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N氏  作者: 誇大紫
11/22

孤独の宇宙

 お前それはもう腐っててゾンビだし、でなければ嘘だろうよという顔色をしたN氏がチラシを見ながらこぼす。

「バトルロワイアル3Dか。猫も杓子も3Dだな」

「その次見てみ。『北の国から3D』だよ。元々飛び出てるあの唇が更に飛び出るわけですよホタルゥ〜っ」

 我々は最近復活した名呑(なのみ)映画館のシートに着席し、上映開始を待っていた。

 未だ観客の一部はポップコーンを持ってウロウロと行き場を無くしたティーンエイジャーの如く、さ迷っている。

 というかよく見ればリアルハイティーンばかりである。

 というかリア充である。どうせスポーツサークルなどという曖昧模糊とした名称の集団で実情は「渋谷で海を見ちゃったの」系のよからぬ薬物をキメキメ乱交会合をメインとした活動に違いない。人類皆穴兄弟もしくは竿姉妹を信条としたラヴアンドピース的なヒッピー運動ってそっちの運動でしたか先生知らなかったです。

 さて奴らは欲望に負ける豚である。創意がない。「遊ぶ」と決めた際も既存のリア充的「遊び」の中にしか選択肢が存在せず、自らの意志はどこにもない。従って、決めた「遊び」の最中にもその「遊び」自体に対してしばしば不謹慎な行動をとる意味不明な異星金髪豚野郎である。

 映画館とは映画を見るための場所だというのに、性欲の抑えきれぬ豚どもは「誰が誰の隣に座るか」などという瑣事にキャッキャウフフ、否、ブッヒブヒヒと心の中でヨダレを垂れ流しながら前戯まがいの行為を始めている。

 そこへ考えるに私とN氏はどうか。お互いに馴れ合いなどは皆無。私は淡々と足早に最もスクリーンに近い席を目指すのみ。N氏は腹に括った一本槍としてエロメディア収集がライフワークであり、それを突き詰めた結果、もはや欲望に対してストイックでさえある。エロメディアに関係しない場合はそこらのパンチラ程度にも動じない。もはやマスター・ヨーダの如く悟りは目前といった状況である故、彼らのようにしたいなどとは微塵も考えていない。と思い隣を見れば紫色の顔でブツブツと呪詛の言葉を吐きながらリア充どもに舌打ちをしていた。

「爆発しろっ……! 細胞全て消え去れっ……! 彼女がいる奴らは全員市中引き回しの上に打ち首獄門だっ……!」

 失礼、私の見込み違いだった。N氏は高すぎる独身力故に既にフォースの暗黒面(ダークサイド)に堕していた。

「よ〜しよしよしよしよし」

 私の畑正憲クラスの撫で方にN氏は大人しくなる。

「……先生、彼女が欲しいです……」

 それは切実な願いだった。

 と、我々が血の涙を流しながら偏見と妄想で怒り狂ってリア充を眺めているとブザーが鳴った。

 場内が暗転して観客は静かにスクリーンを見つめる。我々は眼鏡をかけ直す。各々の輪郭が暗闇に溶け埋没していく様はなんと心地良いことか。私は映画館を愛している。故に上映中の携帯電話の光は許せぬ。普段映画など大して見に来ないリア充のスマホを扱う音やパカパカ携帯を開くカチッという音が聞こえると「小足払い見てから昇竜余裕でした」レベルの超反応で舌打ちをして注意を促す。

 カチッ。

 チッ。

 カチッ。

 チッ。

 非常にリズミカルであるがよくよく考えれば舌打ちも迷惑行為なので本末転倒であることは読者諸君と私の秘密だ。

「あの『プリリット・ショーツ』のスタッフが集結! 彼女はやり手の警察官。恋愛にはちょっぴり疎い。彼は冗談好きなデイトレーダー。お互いの一目惚れから幸せな二人は電撃婚約! ところが彼の正体は……『結婚詐欺師だったの!?』 結婚? 恋愛? オンナの本音が詰まったラブコメディ。『百万の嘘に、真実の愛があった――』」

 新作映画の宣伝が始まった。こういうスイーツ向け恋愛映画は常に同じようなCMをしていて、同じナレーターに同じ編集である。それでも飽きもせず観られているのだからある種のお約束か。まあレネー・ゼルウィガーのふとましい体を見たいがために借りた『プリリット』は意外と面白かったがな。脳味噌カラッポだからドクター・レクター的には物足りないかもしれないが。

