バベルのネ禍フェ騒動(後編1)
丸木戸さんは鬼気迫る表情で私に駆け寄った。
「見てみてえ、ジャーン! 完結したはずのタクミくんシリーズが何故か続いてて沢山あるのお! 中村春菊とか崎谷はるひとか榎田尤利とか丸木文華とか、よしながふみの同人誌時代のも全部揃ってるし九州男児とかBassoとか明日美子様の本とか……あ、うたプリもマジラブ阿僧祇%になってるし」
断捨離とても捨てきれぬ、腐女子の業は底なし沼よ。丸木戸さんは最ッ高にハイ状態で本を抱えたままオルゴール人形のようにクルクル回り、はためく黒髪が邪魔くさい。
「あの、そのくだりは前回、私がさんざんやりました」
「ええっ! ガーン!」
ジャーンとかガーンとか三十路力は留まるところを知らない。
「それで、大変なことっていうのはそれだけですか」
「さーくんがいないのお」
さーくんとは衣袋鮭流の呼び名らしい。
だが私に言われても困る。
とりあえず何か飲み物でも、とドリンクバーのコーヒーコーナーを見るが、聞いたことのない銘柄が何百種類もありどれを選んだものか。隣に並ぶフード自販機も種類が尋常ではなく、ここでは万事がこうである。
「ウドのコーヒー」は苦そうなのでやめにして、「ゴドーブレンド」も気になるが、結局全自動トルココーヒーメーカーを物珍しさから使ってカップに注ぐ。
椅子に座ってカップを傾けると、甘く柔らかな泡が舌の上で溶け、濃厚な風味が体中の疲れと共に鼻を抜けていった。
目前の円テーブル上にはトレーが一つ――そこにマクドナルドで使われていそうな空箱が二つ。食べ跡が視界に入った途端に私の胃袋が待遇改善を要求して鳴った。
「この空箱は断捨離しないんですか。余計なモノの極致だと思いますけど」
丸木戸さんは数秒視線を虚空に彷徨わせ、ほんの少し首を傾げて答えた。
「……ああ、あのやりたい放題のセクシーさん」
「そりゃ壇蜜です」
「お寿司は好きだよ」
「それは酢飯」
「あの娘って夢見がちどころか頭イッちゃってるよね。あのホラ赤毛の」
「……アン・シャーリー?」
しょうもないやり取りを続けながら、丸木戸さんは向かいに座って数多の本をテーブルに並べ、百万ドルの夜景でも眺めているが如くウットリしている。
「その空箱、何を食べたんですか」
「タコスだじぇ! でも栄養が足りないかな」
「栄養って。二つで充分ですよ!」
しかしよく見れば片方は確かにタコスだが、もう一つの空箱には怪しげな書体で「チーズソースで食べる新提案! ナチョ寿司!」とプリントされている。
「いや、一つしか食べてないよお。そっちは私じゃない誰かだよ」
「嘘言わないでくださいよ。たった今寿司が好きだって言ってたくせに。それに二つとも同じトレーをシェアしてるじゃないですか」
丸木戸さんは手櫛で髪をとかしながら首を振る。
「こんな怪しいモノ食べないよお。とにかくタコスおいしいオススメ」
無視して立ち上がり、私は自販機にあったタイとツナカレーのスイッチを押す。若干値段が張りそうだったが魅力的だった。
「あのさあ、せっかく勧めたんだからタコス食べなよ」
振り返って無言で肩を竦めると、彼女は「君、うざいね」と笑顔になった。
「オダイヲイタダキマシタ」
機械から発される、誰に向かってというわけでもない抑揚の無い声。頂いたと言われても現金はまだ入れていないのだが……。
「ん! アレはさーくん」
丸木戸さんの視線の先を見てみると、いつの間にやらレジカウンター前で金髪に黒が混じった男がうなだれている。風呂に入っていないのか髪はテカテカとゴキブリのように脂ぎっている。それに比べ、ひょろ長く痩せた体には枯枝のような腕。毛玉のついたトレーナーには、所々黄土色のソースの染みが散っている。
しかしレジに立つ夜神左氏は、取り外した片眼鏡に息を吹きかけ丁寧に磨いているばかり。
「ウウ……助けてくれよ。ボクは一体いつからここにいるんだ?」
男はフラついた体を支えるので精一杯。すきま風のようにか細い声だった。
「お客様、入店時に確認した通り、店員側からお客様に関わることは一切ございません。それが『規則』です」
左氏はチラリと彼を一瞥した。
