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N氏  作者: 誇大紫
12/22

斎藤騒動

 映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』でトム・ハンクス演じる主人公フォレスト・ガンプは嘘をつかない。そう思っている輩のなんと多いことか。読者諸君の一部も或いはそう思っているのではないだろうか。

 否。と言っておこう。

 世にあまねくあらゆる作品において語り手を信用してはならない。それは人格とは関係なく、誰にしたところでしばしば嘘が混じってしまうのである。

 確かに奴は愚直なまでに正直な男である。見栄と虚飾だらけの下郎たる私が直接会見すればそのあまりの品行方正な眩しさに目が焼け全身が塩となって崩れ去ることは想像に難くないであろう。

 奴はアメリカの美しさの体現者でもあり公明正大である。しかしコウメイと付くものは嘘つきばかりである。諸葛亮しかりピーしかり(政治的思想が入るため検閲措置)。

 さて問題のフォレスト・ガンプの台詞である。曰く。

「生きていく上で必要なお金は実はそんなに多くない」

 馬鹿野郎この野郎手前ぇ、手前ぇこの野郎ウソつきオオカミが!

 こう言い直すがいい。

「生きていく上で必要なお金は、実はわりと多いので死ねます」

 全く、四方八方から私の生活費を毟り取るのは誰かと思えばそれはよくよく考えると無計画な自分に向けて返ってくる自業自得という名のブーメランであるのでこの話は広げないことにするが、神は細部に宿り一事が万事という言葉もある通り、フォレスト・ガンプはそうして語るうち無意識に嘘を吐く。

 或いは希望を。

 まともに信じた者が厄介な目に遭うようなことを。

 それに観客は気づかない。

 とかく世間で大事なことは「気づくこと」である。

 フォレスト・ガンプは意識的にしろ無意識的にしろウソつきだということ。お金は中々に必要なモノだということ。餃子はネギとポン酢で食べると美味いということ。体は子供、頭脳は大人と言うが工藤新一は高校生だから間違いなく子供であること。コンクリートで田舎道を舗装すれば、その下に暮らす蝉の幼虫達はもう表に出てこられないから成虫にならずに死んでいくこと。

 先日魔女にマミられたN氏がよく言っていたが、怖いと思えば何だって怖い。

 「気づかない」ことは怖い。悲しみにも優しさにも鈍感。 恐怖や危機にも鈍感。気づかないことにさえ気づかない。気づかないことに気づかないことにさえ気づかないのだ。

 それは無知の無知。

 『マトリックス』のキャッチコピーでも言っていただろう?


★★★★


「何故気づかない」

 テーブルの向こうからN氏の低い声がする。

 春のうららかな午後、至福の時それは食後。咀嚼運動の果て、脳内になんだかよくわからない物質が分泌されほんわかふわふわニルヴァーナ。

 怠惰。

 無為。

 世捨て人の心地。

 働きたくないでござる。

 次の授業まで一コマ空いてしまっていた我々は学生食堂にて暇を持て余しており、そういった場合は賽の河原で石を積んでは自らローキックで崩壊せしめんが如き無駄な行為に没頭するのが常である。

「何故気づかない」

 リピートするN氏。

「何が?」

 私は隣にいる斎藤から借りたどうでもいい漫画雑誌を広げ、豊満な乳房しか見る価値のないような漫画、出演アイドルのことしか書かない映画紹介記事、読者投稿コーナーの毒にも薬にもならぬ話を丁寧に読み、それにも飽きて広告をじっくりと眺めてから気がついた間違い探しコーナーに目を落としていた。

「だから、真ん中の一番手前のそこだ。Aはキング・クリムゾンで、Bはタイバニのルナティック。Aは大槻ケンヂで、Bはユーリ・ペトロフ。その右、Aはネコで、Bじゃパンになってるだろ? しかも一斤。隣もそうだ。Aじゃ女だが、Bじゃタニシだろ?」

「えっ。これ女じゃないの?」

 成る程。女と思ってよく見りゃタニシ。難易度が高いのか私の目がいかれているのか。それにしても暇潰し目的のものに口を出して早々に終了させるのは如何なものか。遺憾の意を顔筋で表明すべく頭を上げると、食卓の向こうには死相の出た男がいる。白いというより血色が悪過ぎて呪われたように蒼白の肌。そして無精髭。

