天使姫騒動(前編)
一、何かが君を見ている
またか、と思われるかもしれないが暫し我慢して前置きを聞いて頂きたい。今回の「怖いこと」についてである。
この世で――いや御存知ならばあの世も含めてもらって構わないが――最も怖いことは何だろうか?
読者諸君も大好きキュアハッピーもかくやと思われるほど純粋無垢な美少年だった私は、気づけば暗黒の高校時代を経て雑木林のようにねじくれた心を持つ腐れ外道になっていた。
当時から私はひたすら恐怖について考え続けている。
そしてつまるところ人間が最も怖い、というひとまずの答えに辿り着く。快楽殺人鬼に詐欺師、魔女狩りをする民衆、中世の拷問器具、田舎に伝わる生贄を使った呪い、戦時中の人体実験、自覚の無い偏見、不意に向けられた悪意などなど。調べれば調べるほど、切り開かれた鶏の内臓じみた――新鮮な恐怖を見つけることができる。
なるほどその器官はドクドクと脈打っており、私の中にも存在することを否が応にも知らしめる。
大小の差はあれど自分は間違いなくそういった行為を思いつくヒトの一個体なのだ。否定できない。これは怖いのでは?
それでは本当に古今東西の幽霊妖怪話は怖くないかといえばそうでもない。いくらでもゾッとする話はある。山や川、古びた農村に祀られている古い神は怖くないだろうか? 得体の知れぬ言い伝えに恐怖を感じたことはなかろうか? 人間の不可知部分に何かが潜んでいないとどうして言えようか?
例えば眼球には盲点という見えない部分があり、普段人間はそれを脳で補って視界の全てが見えているように勘違いしている。つまりその部分に「何か」がいても――それが目前数センチに近づいても――気づくことはできない。君の鼻先に得体の知れぬ何かが涎を垂らしてじっと見つめているとしても、君は気づけない。
というようなことを「私は怖いと思う」のだ。
人間も幽霊も怖い。では一体何が最も怖いのか?
大学に入学して間もなく、私はそれに関してある種の正解を持っている男に出会った。
先日ニンジャにサヨナラされて爆発四散した、今は亡きN氏。
表情を作る筋肉の使い方を間違えしばしば気持ち悪い笑顔となってしまう男。顔色は常に死者のようでありさっさと土に還った方がよほど本人にとっても出会った者にとっても山川草木にとっても幸せであろうことは察するに余りある。
さてさて彼曰く「怖いと思えば何だって怖い」とのことであった。怖いと思うから生まれる「怖さ」があるのだ。壁の染みに人の顔を見るように。
それは私の望んでいた正解ではなかったにしろ慧眼であった。又の名を泥沼とも言う。考えるべき恐怖の対象は雨後の筍の如く無限に増えていった。
それに反比例して帯霊体質にして巻き込まれ体質のN氏体力ゲージは緑から黄色から白から赤になりみるみる減り続けカラータイマーは点滅し、もはや死んだ魚の目どころではなく死んだ人間の目であり然るにこれはゾンビですか? いいえN氏です。ややこしや、ややこしや(懐かしい)という有様である。
さて今回はとりわけ何故ヒトが最も怖いかの話である。それはヒトが実際には対象が存在せずとも恐怖を感じることができるからである。常識的には対象があって恐怖が発生すると思われるが、ではそれらを一つ一つ取り除いていったところで安心できるかというとそんなことはない。ゴキブリを一匹殺したとて不安でなかなか安眠はできまい。
ヒトは完璧に掃除した部屋でワザワザ顕微鏡を使って糸クズを探すように恐怖を見つけ出す。逆説的だが彼もしくは彼女は自ら恐怖を作り出していることに気づいていない。
そしてヒトは何かを心底恐怖した瞬間、通常では考えられない行動に出る。それが怖いのである。
自分が殺されることに怯え他人を殺し、通報されることに怯え目撃者を殺し、逮捕された後の社会的な非難や屈辱に怯えて自分さえ殺してしまう。かくも恐怖の悪趣味連鎖は留まるところを知らず周囲にグルグル伝染巨大化し、噂が噂を生み事実はいくらググろうとも正邪の情報が錯綜して不明となる。そうしていちいちググるのも面倒になった人間は丸ごと信じ込み恐怖症患者の群れは元凶を排除しようとして――世界はカタストロフを迎える。
かつてナウシカは言ってのけた。
「怖くない怖くない、怯えていただけなんだよね」
実際それこそが怖いのである。
二、我が腰は捻れ狂う
★★★
あれは台風の酷い夏のことだった。
全く嬉しくもないセクシーショット――パンツ一丁のN氏がウチワで扇ぎながら私に呆れていた。
「先生って誰でもなれるんだな」
