天使姫騒動(中編)
かつて暗黒時代を過ごした光ノ丘高校に教育実習でやってきた「私」。忙殺の日々を過ごす中、鈴木天使姫という女生徒と出会う。彼女は虐められていたが、それは故意の試練であり世界を終末に導くための儀式だという。時を同じくして何者かの噛み傷で右手を呪われた「私」は、天使姫の母親も同様に噛み傷により死んでいることを知り、N氏と合流して天使姫の家系の宗家である縄屠蘇家へ向かう。
五、バケモノ屋敷へ
翌日は酷く暑い休日だった。フライパンに乗せた牛脂のように世界が溶けていきそう。右手のことは考えたくもない。
私は午前中に医者に行った。右手を見せるなり医者は苦笑した。
「お仕事はプロレスラーか何かですか?」
私のだらしない体を見てそんなことを言うと怒ったプロレスラーにキン肉バスターを食らわされても仕方ないだろう。
「噛みつきは危険なので、もっと相手に手加減してもらってくださいね」
どういうことですか、と私は問い直した。医者は私の右手を指した。
「これ、人間の歯形ですよ。しかも歯が異常に多い」
その後レントゲン写真を見るに何かに噛まれているかのように骨を圧迫しており、今もそれが進行し続けているらしい。
道理で痛いと思った。
原因は不明。何を取り除けばいいのかもわからないので対処のしようもない。症状の進行速度がこのまま変わらなければあと二日ほどで骨が砕けるらしい。
またか。一学期の終わりは実習の終わり、右手の終わり、世界の終わり。
その後、私は近くの神社や寺にも行ってみたが、まだ何も言っていないのに私を見るなり「あ、それウチでは無理です」とさながらナポリタンを注文された寿司屋のようにあっさり断られた。
仕方なく駅前のベンチに座り、図書室で借りた聖書を読み返していた。天使姫はそこにどういう救いを見出したのか。母親と彼女の名と聖書にどんな関係性が潜んでいるのか。そこにヒントがありそうな気がしたのだ。
「満を持して俺、参上」
口調とは裏腹にN氏は怪訝な顔つきでキョロキョロしながらやってきた。はるばる名呑町から新幹線と在来線で四時間半。ねずみ色のダサいジャージで今、降り立つ。
「ここド田舎すぎて何にもないぞ。地図でも温泉マーク一つ無えし」
ここは大きな建物が少なく空が広い。しかしそこに迫るように四方に聳えた山々が息苦しさを感じさせる。灰色の空と山。懐かしい。「世界」はあの山々までしかなく、どこにも逃げ場がないような気にさせるのだ。
痩せこけたカラスが川に降り、痩せこけた蛙をかっさらっていった。
「なー、観光するもんあんのか?」
私は彼に、有名な(嘘)観光地(嘘)である私の地元に遊び(嘘)にこないか、飯代と観光費はこっち持ち(嘘)だと連絡したのだ。念のため女人とお知り合いになれるかもしれないぞ、とも付け加えておいた。ちょっぴり病んでいる女子高生だがな、というのは言わなかったが。
「分かってないな。地元の人しか知らない場所こそ、本当に良い場所なんだよ。ちょっと、ここの昔ながらの家に挨拶に行くよ」
「地主か? ほう、結構古い土地なんだな」
久しぶりに見るN氏の顔はやはり酷すぎて笑える。お前は死体かというツッコミを入れられる男がこの世にどれほどいるのだろう。
道中、この先の縄屠蘇家について話す。
「ウチのクラスの子の関係者でもあってね。まあ家庭訪問みたいなモンだから」
N氏は青々とした水田を見ながら、
「そんなとこに俺なんかが行って大丈夫か?」
「大丈夫だ、問題ない。正式な家庭訪問でもないし、ただその子のことで話があってね。ググってきたところによると」
N氏の眉がピクリと動いた。
「その子の母親が亡くなった事件は、両手首を縛られた状態で、背中に至るまで全身を石で殴打され、『噛み傷』が全身にあったにも関わらず警察は『事件性なしの自殺』と判断したそうだ。それを調べていたフリーライターも何故か噛み傷のある死体で発見された。インパクトがあるからネットの掲示板でも時々名前があがる事件だ。今から行くのはそれと関係する家」
ウンザリした顔で彼は肩をすくめた。
「どんな猟奇的家庭訪問だよ。また妙なオカルトに首突っ込んでんのか」
「今回はそんなつもり無かったんだよ。平和に終われって今でも祈ってるよ。まあ帰ったら詳しい経緯を説明するけど」