 N氏である。

 お前その顔色で生きているというのはもはや存在自体がブラックジョークだろうよ。エクソシストさんこいつです。ここに野良ゾンビがいます。やつれた顔は本人も気にしているので言わないが。

「何だ」

「や、別に……カワイソウだなーって」

 斎藤もN氏を見るたび眉をひそめてその不憫な容貌に心を痛めているようである。

「その言い方、なんか腹立つな」

 N氏が不愉快に思っているのがわかる。私は声を出して笑って誤魔化す。

「確かにカワイソウって言葉は害毒だね。世の中みんな他人の不幸はメシウマだから難病モノってヒットしてるんだと思うんだよね――ああ、カワイソウなあいつに比べたら私はなんて幸せなんだろうって自己肯定したくて。だから、見た感じ凄くカワイソウなN氏を主人公にしてエレファントマンよろしくお涙展開で『可哀想なN氏』ってタイトルで絵本でも描けばさあ……ええ話やん?」

 斎藤が口から変な汁を飛ばして体を揺らして笑った。

「おーおー、売れたら名誉毀損で訴えて儲けは全部俺へ支払わせるからな。そういえばこの前大学の廊下歩いてたらよー、俺、『カワイソウに……』って言われて新しくきた保健師の先生に強制的に医務室連行されたんだぜ」

「あー、初見ならしょうがないね。この大学の人達はもうN氏に見慣れてるからね。きっとゾンビとか歩いてても普通にスルーするよ」

 隣の斎藤が大きく頷く。と、巨大な頭のせいでバランスを崩してテーブルに突っ伏した。すぐに起き上がって私やN氏と目が合う。まばらに毛の生えた後ろ頭を、恥ずかしげにポリポリと掻く。

「斎藤はドジっ子だなー」

 N氏がニヤリと笑う。

 と、そこへ携帯が鳴る。

 てれてれてってー、てれっててってー、てれって! てれって! てってってれれれー! ティウンティウンティウンティウン。

 N氏へのメールである。

「おー、話をすればなんとやらだな」

 噂をすれば影が差す、であろう。

「さっきの保健師の先生からだ。無事か心配だから会いに来なさいって」

 メアド交換している……だと……?

「よし、行こうか。暇だし」

 N氏の表情がさながらディストピアSFの暗雲立ち込める空模様の如く曇った。その保健師はN氏のタイプと見た。私の記憶が正しければ、N氏が私を疎外したがるのは女関係である。曰く「お前がいるとヘンなことが起きてそれどころじゃなくなる」と。

 他人のせいにするんじゃありません、お母さんそんな子は嫌いよ(誰?)。いつだって超常現象を引き寄せるN氏の帯霊体質が問題なのである。今回だってその麗しき医務室の美女がどうせネクロマンサーであり、ゾンビ然としたN氏を気に入ってまさにそのものゾンビにしてしまおうと狙っている罠だとかそんなところであろう。

 そこに私がいなければ解説も実況もできないではないか。語り手なのだから尊重してもらわなければ。

 ……などとやいのやいのやんややんや蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)を繰り広げているとゴネ得で結局N氏は私を連れていってくれるので彼はつくづくいい奴である。

 食堂前の車道を横切ろうとしたが、意外と車の量が多く、果てはトラックまで駆け抜けていく。

「抜け道でいく?」

 N氏に問いかける。

「いや、普通に行こうぜ。俺たちは普通になるべきなんだよ」

 何だその複数形は。私も斎藤も、自身が普通人であると断ずるのに些かの躊躇も持たんぞ。

 昼時、医務室前の廊下は意外にも混んでいた。

「いいか、じゃあここで待ってろよ」

 と指定されたのは医務室の前であった。私と斎藤は頷き、並んで壁に寄りかかった。

「まァ、中で喘ぎ声その他が聞こえてきたらその限りではないけどね」

「ぶっ飛ばすぞ」

「ならば避ける、そして言う、私、気になります!」

「右ストレートでぶっ飛ばすぞ」

 右ストレートなら避けられないな。

「わかったよ。最近ハマってるウェブラジオ聞いて静かにしてるからさ」

 私は斎藤と共にN氏の背中を押し、ドアを閉めた。他の邪魔が入らないように、ドアに掛けてある木札を裏返しにして「不在」としておいた。ケガ人が来たら? 知らんがな。大体この大学は薬代をケチって医務室にはベッド以外何も置いていないのである。できる治療など「安静にする」だけのための場所なので帰宅かそこらの閑静なベンチで休むがよかろう。