私はN氏の部屋にて、性欲のバケモン――高校生とも言うらしい――への溜めに溜めた鬱憤をブチまけていた。
「誰でもは無理だよ。ダメ人間はなれない。かといって先生になれるのはウンコ野郎だけさ。未消化のトウモロコシ混じりのね」
捨て鉢で下品な物言いであるが許して頂きたい。私は悪口など生まれてこの方一度も言ったことのない正直な紳士であるが、この時ばかりは実習を受け入れて頂いた綿貫先生にさえ矛先を向けるほど憤懣やる方ない心地だったのである。
「お前の高校時代は暗黒だって聞いてたが、そもそも何でまたそこに戻ろうと思ったんだ」
驚くなかれこれでも真面目な大学生であった私は教員免許をとるべく教育実習に参加したのであった。結果、いかなる選択をとったパラレルワールドにおいても私が教師になることなどありえぬことを悟った次第である。
「くそったれ母校の方が受け入れてくれやすいんだよ。免許だけ欲しかったんだ。いや、実は先生になるつもりは、最初は少しあった」
N氏は大さじ一杯のワサビを食べたような泣き顔になった。苦笑しているとわかるのはそれなりに付き合いが長いからである。彼は酒が飲めないので私の持参したツナピコとウーロン茶を手にしている。
「学校で何があったんだよ」
「……人間が一人消えた。もう帰ってこない」
私は額を押さえた。痣の消えかけた右手はまだ痛む。
「まあ初めから話してみろって」
からん、とコップの氷が勝手に返事をした。
★★★
七月一日。蝉の鳴き声は太陽光線と絡み合い更に気持ちを滅入らせる。
かつて自身が通っていた光ノ丘高校の門をくぐると、思い出が胸いっぱいに広がってえづきそうな私である。
職員室にて話を通していた校長から全員に紹介され、二年一組担任の綿貫先生と話す。私のかつての担任教師でもあり、チャウチャウ犬によく似たつぶらな瞳と柔和な笑顔、そして何かモグモグしている口元が印象的である。
「久しぶりですね。君は本を読むのが好きでしたね」
そうだろうそうだろう卒業する際のクラスの中心メンバーが催した「全員で全員に寄せ書きをしよう!」という意味不明な残虐行為によって生まれた私の色紙にはもれなく全員から「いつも本を読んでましたよね」としか書かれていなかったほどである。
「まあ、緊張しなくても大丈夫ですよ。ウチのクラスは特別進学クラスです。分別のある人が多いですから」
「それは良かったです。開幕一発裸踊りで心を鷲掴みにする必要はないんですねハハハ」
沈黙が一陣の風のように駆け抜けていった。
そんな必要に迫られる事態がこの世に存在するわけないでしょうバカなのですか死ぬのですかと先生の背中は語る。
綿貫先生に連れられ、早速二年一組に向かった。
チャイムが鳴る。
「起立、礼!」
ケント・デリカット似の眼鏡委員長が礼儀正しく号令をかけた。
「おはようございます。今日から教育実習の先生が来てくれました。とても面白い先生なので、皆さん何でも無茶振りしてあげてくださいね。裸踊りとか裸踊りとか裸踊りとか」
綿貫先生は私を見てウインクした。いえ、裸踊りをやりたいわけではないんです先生。違います先生。
「せんせー!」
黒髪ぱっつんロングストレートをAKBメンバーにありがちなハンパな分け方をした女子高生が手を上げていた。私は名簿表を見る。
「はい前野さん」
ウインクを振りまいて立ち上がった。
「先生の名前がわかりませぇん」
なかなか鋭いところを突く娘である。前野さんか。名前を覚えておこう。
「しかし語り手の事情により却下。他に質問は」
「彼女いるんですかぁ?」
色ボケした桃色の脳味噌を抱える年代ならば致し方ない質問か。
「えー、いますね」
前野さんは自分から質問しておいて少し照れたような顔になった。なかなか可愛いところがあるな。
「セックスするんですかぁ?」
一瞬クラス中がドッと噴き出したが、終わっても私にまだ視線が集まるので答えなければならない雰囲気らしい。何故教師というだけでこんな質問に答えねばならぬのか。こういうのをセクハラというのである。一度訴えられねば理解できないのか。
だがそれは一般的な話であり女子に性的な事柄を尋ねられるのは性癖的にやぶさかではない私である。一対一に限るが。
ビッチ前野は何故か秋晴れの空を見上げるような清々しいほどの表情でこちらを見つめている。純粋な興味ということだろうか? しかしそんな生々しい話を読者諸君は聞きたくもなかろう。私だってこの物語を十八禁にしたくはない。隣の綿貫先生はと言えば目を輝かせてかぶりつきなので当てにならない。
ええい、ままよ!
