バベルのネ禍フェ騒動(後編2)
怪しげなネカフェにやってきた私、N氏、丸木戸さん。私は後先考えずタイとツナカレーを食べたことにより引き換えにN氏に関する全記憶を失う羽目に。しかしなんとかしようと時空の裂け目に手を差し込んだり狂気の本をネカフェの主、左氏に読ませたりするもバッドエンドを迎えてしまった。
え、バッドエンド?
「あ、でも後編1って書いてあるから続くのか」
私はつまらなさに鼻をほじりつつ、片手でマウスを操り「次の話」をクリックした。恐らく読者諸君も私と同じ行動を取ったことだろう。いや隠さずとも大丈夫、鼻ぐらい誰だってほじるものなのだから。
今、私はもちろん記憶喪失老化エンドなぞ迎えてはおらず、個室のPCを頬杖ついて眺めているところである。
N氏の記憶をツナカレーと引き換えに失った私は丸木戸さん達と別れた後、狂人と会わず時空の捻れに向かうこともなく、まずはN氏の情報を知るべく個室のPCでググることにしたのだった。やはり古今東西入り混じるこのネットカフェの特性と同じく、このPCも過去と現在と未来の途方もない量の情報が同時に存在しており、気分はもうトラルファマドール星人である。あいにく私は彼らのように全てを受け入れ運命をして「そういうものだ」というわけにはいかないが。
ひとしきりN氏についてネットで検索したところ登場するのは、N氏という男が頻繁に登場する星新一作品ばかりであったが、やがてネットの小説投稿サイト『小説家になろう』――改めて思うが凄い名前のサイトだ――へ未来の時刻で投稿された『N氏』という完結済みの小説を見つけた。
私はそれを初めから読み、将来にN氏が死ぬことを知る。それから自分が彼を忘れない為に『N氏』を書き出すのだということも。
口元が緩んでしまい、思わず笑った。
未来の自分が書いたものを今の自分が読んで過去を知る、などというオモシロ体験。滅多にできることではない。続いて私は左氏の正体、N氏の死因、未来の私の状況を知る。
画面のスクロールを続け、私は『N氏』の最終話をクリックした。
「……あはは」
★★★★
「どうしたのお? 変な顔してえ」
丸木戸さんが不躾に私の顔を覗き込みやがるので、慌てて逃げた。二人からそっぽを向いたまま話すことにする。
「別に。ていうか丸木戸さん、何やってるんですか。さっさと清算して出たらいいのに」
『N氏』を読み終わり個室を出ても、二人はまだフリードリンクコーナーの前にいたのだった。
「いやあ、出ようと思ったんだけどお、真の最終巻まで見てからにしようと思ってえ」
テーブル上にはテニプリがズラリと並んでいる。その横にはN氏が持ってきたらしい野球雑誌。どうやら彼はお気に入り球団の行く末を案じているらしい。
「左氏の思うつぼじゃないですか、全くいいかげんどうしてそんな」
「あーうるさいうるさい! 部屋の掃除をしようとしてつい本を読みふけった経験の無い人だけが私に石を投げなさい」
そう言われると何も言えない私である。仕方なくN氏の方を見る。
「N氏さん……いや、N氏。どうしてここにいるのさ」
「遅かったな。なんだ、記憶戻ったのか」
彼は私の雰囲気の変化から察したらしい。
「いや、ちょっと過去と未来を読んだだけ。だから元通り+αの私ってとこ。今の私はちょっとした運命を知る神――モイライやノルンだね。フフフ。空間と時間と私との関係はすごく簡単なことなんだよ。小さいころ死んだおばあちゃんがあの時死んだ理由もわかる。私は前世でアメリカシロヒトリだったんだ。江頭2:50は午前2:50だってこともわかる」
「アタマ大丈夫か」
「泣きたくなるほど大丈夫だよ。さて、出ようか」
丸木戸さんは私がさっさとテニプリを片付けるのを全力で阻止しながら、私に尋ねる。
「えっ! 出ていいのお。出られるの」
「さあ」
「作戦は?」