 根性もしくはケアル或いはホイミorディアラマで治せばよかろう。酷ければ救急車でも呼べばよかろう。

「ん、どうした斎藤?」

 斎藤が何やら触手を伸ばしてマジックペンを持ってきた。見ていると律儀にも木札に救急車の番号を書いている様子。

「って110番かよ」

 ……親切だね!

 さてN氏は中に入って出てくる気配もない。ラジオと洒落込もうか。

「おっと電波状況が悪いですなあ」

 これは外に出て……と。なかなか良い天気だ。学生達もほとんど見かけない、好都合である。

 だが外に出るだけでは駄目だ。もっと電波状況が良い場所は――どうやら「偶然にも」医務室の窓の下のようだな。仕方ないな。私は気づかれぬよう匍匐前進した後、腰を下ろした。

「ちょっと、服を脱いでみせて……」

 おお! 「ラジオ」は無事再生され始めたぞ。恋愛ものになるのかお色気ものになるのか、なかなか興味深いところである。なんせN氏が出ているのでそれだけで愉快である。

「顔色の割に、けっこういい体してるのね……鍛えてるの?」

「そうっスかねー。特に何もしてないスけど」

「あら、お腹触ってみたらわりとぷよぷよしてるのね。この下は……」

「先生、ちょっとそこは」

「イイじゃない。私のも触る?」

「いや、別に」

 なぜ気づかないN氏よ。それは誘われているのだ。据え膳食わぬは病気メンヘラ避けるゆえ、とでも言うつもりか。それは全く正しいが。しかし流されるまま喰われてしまって考えるのも、ある時には正解であるかもしれぬ。

 じっと身を潜めて聞いていると、我々の傍に猫がやってきた。斎藤を見るなりなごなごにゃーにゃーうるさく喚き立てる。次第に猫の数が増え、その全員が尾を立てて威嚇してくる。

 私は猫派だが今はラジオに集中したいのだ。

 斎藤が嬉しそうに近づき、八本ある手で素早く猫達を抱えると校舎の裏に消えていった。すぐに猫達の声は静かになった。私と同じく猫好きな斎藤である。連れ出してエサでもやってくるのだろう。

 さてラジオラジオ。

「今日は暑いわねー。ちょっと白衣は脱ぐわね」

「どうぞ」

「そうそう。私けっこう家庭的でお弁当なんかも自分で作ってくるのよー。ちょっと食べてみる?」

「いや、自分さっき飯食ったんで」

「そう。残念だわ、もっとぷよぷよさせられたのに。私、ぷよぷよなのが好みなの。そういえば、Nくんの好みのタイプってどんな人?」

「や、まあ特にないです」

 木の股から生まれたような朴念仁の、最悪の答えである。貴様のタイプは目前の女性なのであろう。相手の好意に何故気づかない。

 と、斎藤が戻ってきた。ニコニコ顔で笑うと、長さ数十センチはある鋭い八重歯に肉片が引っかかっている。猫達を連れて行ったついでにまた飯を食べてきたのか。全く行儀の悪い。口の端に真っ赤なケチャップまでついているではないか。

 私は肩を竦めて溜息を吐いた。

 女性の好意に気づかない奴がいる一方、ケチャップに気づかない奴もいる。

 とかく世間は鈍感な奴らしかいないのである。読者諸君もウンザリせざるをえざるべけんやではないか。

 数十分経って進展もなくラジオが終わりに近づいてきたので、我々はカサカサと這い出し、医務室の前へ全力で駆ける。爽やかな春風。緑の匂う季節。飛び散る汗。粘液を噴き出す斎藤。ああ、息切れさえも清々しい。その目的は盗み聞きを隠し通すためであったが。

「皆さん、落ち着いて下さい! 部外者はこの場から退出してください!」

 医務室の前はごった返していた。人間達が濁流のように押し合いへし合いしており、N氏の姿が見当たらない。一緒にいた斎藤ともはぐれてしまった。続けてパトカーのサイレンが聞こえてくる。

