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N氏  作者: 誇大紫
15/22

天使姫騒動(後編)

縄屠蘇家にて、天使姫の祖母から因縁の話を聞いた「私」。彼女がまだ幼い頃、母親が山の神と交わった結果、生まれたのが弟だった。生後数週間で急成長し、心も未来も読む弟は鬼子扱いされ座敷牢に監禁される。それでも彼が最も求めたのは母親、そして自分の名前だった。別の座敷牢に監禁されている母親に忍んで会うが、名前を教えてもらう前に彼は縄屠蘇家の者と村の人々により殺されてしまう。「お前ら全員もっともっと酷い目に遭うんやぞ!」それ以来、彼は呪いとなり人々への復讐の機会を狙っている。「私」にかかった呪いの経緯はこのようなものだった。一方、天使姫が予言した「世界」の終わりまで残りわずか――。

八、今日は明日の前日だから


「どうしてフジテレビはいっつもバラエティノリなんやろか。ニュースやろコレ」

 祖母が言った真意は掴みづらい。ガチャピンの如き寝ぼけ眼の彼女は感情というものを表さない顔なのである。

「さあ……あ、じゃあNHKに変えましょうか?」

 N氏はリモコンを手にした。

「よか!」

 強めの語調の祖母に、彼は怯えて首を竦めた。

「……よか?」

 私はN氏の脇腹を肘で突く。

「このままでいい、ってことだよ。そういうのが好きなんだろ、婆ちゃん怒らせんな」

 N氏の顔に「え、俺が悪いの? ていうかそもそも俺はお前の詐欺被害者じゃねえの?」と書いてある。

 N氏が泊まったのは我が祖父母の家である。とはいえ飯代と宿代が浮いたのだからその不満げな顔はやめろ。

 祖父と祖母とN氏と私は食卓を囲み、チーズを乗せたトーストと低脂肪乳とちぎったキャベツやミニトマトのサラダを食べていた。

 左手のみで食べるのはなかなか難しく、ミニトマトが私のフォークから逃げ出すこと幾多。

 テレビではお洒落なレインコートを着た女性レポーターが嵐の中でキャーキャー喚いている。何となくコメディな映像だが、「屋根の補強をしていた老人(68)が転落、亡くなりました」とテロップがしれっと出ていた。

 台風がまさにこの地域に向けて非常に順調にやって来ているのがわかる。まるで何かの呪いか――誰かの祈りのように。

「お婆ちゃん、一年くらい前にこの町で死んだ女の人がいるんだけどね。四十代くらいかな。縄屠蘇の人なんだけど、何か知ってる?」

 祖母は聞いているのかいないのか、口を牛のようにモグモグさせている。最近使いはじめた入れ歯がうまくいかないのか、心配になるほどずっと噛んでいる。しかし入れ歯について尋ねると「入れ歯なんてしていませんよ。言い掛かりはやめなさい」と何故か敬語で怒り出すので黙っていることにする。

「……縄屠蘇ってバケモン屋敷かや。わからん。ばってん一年前はこの辺はえらいことばっかやったよ」

「…………」

 我々は頷く。

 庭の雀が雲間から射し込んだ陽光にチュピチュピ鳴いている。

「…………」

 祖父が湯呑みの牛乳を啜り飲んだ。然るのちに祖母は口を開く。

「お父さん牛乳は冷たいんやけん、そげん音立てんでよかろうもん」

「いや続きは!?」

 私とN氏の声がユニゾンしたが、祖母はテレビを見つめたまま路傍の地蔵と化したように答えなかった。諦めて私とN氏は別の角度からの情報収集を検討する。

「……で、お前の話じゃ明日天使姫が『世界』の終末を起こすらしいがどうすんだ。何があるのかもわかんねえし。今日は日曜で学校は休み、天使姫とかその他にも会えねえし。な、先生?」

 N氏が私の肩を叩いた。

「大丈夫。なんとかする方法は六十二個ある」

 私は笑顔で返す。

「そんなに!?」

「そのうち六十一個はN氏が死ぬけど」

「ほとんどじゃねえか!」

「残り一つは、N氏が何とかするけど」

「投げっ放しかよ」

 と、N氏も何も思いつかないようであるならば致し方ない。これはあまりやりたくない方法だが……。

「やり方なんていくらでもあるさ。世界は広いんだから」

 今から行うことは聡明なる読者諸君におかれては対策もきっちりなされていようから、私の「手口」は既に想定済みであろうが、願わくば私とその発言に引かないで頂きたい。当時の私は精神をやられ右手をやられ色々追い詰められていたのであるからして。

 N氏のことは嫌いでも、私は嫌いにならないでください!

 先に食事を終えた私は、N氏に説明する。

「まずはアイフォンからツイッターへアクセスして、呟き内容とユーザーの両方に検索をかけていく」

 さてさてまずは呟きの閲覧にロックもかけてないアホからいぶり出させてもらおうか。私は左手を触手の如く蠢かせ、N氏より余程役に立つ機械に触れた。

「お前って驚くほど性格悪いよな」

「知らなかったの? 驚きだ。ああ、LINEは学校側が保護者にお願いして『発覚すれば内申に響くほどの校則違反』って言っているから、この進学校光ノ丘高校ではかなり少ないはずだよ。生徒達が持っている携帯電話の番号は全て学校が控えているわけで、発見も楽だ。この前、どっかで未成年が殺人を犯した事件があったでしょ? 犯人がLINEで色々チャットしてたエグい会話が証拠として残ってたのが、学校としては恐ろしかったんだと思うな。LINEのチャットは一方的には消せない仕様だからね。例えば生徒達のLINEから『イジメ』に関するやり取りが見つかってしまったら学校は知らぬ存ぜぬできなくなるからね。あとはフェイスブックやってくれてりゃもっとすぐわかるのになー。日本じゃちょっと少ないんだよ」

 横のN氏が顔をしかめているのが気配でわかる。

 ……何だよ文句あるか。

「これは世界中の誰でもできることなんだからね。牛丼事件とかアイス事件とか色々あったじゃないですか。フフ」

 検索に使うキーワードは、光ノ丘高校、略称である光高、台風、手光(てびか)(最寄り駅)、近くのゲームセンターやチェーン店ではない本屋などなど。勿論はじめに「天使姫」で検索をかけてはみたが、この日本にいる仮名ペンネーム源氏名アカウント名ミドルネームも含めた赤の他人の天使姫が何人も表示されるので、絞り込むのは容易では無さそうだった。