かくして小さな頃の記憶を頼りに辿り着いたのは土地の外れ、何百年前に建てられたのかという大きな日本家屋だった。
通称バケモノ屋敷は、護岸工事された味気ない川と鬱蒼とした山に挟まれて孤立しており、お隣の家などない。横には岩を重ねて作った大きな墓が一つある。川を挟んで遠く田園風景にいきなり新築のマンスリーマンションがあるといった程度だ。
小さな橋を渡って家の方へ。
ここが鈴木天使姫親子が離反した、縄屠蘇家の住まいである。とはいえ高い塀と竹林でよく見えないが。
「…………」
N氏は眉間に皺を寄せて口を押さえていた。私には霊感など無いが、彼の様子を見ているとこの場が危険かわかる。昔から洞窟での採掘では無色無臭の有毒ガスが出ることがある。それを察知するため人間よりガスに敏感なカナリアを連れて行くそうだ。カナリアが死んだらその先は危険だと判断して脱出する。今回、私がN氏を呼んだのは概ねそのようなことだった。
「何か危機があったらできるだけじっとしててね。私が逃げ切れるまで」
「お前は鬼か」
目の前には点々と緑の変色した立派な木の門が佇む。閉めきられていてインターフォンや呼び鈴の類はもちろん存在せず、表札もない。家主が夜逃げした廃墟です、と言っても通じる。
門の脇にある戸を押す。軋んだ音を立てて開いた。我々は竹林に囲まれた道の飛石を渡って屋敷に向かっていった。
ふと横の竹林にペット用のケージが大小何個か見えた。二、三の黒いモノが入った鳥籠や大きな黒いモノの入ったケージが無造作に置かれている。家主が動物好きではないことはすぐにわかった。それらは全て大量にたかった蝿で黒く見えるだけの、小鳥や犬の死骸だったからだ。檻から出されることなく死んでいったのだろう。
「うお」
N氏の声に顔をあげると、竹に人間が幾つも吊るされていた。首吊りか。しかし近寄って見ると全てマネキンだった。噛まれたような跡が残っている。
「私の手の歯形と一緒だ。じゃあこれは囮……? もしかしてこの小鳥や犬も」
屋敷の玄関に辿り着くと着物姿の女が待っていた。もう五十は超えているだろうが、何とも特徴のない平均的な顔立ちをしている。
「いらっしゃいませ。ようこそお越し下さりました」
爽やかではあるのだが、印象には全く残らない声。お手伝いさんなのだろう。
「あの、天使姫のことで」
「お話は当主となさってください。私は一族とは関係ない者。案内以外は許されておりませんので」
私は玄関を上がって女に続いた。N氏も入ってきたが、女はその顔を見るなり奇声をあげた。体が小刻みに震え、まるでウチの猫が縄張りに入ってきた別の猫を威嚇するようだ。声をかけても応答しない。
「なんなんだよ……」
N氏も困惑していたが、数分たっても女の様子が元に戻る気配はなかったので仕方なくまた外に出て行った。
N氏の姿が見えなくなると何事もなかったかのように女は私を案内した。妙にカビ臭い廊下を通り、黄ばんだ障子の前で止まった。
「エチ様、お客様がいらっしゃいました」
微かな返事が聞こえ、私一人が部屋に通された。仄暗い空間にヨボヨボのお婆さんがぽつんと座っていた。顔は梅干しのようにシワだらけで目が半ば隠れている。
「ハァッ!」
目が見開かれた。
「お前さん、どえらいモン連れとうね」
私は頷くと包帯を解いて右手を見せた。が、老婆は円窓から庭を眺めている。そこではN氏が手持ち無沙汰で携帯を弄っていた。どうやら彼のことを言っているらしかった。
「どげんしてあげなバケモン手なずけんしゃった?」
方言がきついが意味はわかった。マジでなんなんだN氏。
「手なずけるっていうか、なんとなく一緒にいるんです」
老婆はまたまたご冗談を、といった様子で笑った。
「そんなことよりこの傷や縄屠蘇家、天使姫のことを聞かせてください」
「聞くともう戻れんくなるぞ」
聞かなければ、どうせ私の手は使い物にならなくなるのだ。
老婆は口火を切った。そうして語られた方言を訳すと以下のようなことであった。
六、オンサマ
縄屠蘇家は、戦前までは政治的にも頼られるほどの巫女を輩出する裕福な一族だった。妊娠すると必ず女子が生まれるため女系で続いてきた。その事件までは、父親については言及されることはなかった。村の男の誰かには違いないのだろうが、父親を決めないでおくとお布施の量が多いのだった。