 やってきた警官達があっという間に校舎の一部を区切っていく。「立ち入り禁止 KEEP OUT」と書かれた、黄と黒のまだら模様テープが私の目前を横切っていった。

 一瞬、医務室の木札に書かれた110番に思いが及んだが警官達は間違えて呼ばれたわけではないらしかった。テープの向こうでカメラのフラッシュが幾度も焚かれ、視界の端には血が時々見え隠れして生々しい。

「おーい、こっちこっち」

 と、校舎の外からN氏の声がしたので出ていくと斎藤が彼を捕まえて羽交い締めにしていた。触手が腹に巻きつき、長く伸びた舌が宙に踊っている。ちょっぴり長い八重歯にはまだ肉片がこびりついている。

「いてててて。斎藤、ちょっと痛いって。どこも怪我はないから、大丈夫だから」

 全く心配性な奴である。斎藤は私を見るなり解放した。

「それで、何があったんだい。どうせ警察に事情聴取されたんでしょ? 人相悪いから」

 斎藤はカタカタ体を震わせて笑った。

「うるせーな、職質程度だよ。聞いてみたのとネット情報によると、どうもここ最近名呑町で連続して起きている死亡事件らしい。被害者は全員死んでて、足を締め付けられて引きずり倒され、首を牙でやられた後、腹部損壊、脚部損壊――つまり腹と脚を『食われて』いる」

 斎藤が触手で腹をくすぐったが、N氏は真顔でそれをはねのけた。

「で、犯人像は」

「被害が出ている場所を線で結ぶと、始まりは裏名呑の洞窟付近らしい。人間業じゃないんで、餌がなくなって名呑山からおりてきた動物なんじゃないかとも言われてるみたいだ。だがおかしなことに『被害者が全く警戒していない』んだ。被害者の共通点は脂肪のついた腹とか色々あるが、有名なのは『全員屋内でしかも無抵抗で死んでいる』というものだ」

 私はN氏や斎藤の顔を見やる。動物だというのに人間に警戒させない。室内に簡単に入り込む。化けているのか? 意識を操って違和感に気付かせない生物なのだろうか。初めからそこにいたかのように馴染んでしまい――まるで旧知の仲であるような幻想を作り出す類の。

「今回もそんな感じなのかな」

「みたいだな。殺されたのは男、廊下でやられていたらしい」

 これも奇妙だ。いくらなんでも大学構内、目撃者がいるはずであろう。

「キエエエエエ!」

 突然、鳥の断末魔にも似た声が響いて何事かと振り向く。事件現場の側、赤や緑に彩られた着物女が警官達の中心で呪文を叫んでいた。

「あれは……」

「ああ、あんまり不可解な事件なんで、名呑警察は霊媒師に協力してもらっているらしい」

 へぇー、と物珍しさに近づいていくと警官に止められた。斎藤は鼻息荒く興奮している様子だ。そんなにオカルト好きだったのかコイツ。

 霊媒師は数珠をカシャカシャといじくって印を結んで九字を切って紙を燃やして聖水で消して大声で「円!」と言った。恐らく付近のあやしげな存在を感じ取る技なのだろう、何か漫画で見た気がするので。

「おお、なんだか知らんがすごい気迫だ!」

「そうだな」

 我々が固唾を飲んで見守っていると、霊媒師はヨボヨボの枯木めいた指を振り上げると「東の方角じゃあ~!」と叫んだ。

 ……ホントかよ。

「東ってどっちだ?」

「食堂だ!」

 校舎からは少し離れた場所である。我々は警察に先回りできるルートを走り出した。二階へ駆け上り、廊下の端にある扉を開け、ベランダから桜の木へ飛び移り、そこからフェンスへまた飛び移る。すると下にはもう食堂が見えていた。

 フェンスに捕まっているN氏のシャツがめくれ、腹が見える。意外と脂肪がち。これは被害者の共通点に当てはまるのではないか。

 しかし食堂に着いたところで、違和感に気付かせない生物が相手ならば、そのまま食われてしまうのがオチなのではないか。

 もっとよく考えた方がいいだろうか? N氏が食われても私はいっこうに構わないが……。

 振り向くと斎藤が後からついてきている。触手と六本ある脚を器用に使って桜の木を渡っている。何もおかしなことはない。

「しかし」

 そう独り言をもらして、私は首を捻る。走り出す直前のことを思い出したのだ。

 我々の声が漏れ聞こえたのか、霊媒師がこちらを一瞥したのだ。瞬間、乾いた梅干しのような顔にカッと目が現れる。それからずっと凝視していた。特に斎藤を。

 小さな違和感。

 もしかして?