「いつもこういうことしてんのか。教師が」

 N氏が教師に一体どういうイメージを持っているのか知らないが、私は何ら法に触れているわけではないしまだ教員免許も貰っていない。

「この前、授業中にコソコソ何かやってる子がいたんで、後で検索かけたら実名アカウントで『実習生の授業ヘタすぎwwwねむーい』とか呟いてるアホもいたけどね……どうせフォローしても青木さやかばりに『どこ見てんのよ!』ぐらいにしか考えないんじゃないかな。どうして見られたままでそんなことを呟けるのか、全くわけがわからないよ」

 そうこうしているうちに我がクラスの何名かが見つかった。どちらかといえば女子の方が見つけやすい。アカウントに使われている画像がプリクラ(目が大きく肌は白くなっているが)であったり、彼氏の名前を本名でそこに書き込んでいたり自己紹介文に抑えきれぬ自己顕示欲が出ていたりするので一発である。

「どうしてこんなこと書くかな……ストーカーされちまうかもしれねーのに」

「おそらく彼らの脳内はプライベートを晒しても不審者が近寄ってこないとてもとても平和な世界なんだろうさ。勿論不審者が悪いに決まってるけれど、だとしても……彼らは『世界』が狭いとしか言いようがない。実質的には全世界に公開しているのに、感覚的には仲間内にしか公開していないと思っているのかも」

 とはいえ「世界」が狭いことの害悪は古くから様々な場所で続いている伝統なわけだけれど。その場所を生まれてから一歩も出たことのない奴らは他者排斥の傾向が強いのだ。

 ……とにかく、彼女らに共通するフォロワーなどを探していくと更に何名か(今度は男子も入っている)が見つかる。勘違いチャラ男松宮はこの段階で発見。そのフォロワーに実名ではなくロックが掛かっている怪しいアカウントを発見した。

「おそらくこれがビッチ前野のアカウントだね」

「でもロック掛かってたらわかんねえんじゃねえの?」

 私はN氏にそのアカウント画像を見せた。とあるバスケ漫画の二次創作画像。髪の色の違う男二人が抱き合っている。

「前野はこの『黒子のバスケ』にハマっている。キャラクターの下敷きを使っている。更に言えばこの画像のようなカップリングを好きな者は珍しく、クラスの腐女子の間では前野しかいないことでネタにされていた。ほぼ確実に前野さ」

 抑えきれぬ欲望によりバレてしまったのだ御愁傷様。なかなかの難問であったが。ただし、わかるのはここまでである。一人で複数アカウントを持っていることも考えられた。

「まあ、最悪アカウントが判別できない怪しい生徒達の近所で夜中に爆竹鳴らしたりN氏に全裸で踊ってもらったりして反応ツイートを見るところだったから簡単に済んで良かったよ」

 そうして生徒達のSNSや学校の裏掲示板やスレッドを探して全て把握した。勿論それらをやっていない生徒もいるようだったが。

「次はどうする? まさか全員分のアカウントの過去ツイートを探るのか」

「君にはそれをやってもらいながら、私はこれで動きを見る」

 ディスプレイには「天使姫」という名のアカウントが表示される。アカウント画像は聖書。ツイート数ゼロ。フォロー数ゼロ。フォロワー数ゼロ。要するに何の活動も行っていないアカウント。

「それ、お前が作ったのか?」

「うん。本人がツイッターをやってないことは以前に話して知ってるからね。天使姫に偽装したこれで今からクラスメイト達を可能な限りフォローもしくはフォロー申請する。ツイートはしなくていいんだ。どうせ彼らはブロックする。でもその前に、本物かどうか確かめるためにこの自己紹介文を読むだろう」

 アカウントの自己紹介欄にはこう書いてある。「見つけた。明日が楽しみ」。明日、いったい何が起きるのか、何をしようとしているのかわからないが、カマをかけるにはこれで十分であろう。

「そうして不安になった者から、何かしらのリアクションを起こす。天使姫いじめのリーダーに連絡をとったり、はたまた匿名性が確保されている掲示板で話し合ったり」

「なるほど、そこで新たに出る会話から明日の情報を得るわけか」

 ウフフ。楽しいね、楽しいね。やはりやられっぱなしは性に合わない。攻めて責めてやるのだ。

「でもそんなんで本当に動揺するか?」

「勿論動揺しない者もいるだろうさ。しかしイマジン(想像してごらん)。全ては恐怖にあるんだ。ずっとイジメ続けてた相手が急に自分を見つけ出してフォローしてくる。自分の知らない角度からの不意打ちだ。少しでも恐怖した者はイレギュラーな行動をする。後ろめたい奴、イジメが悪いことだと自覚している奴、空気に流されてろくに考えずに参加してた奴ほど何かしらの動きを見せる」

 そうして半日ほどかけて我々が見つけ出したのは――「あれ何。本人か」「明日どうする」「予定通りだろ。完全に舐めプ」「葬式行かなきゃいけないかな?」「元凶を消せばいいだけ」――などなどだったが、色々と読んでいくうちに知れた計画は。


 明日鈴木天使姫を殺す。

 自殺させる。


 ……というものだった。くらりと視界が歪んでくる。本気か。「殺す」って何だよ天使姫が何かしたのか。或いはこれも天使姫の周到な計画か?

 ――お前らこれから……。

 脳裏にやってくる台詞は何度も何度も頭蓋骨の中を反響する。右腕の痛みがそれに呼応する。生徒達にはこの痛みを知らせてやらなければならぬ。

 ――お前ら、もっと、酷い目に。

「おい、大丈夫か。怖いこと言うなよ」

 口から零れていたらしい。慌てて手を振る。

「大丈夫。私は別に……」

 再びアイフォンの画面に視線を戻すと、天使姫のアカウントが勝手にツイートしていた。三十秒前に、「お前らこれからもっともっと酷い目に遭うんやぞ」と。

 操作できたのは私しか考えられない。無意識にツイートしたのだ。暴力衝動の加速。ぞくりと背筋が冷えた。

「一年前の酷いこと、思い出したよ」

 しわがれた声に振り返る。祖母が背後に立っていた。沈黙の霧が我々を包んだ。

「一年前、この辺は死人こそ出らんかったけど、事件ばっかりやったよ。ウチは猫のことがあるやろ? これ以上何か言われたくないけんあんま地区会に関わらんで、縄屠蘇のこともできるだけ見らんようにしとった」

 祖母は能面のように無表情な顔で白くなった頭を掻いた。しかしざらついた感情が皺の隙間に見え隠れする。

「そんで縄屠蘇の()が亡くなってからや。せからしい地区会で苛々しとんしゃった老人達がある男を馬鹿にした。理由はないんよ。むしゃくしゃしとったんや。その男は嫁と子どもを殴った。嫁は子どもを叩いた。子どもは猫やもっと小さい子や弱い子を叩いた。もっと小さい子は虫を殺した。そんなことがそこかしこで起こった。地区会を中心に皆が皆に、はらかいとった。誰かが誰かを刺したとか、そんなんばっかりの地獄やった。ちょっとしたら混乱は落ち着いたけど」

 落ち着いた……?

