バベルのネ禍フェ騒動(前編)
「待たせたな」
休日の名呑駅前に颯爽と現れたN氏はだっせえバンダナを靡かせ、いつになく気合が入っている。彼が灰色のスパイスーツに身を包み段ボール箱を被って基地への潜入ミッションをこなす様を妄想したがよくよく見ればだっせえバンダナ以外はいつも通りの服装である。
平素の彼の着こなしは合計三パターンである。くすんだねずみ色のジャージを着るか、くすんだねずみ色のチノパンを履くか、くすんだねずみ色のジャージを着てくすんだねずみ色のチノパンを履くというフル装備か。
寒いのだろう、今はフル装備であり奇跡的に色合いは伝説の傭兵に似ていた。しかしいつも通り顔面は漂白されたかの如く蒼白、まさに「面白い」有様である。
そして彼はハードボイルドな風情を漂わせて言うのだ。
「……待たせたな!」
いや聞こえなかったわけではないので死相の出たドヤ顔で反応を伺うのはやめろ。一度目で無視されたということに早く気づいた方がよかろう。
「待たせたな!」
彼は本日の目的地にハシャギすぎており珍しく軽くテンションMAX、反比例した私はもう帰りたくなっている。ハァ……N氏が幸せそうだと私の世界はくすんだねずみ色。
「待たせたな!」
「…………」
我々の間にゴロリと横たわる沈黙に、テンポ良く汽笛が割って入った。
見ると、名呑港から近くの雨多ノ島へ向かうのんびりした渡船の音だった。車が二台乗れば精一杯という船で、船長が船べりから海へ立ち小便しているという非常にのどかな風景。そんな貧相なモノ切り落としてねじり切ってすりつぶす刑に処するべきであろう。
……ええい。
「なんだかやたら長いこと君を待ってた気がするよ。そろそろ死んだかなって、帰ろうとしてたところ」
そして我々はダンジョンへと旅立つ。
★★★★
さて今回の話は当時の私が手に入れたメモそのままである。ここの文もそのまま。非常にややこしいが何故そんなことになったのかはおいおい説明するとして、とにかく「知識」について話そう。
先日水に映った月を取ろうとして溺死したN氏は、私の耳がタコになっているのも頓着せず「怖いと思えば何だって怖い」とよく言っていたものだが、この時の一件で思い知らされたのはとりわけ「知識」の怖さである。
博覧強記の読者諸賢におかれては「知識」などというものは厄介な代物だと既にお気づきであろう。
文字。
書物。
情報。
そういったモノは目に取り憑いては視力を弱め、腰に取り憑いては姿勢を悪く背骨を曲げさせ、心に巣食えばなまじ先の事例を知っているだけに臆病にさせてしまう。
凝り固まった色眼鏡はやがて自分の姿を省みることさえ不可能にしてしまい、更に恐ろしいことにある種の「知識」にとりつかれたものは明日の食物も心許ない時でさえ屁理屈を捏ねに捏ねてカッチカチやぞ状態にした挙句、それで幸せだと言い出すのである。
悟りを得たような顔で。
これではもはや宗教ではないか。
そう、私は知識というものにある種の信仰心を持っていたのである。読書、Web検索、テレビ、実際の経験、とにかく何でもいいが知識を積み重ねることにマイナス要素など皆無である、と。
スーパーの特売日を知っていれば安く食物が買えよう、調理法を知っていれば美味いものを食することができよう、栄養学を知っていれば健康にもなれよう。
人は何事か失敗した際に――例えば詐欺にあった、悪い男に引っかかった、怪しげな宗教に騙されたとき――少しでも前向きに捉えようと、こう言うものである。
「高い授業料だったと思おう」
かようにどれほど酷いことがあろうと、その経験が――知識がさながらRPGの経験値が如く蓄積されていき失敗は無くなってゆくものだと思っている。
しかしこれが次の段階に進むと「高い授業料なぞ払わずに済むに越したことはなかろう」と用心し始め、人々は先行して知識を身につけ始める。そうして好奇心からのめり込み使うかどうかもわからぬ麻薬めいた知識たちに絡め取られ、引き換えに失われているものに気づかないのである。好奇心、猫を殺すとはよく言ったものだが、一見マイナス要素が見当たらぬ「知識」こそが「怖い」のである。
あなたが「知識」の泉を覗き込む時、「知識」もまたあなたを引きずり込もうと覗き込んでいる。阿呆のアダムが禁断の果実を食べてしまった時からそれは取り返しがつかぬ人間の原罪。
今回の顛末を読んで「なるほど『知識』というものは『怖い』ものかもしれない、覚えておこう」と少しでも思ってしまったのなら、その時点であなたはその新たな「知識」を蓄えてしまっており既に「知識」の罠に掛かっていると言えるだろう。