そして彼女達は昔から枝一本折ることさえ禁忌とされている裏山を管理していた。
そこに住む古い神「オンサマ」をその身に降ろし、託宣や超常的な現象を呼ぶ。天候や豊作の予測などこの地域の村人に協力してきた。自然と身寄りのない者の葬式や近隣の村民の遺体を焼く仕事にも携わることになっていた。
やがてたとえ実際には関係なくとも神隠し――要するに行方不明事件――や大豊作など良くも悪くも不可解な出来事が起こると全て縄屠蘇家の影響とされ、畏怖を集めていくようになった。
どうしてそれを許していたのか。
人々はこの世の不条理に納得する理由を欲しがる。昨日まで飯を食べ友達と笑って、暗闇が怖くて甘えてきたような我が子が理由もなく突然消える。森の獣に喰われたか攫われて売られたかはわからない。或いは唐突に死ぬ。何の因果か。何を憎めばいいのかわからない。それに耐えられる親がどれだけいるのか。
縄屠蘇家はそんな対象だった。
しかしそんな時代も終わる。暗闇は解明され、不可解な現象は神経や精神の異常とされていく。そうした中で後述するある理由により縄屠蘇家の女の周囲に起きだした「姿の無い牙」が村人に被害を出し、時を同じくして昔から縄屠蘇家と繋がりのある地元政治家が汚職事件で逮捕されたことにより住民感情は悪化の一途を辿り、縄屠蘇家はこの一帯で起こる不幸の元凶とされた。
「まァどっちゃでん人間様の扱いばしてくれんかったがね」
老婆エチは自嘲の笑いを浮かべた。
古くから法的にはグレーで生きてきた縄屠蘇家は警察とも折り合いが悪く、駐在員まで村八分に協力する有様となり、それが今に続く縄屠蘇家の扱いに続いている。ここ百年の大まかな歴史をいえばそういうことだった。
そして、それが生まれたのは夏、太平洋戦争中だった。召集令状を貰った男達が部隊出頭日の目前、何人も台風に乗じて行方をくらませたのだ。若い警官が兵役拒否容疑で付近をさんざん探したが、人々は誰も見ていないという。心当たりはないかと高圧的に尋ねると、怯えた人々はあそこではないかと指し示した。人目を避けて逃げ込める、触れてはならぬ場所を。
それは縄屠蘇家が管理する「禁忌の裏山」だった。当時の当主――エチの母――は「入ったらどげんえずいことが待っとうかわからん。いかんばい」と言ったものの、やってきた憲兵と警官二人に「したら、きさんが匿っとうと見るがよかか?」と詰め寄られ、仕方なく当主は妹のクサノチにもしもの時のことを指示すると、二人と共に入山した。
数時間後、人影は一つ。若い警官だけが帰ってきた。エチはまだ幼かったがその様子を鮮明に覚えている。
立派だった制服は泥と赤黒い色に染まり、帽子はなくしていた。屋敷に戻ってくるなり膝から崩れ落ち、虚ろな顔で一気に歳をとったように見えた。声を掛けると酷く混乱して言葉は支離滅裂、頭を抱え怯えた様子で歯がガチガチと鳴っていた。
他の二人はどうしたのか、と尋ねても目がクルクルと異様に動くばかりで全く答えなかった。
家の者が警察に連絡して事情を話すと、再びぞろぞろとやってきて勝手に山へ入っていった。
今度は、一人も帰ってこなかった。
ただ一人残った若い警官には拷問にも似た度重なる事情聴取が繰り返された。しかし彼は付近の神社で鳥居に首をくくり自殺してしまう。また戦況の悪化によりそれどころではなくなり、捜査はうやむやに打ち切られた。
人々の間では、木乃伊取りが木乃伊になるように、山に入った奴らはそこで最初の男たちと共に徴兵を逃れて隠れているだけなのではないかとも噂された。
しかし、最初に姿を消した男達の死体は川べりで発見される。台風のために橋を補強しようとしていたようだった。
つまり禁忌の裏山に入る必要はどこにもなかったのである。
自殺した警官には遺書があり、警察が隠すように保管した。当主を失った怒りで、あらゆる手を使って開示を要求したクサノチたち縄屠蘇家だけがそれを見ることができた。
百足がのたうち回ったような震える字だったが、かろうじて読める部分だけからなんとか解読、想像する。
初めに、彼の精神状態が混乱していたのは半ば真実半ば演技であり罪の追求を逃れるためもあったこと、そして憲兵と当主に対して深い自責の念と謝罪が書かれていた。
