中のN氏から久々にメールが入った。最近ネトゲに嵌まってしまい、ほぼ昼夜逆転のブラジル時間で生活しているとのことだった。
N氏は積極的にゲームを楽しむというよりも、一定のコミュニティ(ゲーム中では「クラン」という名だった)内でチャットなどをしつつ、気が向けばクエストをこなすということをやっていた。すぐにクラン内の人々と仲良くなり、かなり楽しんでいるようだった。
特にやたらと攻撃力の高い女僧侶さんが天然で良いと言っていた。
「そりゃ良かった。で、何かあったの?」
N氏は用事がなければ連絡をすることは無い。メール文を読むと低い声が脳内再生される。
「変なやつがずっと付き纏ってきててよー。言動もおかしいんだ。このままでは俺の寿命がストレスでマッハなんだが……」
聞けば、N氏が一人でクラン部屋にいると、そいつ(露出度の高い女弓使い)が近寄って来たらしい。クランメンバー十人が一堂に会することは珍しく、N氏が話したことのない者さえいる。
同クランのマークがそいつに付いていたことから、初めて会う仲間かと思って適当に話を合わせようとしたが――できなかった。
好きですけどきのうあしがいたかったのに地球がわるいのはダメな鳩派じゃないですか
続く口汚い謎の地球批判と政治批判と支離滅裂な言動。噛み合わない一方的な会話。N氏はいくらか返事をしたが、思わず逃げるように落ちた。
しかしそれ以来、女クソ野郎弓使いはN氏が入ると同時に入ってきて付き纏うようになってしまった。
「クランの人はなんて?」
「それがよ……」
N氏はリーダー格の男忍者と、実生活でその奥さんだという男騎士に聞いたそうだ。
「……そいつは昔の仲間で、ずっと姿を見せなかったから忍者さんは心配してたらしいんだ。元々はオフでの友達だったとかで、生存確認できたのはいいが、おかしくなってるとは……って言ってたな」
ここまでくると普段の私なら俄然ワクワクが止まらず、キャラを新たに作って参戦し問題の女死ねばいいのに弓使いを見に行くところであるが、今回ばかりはやめておいた。
ネトゲ空間はキャラという仮面をつけた匿名の世界。何があるかわからない異界なのだ。
「どうすりゃいいと思う? 俺は始めたばかりでよくわからんが、お前なんでも知ってるだろ」
なんでもは知らないが、ある程度は知っている。クランは他人から招待されて入るシステムだ。さらに一旦入れば、他人が強制的にクランを辞めさせることはできない。
「となると……以下から好きな方を選んで。一、そいつ以外の全員でそのクランから抜けて、新しいクランを作り移住する。二、君のキャラを新たに作り直す。念を入れて新規アカウントで」
結局、クランの人々とも話し合い、N氏は上の二つを同時に行うことにした。
★★★★
私は実家から戻り、すぐさまN氏の部屋を訪れた。ドアが開くなり挨拶。
「明けましておめでとう~!」
何の返事もせず、N氏は奥へのそのそと戻っていった。まるで人生に疲れてしまった隠居ジジイのようである。
N氏はPCの電源を落とし、真っ暗なディスプレイの方をちらりとも見ない。長いため息を吐いて顔を押さえると、こぼした。
「女弓使い、まだいるんだよ……」
N氏はアカウントもキャラも変えたが一発で見破られた。更に女腐れ外道弓使いは新しいクランのメンバーになっていた。
奴を誰が招待したのかと、疑心暗鬼になったクランは今や崩壊の危機に陥っているらしい。
「もう、どうしたらいいのか……」
「もうネトゲやめたら? ね、ロクなモンじゃないって。プレイヤー情報も非公開の集団でしょ。そんなことで仲が悪くなるなら、その程度の人達なんだよ」
数秒落ち込んでからN氏が私を睨んだ。血走った目に、少し心が痛んだ。
「お前、本当はもう一つくらい案を隠してるんじゃないのか」
私が反射的に目を逸らすと、N氏は詰め寄ってきた。仕方なく考えを話す。
「三、クランのメンバーが会うたびそいつに辛辣な罵詈雑言を浴びせかけてやめるまで追い込む。マジな人じゃなくて、意味不明な言動を模した愉快犯かもしれないから、そうだと決め付けて徹底的に容赦なく滅茶苦茶にやること」
