SD的恐怖騒動
今、すれ違った男がついてくる。
怖い。
ダンボール箱が微かに揺れた。
怖いって。
こんな時間にゴルフクラブでフルスイングしている子供がいる。
怖いってば。お前はえなりかずきか。
夜の裏名呑を行くとなればそういった危機を想定していたが別段変わったこともなく。私は至って平素のように、狂ったカルト教祖が火をつけたとかいう廃アパートの前を通り、「人殺し」と壁に落書きされた廃病院の横を抜けていく。
N氏のアパートの帰りであった。
その晩、私は「学祭占い師出店ボロ儲け作戦」と称した計画を提案し、天使姫という友人を使うことでいかに元手ゼロの濡れ手に粟で金を儲けられるか微に入り細に入りN氏に力説、アイデア料と称して酒を奢らせるつもりであったが慎重派の彼には当然通じず結局自分で買った酒をしこたま飲みながら馬鹿話を続け、深夜になる頃にはもはや私は千鳥足のよいよいであった。
「大丈夫か? 泊まっていくか?」
彼に心配されたが、翌日に哲学の試験を控えていた私は睡眠時間の確保のため固辞した。ここに泊まったところで一睡もできないのである。N氏のイビキときたら全く殺人的音量であり、窓はビリビリと震え戸棚の皿は割れ頭蓋骨が悲鳴をあげ火山は噴火し隕石が落下して恐竜が絶滅するわ両親が熟年離婚するわプリキュアはマラソン大会に取って代わって放送されないわ――とにかく耳栓をもってしても越えて我が脳みそへ進撃してくるため眠ることなどできないのだ。
然るに私は最近発見した一部裏名呑を通る近道ルートで帰ることにした。
さすがお化け屋敷でもないのに雰囲気満点である。せっかくの夜にせっかくの場所、音楽やラジオを聴くのは無粋。夜を感じたい夜には電灯さえ邪魔者。
夏の夜は密度が薄く、軽く淀んで世界は滲む。廃屋長屋の輪郭もおぼつかない。ざわめく虫の高音と牛蛙の低音をBGMに、私はひとり裏路地をホテホテ進む。夏野菜の並ぶ小さな畑を道の脇に発見する――趣味の園芸なのだろう。
ぬるい風が吹いた。
酔いも極まり突如睡魔が襲ってきた。眠気の波に乗った睡魔が……すいま……スイマが……私を包んでバシャバシャと……泳いで……。
「ス……スイマーが襲ってくるよおおおおおおお!!!!」
アロハシャツ姿の男が深夜に絶叫していた。というか私だった。眠ってしまい、心がどこかへお出かけしてしまっていたらしい。
私は畑から離れた場所に置いてあったボロっちい椅子に座っていた。家の鍵がポケットから落っこちているのを座ったまま拾う。身体がだるい。尻に根が生えそうなほど椅子は魅力的に感じられたが、なんとか誘惑を振り切り歩き出す。
見上げれば夜空は周囲の建物に四角く切り取られ、満月が窮屈そうに浮かんでいる。
雲が無い。明日の花火大会は大丈夫そうである。
複雑に入り組んだ裏名呑に月光は殆ど届かない。サンダルのつま先さえ見えない暗闇で、すね毛にソヨと触れるそれが何かはわからない。虫か鼠か知らないが、そんな些細なことをいちいち気にしていては田舎で生きてはゆけぬもの。
そうしてゴキゲン鼻歌状態で我が安アパートに帰りついた。鍵を外して立て付けの悪いドアを開ける。中に入ったらドアを閉じる。流れるようないつもの動作。
鍵をかけた瞬間、ドアノブがガチャガチャ回された。
★★★★
あくる夕暮れ、私は浴衣を着て駅前のエビス像前で待ち合わせしていた。道ゆく人々のざわめきによると、どうやら今晩の花火大会は無事開催されるが、雨雲が近づいていることから急遽開始時間が一時間早まったらしい。
毎年夏になると開かれている月ノ夜市の日程が、今年は花火大会と重なっている。寂れたシャッター商店街もこの時ばかりは人でごった返し、早くもソースやホルモン焼きや焼き鳥の香ばしい煙が漂っていた。
いったいこの町の何処からこれほどの人が湧いたのか不思議である。
そわそわする。
そもそも私はあまり祭りや人ごみは好きな方ではないのだ。人間の群れの暑苦しさに汗が首筋を流れていく。帯に差した団扇を取って扇いでいると、同じく浴衣姿の蟲飼貴子がやってきた。
「お待たせ」
「お待たされ……おお」
蟲っちょは巨娘なので存在感はあるが、地味な色合いである。白地に藤の入った浴衣に古代紫の帯。まとめた髪は横から前へ垂らす。
鎖骨。