「一週間に……」
「せんせー!」
ジャニーズにでもいそうな髪の長いイケメン君が手を上げた。
「はい松宮君」
いいぞ。君は空気が読めるな。将来大物間違いなしだ。
「一発ギャグをしてくださーい」
前言撤回。勘違いチャラ男松宮はニヤニヤ笑いながら私を見ている。他の生徒も期待の眼差しを向けている。どうせ見るからにコミュ障だと思って私を愚弄しているのだろうが暗黒の青春で自意識をこじらせた大人をなめるなよ。人生など幻に過ぎないのだやってやる。
★★★
「いっそ殺せ……ッ! 殺せんせーじゃないから殺れるはずだ」
私はビールを一息にあおると缶を握り潰した。N氏は傍の「月刊筋肉」のグラビアページを眺めながら。
「何やったんだよ」
それは言えぬ。このような辱め、武家であった御先祖様がご覧になれば即刻優しい瞳で自害用の小刀をお渡しになったであろう。
「気になるんだが」
「いや……前にN氏と一緒に出かけた時に見せたじゃん。図書館で」
N氏は首を傾げてこめかみを押さえた。
「ホラ、本棚の本を一定の順序で動かすと、狂えるアラブ人が書いた、ヒトの皮でできた呪いの本が出てきた時さ。読んでたら君のお腹がピーピー急降下して仕方ないから帰ろうとしたけど司書のお姉さんが私に彼女いるのとか好みのタイプはとか聞いてきて答えてたら、結局緊急事態の君は窓からケツを出して可及的速やかにプリプリ用を足して紙がなかったからその呪いの本を破いて拭いたんだっけ……ふふ、懐かしいな」
「そうそう世界広しといえどもネクロノミコンでケツを拭く過激派は俺ぐらいかなってオオオイ! 長えしそんな記憶ねえよ!」
そういえば小学校で大便をするとうんこマン扱いされたっけなあ……。
「ところでどんなギャグか気になるんだが」
「まあ簡単に言うと、『我が腰は……』って奴」
N氏は心底同情した哀しげな瞳で私の肩を叩いた。
「あれか凄えなー。お前さんの度胸だけは認めざるをえないな。で? 全員にスルーされたのか?」
私は首を振った。酒臭いため息を吐くと、実習によってあるかなきかにまで減った幸せ成分が跡形もなく雲散霧消していった。
★★★
「今のはどういう意味ですか?」
横の綿貫先生が真顔で尋ねてきた。各国に義務教育で覚えさせたいが、一発ギャグを披露した者に対する最も苛烈な仕打ちはそのギャグを当人に説明させることである。それは精神が壊れて発狂してもおかしくないほどの苦痛であり、また見ている側でさえ辛くなる非常に重苦しい空気を醸すのだ。閻魔大王もここまで無慈悲ではあるまい。
……ああ勿論解説したとも。救われたのは教室に一人だけ、退屈そうに本を読んでいる仏頂面の女子生徒がいたことである。彼女だけ私を嘲笑っていない。手元の座席表から名前を察するに、「鈴木天使姫」と言うらしい。名前は凄いが、自分の笑いの感性に忠実で大変よろしい。他の皆もホラ、周囲の空気に合わせなくていいんだよ? デリカットもね、面白くないなら黙るがいい。だから私を指差して馬鹿にして笑うようなことはやめたまえ。人を笑わせるのは偉大だが笑われるのは単なる道化だ。
そこでチャイムが鳴ったので朝のホームルームでの自己紹介は終了。大惨事など無かったかのように生徒達はダベりだすが、私の心には大きな傷跡が今に至るまでかさぶたもできずに残っている。駆け出しの芸人ならもう実家に帰っているレベルであろうが(私だって帰れるものなら帰りたい)、とにかく私の教育実習はこうして始まったのである。
連日綿貫先生の授業を後ろで鼻を穿りながら眺め、休み時間には授業準備を手伝い、昼食に玄米と味噌と少しの野菜を食べ、前日丑三つ時までかかった怨念のこもった我が授業計画を綿貫先生に提出し、その後その通りに授業しようとしたがあまりにも本来の領分から逸脱し雑学を盛り込み過ぎたことから授業進行は混迷を極め綿貫先生に舌打ちをされる。東に生徒への罵詈雑言だらけの職員会議あらば行ってソレガヨイトオモイマスと事なかれ主義丸出しの態度を繰り出し、西にPTAの集まりがあらば行ってモンスターペアレントどもにウマレテキテスイマセンと謝り倒し、南に図書部の顧問要請があらば行って課題図書はツマラナイカラステマシタと言いたいところをグッと留め、北にむさ苦しい体育教師の暑苦しいご高説あらばマサシクソノトオリデスネと有難く拝聴し、帰路の途中自販機に「わかってくれとは言わないがそんなに俺が悪いのか」と愚痴って涙を流せば、ポリスメンに職務質問を受けてオロオロする有様、褒められもせず苦にばかりされる。さういふものに私はなっていた。さういふものに私はなりたくない。こんな人間が教師になどなってはならないと思うのも無理からぬことであろう。
クタクタで帰ってくるのは高校近くの祖父母の屋敷である。実習中はそこで寝泊まりしたのだが、この大きな屋敷では昔から猫を大量に飼っているのである。