「ただしお会計の時を除けば、ですが。お会計なさいますか? お代はここで得た知識全てとなりますが」
男はそれを聞くと嫌だい嫌だいと駄々をこねる。まるっきりスーパーでお菓子を買ってもらえない子供である。
「ではお戻りください」
「戻ったところで……! あの食い物だってそのたび『記憶』を払ってるんだろうが! ボクは今さら外に出てやっていけない」
そこで二人は我々の視線に気づいたようだった。こちらを見ると左氏は会釈し、さーくんは笑顔で手を振った。
「あ、丸ちゃーん!」
「さーくーん!」
私は、丸木戸さんがこの衣袋鮭流の胸へ飛び込んでいくのを止めなかった。男に騙されたからといって幸福になれぬとは限らない。どんな男に騙されようとそれは彼女の自由。
それより問題はタイとツナカレーだ。
私は二人の感動の再会をドッチラケで眺めつつ、たった今レジで繰り広げられていた問答の、聞き捨てならぬ二つの事柄について考えていた。
★★★★
一、会計でのお代は「ここで得た知識全て」。
二、フード自販機の食べ物は会計とは別払いであり、「購入のたび支払っている」ということ。つまり買った瞬間に何らかの記憶を支払っている。
★★★★
明らかに自販機の方が厄介だ。前者はここで得た知識だと限定されているが、後者の方は何の知識か限定されていない。
さーくんの口ぶりから察するに自販機での一度の記憶支払い額は会計よりも少ないらしい。どの記憶から優先的に支払い対象になるのかはわからないが、それはここに来る以前の記憶さえ対象になるのかもしれない。
いや、おそらくそうなのだろう。
ナチョスシを食べた犯人はさーくんだ。それは空箱と同じチーズソースがトレーナーについていることから明らか。
しかしそれを丸木戸さんはおぼえていない。どうやらタコスの代償として「誰と食べたか」という記憶が支払われたらしい。
そして丸木戸さんは冗談ではなくもう一つ――「断捨離」を忘れている。
何故二つも忘れているのか。答えは一つ。
彼女が誰かさんのナチョスシの分も支払ったからだ。
衣袋鮭流は、彼氏に甘く騙されやすい丸木戸さんの記憶を使い、ナチョスシを買わせた。自分の記憶で支払うのが嫌だから。もしかするとそのために彼女をここに呼んだのかもしれない。
そうこうしているうちに、私の鼻先にタイとツナカレーのスパイシーなにおいが漂ってくる。
そして電子音は容赦なくバオーと鳴り、無慈悲な声が告げた。
「アリガトゴザイマース!」
★★★★
私が何の記憶を支払ったのか不明だがタイとツナカレーは美味であった。タコスやナチョスシよりあからさまに豪華で高そうな分だけ大きな記憶を失ってそうで不安である。
イスに座って食べていると丸木戸さんはさーくんを私に紹介した。さーくんは私を睨みつけて何も言わなかった。
正直こんな奴と知り合いになどなりたくはないのだが挨拶だけはしておいた。さーくんがトイレに行くと、彼女はコソコソと話しかけてきた。
「どうよ」
「何がですか」
「いやあ、さーくんがよ」
「いいんじゃないですかね(どうでも)」
「もっと真面目に答えて」
「正直に言ってもいいですか」
「うん」
「ありゃキモいですよ。見てくれや才能も全部含めて」
丸木戸さんは、ええーと呻くと顔を赤くして黙った。
聞こえてきた足音に顔を上げる。一昔前のオタクのようにバンダナをつけた男が、螺旋階段を降りてきていた。
小柄な身体に乗った頭は肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに炯々(けいけい)としていてお前は山月記の李徴か。ここまで死相の出た男は初めて見る。私に気づくと彼は手を上げてまっすぐこちらに向かって歩いてきた。
「おー」
誰だよお前コミュ力高いよ。
彼はテーブル上に悍ましき黒い本を出した。「黒本」のカバーには何やら鳥の絵があり、ファミ通と書かれている。
「ちょっと見てみろよ。これ昔クリアできなかったゲームのやつ」
「大丈夫? ファミ通の攻略本だよ?」
ああ、他人様が選んだ本に私がこんな物言いを――この男の顔を見ていると不思議と自然に無礼な言葉が出てくるが、なんとかフォローせねば。