 祖母はおもむろに台所に立つとスイカを切って持ってきてくれた。話は終わったらしい。

「ああ、お婆ちゃん、ありがとう」

 落ち着いたのはおそらく新しいスケープゴートを見つけてしまったからだ。連綿と続く生贄家系の最新版。縄屠蘇家と関係ないはずの彼女がやはり捌け口に選ばれてしまったのだ。

 昨日の帰りに彼女の暮らすアパートに寄ったが、廃墟のようなそこに住んでいるのはもう彼女だけらしく、敷地内にゴミが投げ捨てられ落書きされ窓ガラスは割られていた。あいにく彼女はいなかった。

 噂では大家は彼女を叩くためだけにこの建物を地区会に寄付したというから、かなりどうかしてしまっている。

 つまり地区会を中心とした地域ぐるみで一人の女の子を叩いているワケで、もはや教室どころではなくこの地域全てが彼女の敵なのだ。

 話が見えてきた。全ては、彼女が死んだ後に起こるのだ。

 彼女の目的。クラスメイトの目的。そして見えない化け物の目的。それら全てが明日の彼女の死に関連している。

 右腕と心臓付近が痛む。今はそれが真相に近づいているのだという担保となる。下手をすれば事件を調べていたフリーライターが死んだのと同じ轍を踏むだろうが……。

「ちょ、痛い。あいたたたたた」

 息をすると肺が痛むので抑揚のない――緊迫感のない声しか出てこない。立っていられないほどの激痛。祖父も祖母も気づかない。笹の葉が擦れるように胸がざわめく。

 落ち着け。ダメージを受けて弱気になるな。

 落ち着く方法はこの前読んだ漫画で知っているだろ。

「素数を数えるんだ……あれ素数って何だっけ」

 頭がパニックになる。

「おいおい先生よー」

 トイレに行っていたN氏が帰ってくると、痛みが和らいだ。深呼吸して調子を戻す。バカなせいでうっかり死にかけたぜ。やはり勉強は大事だ読者諸君。

 霊媒体質のN氏に取り付いた何かなのか、それとも彼自身の影響なのかはよくわからないがとにかく地獄に仏といった心境で彼に感謝である。

 網戸が内側に大きくたわんだ。突風が吹いたのだ。卓上の郵便葉書やメモ帳が公園の小鳥たちのように飛び去った。

「台風が近い。窓閉めて雨戸した方がいいな」

 N氏の言葉に従い、家中の雨戸を閉めていく。外はもう日が沈みかけていた。

 夕暮れに、ムクムクした入道雲の縁だけが茜色をしている。雲は早送りしているような速さで千切れ解けていく。

 奥から奥から迫ってくる夜はまるで地平線から何かを生み出そうとしているよう。

 けれど一番星は、どこにも見えない。

 「世界」の終末まであと一日。



九、ポケットの中の世界


 台風なのだからさっさと休みにすればいいというのに。

 授業計画に支障が出る?

 今日で実習が終わる私にはそんなこと知らんがな、後は野となれ山となれといった風情である。

 早朝の職員会議にて誰も「休みにした方がいい」とも「休みにしない方がいい」とも発言しなかったので、なんとなくで生徒達はやってくることに決まった。雨も風も次第に強くなっていくが。