その日、三人は屋敷の裏にある鳥居から禁忌の裏山に入った。当主から「何ばあってんウチと同じ道ばさるいて、逸れんといてくだしゃいよ」との忠告。
それは殆ど獣道だったが時折石段があった。
先導するのは当主。後に続く憲兵と彼。昼間でも森は暗かった。何度か道を遮るように作られた、白い紐を木々に渡した「結界」に、触れぬように通っていく。
憲兵は森のそこかしこに目を光らせていたが、獣道が洞窟の前を通る際に「あそこが怪しか」と言い出した。獣道を外れようとしたので当主は必死に止めた。憲兵は銃を当主に向け黙らせた。そして警官に調べてくるよう命令した。
彼は迷ったが意を決して洞窟へと入っていった。次第に光が少なくなりひんやりと湿った風が頬を撫でていく。黒い内壁は苔が生えてしっとりと濡れている。突き当たりまで行ったが朽ちた小動物の死骸があるだけで結局誰もいなかった。
二人の元へ戻ってきた。ホッと息を吐いて憲兵へ報告したが、当主だけは青ざめた顔で酷く落ち着かない様子だった。
そうしてまた獣道を進み、ふと振り返ると視界の端に「黒い何か」がいた。びくりとしてもう一度見るとただの暗がりだった。
森の奥へ進み、いつも当主が儀式を行っているという小さな社の前にやってきた。社自体は神社の本殿を簡素にした小型模型のようだったが、厳重に紐の結界で囲まれていた。
「ここで待ちなっせ」と言うと、当主は結界に入り、祈りと複雑な言葉を早口で唱えて社の門を開いた。そこには真っ白いお椀がひとつひっくり返って転がっていた。普段使うものと違うのは、その内も外も真っ白に塗り潰されている点だ。
当主はじっと見つめた後、深呼吸して震えを抑えながら「早よ山を出んといかん。えずいことんなる。この椀を伏せて閉じ込めとったオンサマが出とうったい」と言った。
当主は恨みがましい目で憲兵と彼を見た。憲兵は意に介することなく「仰らしか。男どもの隠れとう場所があるんやなかか」と聞いた。そこで当主と憲兵の口論が始まった。警官は周囲を見回して背筋が寒くなり、不意に憲兵の銃を奪って突き飛ばした。当主の手を取ると来た道を戻った。
憲兵の怒鳴り声が後ろでしていたが、やがてそれは消えた。振り返ると黒い何かが憲兵に覆いかぶさっていた。今度は何度見ても消えなかった。「オンサマや……」と、横の当主が小さく独りごちた。
彼は駆け出したい衝動にかられるが、オンサマを刺激したくはなかった。焦って道を外れるのもまずいので早足である。ヒグラシの声が妙に耳に残る。今握っている当主の華奢な手だけが頼り、お釈迦様の垂らした蜘蛛の糸のように思えた。
西風が吹いて竹林に小川のような音が流れる。しかしそこに別の音が混じっている。葉を踏み分ける足音が。オンサマの近づく音が。
当主の顔を窺うが「神さんはどげんもできん。昔も今も」と諦めたような言葉しか返ってこない。
彼がチラリと視界の端に目をやると、木々の向こうにいるオンサマがこちらを見ていた。風景写真に墨を落としたような黒。光を反射することなくべったりと存在する影。そこに仄白く浮かんだ眼がぎょろりとこちらを見た。目が合って動けなくなる。
不意に飛んできた黒い西瓜が彼の腹にぶつかり吹っ飛ばされた。鳩尾からの吐き気を堪えながら目を開けると、西瓜だと思っていたものは憲兵の頭だった。首元が乱暴にねじ切られているので原型はあまり留めていなかったが。
当主が彼の肩を激しく叩いた。
「山を下りたらウチのもんがどげんかできるかもわからんけん、走りい!」
彼はなりふり構わず走り出した。石段を飛ばして駆け抜け、結界の下を転がるように抜ける。
ぶち、ぶち。
続いてオンサマがそれを引きちぎっていく。その音が彼を焦らせ、当主の腕を離すまいと余計に強く握った。近づく足音。振り返る暇はない。
そして初めの鳥居が遠く見えた頃、足音が消えた。
「ここまで来たらひとまず大丈夫や」
それでも彼は荒い息を吐いて、まるで小さな子供のように決して手を離さなかった。
鳥居の下に女が倒れているのが見えた。少し足を止めたが、すぐに近づいていく。不思議な柄の着物は当主と同じような――というより同じである。左手が無く、傷口から血を流している。縄屠蘇家の誰かが入ってきて襲われたのか?