色の白い項から汗ばんだ肌がほんの少し見える。男にはない、エストロゲンの生み出す艶やかな曲線。丸みを帯びた肢体。衣ごしの胸がむっちりと高くなっているあの辺りがおっぱいか。おっぱいだ。おっぱいである。
などと田山花袋大先生ばりに視姦していると、彼女は頭をポリポリと掻いて控えめな笑い声をあげた。
「浴衣はこれしか持ってないんだ。どうかな」
「綺麗だけど」
ピカチュウ。
「……お面の存在感が凄い」
浴衣はすらりとした長身に似合って色っぽいのだが、その上に乗っかっているのはピカチュウの面である。ポフレでも貰ったのか嬉しそうに笑っている顔。その下にはセクシャルな肢体。
セクシーなピカチュウなどという狂った存在は身体と精神の不一致を思わせて不気味である。
「ピッカー!(それはだってしょうがないだろ)」
「いつものサングラスとマスクよりはいいよ。行こう」
私は蟲飼さん――蟲っちょの手を握って歩き出す。
名呑町は東に進むと海沿いに造船所があり、外国人が多数働いている。祭りの際は地元のおばちゃんたちが彼らに故郷の料理を教えてもらって出店を出す。勿論本人たちが自ら作って売る場合も多い。結果、毎年の月ノ夜市は出店や屋台が万国博覧会の様相を呈して非常に面白い。
ふわふわしたカキ氷の泡泡冰、肉が回転しているドネルケバブ、ニラの入ったおやきの焼餅、甘辛タレの薬念チキン、無骨なヤカンから注がれる香りが段違いに素晴らしいチャイ、トルコではポピュラーらしい焼きサバサンド、炒り卵とナンプラーの入った焼きそばのパッタイ、ミネストローネっぽい煮汁をかけたクスクス、それから名呑町名産のタコめしやタコから揚げ串と緑茶サイダーなど。
飴細工の屋台には微妙な画力のピカチュウとミッキーとドラえもんとキュアドリームが著作権など知ったことかと仲良く描かれている。愛すべき混沌――この節操のなさはどうだ。
「お腹空いてる?」
「ピカピ〜カ〜(ペコペコだよ)」
ソースたっぷりのはしまきと半熟目玉焼きの入ったリング焼き、それにフォー・ガーを買って商店街の広場に向かう。
広場では大学の吹奏楽サークルがフライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンをやたらとスウィングしたアレンジで演奏していた。知り合いの女の子がいたので挨拶がわりに軽く手を振る。
蟲っちょとベンチに座り、はしまきを一口食べる。全然具のないモチモチした生地と甘辛いソース。
「それどう?」
彼女が尋ねる。
「めっちゃうまいよ。どぶねずみよりうまい」
「それは相当だね」
私の片手には既にガリガリくんをブチ込んだチューハイがあり、一口あおると爽快。
夕日の溜まった広場はオレンジ・マーマレード色に染まっていて、時間がねっとりと穏やかに流れる。
しばしほんのり。
「……ってわけで一緒にネカフェ行ったんだけど、丸木戸さんは若く見えるし可愛いのに……」
「はー、暑い暑い。意外と浴衣って暑いな」
隣のピカチュウ女は団扇で扇いでいた。汗ばんだ首筋――白い肌。思わず手が伸びた。
「あ、ダメダメ。今ねっちょりしてるから」
「ねっちょり……あはは」
私の手もねっちょりする。
「そんなに暑いんなら下着脱いだらいいのに」
「いや、ブラは着けてないけど。暑いし」
……。
「着けなよ。痴漢が触りにくる」
「誰も私なんか触らないよ。まずピカチュウのお面に引くだろうけど、それを外すともっとドン引きするだろ」
蟲っちょは、その面の下に見たものを卒倒させかねないほどの顔を持っているのだ。なんというか魔顔――直死の魔顔? いや、ギャグとか比喩とかではなく。
「私ってば、まあ控えめに言っても夏場に一ヶ月くらい替えてないキッチンの三角コーナーみたいな顔だからさ」
「どんな顔だよ」
今では自虐的にも笑えるが、それなりに色々あったと聞いている。
「……いつも疑問なんだけど君はどうして私が好きなの? 顔じゃないのは確かとして、性格が良いかと言うと微妙だし。私は面倒臭い奴だろ」
「急になんですか」
「ちょっと考えちゃったんだ。ホラ、『女心と中村光の漫画の表紙』ってよく言うだろ?」
ピカチュウのつぶらな瞳が私を見つめる。すぐそばを歩いていた女の子が立ち止まり、ピカチュウの面をつけた彼女を凝視する。やがて親に手を引かれ、ジッと私たちを見たまま連れられていった。