「……まあ、小数点以下の確率で大丈夫かもしれませんけど」
「うるせー」
抑えつつも荒げた声に私は固まる。彼は何故こんなに馴れ馴れしいのか。
「あの、ちょっとすいませんがあなたとお会いしたことありましたっけ」
丸木戸さんが噴き出して、男は腕を組んで不服そうだ。
「いや冗談ではなくて――丸木戸さんはわかりますけど、そちらの方は本当にわからなくって」
今度は二人が固まった。そんな異物を見るような目はやめていただきたい。このリアクションから察するに。
「私は多分あなたの記憶を失くしてるみたいです……この自販機が、かくかくしかじか」
「まるまるうまうま」
「ばつばつうしうし」
「なるなるほどほど」
説明するにつれ丸木戸さんは黙りがちになり、男は携帯のマナーモードのように低く唸った。
「……でも他の人達、みんな普通に食べてるよお?」
不服そうな丸木戸さんが指差したのは、先程から入れ替わり立ち代り――漫画を器用に片手で読みつつぼんやりぼやぼや上の空――当然のように自販機で食事を購入しては個室に帰っていく人々。
「ですから、あの人達はもう末期なんですよ。こんなところに長くいると食事のたびに記憶を支払って、そのうちどうしてここに来たのか、食事の代金に何を支払っているのか、どうすれば出られるのかまで忘れちゃいますよ」
「た、確かに! ヤバイねえ、早く出ないと!」
慌てふためく我々に、通りすがる人々は無言の迷惑顔。
と、突然私の首筋に冷たいものが触れて肩が跳ねる。見ると、白い手が巻きついていた。
「何故ああも気高いのか、幼子の眼差しは」
振り向くと上品なスーツ。見上げた先には老紳士。左氏が私の肩を揉んでいた。目の焦点が合っていない。
「知識を身につけることに躊躇がない彼らの瞳に映るものは極彩色の誘惑」
片眼鏡の嬉しそうな瞳は見開かれ、燃え上がるように赤く煌めいている。
「声を荒げておいででしたが、何か問題でも? フフフ、ありますまい。彼らの顔をご覧ください。赤ん坊のように幸せそのもの。この私が経営するネットカフェはお客様に知識欲を満たす幸せを提供している。全てが本物です。貴方達だってこの知識の海で暮らすことを考えてご覧なさい。存外悪くないものですよ」
左氏は言いたいだけ言って返事を聞かず、高笑いしながらレジへと戻っていった。仕事熱心な奴だ。
「あー、確かにここで一生暮らすの幸せハピネスかもなあ。外に出たってどうせ結婚できないし腐敗と自由と暴力の真っ只中だし」
は、早い……丸木戸さんは早速左氏の言葉に影響された。
私は本の匂いを胸いっぱいに吸い込み深呼吸して、男の方を見る。
「N氏さん――でしたっけ。どう思います。このままだと私達もああなって出られなくなっちゃうんですよ。ひたすら記憶を搾取される家畜――家畜系男子ですよ。ヤプーですよ」
「ドヤ顔で大げさだなー。家畜の幸せだって幸せの一つなんじゃねーの。ま、俺は外でやることあるから、こんなとこで野たれ死には勘弁だけどよ」
その言葉で私の頭に浮かんだのは、書庫で本を抱いたまま死んだように動かなくなっている人間の姿。あれが家畜の末路。
「しかしマズイな……食べられないと聞くとますます腹が減ってきた。待て、お前さっき確か『メシ代は出すよ』って言ってたよな」
「覚えてません」
N氏さんは拍子抜けした様子でイスにだらりとふんぞりかえった。
「やれやれ……ほら、だから嫌な予感がするって言っただろがよー」
「それも覚えてません」
N氏さんは頭を金田一耕助のようにボリボリ掻いた。バンダナが揺れる。申し訳ない。
「都合悪いこと全部忘れてんな。本当は覚えてる……なんてな」
「天地神明に誓ってそんなことはありません」
「なんか態度がふざけてんだよなー。ですます調使ってきて調子狂うしよー」
彼は悪い人ではなさそうだ。
さておかしなうめき声が聞こえると思ったら隣の丸木戸さんがさめざめ泣きはじめていた。どうも今更人生の苦さについて思い当たったらしい。