駆け込み寺のように一匹の身重の猫がやってきたのを皮切りに、産めよ増やせよ大地に満ちよといった調子で瞬く間に二十数匹に及ぶ一大帝国を作り上げたらしい。「飼っている」というより「飼わせていただいている」といった雰囲気の彼らは首輪を付けているわけでもなく勝手気儘に外出していくので流石に祖父母は近所から野良猫を増やすなというお叱りを受け、雌猫は外出禁止、雄猫は全て里子に出されるか去勢されるかの運命にある。
何故か私は去勢された雄猫達に好感度が高く、朝起きると甘えん坊の猫が胸に乗っており、私を起こしに来たツンデレ猫がそれを見て嫉妬して指に噛みつき、年を経た温和な猫がその指を舐め、掴み所のない不思議系猫は私の靴に収まって寝ているといった状態で、さながらニューハーフしかいないハーレム系恋愛シミュレーションのようであった。
彼らの癒しが無ければ私はこの仕事場いや死事場を駆け抜けることは困難であったろう。
この時点で、「世界」の終末まであと十九日。
三、カリスマいじめられっ子
さて教育実習とはどこもこのくらいハードなものかと思っていたが、どうやら違ったらしいことが後日わかった。
二週間ほど経ったある日、私はいざ図書部に参らんとして、課題図書を職員室に忘れてきたことに気づいた。戻ってくると、扉付近で校長先生と綿貫先生が話している。何やら私の話をしているらしいので自然、盗み聞きした。
「教師になる気もないのに実習に来るとはねえ」
校長が困ったように言った。何故そういう話になっているのか知らないが、ここに来た当初の私は「教師にならないつもりはなかった」のは確かである。無論絶対に教師になろうと考えている者に比べれば何も言えないが。
「三週間ですか……二週間で帰ってもらいたいもんです。受け入れ先の負担も考えろってことですね。色々とストレスを与えているので、もう少しで音を上げるとは思いますが」
綿貫先生はそのまま職員室に入り、話は私のつまらない一発ギャグと挙動不審な振る舞いと協調性の無さに移ってネタにされ、職員室は全員の明るい笑いに包まれていて――明るさとは暗いものを追い立てることで成立するのだ――戻ることはできない。いつも思うことだが笑いと暴力性は脳の近い部分にあるのではないか? イルカが口角を上げたスマイルで牙を隠しているように。
私が軽くショックを受けていると急に袖を引っ張られた。ビクリとして振り向くと、そこには地味で幸薄な横顔があった。
「鈴木……さん?」
呼ぶとググッと近づいてきた。しかし顔だけは壁に向けたままボソボソと話しだした。私に話しかけているのか?
「えっ? 鈴木天使姫ですわ。ごきげんよろしくて?」
どうやらこの不可解な娘さんは私との食事を所望しているらしかった。
学食が閉まるギリギリの時間に滑り込み、食料を買って二人で分けた。中庭の平たい岩に乗って私はハムカツサンドを頬張ってしばらくぶりのパンの味を堪能する。
放課後の中庭はゆっくりと影が増していく。茂みから方々に飛び出たセイタカアワダチソウが高く育っていて、私達の姿は目立たないようだった。先程から誰も通らないのでどこか異界にでも迷い込んだような風情がある。
天使姫はまるでそれが最後の晩餐だとでもいうように朝食りんごヨーグルトを大事に抱えたまま話し始めた。
「図書部には行かれなくてもよろしいんですの?」
「よろしいんですの。『親指さがし』を読んでああだこうだ話し合うよりも生徒の相談を受けることが最優先事項ですの」
天使姫はぼーっと校舎の壁に女郎蜘蛛が巣を作る様子を見ていた。聞いているのかいないのか、気まずい。しかし彼女は何か気づいた様子で口を開いた。
「えっ? ああ、逆ですわ。私が先生に相談するのではなく、先生が私に相談するのですわ」
天使姫は自分の胸に手を当てた。
「……は?」
一瞬意味がわからない。
「えっ? 先生は他の先生方からいじめられているのでしょう? ですから、この学校でいじめられていることにおいては右に出る者のいない、先輩である私に何か相談することがあるのではないですか」
顔に影がかかり、目前の女子高生が奇怪なものに思えた。
多くの女子高生は似たような改造した制服や仲間内で共有された流行のファッションや同じ話題や言葉遣いで画一化された印象を与えることが多いのだが(何しろ仲間外れにされるのを極度に嫌う子が多いので)――この天使姫は若干おかしいのだった。
私が他の教員から受けた仕打ちはさておき、彼女は本当にいじめられているのだろうか? これはデリケートな問題だろう。
「……じゃあいじめられない方法について教えて欲しいね」
「えっ? それは無理ですわ」
私は一太刀のもとにぶった切られた。
「うん、まあ……じゃあとりあえず、この『自家製麻婆茄子パン』ってどうなのかな? 珍しいから買ってみたけど、美味しいかな? 先輩の意見を聞こうか」
天使姫はパンをひったくると一気にかぶりついた。ブシュウウウと中身が漏れて飛び散った。彼女の口周りは真っ赤な肉汁で彩られた。まるで吸血鬼のように。