となれば対処法はいかなるものか。書を捨てて町へ出るのか。我々は阿呆のままでいるしかないのか。さてさて。
★★★★
私とN氏は名呑駅前エビス像広場で待ち合わせしていた。
というのはその数日前に彼の部屋に行った際、冬のナマズのようにおとなしいこの男が常ならぬ様子で口角泡を飛ばしながら「裏名呑で俺のライフワークに役立ちそうな、煩悩巨人の桃色脳ミソに出入り口をつけたような最高に品揃えが豊富な店を見つけたんだぜ。世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」と熱くサンボマスターの如く私に語りかけてくるので、その類稀なる比喩表現に興味を惹かれた私も便乗することにしたのだった。
「それで、その『煩悩巨人の桃色脳ミソに出入り口をつけたような最高に品揃えが豊富な店』の名前は」
彼は得意げに胸を張った。
「……何だっけな。いや、詳しいことはわからん」
「行ったんだろうに」
彼はピタリと動きを止め、調子の悪い機械のようにうんうん唸り出した。こうなってしまうと気長に待つしかなく、私はN氏の部屋に積み上げてある成人向け雑誌を読みふける。
「確かに行ったんだよ。それで品揃えに感動したんだが。さては狐に化かされたかな」
私は誌面上に繰り広げられるピンク色の営みを眺めつつ返事する。
「この町に狐はもういないよ。私が殺したからね。そこで何か買ってないの? レシートに店名あるはずでしょ」
彼はポケットを探るが、出てくるのは鍵や携帯や財布のみ。
「買ってない……みたいだ。ううむ何を買ったのか思い出せん」
N氏はその帯霊体質のせいでヘンなことに巻き込まれやすく、今回もその類かもしれなかった。彼の天然ボケが発揮されただけという事例の方がどちらかといえば多いのだが。
「何かおかしいねその店。興味深いところではあるけども、ヘンだと思わなかったの? どうして入ったのさ」
「性欲を持て余してたからな」
……真顔で言うんじゃない。
というわけで彼のうろ覚えのココロの地図を頼りに行くことになったわけだ。
ここ名呑町の駅裏の一区画は通称「裏名呑」と呼ばれ、小路が入り組み廃墟と寺社と飲み屋とストリップ劇場と乱暴に建て増しされた違法建築物が絡み合い、複雑怪奇なある種の九龍城砦めいた様相を呈していて、そこにはシンプルな表通りを歩む者には想像もつかぬ得体の知れない店が数多くあった。
そして――ぶっちゃけると目的地はN氏のライフワークことエロ本収集に役立つエロ本屋である。但しただのエロ本屋ではなくハンパなきエロ本屋である。
同性愛も異性愛も異形愛もドMもドSもみんなよっといで、品揃えは古今東西老若男女向け、古くはカーマ・スートラ写本や房中術、「成り成りて成り余れる処を成り成りて成り合わざる処に刺し塞ぐ古書」から、マニアックなところに行くにつれ「デボチカをサプライズ訪問してイン・アウトする映画のフィルム」とか「火星文化で水兄弟の間で自由に和合生成するSF小説の生原稿」にまで及び、更には未来の「先鋭的すぎてちょっと何言ってるかわかんないです系」のエロティシズムまで備えた秘宝館さえ超越したエロ本屋だというのである。読者諸氏も知識と後学のため知っておきたいところであろう。誰だってそーする。私もそーする。
めくるめく性と快楽の曼荼羅。悦楽と煩悩の叡智。
ところでN氏のストライクゾーンは星の彼方にまで届くかと思われるほど広く、カルトなエロ漫画家の投げる悪球をこそグワァラゴワガキーンと打ちとる。
が、そもそもそんな悪球自体が世の中としては少ないので(当たり前だ)、N氏は四六時中「彼自身」の性的嗜好にジャストフィットするベストなエロ本を探索収集しているという――魂のエロ放浪者にして孤高のエロ旅人、ことエロの一念の前には煩悩さえ捨て去るパラドキシカルなエロ修行僧にしてストイックなエロ求道者、エロ練習熱心なイチロー或いはクレイジーなエロキチ三平にしてその有望なエロセンスと無意義なエロ知識に裏打ちされたエロメディアへの目利きとエロへの探究心はまさに圧倒的エロ小惑星探査機はやぶさの辿り着いたエロ小宇宙なのである(?)。
一瞬意味不明な美辞麗句が羅列されたが大丈夫、心配せずとも私はクスリなぞやっていないったら。きちんと末尾に茶目っ気の「(?)」と書いているあたり正気の沙汰である。正気で書いていれば何でもいいのかと返されればぐうの音も出ないが。
「それで、その『煩悩巨人の桃色脳ミソに出入り口をつけたような最高に品揃えが豊富な店』はどこにあるんだい」
「性欲を持て余す!」
気合十分に吼えると、N氏は早足で歩き出した。おお、方向音痴の彼がいつになく頼もしい……私の質問には答えていないが!