「うう。さーくんに利用されてたなんて。うう。そんな人だとは思わなかったあ。でも好きなんだあ。うう。さーくんと結婚しようと思ってたんだけどなあ。うう。さーくんの子供ほしいなって思ってたんだけど」
チッ。
「や、まあ自由ですよ。奴と結婚したいならすれば良いですって。なんなら二、三回。子供なんてPONPON出してしまえばいいの。ぜーんぜんしないのつまらないでしょう? 子供で野球チーム作って対決させればいいですよ、全十八人。ホラ泣かないで早く出ましょう。会計すればいいだけですから」
苦笑いして顔を見合わせる二人。
「ずいぶん投げやりな励まし方っスね」
「舌打ちしたよね」
無視して彼女の腕を掴んで立ち上がらせ、レジに向かう。しかし不意にN氏さんが立ち止まった。
「んーもしかして」
床に向けた視線がボンヤリと左右に揺れている。
「このまま会計してもお前の記憶、戻らねーんじゃねーか」
「ええ、でも構いません。出ましょう」
彼は何か言いかけたが結局黙った。代わりに丸木戸さんが口を出す。
「本当にそれでいいのお。私には大したことないけどさあ、君にとってその記憶って……」
私はため息を吐いて数秒考える。N氏さんについての記憶。脱出よりも優先すべきことなのだろうか。
「以前の君なら、大事にしたと思うよ」
どうもそうは思えないが、そこまで言うのなら。
「じゃあ……私は別ルートを行くことにします。何せここは時空が捻れていて、別の出口があるはずですから」
そう言って私は二人とお別れして踵を返し、螺旋階段を登っていく。今日は動き過ぎ、足が鉛の棒になったように重いが、時間が経つとまた腹が減るのでおちおち休んでもいられない。
不安と期待と恐怖が私の胸で交錯する。
実は出口に心当たりがある。あの人皮装丁本を抱えた狂人が唱えた言葉。あれに「門」「よぐそとす」という単語があった。
あの通りに「よぐそとす」――時空の門という存在がありえるのなら――いや、実際このネカフェは過去現在未来が一つになって時空が捻れている。この「よぐそとす」を利用して左氏が作ったものなのだろう。だとしたら脱出や記憶の奪還にも利用できるかもしれなかった。
豆電球の灯りを頼りに以前と全く同じルートで狂人の場所へ。扉を開けていくうちツンと鼻を刺すカビ臭さが加わり、やがて薄暗さに似つかわしくない躁的な笑い声が響いてくる。しかし、そこに行ったとして私はあの狂人をなんとかできるのだろうか。不安は首に纏わり付く海藻のよう――なんとも落ち着かない。
幻想は闇に形を得る。
ぬるい汗が背中を這い、シャツの下を湿らせていく。
私が狂人に喰い殺される様を、左氏があの張り付いた笑顔でニヤニヤ見る。或いは私は門に飲み込まれ――どうなる?――別時空の別人に改造されてしまう。
「足取りがしっかりしてるってことは、出口の在り処に見当がついてるってことだよな」
背後から声がして前につんのめった。本棚を掴んで見ると、N氏さんだった。暗がりの中で見ると心霊写真に写り込むオバケのようだ。
「どうして一緒に来てるんですか。N氏さんは自販機を使ってないんだから、普通に会計すればいいでしょう」
彼はこちらを見ず、勇敢にも扉を開けずんずん先に進んでいく。
「さあ、俺にもよくわからねー」
その背中は頼もしいけれど。
「N氏さん……道、間違ってます」
無言で引き返してきた。
そうして我々は狂人のいた書庫に辿り着いた。ドアの陰から覗き込むと、豆電球の下、男は叩きのめされた道路の糞みたいに床に転がっている。
私はN氏さんに目配せする。
「さあ。入って、どうぞ」
「ふざけんな俺だって怖い。ジャンケンしようぜ」
ええい来たのなら役に立て。
「タイトルは誰ですか。『N氏』ですよ。死にませんって。ついて行きますから後ろは任せてください」
「全くお前は男の尻が大好きだな」
★★★★
N氏さんはうつ伏せの狂人に近づいていく。一歩、また一歩。どこからともなく生臭い風が吹いている。出口が近いということだろうか。
男が笑い声をあげなくなったが、それはそれで不気味だ。私は一挙手一投足を見逃さぬように凝視する。
細い体、枯枝のような腕――服は意外にもトレーナーを着ていて、所々に黄土色のソースの染みが……ある……?