蟲っちょは溜息を吐くと、どこか遠くを見るような仕草をした。
「世の中には、子どもの頃にディズニーランドでプリンセスのドレス着て可愛いポーズなんてとっちゃって写真を撮ってもらうような、素直に自分のことをカワイイって思えてプリンセスになっていける娘がいるんだ。一方には飾り立てた外面と悍ましい内面の矛盾に気づいちゃってうまくプリンセスになれない――ならない娘もいる。二通りいるんだよね」
そう言って彼女の目線を追うと、通りを歩く女たちがいる。十代後半というところか。朗らかな笑顔。美しい浴衣は着崩して肩を出し、まるで遊女のようである。ここにN氏が居ればなかなかの談議ができたかもしれなかった。
「ケッ」
隣のピカチュウは毒づきながらゆらりと立ち上がると、おもむろに近くに飾られていた笹の葉の短冊をチェックして読み上げ始めた。
「ハピネスチャージプリキュアになりたいです」「お父さんにお仕事が見つかりますように」「妖怪ウォッチが欲しいです」「経団連がぶっ潰れますように」「あの人が奥さんと別れてくれますように」「新世界の神になります」「うちのポチを殺した奴が死にますように」「お母さんのお腹の中に帰りたいです」「大量破壊兵器が見つかりますように」「世界が平和になりますように」「でんしゃがもっとほしいです」
人の願いは明暗様々であったが、彼女はその中から「今日はうちらのキラキラ輝く一生のおもいでだよ!!!!」と書かれている短冊を取り出した。
「ケッ! 輝きたいなら黄金で髪を洗えばいいのに! ピカビカビー!」
などとピカチュウはわけのわからぬことを言って怒っている。
「ね? どう客観的に見ても面倒臭いのよ私は」
突然我に返ったらしい。情緒不安定かよ。
「私は私が好き。少しは。でも君がそうだとは思えない。だからどこが好きか言ってみて。さん、はいっ!」
「それは」
初めて会った時のことを思い出そうとしても思い出せない。厳密に言えば諸般の事情により私には「蟲飼貴子に初めて会った時の記憶」がないのである。このことを言えば泣かれそうだから黙っているが。
「ま、おいおい話そうか。ほら、この路地の先は裏名呑に通じてるんだよ。今年から『霧祭り』があるんだってさ」
話していると彼女が私の肩をポンと叩いた。振り向くと、笑ったピカチュウの面。その奥の目は笑っていない。
「はぐらかされないよ。あとでまた聞くから」
★★★★
歩いていると、我々以外の誰も裏名呑などに向かっていないことに気づき不安になってくる。
屋根を共有している二つの長屋に挟まれ、まるでトンネルのようになっている軒先。我々は頭を下げて進み、途中で屋根が途切れた箇所の線路を越えた。
続いてゴキブリとフナムシの這い回るなんだかよくわからない湿ってカビの生えた絨毯を踏みながら、長い長い路地を抜ける。祭りの喧騒が遠ざかっていく。
「あ、涼しい」
人々が無言で店に並ぶ異様な雰囲気と、ドライアイスだろうか――妙な霧がたちこめている。店が続いているが、二軒先はもう見えない。足元にあった何かを蹴飛ばしてしまい、拾って立て直すとそれは立て札であった。
「霧祭りは火とそれに類するものは持込厳禁となっております。また大きな物音も立てぬよう。ご協力お願いします。裏名呑霧祭り委員長N」
火を持ち込んではいけない祭りらしい。そうでなくとも、この濃霧ではマッチやタバコ、花火は使えないだろうが。
「何このNって。N氏?」
彼女が目ざとく質問する。
「いやN氏が何かするなんて話は聞いてないから、別の人じゃないかな」
「じゃあ意味もなくイニシャル? うわ怖い怖い」
その怖さはよくわからないな。
火がダメでも刃物は良いらしく、ハサミしか売っていないハサミ屋が店先でハサミを研ぎながらハサミを振り回し、そのへんのコンビニで売っている一般的なハサミを自家製品のハサミでぶった切ってその切れ味の鋭さを実演している。
「凄い切れ味だけどわざわざ祭りに来てハサミ買って帰る人なんているのかねえ……」
「え、何」
彼女がハサミを持っていた。
「だって丁度買い換えようかと思ってたし……」
「ま、私を刺し殺すために買ったとかじゃなけりゃ構わないけどさ」
フフ、と笑い声をあげて、ハサミを持ったピカチュウがジッと私を見つめた。
……やめろよ?