 N氏は次々に流れていく宣伝を見ては、興味なさげに烏龍茶をストローで飲む。氷の音が微かに聞こえた。そんなハイペースでは上映前に無くなってしまうだろうに。

 しかしこの「上映時の飲物をいかに消費するか」という問題は難しいので考えてみたい。待て、そこ! 話がクドいからといって「考えてみたい? そうですか」と読むのをやめるんじゃない。

 まず飲物をセレクトする際だが、ここで馬鹿正直に好きなものを求めるのは映画館素人である。ジンジャーエールを頼みたくなるのはわかる。私も人の子だ。わかるが、ここは烏龍茶など「氷が溶けても比較的被害が少ない飲物」が得策である。多くの者は映画に夢中になっていると飲み頃を見失って最終的には氷が溶けたものを飲む羽目になるのである。オレンジジュースなど愚の骨頂である。

 勿論、全て承知で開始三十分程度で飲みきることを己に課すのなら話は別であるが、そうなると今度は飲物の氷解進行度が気になっちゃって気になっちゃって映画に集中できないのである。玄人はそこのバランスを体得しているので問題ないが初心者は無難に烏龍茶であろう。

 ついでに食物だが、間違ってもイチゴミルクかき氷やピリ辛ホットドッグなどという大して美味くもないくせに手を出したくなるおどけた存在に踊らされてはならない。

 私は問う。

 映画に集中できますか?

 ――(目を閉じ首を振って)できません。いりません。

 最後に最も重要なことを話しておく。このような幾分情熱的すぎる映画好きが諸君の側にいるかもしれない。一緒に映画を見ようと誘われるかもしれないが非常に面倒臭いので断るのがベストである。それが一番大事。

 全く本筋が進まないので話をN氏に戻そう。

 彼は開始後三十分で烏龍茶を飲み干しトイレに立ったまま、もう長いこと帰ってこない。そういえば彼は上映前に用を足していなかった。思えばトイレに行くタイミングというのも複雑な問題で(以下略)。

 心配になってきた。彼は霊媒体質のせいで何かとよからぬ出来事に巻き込まれやすいのである。今頃どこぞで倒れて名状しがたい邪神に足を掴まれているかもしれない。或いは体を操られて便器を舐めさせられているかもしれない。

 ――不安だ。

「と思ったけど映画が気になるからまあいいよね☆ 日本の便器って人間の手より清潔らしいしね☆」

「上映中の私語は作品への冒涜だ。くたばれ」

 N氏が小声で呟きながら帰ってきた。私は頷き、上映終了後に明るくなってからようやく口を開く。

「どうしたんだい。トイレで襲われたの?」

「アッー! いや、お茶飲んで腹ん中がパンパンだぜって状態になったんで行ったらトイレが混んでてよ。それがおかしいんだ。皆トイレを譲り合って混んでんだよ。『お先どうぞ』『いえいえあなたこそどうぞ』ってな。そんなの関係なく小便しようとしたら、なんか鼻で笑われてよ。『空気読め』とか、しまいには『負け犬が!』とまで言われたら出るに出れないし、よくわからんがカチンときたから最後の一人になるまで我慢してやったぜ」