ここ裏名呑は地盤の磁気によりコンパスが通用せず、常に増改築されてひしめく建物のせいで地図アプリも役立たずという甚だ非常識な場所である。道を歩いていたはずが屋根の上に出ることもしばしば、どこぞの遺跡のように左に曲がりたい時は「右に曲がって右に曲がって左に曲がる」というなんとも右曲がりのダンディーにしてへそ曲がりな空間である。
先を行くN氏と共に一人分しか通れぬ路地を進み(原付が走ってきたので慌てて戻った)、古く苔むした廃屋の軒先をくぐり抜け(二階と別の家の二階が空中でハシゴを渡され、そこから子供たちがこちらをジッと見つめてくる)、妙ちきりんな名状しがたい像が沢山置いてある広場を過ぎ(この辺りの人々だけの昔ながらの信仰らしい)、ここの人々に迷惑をかけぬよう身を隠してカサカサと壁から壁へ伝うように移動した。
そうして彼はとある曲がり角の陰から壁を叩き、真剣な顔で私に合図した。
「この先かい?」
尋ねると、彼はフフフと顎を上げて先を指差した。
「性欲を持て余す」
読者諸氏のため、こいつ殴ろうか? さっきからちょいちょい性欲を持て余してばかり……言葉のキャッチボールで魔球を投げるんじゃない。いや言葉のドッジボールか。
ふと懐で着信音がしたので携帯を見ると、友人の天使姫からメールが来ていた。彼女は最近占いのメルマガを始め、巷でよく当たると評判になっている。
件名:ネガティヴエンジェルのお先真っ暗注意報\(^o^)/
本文:みんな死にます\(^o^)/いのちをだいじに\(^o^)/本当にこれって事実なんでしょうか\(^o^)/でも少しでも先を知る私の気持ちがわかって頂けるのでしたら、それはとっても嬉しいなって\(^o^)/追伸、バンダナはしっかり締めておけ!
お、おう。君が何を言っているのか全然わからないよ。とりあえずN氏のバンダナは大事らしいので後でコーンヘッズになるレベルにまできつく巻いておくとして、私は深呼吸して角を曲がって先へ。
……と。
私の頭から警報と共に「!」が出た。
曲がり角の先には髪の長い女性がいた。色白。口元のほくろ。一見紅茶とバラのジャムしか食べないような美少女にしか見えないがもう三十路。しっかりしているように見せて騙されることにかけては右に出る者のいない歴戦の被害者にして希代の阿呆。
こちらに気づくなりやってくる。
「あ! 奇遇だね、ええと――オカルト大好きっ子くん?」
「そんなラジオネームみたいな名を名乗った覚えはありませんけど」
丸木戸サド子さんは、てへぺろと「言って」舌を出した。なんせ十代にしか見えないのでそれが可愛いことは可愛いのだが、三十路でそれを行う勇気は素晴らしいと思う。心臓が毛深いのだろう、モッサリとジャングルが如く。
「丸木戸さんこんなところで何してるんですか」
「聞いてよ、それがさあ。今付き合ってる彼が家出してきたネカフェ難民なんだけどお」
またこの人はダメ男に引っかかっているらしい。
「それで会いに来たんだあ☆」
語尾のみならず瞳にさえ☆を入れて語っているのが痛々しい。まあ蓼食う虫も好き好き、割れ鍋に綴じ蓋とも言うし私の干渉するところではない。
「ネットカフェ? こんなところにあるんですか」
「知らないの? 最近出来たらしいよ。君は何でも知ってる知識魔人だと思ってたけどねえ」
いいえそんなことはなく、とかく世間は私の知らぬことばかりである。てれび戦士がいったい何と戦う戦士なのかとか3DSのセレクトボタンが一体何をセレクトしてるのかとか江頭2:50が午前なのか午後なのかとか。
「そのネカフェが裏名呑にあるんだって。でも道に迷っちゃってさあ……じゃあ、一緒に、来てくれるかな?」
いいとも、と言うわけにはいかない。
「用事あるから嫌です」
「ありがとう、じゃあ行こっか」
決め打ちの即答。
「もしもーしこちら地球、聞こえますか聞こえますか? 嫌だって言ったんですけど」
「え!? 用事あるの!?」
そんないつも暇な人みたいな言い草は傷つくんですが。
「ありますよ。そこのN氏と――」
「あ、Nくんいるんだ? おーい」
手を振ると、物陰からおずおずとやってくるN氏。照れた様子でお辞儀して挨拶する。年上の女性を前にして先程までの迷惑キャラは置いてきたらしい。バンダナも捨てている。ええいこの程度でやめるくらいのキャラなら始めからするな!