霧から生まれるように次々と現れる出店を見ていくと流石は裏名呑、ラインナップがやりたい放題である。
飲めるラー油とか無菌ウジ虫入りダチョウ肉の中華カルパッチョとかいちごタンメンとか麻薬入りブラックカレーとかドーピングコンソメスープとか。
鼻くそ味のビーンズとか耳くそ味のビーンズとか尻くそ味のビーンズとか。
他にも、知らない言葉で書かれた店に様々な形状の肉が並んでいた。
壺にギュウギュウに押し固められた赤い何か。表面から粘つく青い汗を分泌して濡れている肉。真っ黒く細長い腸のような何か。
これらは生にしか見えないが全て調理後らしく、客は――というか客もおかしいのか――買ってすぐさま食べている。
丸坊主にサングラスの店主は「貧乏プライス! 貧乏プライス!」と嬉しそうに連呼している。私は蟲っちょの制止を振り切り一つ買うことにした。
日本語が怪しい店主は紙コップに何の肉をどうしたものかわからないものを詰め、汚らしい壺から柄杓で掬った赤黒いタレをかけてくれた。タレはサービスらしい。
「このタレってなんですか」
「オッパイのペラペラソース!」
ニコッ。
ギャグで言っているのか尋ねる勇気が私にはなかった。
礼を言って出ると、再び蟲っちょと歩き出す。死体から臓物と血を抜き出して無造作に放り込んだとしか思えぬ紙コップ内へ、箸を突っ込んだ。
「……あ、食べる?」
一応彼女に尋ねる。
「いらない。二週間ぐらい何も食べてなくて餓死しそうな時に誘って」
箸でモチモチしたものを引き上げる。赤く滴りながら出てきたのは緑色のポコポコ泡立っている肉であった。それを見た瞬間、私はえも言われぬ懐かしさに襲われた。以前に食べた、ショゴスの肉である。絶滅させてしまったかと危惧していたがまだ生き残っていたか。この生物はテケリ・リと鳴いて何にでも変身することができる怪生物である。
「味もみておこう」
歯応えがぶんにゅうぶんにゅうくそぶんにゅうとして、全く噛みきれない。しかしその味は無類である。
「君って怖いもの知らずだよね」
ピカチュウの目の奥に彼女本来の瞳が覗く。感心した様子でまじまじと私を見つめている。
「いやそれほどでも」
「なんか早死にしそう……気をつけろよ」
残念ながら私は生きてこれを書いているのでとりあえず死なない。かたやN氏の方は先日、濡れていないスポンジが使われた電気椅子により死んでしまったが。
「じゃあ蟲っちょの怖いものって何さ」
「……S.Dかな」
ああ、ガンダムの。
「いや、だいぶ前にプレイしたテイルズオブどれか。私はテイルズをそれしかやったことないし殆どのところは覚えてないけどS.Dだけはしっかり覚えてるんだ。ある場所――海の底に剣が刺さってるわけよ。ものすごく意味ありげに。でもその剣を調べても抜けなかったのよ。抜けない。それだけ。信じられる? 異質で明らかに風景から浮いてるのに意味は無いの。怖かった。その剣がS.Dっていうんだ」
「それってきちんとした手順を踏んだら抜けるんじゃないの」
ピカチュウは腕を組んだ。どうもムッとしたらしい。
「知らない。そこでやめちゃったもん。それ以来ね、私はそういうものをSD的恐怖って呼んでるんだ」
怖いと思えばなんだって怖いとN氏はよく言うけれども、今回は「SD的恐怖」である。それは彼女の個人的な恐怖。
人それぞれ怖いものがある。例えば私は手首を見るのが怖い。自殺する際にカッターで切ると血がよく出て死にやすくなる内側の部分である。青い血管が見えるだけでもうダメである。他人の手首でも十秒以上見ていられない。触るのも落ち着かないし、こうして手首について考えているだけで手から力が抜けていくほどである。