「えっ? パンはキリストの肉、とも言いますけど、こんなに挽肉が……しかし」
彼女は急激に咳き込んだ。
慌てて紙パックのぶどうジュースにストローを刺して渡す。彼女は一息になかなかの量を飲んだ。
「えっ? 辛すぎますわ……舌が痛い。麻婆茄子は好きだけれど、こんなもの誰が食べられるのかしら」
私も一口食べてみたが、一体何が目的でここまで辛くする必要があるのかもはや罰ゲームレベル――いやゲームではなくただの「罰」だ――の辛さとなっており、すぐに烏龍茶を飲んだがまだ舌が痺れている。口を開けて少しでも軽減させようとするも舌が外気に触れるだけで痛い。遅れて額に汗が噴き出してきた。
天使姫と私はお互いの顔を見合わせて笑った。これでようやく彼女の微笑みを見ることができたというわけだ。
結局彼女は朝食りんごヨーグルトは食べずに持って帰ってしまったが。
★★★
「お前、女子高生とフラグ立ててどういうつもりだよ。彼女いるくせに」
N氏がリア充爆発四散しろといった目で私を見る。
「参ったな……そんな目で見られると欲情しちゃうじゃないか」
「で、つまりどういうことだってばよ」
華麗にスルー。
「天使姫は本当にいじめられてたのか?」
彼は冷蔵庫からわらび餅を取り出してきた。爪楊枝で刺してきな粉につけて口に運ぶ×3 。
「あの子はつまりね、カリスマ性のあるいじめられっこなんだよ」
私も自然にわらび餅へ手を伸ばしたが叩き落とされた。野良犬を追い払うように心なく。
「はぁ? んな矛盾したモン存在すんのか」
「君だって彼女に会ったんだからわかると思うけど――人を惹きつけるっていうか――妙な雰囲気があるでしょ」
語りかけながらわらび餅へ手を伸ばしたが叩き落とされた。
「まー確かに。人を惹きつけるってのはプラスとは限らないわな」
私は沈黙して目を天井にやる。そうすると考えやすいのだ。
「……N氏、私達はそれなりに一緒にいるけど、これは例えばブッチとサンダンスっていうか、スタスキーとハッチっていうか、テルマとルイーズっていうか、翔太郎とフィリップっていうか……」
私は考え込んでいる様子でわらび餅へ手を伸ばしたが叩き落とされた。
「突然なんだ。例えがよくわからんぞ」
「ケンヂとオッチョっていうか、キン肉マンとテリーマンっていうか、ホームズとワトソンっていうか、杉下右京と亀山薫っていうか」
N氏はそこでようやく私が何を言いたいかピンときたようだった。
「『相棒』ってことか?」
不意にわらび餅へ手を伸ばしたが叩き落とされた。
「奥さん聞きました? 相棒ですって。キモーイ、そんなのが許されるのはフィクションだけだよねー」
「お前が言い出したんだろうが」
不愉快そうにため息を吐いた。
「そこまで明言しなくてもさ、ただ単純に、一人ぼっちの奴が一人ぼっちの奴と出会って、それが『二人組』になる。よくある現象だろう。ただね、天使姫はそうはいかないんだ。私と一緒に話すようになっても、ただの『一人ぼっちが二人』ってだけなんだ。惹きつけるのにどこまでも一人なんだよ」
「そりゃ悲しいな」
思い出したようにわらび餅へ手を伸ばしたが叩き落とされた。
「わかったから! わらび餅食いたいんなら言えよ!」
★★★
その晩、私は祖父母を起こさないようにそっと帰宅した。遅い夕食をとると翌日の授業計画を作り風呂に入った。湯舟で眠って危うく溺れかけたが何とか立ち上がりパンツだけ履いて、起きてきた猫達がニャーニャーうるさいのを一匹残らず部屋から追い出して戸を閉め、さっさと布団に潜り込んで明かりを消す。
幸せな瞬間。時間の流れが寄せては返す波のようにボヤけていく。
……鈴木天使姫。
私の高校時代はどうだったろう。私は高校が大嫌いだった。クラスの誰とも口をきかずに一日を終えることもよくあった。その辺りの記憶は実は少ない。
思い出すのは真夏の昼休みに食堂でハムカツサンドと烏龍茶を買って、中庭の薄暗い茂みで食べていたこと。教室に帰ると私の席はクラスでも声の大きなグループに使われている。彼らに悪気はなく空いているから使っているのだが、私はどうにも退いてくれと言えず、結局回れ右する。図書室だろうがグラウンドだろうが生徒達はグループでやってくるのが普通なので私は肩身が狭く、どこに行けば一人でいることを許されるのだろうと考えた末、外の蛇口で顔を洗ったり水を飲む真似をしていた。昼休みが終わるまで延々と。そうしていると水が気持ちよく、そして自分が何もすることがなくたった一人でいる寂しい奴だと思わずに済んだし、教師に話しかけられることもなかった。大学に入ってできた彼女――蟲っちょ――に殆ど同じ経験があるのにはある種運命的なものを感じたが。
明るかった中学時代からどこで間違ってしまったのかよくわからなかった。人嫌いを治すつもりもなく群れる生徒達を蔑んでいた。
今はどうだろう?