「高度の柔軟性を維持しつつ臨機応変に」
二人とも不服そうだったが、私だってそうとしか言えない。さて、この知識の迷宮から脱出だ。
「あ、N氏、バンダナ貸して」
さて、窮鼠は猫を噛むのか、はたまた臍を噛むのか。
★★★★
レジ横の左氏は相変わらず人をナメくさった慇懃無礼な態度――イタリアの老眼鏡紳士リストランテにでもいそうな洒落た顔が台無しである。わざわざツナカレーを用意して当てつけのように食べている。
「いかがですかな。お食べになりませんか」
「いらねーよ」
苛立ったN氏が即答した。
彼は眉の端を少しだけ上げて口をナプキンで拭うと、まだ残ったカレーを乱暴にゴミ箱に捨てた。皿が割れる耳障りな音。そうして再びレジカウンターに戻ると、輪切りレモンの入ったグラスの水を飲んだ。
「さて、何か」
丸木戸さんが我々を手で制し、色仕掛けで彼に体を摺り寄せる。肢体をくねらせ官能的……には到底程遠いコドモの体は、一切、全く、もう本当に何の効果もなかった。足にさえすがったが、追い払われるコバエのように、しっしっと言われすぐ帰ってきた。
「女として自信なくすわ!」
へー。
「何その顔。女だから私。見た目だけなら若いって言われるよお」
若いというか体も精神年齢も子ども。見た目は子ども、頭脳も子ども、それはただの子ども。
入れ替わるように私はレジカウンターの前に立った。
「御清算ですか。お大事なN氏様の記憶を失うことになりますが良いのですか」
「ええ、この『N氏』に関する過去から未来の全記憶は、このネカフェで得たものですからね。そちらは失ってもしょうがありません。でも初めに然るべき説明がなされなかったフード自販機の支払い――本来の記憶――については、別の記憶にしてもらえませんかね」
どうするのかと見守っていたN氏と丸木戸さんは、私が真正面から交渉したので拍子抜けした様子である。
「……ちょっと失礼」
N氏が後ろから肘でガスガスやってくるので振り返って小声。
「や、ホラよく言うでしょ。『話せばわかる』ってさ」
「それを言った犬養毅が問答無用で殺されたってこともな」
「いいから任せときなって」
前に向き直ると、左氏が首を傾げて腕を組んでいる。どうも戸惑っているような気配。
「あのう、一つ疑問なのですが。人間は『知識』の積み重ねによって文明を発展させてきました。『知識』の否定は人類史の否定です。お客様は御自分の得てきた『知識』を全て否定して、それは無駄だと――つまり人類はサルに帰るべきということでしょうか」
私はN氏が死んでしまうという記憶は持っておきたい。いつか彼の死を回避できるかもしれないから。そしてここの生活は抗いがたく魅力的である。
私が黙っているので、左氏は静かに増長する。
「ここの何が悪いのですか。元の記憶全てを忘れてしまえば、それは当人にとって初めから存在していないも同然。このネカフェで生まれ変わり、代わりに新しい『知識』を集めて暮らせばいいではないですか」
「別に否定してはいませんよ。ただ『知識』より大事なことがあるので、できません」
左氏が黙ったので、今度は私が増長してやる。
「ずっとここにいたら、私はこの先『N氏』が書けませんから」
左氏は指先で顎を弄りながら私の目をジッと見つめていた。
「なるほど。それでは話し合いの余地はありませんな。では、御三人ともそこの入口の扉へどうぞ」
我々は言われた通り物々しい鉄扉の前に立つ。初めにこのネカフェへ入ってきた時は本の量に感動したものだが、出る時は出られるだけで感動する。「感動の扉」とでも名付けようか。
「それでは、御清算です」
扉が開かれる。裏名呑の夕暮れにカラスの鳴く声が響いている。肌寒い風が吹き込み、新鮮な空気が肺の淀んだ空気を押し出す。
突然背中を強く押され、扉の外へ弾き出された。