N氏さんは立ち止まると、男から目を離さぬまま私に話しかける。
「おいちょっと待て、こいつの服」
「ええ。N氏さんの言いたいことはわかります。『さっきの家畜系男子ってフレーズ上手いな、こいつ天才か』ですね」
「違えよ! そりゃお前の願望だろうがよ!」
N氏さんの大声のおかげで男は目を覚ましてしまった。起き上がって焦点の合わぬ目で宙空を見つめる。
「……かこ、げんざい、みらいのすべてはよぐそとすのなかでひとつである……」
呆けた顔で例の台詞を呟きはじめた。
「もしかして、貴方はさーくん……さん、ですか」
うつろな反応。この淀んだ夢の住人は、自分の名前さえすでに忘れているのかもしれない。奇妙なことに、その姿は明らかに何十年も老化しているのだ。
「どういうことだよ。さっきのさーくんが浦島太郎みたいに一気に老けたのか」
「いえ、私はこの人を一度見ています。このネカフェには若いさーくんと同時に、老いたさーくんも存在してるということです。何がなんだかわかりませんが、これが『よぐそとす』を使うということなのかも」
男の目が輝いた。おもむろに人皮装丁本を取り出すと開いて読み上げ始めた。冒涜的な掠れ声が耳から入り込み、脳の皺に黒く染みていく。耳を塞ごうとするも吐き気に襲われてそれどころではない。私は老いたさーくんから本を取り上げる。
しかし棚に並んだ本と本の隙間から虹色の光と共に白い粒子が漏れ出してきた。徐々に暗闇は侵食され、我々の顔が照らされる。
「これが時空の門……よぐそとす」
「過去に介入できるなら、俺は全力でファイナルファンタジー映画化を阻止するけどな。ハッハッハッ」
頭が割れそうで立っていられず、N氏さんに掴まる。しかし本は手放さない。
「どうした、具合が悪いのか」
「脳ミソが洗濯機に放り込まれたみたいだ」
視界が回転する……苦しんでいるのはどうやら私だけ、N氏さんは平然としていた。
ひと一人さえ通れない本の隙間の更に奥。そこにはありえない広さの空間があるようで、玉虫色の泡立つ何かが見え隠れする。その度に知識の津波が私の脳を揺さぶる。身体が勝手に動き、その隙間に右腕を突っ込んでしまった。
「おい! 早く抜け、ヤバそうだ」
腕の付け根まで吸い込まれる。骨がギシギシと不穏な音を立てる。
「いえ……これでいいんです。むしろこれで。ここが時空の門だというなら、私の腕は今どこかに繋がっているはず」
右腕が押し戻された。指先に紫色の痣、それに毛と肌の感触が残っている。
「何かいた……いや、人間かも」
「やめとけって。お前、そこの老いぼれさーくんみたいになるかもしれねーんだぞ」
無視して、再び穴に腕を差し込む。今度は急に向こう側から手を引かれ、ガクンと肩が本棚に押し付けられる。
「もういいだろ! 記憶は諦めろよ。大したことねーよ。どうしてそこまで……」
私は思わず噴き出した。N氏さんがテンパっている様子が面白くてたまらない。
「さあ、私にもわかりませんね」
向こう側には明らかに人間がいる。更に腕を強く引かれ関節が外れ肉がちぎれるような音がした。自分の口から聞いたこともない悲鳴が漏れた。先から血が滴ってくるのを見かねたN氏さんが腕にきつくバンダナを巻いて止血してくれる。しかし効果があるのかどうか。
痛みは全くなく、指先は動かせるという不思議な感覚である。
指先には畳のような感触に続き、紙とペンの感触がした。
「しめた! これで筆談ができる。なんて書きましょうか」
「ハァ……必要なのは電話やら食料やらってとこか」
私は助けを求めようと穴の向こうで「電話やら食料やらないか」と書く。
革靴が木製の床をコツコツと叩くわざとらしい音がして、我々は振り向く。
「お戻り頂けますかお客様」
穏やかで冷たいこの声は――案の定左氏だった。N氏さんが睨む。
「客には一切関わらないんじゃなかったのか」
「こちらはスタッフルームです。お客様から私どもへの暴挙はその限りではありません。常識的に考えて頂きたい」
「ここで常識とはな」
立ち塞がるN氏さんを避け、彼はさらりと私の腕を隙間から引き抜いた。
続き、口笛で狂ったさーくんを呼ぶ。
彼の腕を隙間に引き込む。
とん、と背中を押す。