そして髪型も当主と同じ――というより、それは当主本人だった。
そこで彼は自分が握っている手が妙に軽いのに気づく。そして先程「ひとまず大丈夫や」と言ったのは本当に当主だったろうかと。
首筋に生臭い風が吹いた。彼は握っていた左手を放り出し、半狂乱で石段を駆け下りる。もはや何も考えられなかった。倒れている当主を踏んで転び、鳥居に頭をしたたかにぶつけたが何とか山から出られた。
振り向くとオンサマが歯茎まで大きく剥き出して笑っていた。赤い口には疎らに生えた歯が何本かあった。
……というようなことが彼の遺書には書かれていたらしい。
精神に異常をきたした男の書いた怪文書にしては真に迫りすぎていたし、縄屠蘇家に伝わるオンサマの姿形と同じだった。輪郭さえはっきりせずどうにも名状しがたいもの。名は体を表すと言えども、オンサマは「御様」と書く。つまり敬称のみで名前など無いのだった。
事件は黙殺された。代理当主のクサノチは近隣の人々が警官に裏山を教えたことを恨んだが(結局被害を増やしただけだ)、戦時中の田舎で孤立すると飢えて死ぬことになる。全てを水に流し、当主のことは他言無用の禁句となった。だが数ヶ月後―当主は帰ってきた。
ところどころ破れた着物。色白だった肌は垢で黒くなり半裸状態。全身が獣臭い。左手は失われており、ドブ池の鯰のように淀んだ瞳はどこを見るでもない。意思を感じさせない狂気。赤ン坊のような言葉しか話せず、心が漂っているようだった。そして彼女の腹は大きく膨らみ妊娠していた。
七、名前の無いバケモノ
幼いエチは凛としていた母の変わり果てた姿から逃げ、押入れに隠れた。震えが止まらなかった。あれは何なのか。誰だ。知っている者ではない。しかし母だった。どうにか気を持ち直す――もうここはあの恐ろしい山ではないのだから母も治るだろうと。
妹である現当主クサノチは風評を恐れ、かつての当主を地下の座敷牢に監禁することにした。これ以降、母は死ぬまで日の光を浴びることは無かった。
一族で連日会議があった。オンサマの子を宿しているに違いない。神様の子は縁起が悪い。村人に知れたら大変なことになる。潰そう。それでは罰が当たるのではないか。ならどうする。
普段は優しいクサノチ達が、母の身籠った子を流そうとしているのが恐ろしくてしょうがなかった。同じ母親を持つエチには、生まれてくる子供が自分と同じようにも感じられたから。自然、クサノチには不快感を持つ。
大人達の出した結論は「無いものとする」だった。もはや触れるのも放っておくのも怖く、考えたくないのだ。それが次期当主であるエチに全てを投げ渡すことになった。
前当主は鍵のかかった座敷牢で獣同然に飼われ、一月も経たぬうちにそこで子を産んだ。世話係以外は座敷牢へ入ることが禁止され、昼な夜な地下から這い出る声を大人達は聞こえない振りをしていた。口に出すことも避けている。あまりにも自然に無視するので、エチはそれが自分だけの幻聴なのかもしれないとさえ思うことがあった。
産まれたのは縄屠蘇家で初めての男子。すぐに母親と離され、紙紐による結界と厳重な座敷牢へ移された。存在しないのだから名も無い。話をする時には「あれ」「例の子」「件の子」と呼ばれた。
その子が産まれて一週間ほど経った頃、夜中にエチは鍵を盗んで見に行った。世話係の報告を盗み聞きしたところ、その子は夜泣きもしない、小便や大便を漏らすこともないと聞いた。よって夜は世話係が休んでいた。
月明かりを頼りに軋む階段を下りていく。闇が濃くなり、指先さえ見えなくなる。どこかから切れ切れに獣の遠吠えがする。
弟は悪くない、と漠然と思う。自分でも理由はよくわからない。単純に弟ができたのが嬉しいのか、自分がこの家で一番年下でなくなるのが嬉しいのか。庇護欲か。自分が当主になったら座敷牢から出してやってもいいとも思う。言うことを聞くのなら。
「平和な夢は阿呆の特権や」
現在の老婆は皺の寄った顔で笑う。その皺のひだに幾年月の記憶を潜ませて。