微睡んでいると布団から飛び出た私の右手を猫が舐めてくれた。慰めてくれるのか。だがほどなく、胸は早鐘を打ちはじめ冷や汗が噴き出した。
猫は全て部屋から追い出した。
では今、手を舐めているのは何だ?
突然、右手に激痛がはしった。
「うっ!」
反射的に手を引っ込め明かりを点ける。何もいない。部屋を出ると、廊下の猫達が一斉に窓を見ていた。微動だにせず。一匹たりとも私の傍に寄ろうとしない。窓の外には盆栽が並んでいるだけで、時折風がひゅるひゅるとうねっていた。
自分の右手を見ると、点々と半円状に赤く痣になっている。手のひらの中央まで。猫にしては一本一本の歯が大きすぎる。
それは何かもっと大きなものの歯形だった。
翌日。
私は中二病患者の如く右手に包帯を巻いて出発した。
正直自分のことで限界でそれどころではないが、果たして天使姫はいじめられていた。それはもうクローネンバーグかサム・ライミ映画の如く名状しがたいほどグチャグチャに。
誰に?
もれなくクラスメイト全員に。
彼女はいじめられている時は別人のように挙動不審である。わざとらしいまでにオロオロして気が動転し何を言っても殆ど無視されていた。
言葉がうまく紡げずにいるのをデリカット委員長が嘲笑う。すると涙目になる。とにかく全てにおいて無抵抗である。戯れに前野から救いの手が差し伸べられると素直に追いすがり、しかし払われ、そんなことが何度も繰り返され騙される。それがクラスメイト達のサディスティックな欲望と暴力性を掻き立てるらしかった。
弁当箱をカバンの中にブチまけられたり上履きに白濁した液体(察しろ)がブチまけられていたり生理用品に御丁寧に名前を記入された状態で教室にブチまけられていたり。
「とにかくブチまけるのが最近のトレンドのようですわ」
放課後、中庭で二人きりになって話していると彼女はケロリとしているのだ。私はどうしたものかと思案する。
「えっ? どうしたものかと思案なさっているでしょう」
驚いた。
「……正直、そうだね」
「えっ? 先生は何もなさらず、私を見ていてくだされば良いのです」
彼女は相変わらずこちらと目を合わさずに話した。その横顔は加工されたダイアモンドのように一分の隙もない。彼女は何故か決意を持っていじめられているのだった。
どうしてこれまで天使姫がいじめられているのに気づかなかったのだろう? いくら最近の私がどん底だからといってアホ丸出しである。
「えっ? それは私が先生に見えないように――つまり見せないように――いじめられていたからですわ」
また心を読まれた。
「どうしてそんなことをする必要があるんだい」
彼女はいつも持ち歩いているボロボロの本を強く抱きしめた。
「えっ? 面倒だからですわ。被害者も加害者も、そして教育実習の先生にとっても」
「そうじゃなくて、君が故意にいじめを受ける理由だよ」
天使姫は優雅に、文字通り天使のように微笑んだ。
「えっ? 神の試練だからです。肉体的・精神的苦痛を耐えているとアタマの中がキュウっとして辺りが眩い光に包まれて『神様』の声が聞こえるのです」
私はそれ以上何も言えなかった。何を言えば正解なのかわからなかった。
「世界」の終末まであと四日。
四、本物を証明する不可欠な過程
翌日、にぎわう職員室で私は綿貫先生にそっと話しかけていた。
「あの……ウチのクラスの鈴木天使姫のことなんですが、彼女はその、どういう……?」
綿貫はニコリと優しく微笑んだ。
「ああ、学年トップの子ですね。ちょっと不思議なところがありますが、思春期にはよくあることですよ。昔の君もよく似た雰囲気でしたしね」
うぐ。
「鈴木は独特の発作があるんです。噂では親からの遺伝的なものだとかで」
親というと、天使姫などというけったいな名前を付けた者共か。
「その様子だと、君は知らないんですね? まあ君の代にはいませんでしたからね」
何がだ。
「表向きは違いますが彼女は代々続く、この辺りでは不幸を撒き散らす有名な呪われた家系なんです。古くから習慣で人々の悪意の的として存在してきました」
貴様は不幸のみならずコーヒーと煙草の混じった臭い息を撒き散らしているがな。
そういえば小さな頃、祖父母に近づいたらいけないと脅された屋敷があったのを思い出した。祖父母や周りの大人達は「バケモノ屋敷」と呼んでいたが。大人達が呼んでいたということはつまり、子供達も――私も呼んでいた。
「代々気持ち悪い神を崇めていて、母親も呪われて怪死ですよ。何でも全身に噛まれたような跡があったとか」
噛まれた跡。歯形か? 私は痛む右手を握りしめた。
「そんな一族なのでやはりクラスメイトとも馴染めません。しかし彼女がああしているおかげでウチのクラスは問題を一切起こさないんです。ストレスの解消は現代の子供たちにとっても由々しき問題ですからね」
綿貫は下卑た笑いをした。やはり彼女がいじめを受けているのを知っているのだ。
「君も黙っていることですね。関わるとロクなことにならんよ。噛まれて死にますよ!」
そう言って笑った。忠告なのか警告なのかわからないが、こういう学校だからこそ私は誰とも会話せずクラスからヘリウムガスの如く浮きまくって過ごしたことを思い出した。
私の頭には教員免許状が浮かんだ。そしてそれを取得するために受けてきた授業、書いたレポート、苦労して取得した単位が。
「へへ、ですよねー」
私は同意して席を立った。職員室を出る時に振り向いて見渡すと、そこにはひどく穏やかで平和な日常が流れていた。表面は。
今日は図書部に出なくともよい日だ。この伏魔殿から早く帰りたかった。早く名呑町に。実習も残り数日。廊下を早歩きしながら考える。
――何か問題があるか?