「ちょっと、まだ代わりの記憶を何にするか――」
我々は左氏の笑い声と共に、転げるようにネカフェから出てきた。
そのはずなのだが、もうどのようなネカフェだったのかおぼろげにしか思い出せない。振り返ると鉄の扉が閉じていった。人形などが括り付けられたカオスな外観のネカフェがある。
「私達、何してたんだっけ」
丸木戸さんは腰をさすっている。その隣には、この世の不幸を佃煮にしたような不幸顔の男がいた。
「背中が痛えよー」
この男も一緒に追い出されたのだろうか。
「いいネカフェだったのは確かだけど、あんまり思い出せません。煩悩巨人の脳みそに出入り口をつけたような最高に品揃えが豊富な店だったとは思うんですけど」
見知らぬ男が頷いた。
「そうだ、俺たちは皆でネカフェに来たんだよ!」
「そうそう……って誰ですか」
★★★★
一通り前回と同じようなやりとりをして、私のN氏さんに関する記憶が何故か失われていることがわかった。
「でも……いったいどうして記憶がないのかわかりません。このネカフェに関係あるんですかね」
私達は夕闇と同化し始めている奇怪なシルエットを見上げた。体が疲れていて何もする気がおきない。ガムでもないかとジャケットのポケットを探ると指に紙束が当たった。
取り出してみると、それは「バベルのネ禍フェ騒動」と題された紙だ。「バベルのネットカフェ」とロゴが入っているメモ帳を使っている。パラパラと捲ると、どうもこのネカフェで私がPCからメモしたものらしい。記憶にないが。
「ネカフェってえ。もしかして関係あるかもお」
読んでいると、鉄扉が軋み耳障りな音を立てながら開いた。そこには無表情の老紳士――左氏が立っていた。ただしその瞳の中心は燃えて赤く血を流し、握りしめた手は震えている。恐らくは怒りで。彼の足元の影が不自然に、黒蛇のようにうねっている。
……なんだか知らんがやばい。
左氏は早口でまくし立てる。
「なあ、もし私が間違ったことを言ってたら遠慮なく指摘して頂きたいんですが――例えばあなた方が本屋の店員だとして、私が雑誌を立ち読みしてるとしますよ。そこで私が『アアーッ! 晩メシをどうすればいいのかバカすぎて見当もつかないよう! おや? こんなところに料理雑誌があるぞ? どれどれ……コレで決定、今夜のおかず? うまそうだなあぁぁぁ! コレにしようかなあぁぁぁぁ! でもこのレシピが一つ見たいだけだから雑誌はいらないなあぁぁぁ! そうだ、レシピをメモっちゃお☆』ってやったとする。それってどう思います。本屋の店員としてそんなヤツ許せます? 許せませんよ。ブラックリストに載せられても文句は言えませんよ。うちの店はたとえ情報であっても持ち出しは禁止されてるんです。なあ、そのメモはここで得た情報ですよね。そういうズルをするってことは、あなた方はもうお客様ではないってことでいいんですよね? ブラックリストに載せられたヤツ――あなた方が初めてですが――は規則で『殺す』ことになっています……」
我々は警戒しながら後ずさる。靴の裏でどうなっているか確かめながら一歩ずつ。私だけネカフェから少し離れている。この二人が襲われているうちに私だけは逃げられるだろうか。それよりもメモを読む方が先決。
ガラクタがいたるところに放置された裏名呑は足場が不安定だ。おまけに暗い。
だから、丸木戸さんが転んだ。悲鳴。N氏さんが助けに戻る。
左氏が扉を飛び出して二人に襲いかかる。
瞬間、内臓が震えるような轟音と視界を覆う閃光に我々は仰け反った。
何が起きたのかわからなかった。周囲にはパチパチと火のついた木が爆ぜ、焦げた臭いが漂う。
「い、隕石?」
「いや、雷だ」
N氏さんの言葉に我々は空を見上げたが、そこには穏やかな茜雲があるばかりである。何が起きたのか、この場の誰も理解できなかった。