最下段にある扉の鍵を手探りで開ける。カビ臭さと獣臭さが濃い霧のように肌にまとわりついた。次第に慣れてきた目は縦横に組まれた木を捉えた。それは天井まで続く格子であり、その奥にどんな色も拒む漆黒がある。
「誰や」
不快な掠れた声がした。
「なんやエチ姉か。おれを出してくれると?」
生まれて一週間でもうここまでしっかりと話している。エチは他の子供達と遊ぶこともなかったので、それがどれだけ異常かはわからなかった。
ただ不可解なものに対する本能が、首を横に振らせた。
「やっぱエチ姉には無理ぞな。そういう風になっとうんよ」
エチはよくわからず、小鳥のように首を傾げる。
「エチ姉はまだ子供やけん、しょんがなか。おれは大概自分がどういうモンかもわかっとう」
姿の見えぬ弟は捨て鉢な口調で続ける。
「おれは普通と違うバケモンや。歯が多くて見てくれは糞やが、お前らの精神が丸わかりぞ。母さんの腹ん中におる時から周りの声が聞こえとったんや。おれが鬼子になるげな。今のうちに潰すか潰すかってなァ」
何が面白いのか笑っていた。
「やけんおれは件の鬼子になったんや。くだんってわかるか。良うない時に生まれて良うないことを告げて死ぬバケモンや。やけ、おれはみんなのホシの明暗がわかる」
自分の未来を尋ねようか迷っているうちに、早口でさらりとそれは告げられた。
「エチ姉は長生きするけど子供にも孫にも嫌われて一族最後のひとりぼっちや。従姉妹のガマチもハマチもミズチばあさんたちも消える。おれもすぐ死ぬ。まあクサノチ叔母なんか今から一週間で焼け死ぬけどな」
大人であれば彼の言葉を疑えもするだろうが、当時のエチは素直に衝撃を受け泣きたくなった。呼吸すると胸が痛い。
エチの生涯。従姉妹。叔母の死。
「悪いけどエチ姉に頼みがあるんや。クサノチが死んでから暫くしたら今度は母さんが死ぬ」
エチは根拠もなく、母はそのうち治るとばかり思い込んでいた。記憶する母が歪む。
「それまでにおれを母さんに会わせてくれんか? いや、エチ姉が母さんに会って聞いてきてくれるだけでもいいんや」
何を。
「おれの名前や」
名前が無いことを何故そんなに拘るのかわからなかったが、エチは頷いた。母親の死を何とかできるとしたら弟なのだろう。弟をここから出すのは危険だとしても母親に名前を聞くくらいは許されるだろう。
と思っていたが予想以上に当主クサノチは姉である元当主を恐怖しており、エチを会わせてくれそうもない。忍び込もうにも精神に異常をきたしている母親は息子より手がかかり、四六時中世話が必要で付きっきりで誰かが部屋にいるのだ。
そしてエチはなんとかクサノチに忠告した。「床下から声が聞こえてきて、毎晩、クサノチはもうすぐ焼け死ぬと言っている」と。
クサノチはすぐに動いた。山の神に対する言い伝えや鬼子の対処法を探しにいくと言って、連日都会の大きな大学図書館で古書を調べだした。しかし運悪く都会に付き物である空襲の焼夷弾によりそこの蔵書約五千冊と共に焼け死んだ。
鬼子の予言は当たった。
世話係は葬式の準備に駆り出されたり大人は外出が増えたりと、縄屠蘇家は俄かに慌ただしくなった。
その隙をみてある日、エチは深夜に弟の元へ行って牢の鍵を外した。今度は蝋燭の明かりを持っていったので弟の姿がよくわかった。
ジロジロと凝視――観察する。どう見ても生後二週間にして既に青年であり、通常より歯が多い気がする。
しかし目がこうで鼻がこうで、と言うことができない。全体がどうにも名状しがたく、そしてそのことが対面する者を居心地悪くさせ不安を掻き立てるのだった。
続いて二人で母親の座敷牢へ忍び込む。闇に慣れている弟は先にすたすた階段を降りて行ってしまう。エチは揺らめく火に照らされた自らの影が恐ろしくなり足が速くなる。
階段下には戸がある。エチは隣の弟を見上げた。弟もこちらを見ていた。頷き合うと、音を立てぬようゆっくりと開けた。
弱々しげな橙色が座敷牢を辛うじて浮かび上がらせた。久しぶりに見る母は牢の向こうで鼻歌まじりに右手だけで器用に布おむつを縫っていた。身なりや振る舞いは帰ってきた当初より整っていた。