読者諸氏にもあるであろう、そういった他人には理解しえない恐怖が。つぶつぶしたものが怖いとか算盤をテキトーに置いた時に珠のバラけている状態が怖いとか、ドアが閉じているでもなく開いているでもない状態が怖いとか。
それと同じように、どうも彼女はSD的恐怖を想像するだけで鼓動が早くなり深呼吸しないと落ち着かないらしいのだ。
SD――周囲から浮いて意味がありそうでないもの。なんの意図があるのかわからないもの。気づかない人は全く気づかない類のもの。
「ポケモンにもよくあるじゃない? こんなところ誰が見るんだよって場所に変な書き込みとか、急に始まってよくわからないまま終わっちゃうイベントとかさ。あれどういう意味? みたいな」
なるほど。
「別にゲームじゃなくても、実生活でもそうよ。探偵ナイトスクープで電柱に紐が結びつけられてる謎があったけど、ああいうもの」
無論この世の全てが理解可能な事象だけで構成されているなどと傲慢なことは考えていないが、それでも普段生活している場所に混ざる不可解なものは怖いのではないか。しかもそれは説明されないのだ。
合理性と事実の矛盾。
まさにこの目の前にいるアンバランスなハサミ持ちピカチュウなどが祭りの人混みに紛れていれば、それは他人から見れば不可解さの塊――SD的恐怖となろうが、この人は自分がそういった存在になっていることに思い至らないのだろうか。
と、普通の場所なら言えるかもしれない。しかしよくよくこの裏名呑を見渡せば、鞭を持ったボンデージにマスク姿や全裸に派手なボディペイントやコスプレにより素顔など晒していない人間ばかりであり、むしろ普通に浴衣を着ている私の方が浮いている。面やサングラスの奥からジロジロ見られている。
――祭りなのに何故そんな姿をしているんだ?
――祭りなのに何故顔を出しているんだ? おかしい。
視線はそう問いかけている。
理由などないのに。
ここの住人から見れば私こそが場に馴染まない不可解なSD的恐怖なのかもしれなかった。
「……君が私と付き合ってるってことも不可解だし。それとも大した理由はないの? ああ、ダメダメSD的恐怖になりかけてる」
彼女がハサミをしゃくしゃく鳴らす。
「私のどこが好きか。早く言って」
……ヤンデレかよ。
「ごめん。重かった?」
「そういうわけでは……」
ピカチュウがため息を吐いた。
「あのね、君は後輩の女の子達から陰で『バケモンマスター』って言われてるんだよ。私なんかと付き合ってるから」
「それは多分N氏のことだよ。私がN氏と一緒にいるからだ。あの顔なんてバケモンじみてるし」
私の乾いた笑いはフワフワ漂い、彼女の傍でドスンと地面に落ちた。そこだけ重力が酷くなったように。
「そこのお二人さん、失礼ながら何かお困りの御様子とお見受けしましたが」
声の方を見れば、安っぽいキャンプ用テントの奥から声がする。目を凝らすと暗がりに人がいるのがわかった。
「どうでしょう、ここは一つせいざうらないなどは。人の心というのはまこと欲や悩みの解決法など決まっておりまするが、さては妙なもので自分に嘘をついて別のことを行うでしょう? であれば、私が真実の心を教えてさしあげますと皆様喜んで決心し、たちどころに悩みは雲散霧消、家内円満、天下泰平、世はなべてこともなしというわけでございます。ささ、もそっとこちらへどうぞどうぞどうかどうかどうぞ」
ちょっと何を言っているかわからなかったし、テント入口には達筆すぎてやはり読みづらい字で「せいざうらない、一回五百円」と書いてある。我々は小声で、どうする、いってみようか、あやしくないか、でも料金体系は明確だし死ぬことはないんじゃないか、などと十秒ほどやり取りしてテントへ入った。