天使姫は自らいじめを受けにいっている。それは神の声を聞きたいからである。
クラスメイト達は彼女をいじめて不満を解消できる。
教師達やPTAも全て彼女が生贄であることを認め、推奨している。
何も問題はない……いや、天使姫の親はどう思うのだろう。
二階の職員用トイレで小用を足しながら窓外に目をやると、何人か生徒達が体育館裏に集まっているのが見えた。そこには何年度の記念か知らないが、卒業生から送られた桜の木が並んで植わっている。
生徒達はその中の一本を囲むように立ち、バスケットボールや硬式野球ボールやバレーボールなどを投げつけては笑っていた。
その木には――案の定、天使姫が紐で縛り付けられていた。高くあげた両腕、両足首はガムテープだった。
大学生でもとりわけ馬鹿な奴らは飲み会で自分がいかに馬鹿なマネができるかを競い合ってエスカレート、犯罪にまで至ることがある。同じく「ブッ飛んだ残酷さ」を競い合って天使姫の顔や下腹部に向けて執拗にボールを投げているのは、ビッチ前野と勘違いチャラ男松宮、そして主犯格らしい――仁王像にお下げ髪をつけたような醜女。
★★★
「てめえそれは仁王像に失礼だろうが!」
そこか。N氏は仏教にはうるさいので要注意である。
「にしてもガンガン口も胸糞も悪くなってくな」
N氏が吐き捨てるように言った。
「本当はもっともっとエグいことがあったんだけどね。退学にすべき、逮捕すべき、処刑すべき立派な犯罪行為が。まあ彼女のプライバシーに関わるから言わないけど」
★★★
私の足はトイレを出て勝手に体育館裏に向かっていた。
私はN氏にイカスミの如く腹黒い奴と言われる。そして今ハラワタが煮えくりかえっている。つまり糞マズそうなモツのイカスミ煮込みの完成であった。
暴力というものは、日常的に目にしていると頭の端から徐々に腐らせていく。私の心を濁し、世界への失望が諦観へと達する。「仕方ないさ、人間だもの」というのは大人になったようでその実、思考停止に陥っているだけだ。さういふものに私はなりたくないのだ。
要するに――私は世界から暴力を無くそうとかいじめカッコ悪いとか彼女のためというよりは、私の目前で起きているこの事態がただただ不愉快なのだった。
私の気配を察知したのか、いじめていた奴らは消えていた。しかしその痕跡は残っていた。天使姫は近くでよく見るとボールどころか殴られ蹴られた様子で痣だらけで片目の付近が腫れており、更にホースで水責めされていたらしい。濡れた髪から水が滴り、白い肌に張り付いたシャツにブラやら何やらが透けていた。スカートから伸びた白い脚にはガムテープが雑に巻かれていた。
私はなんとかしようとして――呆れた。
その中で天使姫は涎を垂らしながらびくんびくんと全身を痙攣させていた。トロけた顔で絶頂といった様子である。
迷ったが彼女の肩を叩いて起こす。
「えっ? ここは……」
縛られたままキョロキョロと見回す。
「君を縄から解放してくれる神様なんぞがいない世界なのは確かだね」
ここに私しかいないのを見てとると、彼女は大人びた顔になった。
私は上着を彼女に掛けてやった。
「えっ? すぐに乾くからいいです」
「そんな小学生男子みたいなわけにもいくまいよ」
私は「誠実・自律・慈悲」と校訓が刻まれた石碑に腰掛けた。ひんやりしていてなかなか気持ちいい。
「今、神様の言葉聞いてたんだろう? 何だって?」
微笑をたたえた口許は笛でも吹くように得意げに語る。
「この調子で試練に耐え続ければ、そのうちこの世界を作り替えてくださるようです」
もっと早くなんとかしてやれ神様よ。試練なんてない方が良いに決まっている。
「えっ? 先生は試練の価値がわからないのですか? それは『本物』を証明する不可欠な過程なのです。本物の信仰、そして本物の価値を」
どうやらまた心を読んだらしかった。
「先生、私は皆に理解されないことや攻撃される試練が嬉しいんです。だって民衆はいつだって愚かでしょう? ジョン・レノンを殺害し、マイケル・ジャクソンを追い詰め、ゴッホの色彩を気味が悪いと蔑み、ジャンヌ・ダルクを火刑に処したのですもの。そして消えた後でようやくその価値が理解できるのですわ」
木に縛り付けられている彼女は何か儀式の生贄のようだった。私は立ち上がって両手の紐をほどいてやった。
「そもそもいじめが始まった原因ってのは何だったんだい? 家系のこと?」