何でもかんでも分かっていそうな弟が神妙な顔で黙っているので、エチが声を掛けた。
「お母さん?」
母は手を止めたが、キョトンとして眉尻を下げた。
「……あんた達、どこの子ね。ここに入ってきたらいかんよ」
返事に困った。エチのことがわからないのだ。蝋燭の灯火で顔を照らした。周囲が少しだけ明るくなり、座敷牢の壁には母の手によるものだろう、梅の花が刻まれていた。
「お母さん、わからんと? 私やん。エチよ」
「エチの友達かね。エチは悪いけどもう死んでしまって、遊べんのよ」
水を打ったような静寂に、エチの声が少しだけ漏れた。口を開くが言葉は何も出てこない。ただひたすらに鼻の奥がツンとしてくる。
大きな体が前を遮った。
「おばさん、他に子供は。エチに弟がおらんかったか」
母は蝋燭に引き寄せられる羽虫を目で追いながら、
「ああ、おったよ」
エチは弟を見上げて思った。弟はもはやこの世の殆どがどうしようもないと思っているのだろう。この家やおそらく母親が死ぬこと、その死因を知っているのだろうから。
しかしその横顔は辛そうなのだ。怖いのだろう――自分の不確かさが。
せめて何か母との繋がりがあれば。
「その子の名前は?」
喉から絞り出した、干からびた声が問いかける。
「その子は梅の……」
急に足音がして背後の戸が開いた。そこには村の男達がいた。妖怪退治でもするつもりか、頭に鉢巻を巻いていた。その後ろにいつも弟を世話している女がおり、男達にそっと囁いていた。
男達は次々と弟に肩からぶつかっていき、頭を殴り腹を蹴り上げ、腕を牢から引き剥がした。
弟はひときわ巨大な体躯を持つ男に太い腕で首を締め上げられ、足が床から離れていく。
突然男は叫び声をあげて弟を放り投げた。腕には歯型がついている。弟が噛んだのだ。
弟は四つ這いになって歯を剥き獣のように奇声を発した。威嚇して吠えながら暴れまわった。エチは恐ろしくて恐ろしくて何もできず壁の方へ寄る。
「はァ! 獣憑きや。母親ごと叩き殺したがやっぱ良かったなァ!」
男達は思い思いに持ってきた棒や鍬や鋤を振り上げて向かっていくが、弟は壁を蹴って一人に飛びかかった。
次の瞬間、弟の口は血塗れになっていた。倒れた男は右耳を押さえているが血は止まる気配もなく溢れて滴る。
弟は血と一緒に壁へ耳を吐き出した。それは血の粘性でベタリと張り付き、ある種滑稽な風情を醸していた。
「きさんらがどこから聞きつけたかわからんが、しょんがなかな。アッハハ、壁に耳ありやなァ!」
エチは隅で鼠の子のように縮こまって震えていた。
「やめなさい! なしてそげん酷いことばするとね!」
牢の奥から響いた母の言葉。振り向いた弟は哀しそうな顔で――エチは後にも先にも人間のこんなにも哀しい顔は見たことがない――力なく佇んでいた。
その隙に引き倒され、四方から振り下ろされる農具で両腕と両足の骨を折られる。それでもなお狂った熊のように暴れ噛みついたがとうとう頭を割られて動かなくなった。
エチは階段の陰に隠れて、祖母や従姉妹など残ったこの家の女達が村の男達に指示しているのを見てしまう。
「この家の女どもは母さんと弟に全ての責任をひっかぶせて差し出して、村人と共生することにしたんよ」
老婆はどこを見ているとも知れぬ焦点の合わぬ瞳で語る。
意識の朦朧とした弟が半分白目を剥きながら顔を上げると、母親も牢から引き出され頭を鍬で砕かれ死んでいた。エチはその最後をじっと見ていた。
痛々しい傷だらけの身体から血を流しながら這いずり、母へ向かっていく。ようやく辿り着けたのは母の左手の位置。しかしそれはもう失われていた。
弟は口を開き、見えないそれを舐めているようだった。
そして死の間際。大声でその場にいる全員に予言した。
「お前らこれからもっともっと酷い目に遭うんやぞ! 死ね! 死ね! ハァッ。ハァッ。死ね! 死ね……死」
グシャ。
怖くなった男の一人が鍬でとどめを刺した。
太平洋戦争は敗戦をもって終結し、それから村人達の多くと、当主と弟を差し出した縄屠蘇家の者、あまり関係ない従姉妹さえ、謎の歯型を残した怪死体となって発見された。