 やってこさせておいて「台風が来ているから帰れないな」という理屈でもって通常営業。詐欺じみていて生徒達にはこの上なく影響が良くない在り方だが私は知らぬ。

 今日は――最終日なのだから。

 職員室を出て教室に向かっていると、廊下の窓辺に天使姫が佇んでいた。私は一瞬、昨日勝手に作った天使姫を騙るアカウントに思い至るが、まあいいさ、と隣に立った。

 窓を覗くと中庭が見える。二人でよく話した、あの影の濃い繁みはもう無い。セイタカアワダチソウも女郎蜘蛛の巣も既に無いのだ。

「休みのうちに業者が入って、中庭を掃除したらしいよ」

「えっ? ああ。そうなんですの……」

 天使姫は相変わらずこちらと目線を合わさずに会話する。

 雑草も薄暗い場所もなくなった中庭は嵐が吹き荒れている。舞い上がる木の葉。

「先生、あの風は出口が見つからないからああして荒れ狂っているのでしょうね」

 風がグルグル渦を巻き、弾丸のような大粒の雨が目前の窓にバラバラと撃ち込まれた。

「どうにかして出して差し上げたいものですわね」

「ほう。どうするんだい」

「えっ? 先生の考えていることと同じです。この学校を破壊いたしませば、風は出られるのですわ。穏やかに天に消えてゆくでしょう」

 当たり。確かに私もそう思ったが。

「いいや、ワザワザそんなことしなくたって、渡り廊下や空から抜け出せばいいと思うね。労力が断然違うから」

 天使姫は口元に手を当てて控えめに笑った。

「えっ? 先生はやっぱりヘンですわ。どうして心を読まれているのに、ワザワザ嘘を吐くんですの? それこそ労力が違うでしょう?」

 この学校の他の一切はどうでもいいが、天使姫とお別れするのは寂しい気がする。

「私は意味の無い嘘だって吐く嘘つきだから。特に今日は。購買の激辛麻婆茄子パンを食べたって平然と美味しいって言いますよ」

 君に高校時代の私を見せてやりたいよ。

「さて、そろそろ行かなきゃならないね」

 世界を呪う暗黒のドブネズミを。黒魔術の本を読んで、大嫌いな学校を魔界に送り込めないかと儀式をやっていた私を。

 深夜二時に黒いコートを羽織って。生贄の蛙を殺すことはできなかったけれど。

 ただそれは真に迫っているだけにとてつもなく滑稽で。

「何をどうするか知らないけれど、君の企みは失敗するよ。世界を作り変えられずに、きっと君は泣くだろう」

 ……きっと君を笑わせるだろう。

 天使姫は珍しく微笑んだ。

「では参りましょうか。戦場(いくさば)に」

 望むところ。


 二年一組の教室に入ると天使姫の机に花が飾ってあった。小瓶に挿さった一輪の白菊。その周りで女子生徒達が片膝をついて手を組み「お祈り」していた。

 その様子はまるで西洋の葬式のようだった。今日、死んでしまう天使姫に対しての。

 よく見れば泥のついた酒瓶と野菊なので、これがまさに天使姫への厳かなる一撃目ということなのであろう。天使姫は口元をキュッと結ぶと歩き出した。

 全く、ナメクジだらけのキャベツのようにタチが悪い。

 しかしここで事を荒立てれば私は教員免許は貰えず、更に後々大学の後輩実習生も受け入れて貰えなくなるのだ。

 舐められきった私はPTAにも職員会議にも告げ口するまい、したとしてもその他全員を敵に回し、発言力はあるまいと思われているのである。

 全くその通りだ。

 参列メンバーはデリカット委員長とビッチ前野、そしてクラスの裏中心人物にして地区会長の娘という厄介なおさげ仁王像、花沢。

 花沢がどすどすと近寄ってきた。

「先生、バケモノ屋敷に行ったんでしょ?」

 さすが情報が早い。花沢はジロジロと私の包帯を巻いた右腕を()めつける。見るな。減ったらどうする。

「だから手がそんな風に酷くなってんだよ、いい加減気づきなよ。昔っからあいつに味方したら呪われんだって。自業自得だよ」

 近くの松宮も同調する。

「大体さ、あいつにしたって嫌なら言い返せばいいじゃん」

 天使姫を顎で指し示した。

「正論だが、その理屈に潰される人間だっているんだ」

 松宮と花沢は目を見合わせると、コイツはどうしようもないなとコメディアンのように肩を竦めた。

「あいつが言い返さないのは自分で呪いを撒き散らして悪いって思ってんじゃねえの?」

「それは……」

「先生はさぁ、あいつが嫌だって言ってるの聞いたことあんの?」

 ……ぐぬぬ。

 二人は私の真似をして右腕を押さえ、過剰に痛がってふざけだした。ゲラゲラ笑うその仲間達。

 神よ、この始末に負えない残念なクソ野郎どもとクソ女郎(めろう)どもが生きていることをお許しください。

 天使姫は机の花を見るなり涙目になってふらついた足取りで席についた。それから目前の瓶を手に取った。

「お花、皆が飾ってくれたんだ? うわあ、ありがとう……」

 震え声で無理しているのがわかる様子だった。健気かつ、わざとらしく。まさに嗜虐心をそそる素晴らしい演技。天使姫、恐ろしい子……!

 などと感心している場合ではないのだ。これが加速して今日は彼女を殺す――自殺させる事態が発生するらしいから。

 私は教壇に立つ。

「さて皆さん、おはようございます。最終日ですね」

 私の声に誰も返事をしない。しかしそれぞれ一応席に戻るので話を聞いているのはわかる。

「皆さんには今まで大変お世話になりました。今日一日、私は私の教員免許と友人が死ななければそれでいいと思っています。お互いに無難に行きましょう」

 天使姫は目を丸くして教室の床に座り込んだ。勘違い松宮をはじめ生徒達は嬉しそうに絶望の彼女を見つめていた。

 私は黒板の上の時計を確認した。

「まだ綿貫先生がいらっしゃるまで時間があるようなので、皆さん休憩していてください。私は本を読んでいますから」

 窓辺に置いてあるパイプ椅子に座る。たちこめた黒雲で外は夜のように暗い。教室の蛍光灯の一部は頼りなくチカチカと点滅する。

 どこかで見たことあるような――ああ、バトロワの映画か。

 持ってきた本を左手だけで開く。今日、返却するのを忘れぬようにしなければ。それはここ数日読み進めてきた図書部の課題図書『ハリー・ポッターと謎のプリンス』だ。

 およそこの世で「先生」と名のつく者で私が尊敬できる人は数少ないが確かにいて、その一人がスネイプ先生だ。闇の魔法などという中二病に毒され自らをプリンスと呼び道を踏み外したくせに先生になった立派な人物。

 スネイプ先生はハリー達を見て今の私のように、こう言いたくなったことはないのだろうか?


 今日は、皆さんにちょっと殺し合いをしてもらいます。


 顔を上げると、生徒達は天使姫をからかい小突き回していた。

「あ、ごっめーん、手が滑ったあ」

 デリカット委員長が花の挿してあった瓶の汚水を頭から天使姫にひっかぶせている。腕を掴まれ身動きできない彼女。

「大変、タオルタオル……」

 仁王像花沢が天使姫の鞄の中を無神経にぐちゃぐちゃと探る。

「あれれー。タオル無いし、いつも持ってる本も無いよー? どうしちゃったのかな?」

 体格に似合わぬ鼻にかかった声。アニメのようなカワイイ声をわざと出しているのだ。

「ちょっと皆、仲間の持ち物が無くなったんだよ。一緒に探してあげようよ!」

「あっ」

 ビッチ前野も同じように演技じみた声を出す。

「そういえば私、二階の女子トイレで見たかも……」

 恐らく便器の中に……。

 本がどうなっているか想像したのだろう、委員長の顔が若干引きつった。

「ええっ! 学校のトイレとか行きたくないよ。汚いしー」

 彼女としては不潔なので近づきたくないらしい。

 いささか潔癖性気味だが、なるほどそういう者もいるだろう。しかし瞬時にクラスが静かになり、白い目が向けられた。

「あ、ごめん」

 委員長はすぐに空気を読んで、焦りつつも謝った。それはもはや条件反射的謝罪。

 ここ数日間見てきて気づいたが、彼ら彼女らの大多数は別段まとまっているわけでもなく、確固たる意思で天使姫を虐めているわけでもないのだった。それなのに全員がことあるごとに彼女を殴り蹴るのだ。

 烏合の衆と言う他ない。

 うっかり違う意見を言ってしまった時には、誰もが委員長のように全体の空気を読んで自分の意見を修正するだけの――ろくに自分で考えもしない超高校級のアホなのだ。

 アホとは成績の悪さではなく必死に空気を読んで同調しかできないことだ。

 それは私の高校時代にも存在していた、学校という狭い「世界」をサバイブするための生存戦略に違いなかった。そうしなければ昼休みに一人きりの暗黒面(ダークサイド)に陥るのだから。

 花沢は無視して何事もなかったように流れを戻す。

「さあ、行かなきゃね!」

 そうして両肩を掴まれ、捕獲された宇宙人の如く無理やり連行されていく超高校級のいじめられっこ天使姫。茶番に生徒達はニヤニヤ笑う。

 私は開いておいたチャットに書き込み、N氏に連絡する。大至急二階女子トイレに向かわれたし。

「待てよ。俺達もいく」

 松宮が数人の男子を引き連れていた。

「女子トイレよ? 男は消えて」

「いつから俺達が男だと錯覚していた?」

 ドヤ顔。教室中が爆笑した。

「男どもが来ると色々と時間がいくらあっても足りないのよ」

「そういうの、男女差別って言うんだぞ? 俺は二分でできる」

 またドッと爆笑。

「うわ自慢にならねー。ま、しょうがないや、一緒に行こっか」

 と、そこで綿貫先生がやってきた。慌てて席につく生徒達。

「起立、礼」

 デリカット委員長の声に合わせて生徒達が動く。

「さて今日は終業式です。全員移動して、戻ってきたらお待ちかねの通知表です」

 生徒達は廊下に規則正しく並び、二列縦隊で体育館へ向かった。天使姫は俯いて何か呟いていた。

 全校生徒を前に長々とした校長(ハゲ)の挨拶が終わり、今日で消えることになる私の挨拶となった。壇上に登ると制服の群れが私を見上げる。ザワザワとやかましく人の話を聞く気は無い御様子。