N氏は私の胸倉を放して、考え続けていた。十数分後、麦茶を飲んで私に尋ねた。
「どちかというと、大反対だ。それで逆上してきたら、どうなる」
私は笑って言った。
「もっと面白くなる」
★★★★
事態は最悪の方向へとシフトし続ける。男忍者と男騎士以外のクランメンバーは、あらん限りの罵声でもって女ゴミ屋敷弓使いを一旦は退散させた。
しかし平和な日々は一週間程度だった。またもや現れてくっついてくるそいつはもはやN氏のトレードマークとしてネトゲ世界で有名になりはじめていた。
私はN氏に会うと、様子を見るためPCを起動した。ゲームへ接続すると、すでに待ち構えるように女弓使いがいた。無言だった。
「所詮ゲームだからさァ、そんなに本気になっちゃダメだって」
鬱々としたN氏は地獄で働かされる罪人のような顔で、違うんだよ、と呟いた。
「少し前、男忍者さんと男騎士さんが、オフでそいつの居場所を調べて行ってきたらしいんだ。問題です……そいつ、どうしてたと思う」
お前、クイズ出すようなキャラじゃなかったろ……という台詞をグッと飲み込んだ。
「三、二、一、ブッブー。正解は『自殺していた』です」
プレイヤーの死んだキャラが何故N氏に付き纏うのか。オフの関係なら男忍者たちであるはずだし、恨みから言えばN氏含め追い込んだメンバー全員のはずだった。
「これが俺の体質のせいなのは確定的に明らか」
N氏の霊媒体質はネット世界でも遺憾無く発揮されていたことになる。私は彼の様子を見てひとしきり爆笑した後、ディスプレイのキャラクター達を指差した。
「思い上がっちゃダメだよN氏、霊が操作してるわけじゃない。このプレイヤーのアカウントでログインした奴が女弓使いを操作してるんだ。つまり犯人は人間。情報、見てみ」
N氏は傍にいた女弓使いのデータを閲覧した。以前は非公開設定だったのが、今はアカウント名がわかるようになっていた。
続いてクラン部屋に行く。
「あ、N氏。ほらほら、珍しくクランメンバーが全員集まってるよ」
訝しがりながら、N氏はメンバーの情報を見ていった。すぐに彼は身体を強張らせて呻いた。
「何だこれ……」
クランメンバーは女弓使いも含め、全て同じアカウントだった。つまり同一人物がN氏以外の全員を操作していたのだ。自分で自分と会話する。自分で自分と喧嘩する。
「アイフォンとノートPCと大学のPCを使ったら、ギリギリ三人同時まで会話できたね」
N氏が振り向いた。その表情は驚愕と恐怖と安堵と素敵なものを沢山入れてケミカルXを混ぜて爆発させたようだった――つまり大混乱状態、と。
「最初から……?」
頷く。
「全部……?」
頷く。
「あのちょっと天然で可愛い、力技が得意な女僧侶は?」
スマン、ありゃ私だ。N氏の好きそうなキャラを演出した。
「自殺とかは……?」
そもそも私一人でやってるし。
「なんで……?」
暇だったから。これでN氏をビックリさせられるって思ったんだ。そう、アイフォーンならね。
「確かに度肝を抜かれたが……」
N氏はいいかげん私を殴るかと思ったが、そうはしなかった。複雑な苦悩から悟りの境地に達して後光が射し、悲しみさえ滲ませたアルカイックスマイルを繰り出した。ここで人間不信に陥るような並の人間ではないのがN氏がN氏たる所以である。
「あれ、なんだか涙が出てきたぜ……」
「おや、今度こそ霊の仕業かい」
N氏は全力で私の額をぺちんと叩いて、おめえの仕業だよ! と叫んだ。
★★★★
「いやさ、怖くしようと思えば、なんだって怖くなるからさァ。実験よ実験。ネトゲだってこんなことも有り得るっていう」
私は飯をおごって弁明をしたが彼は聞く耳をもたなかった。結局、目の前でアカウントを消去し二度とネトゲをしないと誓うまで許して貰えなかった。
その後どうやら彼にはあの出来事が明確なトラウマとなったようで、アカウントは初対面でキッチリ確認するようになったという。