以来この家に生まれる者や関わる者はそれに呪われるらしい。
そしてもう一つの注意。
「弟は名前が欲しゅうて欲しゅうて堪らんのや。やけん、名前を付けたらそいつのところに憑いてしまう。憑いたら今度はそいつを中心に不幸を撒き散らすんや。やけん決して名付けたらいけんのや」
老婆は疲れたようで、肩で息をしていた。顔を赤くしているが語りをやめるつもりはないらしい。
「んで、縄屠蘇家は正式に憑き物筋の家になった。村八分や。ウチにはマチっつう娘ができてな、ウチが知っとる誰よりも神降ろしが上手かった。オンサマと相性が良いんやろな。ばってんマチは子供にそれを継がせるつもりは無かった。孕んだらすぐに家を出た。そこからはウチとは一切関わっとらん。縄屠蘇の名前には全て神と関係する言葉『チ』が入るんやが、その子には全然違う名前を付けたみたいやってのは聞いた。エンジェルプリンセスって」
老婆の不意打ちに私はつい噴き出した。名前を変えるにしてもちょっと。あの子の母親はいったいどんなセンスの持ち主だったのか。
「ばってん優しすぎたんやな。家を出てからも時々あらわれる『あいつ』にマチは名前を付けてしまったんや」
なるほど話が見えてきた。私の右手が疼く。話を聞いているうちに既に痛みは手だけではなく腕に達し、まるで紫色の魚の干物。この家と「そいつ」の核心に触れるほどに、そして時間経過と共に傷は深くなり、やがて心臓に達するのだろう。
もはや右手どころではないのだ。そしてそれを治す方法も無さそうだ。
「とり憑かれたマチがおると周りに迷惑を撒き散らす。実際何人かは噛まれとる。やけん周りはマチをいっつも虐めとった。あからさまに虐めてもいい奴になっとったがな。そのうちやり過ぎて殺してしまった。警察も見て見ぬふりや」
この老婆の言葉はおかしい。自分がそこにいたように語っているが、その割には一切介入していないのだ。
「家を出て行った娘やけん、まあ殺されても私には関係ないわな」
老婆は感情の籠らない言葉で言った。それから尊大な態度でふんぞりかえる。演技じみていた。私はウンザリした。
「ばかじゃないですか? 子供が母親に無視されるのがどれだけ辛いかあなたは知っているんでしょう。なのに。どうせ娘さんが死ぬことは予言で知っていたんでしょうけど、でも何にもわかっていない。予言や呪いなんてものは、常に聞いた者によって自己実現されるんです。私は以前『四の数字』に囚われた人と会ったことがありますが――同じですよ。あなたが予言を信じているからそうなってしまうんですよ」
言いながら、やっぱり他人を非難するのは自分に向いていないと思う。空気も嫌だ。自分も嫌いだ。一体どういう立場でこんなことが言えるのか。嫌だ嫌だ、公明正大な人間なんて冗談じゃない。まるで先生みたいに実情に即していない正しいことを言うクソ野郎。
それでもこの老い先短い老婆のために。最も悪い者とは言い難い老婆のために。娘を見捨てた老婆の心のために。囮を大量に設置したこの屋敷から出ると噛みつかれて恐らく呪われるのだろう、出るに出られぬ老婆のために。
「……これで良いですか。あなたは誰かに非難されたかったんでしょう?」
私は立ち上がった。正座していたので痺れてフラついてしまう。
「あんた、ありがとな。天使姫の先生やろ? 何とかしてやってな。弟も、あの子までは流石に予言できんかったんや」
私は振り返らない。先生ではないので。
「大したこと話せんかったけど」
老婆の声のトーンが低くなった。私は心にもない言葉を言いたくなった。
「家庭訪問に行った先のお宅では大体みんな最後にそう言うんですよ。心配だから。それが伝わるから――先生はしっかりやろうって思うんだろうなと……思います」
私は振り返らずにこの屋敷を出た。N氏が外の岩で居眠りしていた。
「世界」の終末まで、あと二日。
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