「ちょっと待ってN氏! 何か重大なことに気づきそうな――」

 先にフェンスを降りきったN氏は、食堂の前で私の見知らぬ人に挨拶している。仲が良さそうである。

 誰だ?

「斎藤はちょっとここで待ってて」

 そう言い残し、貨物列車のように行き交う自動車の隙を見て車道を横切りN氏達の側へ寄っていった。

 彼の隣には全身が鱗で覆われた、牙と触手を持つ名状しがたい者がいた。どことなく斎藤に似ている。ウネウネと動き続ける脚部からは桃色の粘液が糸を引いていた。

 なかなかの美人だ。私の好みではないがN氏は好みかもしれない。しかし霊媒師を信じるなら、食堂付近にいる者は全員怪しい。気を許してはならない。

「どうも、私はN氏の知人ですー。そちらは?」

 会話に割り込んでいくと、N氏は露骨に私に邪魔そうな顔をして紹介した。

「ホラ、さっき話したろ。こちらが保健師の斎藤さんだ」

 保健師の斎藤さんは頭までケチャップまみれである。口から破れた布切れとチキンか何かの骨がはみ出ている。一体どういう食べ方をするとそうなるのか聞いてみたいが、個人の嗜好なのだろうから放っておこう。

「食堂にいらっしゃったんスか」

「ああ、君と会ってから腹が減ったもんでね」

 と、保健師の斎藤さんはN氏の腹を触手でグリグリと撫で回し、顔を近づける。おいおいこんなところでイチャイチしてんじゃねえよ。

 大きく開かれた口には幾重にも牙が生えている。

「――ああ、もう我慢できそうもないよ!」

 瞬間。

 N氏が食堂の外壁に叩きつけられていた。突き飛ばされたのだ。

 保健師は道路の中央にいる。体を掴まれ、強引に車道へ引きずりこまれていた。

 その背後に斎藤が微かに見えた。斎藤は暴れる保健師を抑えながら、最後の一秒、こちらに触手を振ったように見えた。二人は大型トラックに跳ねられ、はじけ飛んだ。

「斎藤ォォォ! ああ、斎藤さんと、斎藤がーッ!」

 二人はしばらく痙攣していたが、やがて煙になって消え去った。道路には跡も残らず、慌てておりてきた運転手は怪訝な顔で道と車体を見比べていたが、しばらくするとまた戻ってトラックのエンジンをかけ直した。

 すぐに警官達がやってきて、道路脇で立ちすくむ我々を見やった。

「君達か? 叫んでいたのは。何か見たのか?」

「斎藤が……」

 私とN氏は今起きたことを説明しようとしたが、頭の中はザルで零れたミルクをすくうようだ。全く手応えがない。

「でも斎藤って……誰だっけ?」

 やがて我々はどうしてザルを振るっていたのかさえわからなくなり、手を止めてしまう。警官に睨まれ、どうにもいたたまれなくなり「何もなかった」と言って帰った。


★★★★


 腑に落ちない感情だけを残しながら私とN氏の日常は続く。大学に住む猫達は無責任にも誰かが餌をやってしまったのだろう、人懐こくなってしまっている。

 新たな保健師がやってきて医務室に常駐しているが、N氏はその人が嫌いだと言う。

「前の保健師が良かったと思うんだが、その人が思い出せないのな。大学の記録にないから多分勘違いなんだろうが」

 不可解な事件はそれ以降起きず、謎は解かれず、未だ原因不明のままである。

 あれから時々、私の夢にN氏が出てきて、そこに知らない三人目がいることがある。夢の中の私は、それがどう見ても異常な化物にしか見えないのに仲良くしている。バカ話をして笑っている。

 こんなに楽しい夢だというのに、目が覚めると悲しみだけが残り、それが何故か私にはわからない。

読んで頂きありがとうございます。

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