毛のない猫騒動
先日謎の死を遂げお亡くなりになったN氏が生前に舌を噛みつつ血ヘド混じりによく言っていたのは「怖いと思えば何だって怖い」という箴言である。
怪談集めを趣味とする、古今東西どこを探してもゴロゴロしている平々凡々な脇道の逸れ方をした大学生の私は、ある日、N氏のアパートにルンララルンと遊びに行った。
彼はいわゆる「敏感な人」であり、何かにつけ見てしまったり呪われたりするので部屋に引きこもってシミュレーションゲーム――このジャンルは意味が広すぎるけれども彼の名誉にかけて言えば戦略シミュレーションなどでは決してなくガテン系の女性しか登場しないマニアックなエロゲー――ばかりしていたようである。
どちらにしろ世の多くの女人に人気の無いのは変わりないが。
私は彼がランチを喰らう昼過ぎを虎視眈々と狙って訪ね、インターホンを押して待つ。ドア越しにスパイシーなカレーの匂いがして胃袋はサア今カ今カとフライング気味に口許まで上がってきていたというのは言い過ぎだ。
「おー、何だ?」
ドアを開けて出てきたのは、夏だというのに色が白い死人めいた男。今まさに墓場から掘り返されとれとれフレッシュ直送便でやってきたことが私にはわかる。
「こいつ、腐ってやがる……」と呟きかけて彼がどう思うか考えてやめる程度の分別くらい、私は持っているので無問題である。
「や、ちょっと寄っただけ」
怪談がどうのという話を出せば警戒されるので、しばし邪魔させてもらうといった調子でぬらりひょんの如く部屋に上がった。
「いただきます」
よく煮込まれたチキンカレーを食べる。ザク切りにしたトマトの酸味がなかなかいい。横に蓮根の福神漬を添えていないのが彼らしい残念さといったところだが、そのような瑣末な事象を気にするほど私はコドモではない。
「福神漬は?」
とはいえ念のため聞いてみる。
「ねえよ馬鹿」
ならば仕方あるまい。私は山より低く海より高い気持ちで許してやり、心に深くダイブしてそこに「ね・え・よ・馬・鹿」と刻み込んだ。これで墓場までこの恨みを忘れぬことうけあいであろう。私の遺言にさえ書いてやろうか。嫌がらせに。
そうだ、私は単にカレーを食べにきたわけでは無いのだ。
さりげなく不思議な話→怖い話へと流れを持っていく。
「駅前でバス待ってたら、犬を散歩させてる人がいてさァ。よく聞いてたらその人、飼い犬に向かって『人!』って呼んでたんさ。なんか怖くない?」
もとは人だったのか。それとも人に見えているのか。
N氏は腕を組んでしばし考え、首を振った。
「別に。よくわからん。ただの変な人だろ」
これだ。彼は霊感はあるくせに「怖さ」を見つけようとしないのである。幽霊だとか得体のしれないものだとかは実際のところ怖がって認めていても「違う」と言いたがる。
N氏の目の下にあるクマや死相だって私は「そいつら」のせいだと思うのだが、彼はあくまでゲームのせいだと言い張りやがる。これが俗に言われていたゲーム脳の恐怖である。
私が黙っているのが気になったのか、彼は話を変えた。
「猫なら昨日会ったぜ。別に全然怖いところなんてまるで無い猫だったが。俺に近寄ってきてさ……丸っこくて可愛かったな」
「ああ、普段なかなか触れないからね。N氏が背負ってるもの見て逃げ出すから」
冗談の通じないN氏は眉間にシワを寄せた。
「だからそんなんじゃねえって」
私は笑って済ました。コップに残った麦茶を飲み干して置く。それを見つめていたN氏はゆっくりと口火を切った。
「……でも不思議な猫だったんだよな。猫なのに毛がないんだ」
スフィンクス種か。
「肉球もない。耳もなかったし。それにしっぽは丸くて赤いんだ。体は青いし後ろ脚で立って――」
一つ聞いていい? 私はそう前置きしてから尋ねた。
「それ、どうして猫だと思ったの?」
夏の昼下がり。部屋の中が一気に静かに、ひんやり冷たくなった。N氏は目を泳がせたまま何も言わなかった。
「いや猫は……猫だから。たしかに鳴き声も猫らしくない変な甲高い声だったが」
N氏が出会ったモノ。本当は何だったのだろうか。
傍にあったアニメージュを見て、私は天啓を得た。稲妻が背骨を突き抜け尻まで流れ、今度は逆流して心の臓を貫き脳天直撃セガサターン後、豆電球がパッと点灯した。
「……それ、ドラえもんじゃね?」
N氏はハッとした顔で、ぽんと手を叩く。何度も頷いては唸る。
「そうだそうだ、ドラえもんだったんだよ! いやー、怖いと思えば何でも怖くなるなー!」
私とN氏はお互いに肩を叩いて笑い合った。たった今、読者諸君が呆れたり狐につままれたような気持ちになったりして、「いや、そのりくつはおかしい」とでも言いたげなのがありありとわかるが、今後のN氏の話はどれもこんな調子であるのでいつやめるの? 今でしょ!(古いね)
この話も今となっては良い思い出である。彼とは大学時代によくつるんでいたものだ。
とはいえ私はいまだにN氏の本名を知らない。名前を知らないということは、その者の本質を捉えられないということである。従って彼は謎の人物として私の心にへばりつくように今も生き続けているというわけだ。
――最悪である。
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