「元気そうスね」
「うん、元気! 私、生まれ変わったんだ。断捨離のありがたい本を読んだおかげでね! 余計なものを捨ててスナフキンみたいに悟りをひらくんだあ」
断捨離とはこれまた古いものを。
「へえ、効果あるんスか」
「あるよお。人間は起きて半畳寝て一畳。人生はいらないものが多すぎるんだよね。どんどん捨ててるもん。君もやりなよお」
うわあ丸木戸さん、楽しそうだあ……。
と、N氏が視線を逸らして無表情に私を見つめる。彼の表情筋は殆ど動いていないが若干眉尻が下がっているので困っているのだろう。面倒だったので私は軽く目を逸らした。
ま、効果があろうが無かろうが他人の趣味をとやかく言うべきではない。
「もう断捨離の本と見るや買っちゃってね、たくさん集めて読んでるんだあ。もう断捨離の本だらけで寝る場所がないくらい」
お金をドブに捨てるという意味で断捨離とは流石丸木戸さんは斬新である。
「それはそれとして、君達の用事って何? どこ行くの」
私はN氏に目配せし、背中を叩いた。
「行き先は……」
ホラ言えよさっきみたいに性欲を持て余すって。我々はエロ本を買いに行く旅の仲間なのですって。ありったけの夢をかき集め探し物を探しに行くのさ、と。
「……煩悩巨人の脳みそに出入り口をつけたような最高に品揃えが豊富な店ス」
濁しやがった。
しかし丸木戸さんの大きな瞳が更に大きくなり、曇天に光が射し込んだように表情はパアッと明るくなった。
「なんだ、同じじゃん。彼が言うにはそのネカフェは『煩悩巨人の脳みそに出入り口をつけたような最高に品揃えが豊富な店』らしいんだあ。じゃあ、一緒に行こうよ! けってーい!」
奇跡的に店の説明が一致してしまったので三人で連れ立ってネカフェを探しに歩き出すことになった。
キュアドリームめいて強引かつウキウキしている丸木戸さんには口が裂けても言えなかった。
我々が目指しているのはネカフェなどではなくすごくすごいエロ本屋なのです、などとは。ただ、これ以上あれこれと言ってよからぬ詮索を受けるのは得策ではない。
「お前なんで言わないんだよ」
彼が小声で私を責める。
「や、あの人三十路だけどなんか精神的処女っぽくて下ネタ苦手そうだし……てかN氏がキチンと言わないせいでしょうよ」
彼は肩を竦めてヤレヤレとため息を吐いた。しみったれた呆れ顔である。
「お前、エロ本屋に連れていってやってんの俺だぞ?」
カチン☆
「私は別に連れて行ってくださいなんて頼んだ覚えはないけどね」
「感謝の気持ちって人間の常識だと思ってたぜ……」
「そこまでだ、命は大切にしときなよ」
そう言ってもまだ四の五のぐちぐち吐かしやがるので、私は口論を諦めたと見せかけて彼が捨てたバンダナを拾い、すかさず背後から額を孫悟空の緊箍児のようにギリギリ絞めてやる。
「命を大事にしない奴なんか大嫌いだ! ぶっ殺してやる!」
N氏はニワトリじみた鳴き声をあげながら「い……いのちだいじに!」と私の腕をタップしたので緩めてやる。
「ケホケホ、お前それこっちの台詞……」
「今のはクリリンの分! そしてこれは……」
そこへ丸木戸さんが近寄ってきて喧嘩両成敗とばかりに我々の頭を叩いた。
「ポカッ」
結構痛いのだが彼女が口にした効果音は上記のそれである。
「どうしてケンカするの! もしかして君達、仲が悪いの?」
良くはないな。
どうして喧嘩したのかと問われて考えてみると、元はと言えば目の前にいる丸木戸さんの強引な性格のせいではなかろうか。横を見るとN氏もそう思ったらしくひとまず休戦とあいなり候。
★★★★
裏名呑の住民に目的地を尋ねてみることにする。
とはいえ注射器と白い粉を持っていたり心がネバーランドにイッちゃってたりブリーフ一丁で包丁を持って歩き回ってたりと、もはやちょっとした異世界ファンタジーで、見るからに危ない人を避けるなら後は老人と子どもしかあるまい。