「えー、どうもお世話になりました。御存知の通り私はこの学校の卒業生なのですが、私がいた頃と全く変わらない様子で当時のように過ごせました」

 綿貫先生が鼻で笑ったのがわかった。

「ここを離れる私が思うのは、例えば気に入らないことがあったとして、誰かを叩くことで消化する奴はそれが通用する限り馬鹿の一つ覚えみたいにずっと繰り返すんだってことです。それは大人になっても――たとえ教師になってもやめられないのです。一種の麻薬でアダムが食べた禁断の果実です。生チョコレートとウイスキーの組み合わせを知ってしまった酒飲み、オナニーを覚えた猿、ザラキ覚えたクリフトですね」

 他の教師達も私に熱視線。オナニー発言が問題か? しかしこのくらい言ったって教員免許は無事だろう。

「願わくば、他人を踏みつけにして笑う全ての者に呪いを、踏みつけにされている者に解放を」

 突如数人の悲鳴が上がって体育館に反響した。

 総毛立った。死を意識させるほどの声は、バイオリンの弦を引っ掻いたように本能的な不快感があるのだ。

 ザワつき始める全校生徒、静かにしろと怒鳴る体育教師、穏やかに笑いながら震えている校長。

 どうやらこの騒ぎは生徒達の間から始まっているらしい。

 特に私のクラスから。

 綿貫先生が注意しに向かった先では、花沢や前野ら生徒達数人が腕を抑えていた。まるで私が連日余儀無くされている中二スタイルのように。違うのは――彼らが蟹のように泡を吐いて気絶していることだった。

 私は壇上から飛び降りて生徒達を掻き分け、すぐに駆け寄る。目についた松宮に話しかけるもへたりこんで玩具のように歯をカタカタ鳴らして要領をえないのでなんとなく外宇宙までブッ飛ばしたい衝動に駆られたがそこをグッと堪えて私自身も彼も深呼吸して落ち着かせる。

「バケモノが皆の腕に噛み付いたんだ……天使姫の呪いだ。早くあいつを殺さなきゃ……!」

 天使姫についての罵詈雑言が他クラスの生徒達や教師達からも飛び交い、それは蝿の大群のように不快にうねって合唱となる。

「天使姫に何があったんだ? 何をした?」

 別の女子に聞く。

「ただいつも通り、皆が天使姫を叩いてただけ。今日は母親の悪口も言ってたけど」

 どうかんがえてもそれだろう。

「気持ち悪い……あの()、叩かれる前から出て行くまでずっとブツブツ呪文を唱えてたの」

 それはおそらく呪文ではないが――いや、その言葉を放つ心境を鑑みれば呪いなのかもしれない。

 喚き散らす豚どものあまねく全ての憎しみは彼女に向けられ、槍のように突き刺さろうとしている。

 そうやってこれまで全ての出来事を安直に処理してきた。だから今回だってそうする。生徒達も、教師達も、この地区の者達でさえ。

 誰も責任はとらない。

 もう次はないというのに。もう憎悪を引き受ける者はいないというのに。

 私は天使姫を探して、すぐさま体育館の重い扉を左手でグワラグワラと開けた。次の瞬間、目を開けていられないほどの横殴りの雨風が私を襲う。

 外は割れた植木鉢やら吹っ飛んでいくバケツやらで危険だったが、私には体育館の淀んだ空気よりよほど清浄に感じる。

 天使姫は恐らく教室にも職員室にもいない。私は渡り廊下を走る。濡れた髪から伝う雫は頬から顎へ。誰もいない校舎に風の音が響き、窓はびりびりと破裂しそうだ。

 二年一組から最も近い二階の女子トイレ。その前に点々と水滴が落ちていた。

 トイレの入口から始まるそれを追っていくと、廊下へ続き階段を登っていた。

 階段を駆け上ると息が荒い。高校時代はこのくらい何でもなかったのにと思う。

「しかし高校時代に戻ろうとは全く思わないな。教育実習で再確認できて良かった。いつかボケて変に美化しだしたらN氏に殺してもらおうかしらん」

 屋上のドアは通常、鍵が掛けられているが左手でノブを回すとあっさり開いた。

 おかしい。鍵は職員室にあるはずだろう?

「神よ、私の犯した罪をお許しください。朝、忍び込んで鍵を盗んでしまいました」

 上から声が降ってきた。どこか現実感の希薄な風景。真っ黒い背景に浮かび上がる白い夏服。天使姫の後姿はすぐに見つかった。

 この嵐の中、フェンスの上――非常に小さな足場だ――に立って遠く山々を見ている。風を受けて大きく揺れながら祈っている。

「そんな、ギリギリ崖の上を行くようにフラフラしてんじゃあないよ」

 振り向いたその顔は笑っていた。限界まで上がった口角。茹で卵にナイフでスウッと切れ目を入れたような細い口、瞳孔の開いた目。そして渾身の笑顔。

「先生、無いのです」

 何が? 生理が?

「それは面白くない上にセクハラです。聖書のことですの。女子トイレに捨てられてると思ったのに」

 わざわざ終業式を抜け出して探したところ悪いけど、多分それはもう君に必要ないってことなんだよ。

「それはどういうことなのでしょう?」

 天使姫は黒く熱い怒りを纏った笑顔で尋ねた。

「その神と聖書は関係ない。偽物なんだよ、その神は。そいつは君を救うどころか、君を利用してこの地区の人間に復讐しようとしているんだ」

 低い声が頭に響く――お前らこれからもっともっと酷い目に遭うんやぞ!