「えっ? 家系は古臭い迷信ですし、関係ありません。始まりは私の名前、そして私の意志ですの」
鈴木天使姫。キラキラした名前である。
「小さな頃はこの名前の意味がわかりませんでした。というよりあまりにもからかわれるので嫌いでした。本来は一族の伝統に則った名前が用意されていたそうなのですが、お母様はそれを無視したのです」
彼女の毅然とした顔が緩んだ。母親が好きなのだろう。
「お母様は私に一族の者と会わせず、跡を継がせようとしませんでした。どうやらそれで自分が余程の苦労を負ったからだと思います。一族と関係を絶った私たち二人は慎ましやかな暮らしをおくりました」
彼女は幸せそうだった。
「父親は?」
黙って首を振ったので、私はそれ以上踏み込まなかった。
「一年前にお母様が亡くなり、それから私は一人で暮らしはじめました。幸い母親の遺した金銭と保険金がありましたから」
爽やかな風が吹いた。木肌に付いた蝉の抜け殻が揺れている。木の葉が霧雨のような音を立てた。
「初めて『神様』の声を聞いたのは、お母様の骨を持って帰宅した時です。一人ではあんまり広すぎる空間に――音の無い時間に――胸が潰され動けませんでした。どこにもお母様の使っていたものがありましたしね」
その静けさが彼女を年齢に不相応な大人にしたのかもしれなかった。
「突然、光が部屋に射し込み視界を満たしました。そして穏やかな低い声。意識を取り戻すと、私は部屋に倒れていました。そして長い間探していた答えを悟っていました。自分の名前が天使姫であるのは、神の声を聞くためだと。自分には神様がついている。お母様が亡くなったのは私にそれを気づかせる試練だということ。そして私は更なる試練を求めてクラスメイト達に『いじめさせる』ことにしたのです」
なるほど。私がどうこう言える立場ではないな。実際それでクラスは平和になっている。しかし。
「じゃあ君がいじめられている時にしているあの辛そうな顔は、相手のサディズムを刺激するための、ただの演技なんだね」
天使姫は頷いてニコリと笑った。笑っているが、彼女の顔に影がさしたように見えるのは私の偏見だろうか。
「その――世界を作り替えるって、実際どんなことをするのかな」
「えっ? 私を天国に連れて行き、そしてこの世界は終末を迎え作り変えられるそうです」
おいおい。何を言い出すんだよ。
「えっ? 先生、その苦笑いは違いますわ。私はこの世界の秩序のためにスケープゴートに甘んじているわけではないのですから。そう、『地上に平和をもたらすために私が来たと思うな』」
「……『平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ』だったかな? マタイによる福音書第十章三四は」
彼女の目が見開かれた。そして顔が赤くなった。
「ご存じなんですか?!」
「うん、ご存じ。君がいつも授業中だろうが読んでいる聖書――と同じものを私も貰ったからね。この高校の入学式の日、校門で熱心な宗教団体の人が配っていたから。個人的な暗黒時代だったから、何か救いはないかと一応読んだんだ」
彼女の態度が一変し、熱を持って一気に語り出した。私は高校の頃、ハマった本をボロボロになるほどどこへでも持って行った。しかし周囲の誰もそんな本は読んでおらず、大学に入って初めてその話ができた時に似ている。ボロボロになるほど好きなものを相手も知っているというのは、この上なく嬉しいのだ。
その様子を見て――やれやれ現代日本でよりによって宗教だったが――ようやく彼女の年相応の姿を見た気がした。なんだ、理解されないことが嬉しいなんて嘘じゃないか。聖書に影響されて自意識をこじらせたただの中二病――にしては不可解な点があるとはいえ。
「それで、私は七月十九日に実習が終わっていなくなるわけだけど。いつ君は天国へ行き、世界を作り替えるんだい?」
天使姫は突然静かになった。突風が吹いて蝉の抜け殻が飛ばされていった。台風が近づいているらしい。
「……七月十九日です」
それは実習最終日にして一学期の最終日でもあった。
その晩、風呂場で右手の包帯を解くと一瞬目を疑った。歯形の跡がより深く食い込み、皮膚が紫色になっていた。痛みが常に続いている。怖くなり布団を移動させて祖父の横で寝た。
「世界」の終末まであと三日。
読んで頂きありがとうございます。