星座占い。それは本人のアイデンティティを知る学問。蟲飼貴子は牡羊座。N氏は水瓶座。私は魚座である。めざましテレビなどで毎朝の星座ランキングを注意深く見ていればわかるかもしれないが、水瓶座が上位に来ると魚座は下位に来る。逆に魚座が上位に来ると水瓶座は下位に来る。どうも私とN氏はそういう星の下にいるらしく、あまり占いを信じない私でもこの点は確かにと思わされる。
テント内にはローブを着た女がいた。フードを被って俯いているので顔は隠れて見えない。彼女は「ようこそ初めまして。あたしゃ名呑町の母さ」と胡散臭いしわがれ声を出した。
「その絨毯の上にお座り」
私は胡座をかき、蟲っちょは正座した。
「コラッ! 正座しろ! 正座占いじゃぞ!」
「あの、星座じゃないんですか」
「この業界じゃ当然じゃろうが!」
なぜ私は怒られているの……どこの業界なの……私が書いたさっきの星座のくだり全部いらないじゃないの……。
居住まいを正すと、隣のピカチュウがクスクス笑う。
「では、お兄さんの方から。お主は怖いものが嫌いなのに、怖いものが好きなところがあるじゃろう?」
頷く。しかしこんなものは誰だって頷くものだ。相反する二つのことを同時に述べれば人は頷くしかない。
「それで周りに迷惑をかけておる」
当たっている。けれどこれだって誰に迷惑をかけているのか言及されていない。大抵の人は誰かに迷惑をかけて生きているものである。誰にも迷惑をかけずに自分が生きていると思っているような――後ろめたさがない奴――はそもそも占いになんか来ない。
「あーチャカポコチャカポコチャ、その最たる被害者は友人じゃ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
彼女が遮った。呼吸が荒くなり肩で息をしている。
「今のチャカポコは何ですか」
「…………」
ピカチュウが身体を強張らせた。SDセンサーにビンビンのようである。私にはさっぱりだが。
「その友人はこう思っておるな。『あーあいつ早く死なねえかな。リア充のくせに非リア充のフリしやがって』」
N氏ならそう思っていても不思議はないというかまず間違いなくそう思っているだろう。
「お主には姉がいる。他の誰よりも姉を怖がっている。最近わかったが、親の頼みや友達の頼みには文句を言えるが、姉の頼み――というか命令――には何の疑問もなく体が勝手に従ってしまうことに気づき愕然とした」
うぐ。
「プリキュアでは初代のなぎさが好きじゃが、ハートキャッチのえりか、ハピネスチャージのゆうゆうも好きだ。正直なぎさが二十歳くらいに成長したら告白してお付き合いしたいと思ったことがあるし、デートでTAKO CAFEに一緒に行ってチョコパフェとかたこ焼きを食べながらなぎさの口にソースやチョコが付いてるのを拭き取ってあげるという妄想をしたことがある」
「や、やめろーッ! 忘れさせてくれーッ!」
「なぎさにどうにかしてコブラツイストをかけてもらえないでしょうかお願いしますと神に祈ったこともあるが、深く考えるとなぎさは弟への理不尽な暴力としてコブラツイストをしているわけで、実の姉がいる自分がそれを自らかけてほしいと望むのは何か屈折したシスコンめいたものというか深い業が自分の中に発見されてしまい、最近は素直になぎさが好きとは言えなくなっている」
「やめてくれーッ! こ、こんな辱めを受けたことがかつてあろうか……!」
ドキドキ。などとふざけている場合ではない。隣のピカチュウを見ることができない。十万ボルトかボルテッカーでも放とうとしていないか。占いババア、もういい戻れ!