 私は雨と風とそれに負けぬよう声を張り上げる。

「そいつは元々君の大叔父なんだ! 君のお祖母さんに聞いたけど、昔この地区の人間と縄屠蘇の人間に殺され、全てを憎みながら死んだ――呪いそのものなんだよ! だからその言う通りにしたって君は世界を終わらせて作り変えること、ましてや天国になんて行けやしないんだッ!」

 天使姫がはためく髪を抑えた。強風で右足が滑るが態勢をすぐに立て直して叫ぶ。

「それは嘘です! 先生はこの世界が終わってほしくないからそんなことを言うのでしょう?」

 お願いだ。私の心の声を聞いてくれ。嘘なんて言わないでくれ。

「嘘じゃない。そいつは君の母親さえ殺している。そいつが何よりも欲しがっていた『名前』を付けてしまったからだ。『名前』はモノをそうあらしめ、存在を強化させてしまう。そして、恐らく君も母親と同じく神聖四文字(Y・H・V・H)の名前を付けてしまったんだろう? だから君にとりついている」

 彼女は目を逸らして俯く。ヤジロベエのようにユラユラ揺れて、フェンスを行きつ戻りつ繰り返す。

「私が騙されていると? 私が名前をつけたせいで? では先生には耐えられるのですか。大事な人が死んだ時に聞こえてくる、救済の声の誘惑に」

 声が震えていた。嵐の唸りが静かになっていく。

「……あの日。初めて神様の声を聞いた日です。焼いたお母様を持ち帰った日。冷蔵庫にお母様の作り置きの肉じゃががあったのです。前日にお母様に『おいしい?』って聞かれて『甘すぎてあんまりおいしくない』って答えた肉じゃが。その時、お母様は残念そうな顔をしたんです――そんなの食べないわけにはいかないじゃないですか――お母様が遺したものなんですから――でも食べていたらそれは次第になくなってしまうのです――もう二度と食べられない手料理――食べなかったらきっと後悔する――でもそれは残り少なくなって、お母様の……」

 最後の方は聞こえなかった。瞳を覗き込むと、(こぼ)れ雨が沈黙にパラパラと色をつけていった。

「名付けたことを責めるつもりは無いんだ。大事な人を失った寂しさから逃れられる人はいないんだから」

 私は分かったような顔で言うのだ。今の私なら殺してやりたいほどの傲慢さで。本当の喪失などというものを経験したことがないから軽々とそう振る舞えるのだ――まだ当時はN氏が生きていたのだから。

「でも『そいつ』に関しては別だ。君は天国に行くつもりでフェンスに立っているのかもしれないけど、そいつの思惑は違う。君が死んだ後どうなるか。『試練』と称して虐められることでわざと皆の暴力や残虐性を加速させていた。その君が突然消える。生贄(スケープゴート)が消失することで、クラスメイトやこの地区の人々の行き場を失った暴力衝動はお互いを破滅へと導き、そして終末(カタストロフ)を迎える。君の母親が亡くなった時にも起きていた現象だ。前回は新たな生贄として君がいたから収束したけれど、今度はいない。強い者が弱い者を叩き、弱い者が更に弱い者を叩き、そうして弱者から死んで消えていく。それでも収まらずに行き着く所まで行ってしまうッ!」

 加速した暴力は止める者もなく混沌の殺し合いへ発展し、万人の万人に対する闘争状態が完成する。川は赤く染まるだろう。林には蝿のたかった死体が転がるだろう。

「えっ? それの何が悪いのですか? 私は騙されていました。そこは先生の言葉を――心の声を信じましょう。確かにそうなのでしょう。でも私の『早く死んでこの世界を終わらせたい』という気持ちに変わりはありません。私と神様の目的は復讐という点で一致しているのです。そう、『地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。平和ではなく、剣をもたらすために来た。わたしは敵対させるために来たのだ。人をその父親に、娘を母親に、嫁を姑に。こうして家族の者さえ敵となる』」

 天使姫は朗々と暗唱し、渦巻く風に声を乗せた。拳を強く握り締めすぎたせいで爪が食い込み血が滴っている。血走った眼で私を真っ直ぐ見つめてくる。それでも口だけは不自然なまでに楽しげなのだ。

 ビビるな。

 弱気になって引くな。リスクの無い方がおかしい。覚悟はしていたはずだ。

「一つ聞いていいかな――どうして自分をそんなふうに扱うんだい。何も死ぬことは……」

「嫌いだからです」

 彼女は自嘲気味に微笑んだ。

「単純でしょう。私は私が嫌いなのです」

 私と同じだな……。

「どうしてさ?」

 雨がスーツをずぶずぶに濡らしてシャツが張り付き不快なことこの上ないが、それは天使姫もあまり変わらないのだ。

「…………嫌いなことに理由が必要なのですか」

「いらない。しかし本能的に自分が嫌いだというならあんまり不幸すぎる。大抵は理由があるもんだよ。例えば、他人を気にして好きなものを好きだと言えないとか、虐められてる自分が情けないとか、嫌なことから逃げ出す勇気さえ無いとか、言い訳を作り過ぎてワケわかんなくなってるとかね」

 天使姫は右手で口を覆い、食い入るように聞いている。この言葉は効いているか? 効いているはずだ。何せ私の心にも効いているからな。正直に白状すると、私はまだ重苦しい思春期の棺桶を引きずって歩いているのである。

 突然、後頭部に衝撃が走った。顎が胸にめり込みそうな勢いだった。思わず膝から力が抜けてへたりこむ。

 視界の端にブリキのバケツがガランガランと転がっていった。突風に飛ばされたのだろう。確かオシャレなガーデニング目的で教師の誰かが持ち込んだ奴だ――くそ、二度とガーデニングする奴なんかとは話さないぞ。

「だ、大丈夫ですか、先生!」

 咄嗟に心配する天使姫は本当に良い子なので死ぬべきではないし誰かを殺させるべきでもない。

 私は左手を振って大したことないと示すが、頭の天辺が熱く感じる。脳天直撃セガサターンである。ああ、頭が混乱している……。

「君はさっきから『世界の終わり』『世界を作り変える』って言うけどさ、君の言う『世界』ってどこまでだい?」

 天使姫はキョトンとしている。

「『二年一組』? 『光ノ丘高校』? 『家と通学路と学校』? それとも『あの山まで』? それを終わらせようっていうなら私は大賛成だよ。こんな嫌な奴らばかりがいる場所なんて、巨神兵に命じて『薙ぎ払え!』ってやりたくなる。少なくとも二年一組ぐらいはね」

 それと職員室も焼きたいな。

「じゃあどうして……!」

「復讐はやるといい。そうしないと納得して先に進めないというのなら。私だって協力する。ただし、そいつの復讐とは区別すべきだし君が死ぬことも絶対にない。もっと面白いやり方はこの『世界』にはいくらでもあるんだよ」