「あの、この辺りでネットカフェを知りませんか」
腰がなかなかの湾曲度合なせいでまるで牛海老のようになっているお婆さんに話しかけるも、
「それってあの『煩悩巨人の脳みそに出入り口をつけたような最高に品揃えが豊富な店』かい? 知らないね。行かない方がいいよ」
などとあからさまな嘘を吐かれる始末。
子供たちに聞いてみると黙って人差し指を上に向けた。目的の店を見つけるためには高いところから一望しろということらしい。我々はとにかく高い場所へと進む。
ただし上へ向かうためにはやはりまず階段を下って下って上がる必要があり、果たして我々は何のためにここまで苦労しているのだろうという疑問を押し殺しながら屋根から屋根へ飛び移る。
N氏はその間ずっと「ネカフェとエロ本屋は同じ店じゃないよな? それって色々問題だしな……」としきりに首をひねり、身体の衰えはじめる三十路の丸木戸さんは流石に足首をひねり、私は華麗に後方宙返り四回転ひねり(勢いに任せた大嘘)。
最も高い屋根から裏名呑を眺めると、ある一角だけ妙に派手な場所があることに気づく。のぼりが立っており、そこには明朝体で『煩悩巨人の脳みそに出入り口をつけたように最高に品揃えが豊富な店』と堂々と宣伝文句が書かれている。
「なるほど確かに言った通り」
そこを目指してトタン屋根を飛び移ると、左右の分かれ道だったが、我々は誰もどちらに行けばいいのかわからなかった。
しかしそこで丸木戸さんが得意げに提案した。
「知らないのお? 人間心理は左を選びやすいんだよ。罠があるとすれば左だから右に進めばいいんだよ」
罠はありえないだろうが、一つの指針には値するか。
というか今時クラピカ理論を我がものとばかりにドヤ顔で語るこの人には気を遣って言わないでおいてあげるのが大人の分別というものか。
「左」は罠。
我々は右を選んだ。数分歩くと景色が薄暗くなり道が裏名呑の地下洞窟へと通じているのがわかった瞬間、立ち止まった。
目前にはバケモノが大口開けているような暗闇。生臭い風が這い寄るように吹いている。
明らかに道を間違えていた。無駄知識が無駄足を踏ませたのだ。
私とN氏は恨みがましく丸木戸さんを見つめたが、彼女は目を合わさず口笛を吹いてみたり「あ、UFO!」などと言ってみたりして誤魔化そうと必死である。誤魔化しの手法がいささか古典的でどことなく昭和の香りが漂うのはその年齢の成せる業であろう。
「戻るか……」
N氏が疲れた声を出して踵を返したので、それに続く。彼はもうなんだかんだと争いたくない様子であった。けんかはよせ、腹が減るぞといった風情。
しかし。
「そういえば誰でしたっけ、さっき右に進めばいいって言ったのは」
私の得意技、当てこすりが炸裂。責任の所在は明確にしておかねばなるまい。
「私じゃないよ。クラピカが言ってたんだからクラピカのせいだよお」
先程の提案は漫画の登場人物の発言だったということで責任転嫁。この人は本当に三十路なのだろうか。
「はいはい」
非実在の青少年は生贄にするのにとても便利なことであるよ。
★★★★
十数分後、果たして我々の前には異様な建築物が聳えていた。
統一感も節操もなくぬいぐるみや看板、西洋絵画や大人のオモチャやクリスマス電飾などなどが安っぽいビニールテープで壁の全面にびっしりと結びつけられているのである。センスあるコラージュというよりは満艦飾のカオス。もはや壁の地肌は見えず、建物の元の輪郭は掴めない。バス停やミラーなども取り込まれ、混沌とした様相は腐海の森のようである。一部の看板に英語で「WORLD FAMOUS」と書かれている。
「いや……それほど有名じゃないと思うな。私知らなかったし」
丸木戸さんが冷静につっこんだ。私はこういう混沌を漂わす建物は大好物だが、N氏は気が進まない様子である。
「おかしい。これは例の店じゃないんだがよく似ている。以前見た外観はこんなじゃなかったんだが、雰囲気というか……」