「ふうん、成る程ね。私ってばライバル多いね。忘れたねってとぼけてるそんな俺の、ライバルたちが……」
いかん、ただでさえSD状態なのに更に精神が不安定になっている。
ええい、私が何か悪いことをしたというのか。
「す、凄いですね! どうやって占ってるんですか、正座の姿勢とかで……」
話を変えようとしたが。
「これは占いではありません」
占い師はきっぱりと答えた。
「ただ聞いただけです」
ふと気づいたが、占い師の後ろにはいつの間にか人影が二人いた。彼女の背後に隠れて助言していたらしい。
一人は見慣れた土気色の顔をした男――N氏である。何故そんなところにいるのかと声をかけようとしたが、彼の「隣の男」を見てしまい私の声は出なかった。それはよく知っている男だった。
その男は苦笑いしながらも驚いていた――つまり悲鳴をあげたいのを必死に堪えていた。複雑な表情だったがその気持ちは手に取るようにわかる。素直に気持ちを出すのが苦手なのだ。
なんせ、それは思春期以降鏡を見るたびに幻滅させてきた「私」そのものなのだから。
「顔や声まで私と同じ、服だけ違う。でもその服私も持っている。昨日着ていたアロハシャツ……」
「気づきましたか先生――いえ、先生の偽物」
占い師がフードを取ると、天使姫が顔を現した。そこへ「私」が身を乗り出してきてドヤ顔で解説を入れる。私はいつもこういう顔をしていたのかと思うと絶望に近い恥ずかしさが去来した。
「その様子だと自分が偽物だって疑いもしなかったようだね。私は昨晩裏名呑を通った。そこで酔い潰れて眠くなり意識が途切れたんだ。そこの夏野菜の畑にいた一匹のショゴスが鍵を奪い私を模倣して変身した。全記憶をもコピーして。完璧にコピーしたから『コピーした』という記憶さえない。それが君だ。思い当たる節はあるんじゃないかな」
「じゃあ昨日、家に帰った時にドアノブが回されたのは、アレはもしや」
「あれは私さ。まさか自分の家から閉め出されるとは思わなかったけどね。私はそのままN氏の家にまた帰った。哲学の試験は君に受けてもらったけどね」
「私」はクスクス笑っているが、時折こちらを見た時の瞳に怯えがある。やはりもう一人の自分というのは怖いのだろう。
と思ったが、彼が恐れているのは私というよりも隣のピカチュウである。彼女はアロハシャツの「私」にハサミを向けていた。
「ちょ、蟲っちょやめてよ。刃物を人に向けたらダメだって……」
「私」は両手をひらひらさせて半笑いで止めるが、彼女に引っ込める気配はない。
「君が偽物だとは思うんだけど、間違えたら怖いじゃない。見分ける方法ってないの?」
天使姫がニコニコ笑ったまま黙ってテントを片付け始めた。群青色の空が迫ってきている。じきに夜だ。
「あるぞ、見分け方」
N氏が会話に入ってきた。
「あるよな?」
ショゴスについては――少なくともここ名呑町にいる種類については――我々は少し詳しい。何せ喰ったほどである。だからその弱点だって私にはわかる。
「火でわかる!」「火でわかる!」
「え?」「え?」
私と「私」は全く同じ返事、同じ動作をした。ザ・たっちかよ、と多分向こうも今思っただろう。
「でも霧祭りで火なんてないからわかんないよね」
ピカチュウが肩を竦める。私と「私」はお互いに睨み合う。鏡の中の自分が勝手に動いているような、録画映像の中の自分が身に覚えのないことをしているような、気持ち悪さがある。
「人の皮をかぶった悪魔め!」「人の皮をかぶった悪魔め!」
そしていちいち相手に言う言葉が重なって気持ち悪い。コピー忍者のカカシかよ、と多分向こうも今思っただろう。
「そっちが偽物だろ? 早く白状しろってんだよ」
「あ? おしりパンチ食らわすぞコラ!」
「その無駄に動く口に納豆餃子飴つっこんでやろうかコラ!」
そして自分なので口喧嘩も埒があかない。
「なんだか知らんがとてもハイレベルな闘いだ……!」
N氏が傍観者を気取って実況している。畜生、他人事だと思いやがって。
その時、町内放送が流れた。
「今から花火大会を始めるぜい! おまえら準備はいいかー!」
おー、とN氏と天使姫が拳を天に突き上げた。
花火大会? そうか!
「花火が上がった時、正体がわかるぞ!」「花火が上がった時、正体がわかるぞ!」
声がステレオで揃った。
「じゃ、その前にどっちが本物か多数決をとろうぜ」
N氏がゲーム感覚で提案する。
「こっちのアロハ野郎の方が本物だと思う人?」
もう一人の「私」と天使姫とN氏の三人のみ。天使姫がそっちということは……。
「こっちの浴衣野郎の方だと思う人?」
私を支持するのはピカチュウ一匹のみ。
いやいやいやふざけんなよお前らと思いつつ不安になってきた。考えてみれば記憶さえコピーしているのだから自分がショゴスではないという根拠はどこにもなく。あるとすれば蟲っちょの勘だけである。SD的恐怖を感じる中で育った、違和感を発見する力を信じるしかない。
花火大会のカウントダウンが始まる。まるで名呑町の人々全員が叫んでいるよう。
――10!
――9!