 くそ、目に血が入ってきてうまく見えない。暫く放っておいても大丈夫かどうか怪しい痛み。

「君はあの山の向こうまで行ったことはある? こんな腐った田舎じゃなくてさ、水平線の見える海やコスプレの人が歩き回る街や麻薬が蔓延る都会のライブハウスに。美味しい魚料理のある港、ホームレスの人々が沢山いる駅、注射針が落ちている臭すぎるトイレに。変わった祭りをする島、冬になるとスキーで登校する雪国、肌の色も言葉も全く違う人々、デッサン狂ってるとしか思えない動植物に。重力が六分の一になる衛星、ガスしかない惑星、膨張し続ける空間、その先に更に広がる何かに」

 呼吸が荒くなってきた。というか寒いのである。頭からドクドク血が止まらない。畜生、スーツってわりと高いんだぞ……座り込んでしまっているせいで泥で汚れっぱなしだ。

 呪いで右半身はもう心臓まで圧迫されている。まともに血が流れていないのに、出血してしまっている。

「それが何なのですか? そんな場所くらい知っています。行ったことはありませんが」

「『知っている』のと『世界を実感する』のは違うよ。全ては地続きなんだ。君の言う『世界』はただの『学校』に過ぎない。『世界』はもっと野蛮で、奇怪で、信じがたく、いってみれば不条理な場所だけれど、それでも広く、広く、途方もなく広いんだよ。『世界』は教室を越えてフェンスを越えて山を越えてどこまでもどこまでも宇宙にまでも。君はこんなところであんな奴らのために死ぬことはない。自転車圏内で生まれて死ぬような奴らの世界観なんて見下せよ」

「じゃあ学校はどうするんですか」

 天使姫はフェンスの上に座った。少しホッとするが、駄目だ意識が朦朧としてきた……。

「方法は何だっていいんだ。こんなクソ学校なんて行く価値はない。他人と違う生き方は他人と違う苦労を伴うって『耳をすませば』で言ってた気がするけど、でも死んだり消えちゃったりするよりマシだ。転校してもいい。とにかくこんなクズどもがいる世界から抜け出すんだ。あの山の向こうの世界に。金銭的にそれが無理なら――そうだ、猛勉強して東大に行こう。奨学金だってある。君は学校一の天才だから行けるさ。こんな台風なんかすぐ過ぎる。最初の角を曲がったら止んでるかもしれない」

「先生はまるで先生みたいなこと言うんですね」

 君の頭の中の先生イメージが皆目見当がつかないよ。

「豆知識だけど、死ぬと奨学金は返済しなくていいんだぜ。どうせ死ぬなら、在学中に遊びまくって死ねばいいさ」

 天使姫は声を出して狂ったように笑った。黒雲立ち込める空に届くかと思うほどに。雨に濡れた黒髪は浜辺に打ち上げられた海藻の塊のようだ。

「というかさ、むしろ君より私の方が先に死にそうなんだけど」

 彼女はフェンスに再び立ち上がった。私に期待している様子で目配せしてから、口を開いた。

「先生は……じゃあ、いつ死ぬの?」

「今でしょ!」

 天使姫が飛び降りた。

「は」

 いやいやいやいやいや。

「きゃああああううううあああああッ!」

 いや、違った。彼女は右腕を引っ張られるように落ちたのだ。

 外側へ。

 落ちていく天使姫の顔は苦痛に歪み、右腕だけがおかしな方向に曲がって動いている――見えない獣に噛まれているように。

 天使姫をもう騙せないと思ったら実力行使か。

 鈍い音がして叩きつけられたのは、しかし屋上の(ふち)であった。フェンスと虚空の(あいだ)わずか数十センチに彼女は落ちたのだった。足先が空中に投げ出されている。

 声をかけると少しだけ呻いたが、私はもう助けに行く力も無い。左手で体を引っ張るように床を這いずる。溜まった水が呼吸さえ苦しくさせる。

 フェンスに近づこうと左手を伸ばすと、猛烈な雨が手のひら一杯に降り注いだ。手が落ちてバチャンと水面を叩く。目が霞んできた。

 だめだこりゃ。

 そう思う。

 しかしPCのエロ画像フォルダ内にあるアブノーマルフォルダを見られると死ねる。彼女と親には見せたくない――なんとかあの男に処理してもらわなければ……。

「N氏……」

「コチ、やめろ!」

 声がして、不意に私の左手が掴まれた。

「大丈夫か。この本、探してたんだよ」

 眉を寄せた困った顔のN氏がいた。ボロボロの本を持っている。よく知らないがN氏の体質だろうか――右半身の痛みが止まった。

「お、遅いんだよこの野郎……!」

「ごめんな。ちょっと野暮用で。トイレに捨てられてたけどその子の大事なもんなんだろ? よくわかんねーけど」

 N氏は事態を飲み込めない様子で聖書を私に渡そうとする。息も絶え絶えな私に。

「や、もうそんなものいらないって話を――くそ、息が。ハァハァ――さんざんしてきたところなんだけど」

「マジかー。で、その子は」

 私は倒れたまま天使姫の名前を叫ぶ。

「起きろ!」

 彼女はフラつきながらゆっくりと上体を起こし、じっとN氏を見ていた。

「ひどい顔してるだろ。生きてるんだぜ、これ……」

 天使姫はしきりに頷いて笑った。

 背後でドアが開いたかと思うと、他の教師や生徒達が雪崩のようにやってきた。N氏はさっさと逃げて身を隠していた。

 彼らは天使姫を見つけるやいなやフェンス越しに聞くに耐えぬ誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)をブタのようにブヒブヒ繰り出した。押し合いへし合いフェンスを揺らしている。

 そいつを殺せ、と。

 そいつは呪いだ、と。

 全員が呪い殺されるぞ、と。

 彼らは天使姫が怖いのだ。

 彼女から見たその光景は、さながら檻から出ようとしない囚人のように見えたことだろう。狭い狭い世界の中に閉じ込められた人々。

 彼女は私に向かっておもむろに口を開いた。

「先生。私は大叔父が話した未来を少しだけ知っているから言いますが……このお話を書き直したりしないでくださいよ? それはエゴです。私は自分のこの結末に満足するのですから」

 それから彼女は何も言わなかった。何でもいい。私は天使姫の心のうちのひとかけらの呟きでも聞きたかった。そして共感したかった。しかし彼女は何も言わなかった。

 そして風が吹き、フェンスの向こうの彼女は消えていた。この世界から消え失せたのだった。

 そこで私の意識はぷつんと力尽きたのだった。


十、再びN氏の部屋にて

 本当に死ぬかと思った。お花畑にいる丹波哲郎先生に手を振り返したところで目が覚めた。

 病院の白い天井。点滴。輸血。頭の手術。右腕の手術。私を見るなり医者を呼んできた看護師の話によると、そういうものは全て終わっているらしい。

 そして実家から姉がまだ一歳にもならぬ甥っ子と共に、ついでに祖父母が見舞いにきた。

 姉は私をきつく叱り、手作りの甘さ控えめ過ぎて味のしないおはぎを置いていった。両親は仕事だった。

 全くデリカシーの無いウチの家族は全員が個別で私に「何をしでかしたのか」ということを強い口調で尋ねた。

 というのは、意識不明になっているうちにどうやら天使姫の失踪は学校側の巧みな情報操作により全て私に原因があるとされていたのである。教師と女生徒の痴情のもつれというわかりやすいストーリー。中庭で一緒にメシを食うことさえ許されないとは、何という国なのだろう。