さーくんを飲み込み、空間が閉じた。
全てが流れるような動作。
後には何も残らなかった。
初めからそんな人間がいなかったように。
私はなんだかよくわからないまま立ち尽くしていた。途中で破れて「電話やら食料」の部分だけが残ったメモが右手に残っていた。
左氏は本棚の隙間を完全に埋めると、私の方へやってくる。
「……さて、『規則』に従い、貴方達にはペナルティです。記憶の奴隷となって頂きましょうか」
「いえ。私は記憶の奴隷なんて御免こうむります。美女の奴隷ならまだしも」
私は目を伏せ、人皮装丁本を開いて左氏に向けた。先程、老いぼれさーくんから取り上げたものだ。
「我々が時空の門に近づけば、あなたが来ると踏んでいました。あなたはここにある本は全てが本物だと言っていました。だからこれを読ませるのが狙いでした」
読んだ者が狂気に堕ちるという本。この本が本物なら、一目でも中を覗けば誰もその誘惑から逃れられない。
やがて左氏は心底おかしそうに笑い出した。馬鹿笑いだった。なんとなくこちらも引きずられて口の端が反射的に歪むほどの。
しかしそれは特有の躁な狂笑ではなく――理性を保った笑い声だった。
「この本が本物。正解。しかし残念、私だって本物なのですよ。私にしてみれば、この本は低学年の教科書。私は本来こちら側に馴染み深い住人ですからねえ」
彼は人皮装丁本をトントンと叩くと、歯を剥き出しにした猿のように笑った。
★★★★
私はなぜここにいるのか。
ここはどこなのか。
いつやってきたのか。
誰とやってきたのか。
私は誰なのか。
何を求めてやってきたのか。
どこから来てどこへ行くのか。
何一つわからない。
指は食べ残したチキンの骨のよう。
髪は岩肌に張り付く藻草のよう。
顔からポロポロと皮が剥がれ落ち、唇の奥から隙間風のような音がする。
いたるところに死体が転がっていて、彼らは一様に何らかの書籍を抱えている。
私はもうどのくらいここにいるのだろう。出たいという意志はあるのだが、どこに向かえばいいのかわからない。
傍にある本を物色するが、同じ本を何度も読んでいる気がする。しかし結局思い出せず、不信感があるので別の本を探す。
ふと『出口の見つけ方』という作りの雑なコピー本を手に持っていることに気づく。手に紐でグルグルときつく縛られている。
作者は天使姫、と魔法少女のような正気を疑う名前。ありがちな自己啓発本の類かもしれないが、それでやる気スイッチが押されるのであれば構わない。私が今一番読むべき本はこれかもしれぬ。序文はたった一言。
未来から過去へ。
その冊子は本の紹介をしている本であり、どんどん次の本とその場所を紹介してくれる。私は食事をするのも忘れ、そのプロセスを楽しんでいた。『出口の見つけ方』を片手に一つ一つ、指定された本を読み終えるごとに何か正しい道を歩いている気がしてくる。
やがて『出口の見つけ方』を読み終えた頃、それらしき扉を見つけた。傍にレジカウンターがあり、いかにも紳士然とした男が立っている。私は完全に無視されている。
扉へ続く道を見れば、人間が列を成して倒れているのに気づく。しかし意識を失っているのではなく、彼らは一心不乱にページを捲っていた。その目だけが充血して限界まで開かれている。目玉がこぼれ落ちそうなほど。
最も出口に近いところでは生きているのか死んでいるのかわからない者が本を開いたまま微動だにしない。ほんの数メートルで出口だが、何故出ないのか。
私は彼らを尻目に出口へ向かう。扉に手を掛ける。重い。体が衰弱し、老いていることを思い知らされる。息が切れる。肺が痛む。
あと少しだ。隙間から外の光が射し込む。この時を逃せば、もう体力はもたない。
「横を御覧なさい」
先程の老紳士が私を促した。
「貴方の人生の全てがそこにあります」
見ると、横の本棚に興味深い冊子がある。琴線に触れるタイトル。『N氏』と書かれている。作者名はどこか懐かしい名前。知的衝動が湧く。扉から手を離す。
私はその冊子を手に取ると、抱えたまま横になった。これから読むのだ。初めから最後まで。
どこか、安堵する。
ーBAD ENDー
読んで頂いてありがとうございます。