「どう見ても怪しいけどさ、せっかくここまで来たんだし行こうよ。同じ店かどうかは行けばわかるさ。ホラよく言うじゃん、虎穴に入らずんば?」
「安全」
N氏はある意味での真理をボソリと答えた。私は肩を竦める。
どうしたものか……。
「いらっしゃいませ」
背後から声をかけられ、我々はびくりと振り向いた。気がつくと後ろには燕尾服姿に片眼鏡をつけた老紳士が立っていた。
「『バベルのネットカフェ』へようこそ。当店は誰でもウェルカム……! 豊富な品揃えと『知識』の宝庫を売りにしております」
「あの、ここってちょっと前は別の店じゃなかったスかね」
N氏の問いに、老紳士は誰もが心を許しかねない優しい微笑みを繰り出した。
「ええ、おっしゃる通りです。短期間で様々な店に変わりましたので。ある時はアダルトショップ、今はネカフェ、昔は貸本屋でもありましたな。そもそもは私の書斎と書庫を改造した私設図書館だったのですがね」
憧れ。書斎と書庫を持つことは私の夢の一つである。
「自分の書庫を持てるなんて羨ましいです」
彼は私の顔をまじまじと見た。
「ほうほう。読書家とお見受けしましたがいかがかな。貴方に一つ質問をよろしいでしょうか。貴方の部屋の本棚に本は全て入りきっていますかな?」
「や、いかにも入りきらないんですよ。私は本はいつでも近くに置いて読み返せるようにしておきたいので、売る気にはなれませんし捨てるなど言語道断です」
隣の断捨離レディーが「捨てる」という単語に過敏に反応して何か言いたげであるが、私の問題なのだから放っておいてもらおう。
「そのくせ新しい本は買うので、本棚の空いた隙間に横にして入れたり本棚の上に置いたりして、とんでもない有様ですね。そういう意味では電子書籍が便利なのですが、それも古今東西の本を網羅しているとはまだまだ言えませんし」
老紳士は私の手を取ると両手で握ってブンブン振った。運動不足の私の肩は今にも外れそうだ。
「素晴らしい! 私はかねがね思っておるのですがね、本棚に本が収まっている人間は本を読まない人間なのですよ。飾っているだけなのですよ。真に本を読む人間ならばそれは増え続けるのが道理なのですから。となれば貴方は真の読書家、知識の探求者と言わざるをえないでしょう」
この老紳士の慧眼に私は脱帽した。全く非の打ち所がない素晴らしい意見である。やはり大人物たる器の大きさはわかる人にはわかってしまうのか。
「しかし書庫にも必ず限界はありますな。そこで私は無限に広がる四次元の図書館を作り出すことに成功したのです。それはまさに知の宝庫と言っても過言ではありません。ただし図書館があまりにも儲からなかった――意外と人が来なかったもので商売を鞍替えしていったのです」
「ではあなたは、ここのオーナーなんですか」
彼は王に相対した中世の騎士のように恭しく深々とお辞儀をした。
「ええ。どうも、オーナー兼店長の夜神左です。偽名です」
「でしょうね。本名は」
片眼鏡越しにニッコリと笑う。
「お客様、偽名を名乗った相手に本名を尋ねるのは野暮というものですよ」
うぐ。
「にしてもふざけすぎでしょう」
「では譲歩いたしまして、Nとだけ言っておきましょうか」
N?
私は傍の不機嫌そうな横の男の腕を取って引き寄せた。
「珍しいですね。この男もN氏というんですよ」
「ほうほう。別名は」
N氏は口を噤んだまま答えない。
「ないみたいです。きっとプレーンのN氏なんですよ」
「では混乱しますから、私の方はどうぞ左と」
「なんでもいいけどさあ、ネカフェに入りたいんですけど」
丸木戸さんが割り込んできた。
「ええ、申し訳ありませんでしたね、早速店内へどうぞ」
左さんに案内され、鼻息荒く丸木戸さんは行く。我々も置いていかれないようについていく。
「無限の彼方へ、さあ行くぞ!」
読んで頂きありがとうございます。