左氏は落雷の直撃を受けてなお生きていた。ただしその化けの皮は剥がれ、人型をした黒くヌメる触腕の束になっていた。数え切れぬ大小の触腕が痺れて陸に揚げられた魚のようにのたうち回る。
私は手元のメモ(バベルのネ禍フェ騒動:後編2)――殆ど台本のようなものだ――を覗き見しながら、彼と交渉する。
「さあ、記憶を返してもらいましょうか」
「ふざけ」
「交換でいいんです。N氏さんの記憶ではなくて」
私は彼の言葉を遮った。
「何の記憶と……」
「私の衣袋鮭流に関する記憶全てでお願いします」
「はあ? 支払う記憶は等価なものでなければ」
再び彼に謎の雷が落ちた。今度は私は事前に知っているのであまり驚かない。先程より小さいが、十分のようだった。時折ピクリとしか動かなくなった彼に小声で話しかける。
「じゃあ、初恋の記憶を持っていってください。『N氏』と同程度に価値を持つ記憶――少なくとも今は思いつかないんですよそれくらいしか。それにホラ、早くしないと雷で死んじゃいますよ」
無理やり了承させると、私の記憶が戻ってくる。丸木戸さんが手伝うのを嫌がったので私はN氏と彼をネカフェの中に運んで鉄扉を閉じた。
★★★★
三人で裏名呑の雑多な風景を帰る。私はメモを読みながら歩いていたので犬のフンを踏んでしまう。
照れ笑いをするとN氏と丸木戸さんが私の顔を見ているのに気づく。
そろそろか。私はメモの終盤を読み上げる。
「次にお前は『なあ、あの雷ってなんだったんだ?』と言う」
「なあ、あの雷ってなんだったんだ? ハッ!」
N氏の台詞まで一言一句同じであった。私は後編2の終盤に書いてある自分の台詞を笑いながら続ける。
「ブックカースだよ」
二人が目を動かして必死に記憶に埋もれた知識を発掘しているが、面倒なので説明する。
「それは印刷技術もまだ発達していない中世ヨーロッパ、本はとても貴重なものだったんだ。修道院なんかで本が盗まれるのを避けるため、書記が奥付に呪いを書くようになったんだ。本を盗んだ者、無断で持ち出した者、借りて返さない者は神の怒りに触れろ。端的に言えば死んでしまえ、と。あのネカフェにある本は全て『本物』。だからこの作戦は成功した。雷は大抵どこの文化圏でも神の怒りだ」
「でもそれがあの人に落ちたのはなんでえ。あの人、本を持ち出してたのお?」
丸木戸さんが尋ねてくるが。
「ネカフェの中のことだから覚えてないんでしょうが、丸木戸さんも手伝ってくれたんですよ? 左氏が店外に追ってこようとすると発動するよう、ブックカースの書かれた中世の本――『THE USELESSNESS OF EVERYTHING』――の呪われた奥付部分のページを、色仕掛けついでに左氏の足にバンダナで巻きつかせてくれました。それから彼が店を出た――鉄扉を出た瞬間に『無断で持ち出した』ということになり神の怒りが落ちてきたというわけです」
私はそこまで言うと、メモ帳をポケットに戻した。
結局のところ、このネカフェに来る前と来た後では私の記憶は殆ど変わらない。また来たいかと言われると、二度と来たくない。次は出られなくなりそうだから。自殺したくなったらこようか。
しかし収穫はこのメモだ。
N氏が死ぬのを知ることができた。それを防ぐことができるのかできないかはわからないけれど、今はただN氏と話したいと思う。
「ああ、腹減ったなー。そういやお前、俺にメシ奢る約束してなかったか?」
彼が伸びをしながら呟いた。丸木戸さんも便乗する気マンマンで瞳に星を入れてこちらを見てくる。
「ちょっと待って」
私は手元のメモを読み返す。中編に私の台詞で「メシ代は出すよ」と確かに約束している。
「んーん。勘違いだね。むしろN氏が私に奢る約束してるから」
「……マジか」
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