隣の彼女をチラリと見る。ピカチュウの面は笑っているが、手は震えていた。
私がもしショゴスだったら、彼女と話すのもこれが最後になる。お互いに顔を見合わせるも、言葉が出てこない。
「何か言いたかったことってあるかい」
「いや、ううん」
「何でも言ってよ。今日は様子がおかしかったし、もう会えなくなるかもしれないからさ」
――6!
「君は本物だから大丈夫なのよ。でもまあ、言うわ。重いって思うだろうし、キモい束縛厨だって思うだろうけど。あのね、他の女の子の話を嬉しそうにしないで。私を見て私を道連れにして、キモくても放っておかないで。私は自信が欲しいの。勇気が欲しいの。私を呼んで? 私より丸木戸さんの方が可愛い。天使姫ちゃんだって。いや、そのへんの女の子みんな私より……」
彼女は俯いた。群衆の声の合間合間に、彼女の張りつめて泣きそうな声をなんとか聞き取る。
私は声の断片を繋ぎ合わせて咀嚼した後、カチンときた。
彼女は路傍の小石を蹴飛ばしたが、それは誰にも当たらず草むらに消えた。
「……ば」
――3!
「ばかやろー! 丸木戸さんがなんだってんだよ! 蟲っちょの方が断然可愛いに決まってんだろうが! 私が蟲っちょを好きなのはその背の高さと不釣り合いに弱気なところや話が面白いところとか! それに」
――2!
「それに……それにいつだって私を信じてくれるところだよ!」
私は彼女を強引に抱き寄せると、ピカチュウの面を少し上にズラして口づけをした。
「大好き。今までありがとう。ごめん、さよなら」
――1!
照れながら顔を離すと、人魂のような小さな光が上がっていくのが見えた。名呑内海から打ち上げられたそれは、笛の音を立てて高く高く。
「さあ、正体を曝け出せ偽物」
皆が花火を見上げている中で一人だけ、アロハシャツの「私」がこちらを見ていた。目が合うと、彼はニヤリと人の悪い顔でピースした。
夜空に大輪の花が飛び散って、暗闇に沈んだ我々を照らす。
ドン!
続いて衝撃が追いつき、腹に響いた。
★★★★
結論から言えば、私が本物だった。書いている人間がここにいるのだからそういうものである。
花火の強い光と衝撃に驚いて、ショゴスたちはあっさり姿を現した。もう一人の私は変形して夜闇に消えた。呼んでも振り向きもしなかった。
驚くべきは、出店の店員の全てもショゴスだったことである。彼らはどうも花火大会が少し早まったことを知らなかったらしく、ぶよぶよした緑色の物体になって一目散に消えた。その跡には粘液の道が残っていて、花火大会の光を反射して輝いていた。
私は花火を眺めながらアロハへ味方しやがったN氏をどつき回した。天使姫もどついてやろうかと近づいたが、どうも彼女はM属性で私にどつかれたいあまりアロハに味方したらしい。
「全く、質の悪いことだよ」
「それは先生に教わったのです」
おまけに口も減らないときたもんだ。
「にしても」
神社の石段に座ったN氏が、焼鳥を大事そうにチビチビ食べながら呟く。
「そのままお前が偽物扱いで殺されて入れ替わってたらヤバかったな……」
「いや、あいつは入れ替わりなんて考えてなかった。大体わかるよ、自分だしね。つまり嫌がらせをしたかっただけだ」
私は隣のピカチュウの顔色を伺う。うむ、笑顔である。
私はあれほど蟲っちょと素直に話せたことは無かった。自分が消えるかもしれない、今生の別れとなって初めてああいうことが言えたのだ。
……まあ、あのまま消えていた方がこの死にたくなるほどの恥ずかしさは感じずに済んだのだろうが。読者諸氏も知人たちの前でラブシーンを演じてごらん、死ねるから。
「嫌がらせって、お前にシェイクスピアも真っ青な愛の告白をさせたことか」
N氏がまたそれをネタに笑うので焼鳥を奪って全部食ってやった。
最後の瞬間、あいつは間違いなく私だった。おそらく自分が偽物だと考えたうえで私に嫌がらせをしたのだ。自分が消えるからと私の普段の思考回路を暴露する自爆テロまでやって。これが私でなくてなんなのか。
おかげさまで蟲っちょとは仲良くなった。彼女はこの夜のピカチュウの面を大事にとっており、時々それを取り出して着けるようになってしまった。
SD的恐怖を世に知らしめる存在となったのだ!
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