 私は家族に逐一説明したが信じてもらえず、N氏は無慈悲にも先に名呑町に帰ってしまっていた。呪い殺してやろうか。

 蟲飼貴子さん――私の彼女――が憔悴しきった様子で病室に入ってきて泣き出したのには困ったが、女子高生に手を出したのかとあらぬ疑いをかけられたのも参った。

 遠いところからはるばるやってきた教育委員会の男に、私に教員免許状は与えられないと告げられた。別にいいです、と答えて、光ノ丘高校の様子とこの地区で変わったことはないか聞いた。

 天使姫は行方不明になり、二年一組は暴力の行く先を求めて険悪なムードになり、特に酷く虐められているのはおさげ仁王像花沢を含む数人らしかった。

 この地区の人々は数日間さながらバトルロイヤルでもしているような惨状になっていたが、巫女姿の老婆が矢面に立つとハメルンの笛吹きのように特に暴力的な人々から彼女を攻撃しようとついて回り、禁忌の山に入っていって誰も帰らなかったらしい。警察の捜索にも関わらず手がかりは一切見つからなかったそうだ。

 男は私に何か知っているだろうと問い詰めたが、正直に話したオカルトめいた出来事は信じてもらえなかった。しかし光ノ丘高校の酷い環境を目の当たりにすると急に私に同情的になった。

 頼んでおいた麻婆茄子パンを私に放ると、彼は帰っていった。

 枕元にはN氏が置いていったボロボロの聖書があった。そこに天使姫とよく似た母親の写真が挟まれていた。

 私はそれを見ながら麻婆茄子パンを頬張る。

 一口。二口。

 自家製麻婆茄子パンは辛くなくなった気がした。

★★★

「……ってわけで、色々あって私は落ち込んでるってわけだ」

 そして冒頭のパンツ一丁(それにしても何故「全裸にパンツ一枚」の時だけ単位が変わるのだろう?)のN氏と呑んだくれている私に戻るのである。

「なあ、お前天使姫のことどう思ってたんだ」

 N氏が寝転びながら言う。

「別に。ただ、高校の時の私と似てるなってね」

「少しも好きじゃなかったのか」

 N氏にしては妙にしつこいな。

「そりゃ好きだよ。でも私は君みたいにロリ好きじゃないんでね。まあ今更こんな話はどうかとおもうけど、おっぱいが膨らんでもう何年か経って気持ちが落ち着いて、なおかつ私が蟲っちょにフラれてたら好きになるかもね。天国に行ってなくて、どこかからひょっこり――」

 N氏がニヤニヤしながら押入れの戸を開いた。暗がりから小柄な体が出てくる。幸薄そうな顔ではにかみながら。

「天使姫?!」

 N氏が得意顔で解説を入れてくる。

「トイレで聖書を拾った後、俺は学校に来ていたバケモノ屋敷の婆さんに話しかけられたんだ。台風の日、地下の座敷牢を調べていたらしい。そこの壁に母の手で梅の花が彫り込んであるのは前から知っていたらしいが、それを見ていたら閃いたんだと。梅の花といえば菅原道真。博学にして祟りとなった。それは弟と似ている、と。『東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ』の有名な句がある。そして名前には全て『チ』が付く規則から考えると、母がつけた名前は東風(コチ)だろうと。そこで俺が名前を呼んだ。真の名前を得たコチの呪いは半端に成就され皆殺しには至らなかった。そして体育館からマットを持ち出した。屋上の天使姫の場所からすぐ近くには玄関の屋根があるんだ。そこに敷いた。手品みたいなもんだ。後は天使姫に会ったらアイコンタクトをして知らせた」

 私服姿の天使姫は文字通り憑き物が落ちたように――卒業した後の前田敦子みたいに――笑顔が素敵な女の子だった。

「呪いはどうなったんだい」

大叔父(コチ)さんは実はまだ、私の傍にいるのです。聞けば未来のことを教えてくれますの。わかることだけですが。復讐が済みましたので呪いの力はもう無いそうです。必要な時に呼べ、と」

 やはり死ぬ必要はなかった。良かった。

「それで、天使姫の未来の傾向と対策は? どうするんだい」

「今まではN氏さんのところにお世話になっておりましたが……」

 チラリと顔を伺う。

「他に泊まれるならそこに行った方がいいぞ」

 N氏は複雑な表情をして頷いた。それから天使姫は躊躇いがちに呟く。

「先生のところは」

「もっと駄目。しょうがない、暫くは蟲飼貴子さんのところに泊めてもらおう」

 話が決まった。私は夜道をN氏の家から蟲っちょの家へ彼女を送っていく。

 道中は彼女が不恰好な慣れないスキップをしていた。あさっての方向へ向かう彼女を呼び止め、私は預かったままになっていたボロボロの聖書を渡す。

 彼女はそこから母親の写真を抜き出して無表情に眺めていた。数秒後、急に神妙な顔になった。教師が生徒にマジレスするように。

「先生、未来を知りたくなったら言ってくださいね。『ワンパーク』の結末とか」

「ほう。ネタバレは嫌いじゃないぞ」

 天使姫は私の目を覗き込んだ。

「先生は哀れなことに……」

「人生のネタバレはやめろ!」

 どうせ暗い未来だということはわかっている。

「ネタバレはお嫌いですか? もういいではないですか。ダースベイダーの正体。もういいではないですか。人斬り抜刀斎の正体。もういいではないですか。コナンの正体。もういいではないですか」

 そこまでまくし立てると彼女は星空を見上げた。前髪で目元は暗く隠れてしまった。そして呟くのだ。

「大事な人が亡くなった時は、誰でも『何かやればよかった』って思うんですから」

「縁起でもないことを言うね。未来なんて知るもんじゃないさ、ギャンブル以外は」

 彼女は腕を組んで数秒逡巡した後、ニッと笑った。

「そういえば、蟲飼さんってどんな方ですの」

「面白くて優しいよ。除霊できるくらい顔が怖いけどね。コチさん成仏するかも」

 虫の声がうるさいくらいに響き、穏やかな風に私たちの声が流れていった。

読んで頂きありがとうございます。宜しければ感想などお願いします。

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