 勝ち誇った顔で言うN氏。それは最後の一人になるまで出なかったのではなく出られなかったのだ、きっと。霊的な何かが原因で。

「それはもしかして今あそこで譲り合ってるのと関係あるのかな」

 観客は出口付近で固まり、譲り合って押し合いへしあいしている。かのリア充達でさえ謙虚な振る舞いをしていて、より世間的に好印象である。ああ大っ嫌いだあんな奴ら。

「……みたいだな。今度は先に出るぞ」

 私はN氏について近くへ行く。誰しも譲ってくれているというのに誰も先へ行こうとしない様子は何やら日本の縮図のようである。

「先にどうぞどうぞ、私は妻が出産らしいですがあなたも大変でしょうから」

「いえいえ、俺なんて子供が車に轢かれて今危篤だって程度ですからあなたがどうぞ」

 逆自慢大会が起きている……というかチキンレースである。

 N氏が無言で人混みを掻き分けて進んでいく。その手が出入口の扉に触れた時、私はリア充の一人に腕を掴まれた。

「あんたはどんな理由で急いでるんですか。よほど急いでるんでしょうねー」

 男は後ろ髪を何度もかきあげながら尋ねる。私は父親が死にかけて、と半ば期待のこもった嘘を吐こうとしたがN氏が代わりに口を開いた。

「お前、特に何もないよな? 強いて言えばあれか、借りてたDVDを返さなきゃとかそのくらいだろ」

 ――えっ。


 周囲に罵られ軽蔑され、私は先程の席に戻って落ち込む。くすん。

「あと少しだったなー」

 N氏が残念そうに言った。

「うん。どっかのバカ野郎が変なこと言わな……何か変な臭いがする」

 自分のジャケットを嗅いでみたり鞄を開けてみたりしてみるが、臭いの元は特定できない。

「……屁?」

「いやいやいや、俺じゃねえよ。どんな臭いだよ……いや、うん」

 香ばしいを通り越して焦げ臭いような。何だか煙たいような。視界にうっすら白く靄がかかっているような。

「火事だな……」

 N氏がぼそりと呟いた。

「ああ……」

 返事だけはしたが、正直どうすればいいのか見当もつかない。ここは小さな映画館でたった一つしか出入口はないのである。そこには未だに譲り合う人々がひしめいている。火事に気づいてもなお脱出しないのはチキンレースが加速しているからか。

「N氏、今のうちに言っておくけどね」

 心なしか暑くなってきた。N氏の顔も汗ばんできている。

「何だ、俺が好きってことか。ウホッ。それなら丁重にお断り――」

「ここの映画館はトークショーに使われることがあるんだ。舞台の上は通常より広いし、その裏には多分関係者が使う出入口があるんじゃないかと思うんだ」

 彼はしばし腕を組んで考えた後、私を見た。

 カーテンやピアノなどの用具置場となったそこには、案の定、扉があった。やけに重たそうで金属製の取っ手がついている。

「N氏、ちょっと開けてみて」

 素直に開けるN氏。

「ギャアアアアース!!」

 怪獣のような悲鳴を上げた。やはり金属製の取っ手は熱々になっていたようだ。私は傍にあった雑巾越しに開ける。視界一面が赤とオレンジ色の世界。一気に体感温度が上昇した。体の前面が熱くなり、物の輪郭が揺らめいている。

 リノリウムの床が続く先に、ドアが二つ見えた。小さな映画館だ、おそらくあのどちらかが出口だろう。

「どうやらここは廊下らしい。出口はもうすぐみたいだ。N氏、さあ行くよ」

 振り返ると、N氏はまだ右手を抱えてのたうちまわっていた。

「ホラ早く早く」

 雑巾で手を包んでやる。

「お前……いくらなんでも今回は殺意を覚えたぞ」

 我々は走り出した。ジャケットに火がついたので脱いで放り出し、二つのドアの前に立った。

「どっちが正解だと思う? 多分間違えるとアレだ……バックドラフトが起きるよ。話の展開からしてそんな気がする」

「バックドラフト? ああ、ドラフト会議で裏取引するとかいう――」

 突然N氏の尻に火がついた。比喩的な意味ではなく物理的に。火事ナイスツッコミである。彼はチェックのシャツにパンツ一丁となった。

「さて……ど・ち・ら・に・し・よ・う・か・な・て・ん・の――」

「早くしないと俺のすね毛がチリチリになるんだが」

「元からチリチリだろ。どっち開けたい?」

 N氏が無言で右のドアを指す。

「俺の本能がそう言ってる。それでよ、バックドラフトって何だよ」

「じゃあこっちだね。バックドラフトっていうのは……ググれカス!」

 私は方向音痴な彼とは逆に左のドアを開けた。そこは普段は閉鎖され使われていない部屋だったが、窓から侵入していた消防隊員と鉢合わせたおかげで助け出された。

「助かった……!」

 まず私、そしてN氏が外に出る。野次馬の群れが我々を見て写メを撮っていた。パンツ一丁の彼と映画館の表にまわってみると、先程揉めていた人々が全員そこにいた。我々よりもかなり早く外に出られたようである。

「何でだ……骨折り損のくたびれ儲けかよ」

 N氏は口を尖らせ、納得いっていない様子である。

「私はわかるよ。どうしてN氏が最後に助け出されることになったかね。これは多分、呪いだ。さっきのトイレを思い出して」

「ああ……出れなかったな」

 ゆっくり深く頷く。

「つまり……そういうことだよ」

「つまり……どういうことだってばよ」

 消防隊員から貰った毛布に包まって話す。

「これは蠱毒なんだよ」


★★★★


 さて怖いと思えば何だって怖い。ジャンプ漫画で出てきたくらいなんだし今更の蠱毒(こどく)ネタも手垢に塗れてどうかと思うが今回は蠱毒である。

 それは古代中国でよく行われていた呪法であり、「なんだかおそろしげな蟲(古代では地を這うもの全般を指す)を三日〜七晩ほど壷などに閉じ込めバトルロイヤル戦をさせ、最後に生き残り出てきた一匹を使った呪い」というものである。生き残った蠍だか百足だか蛇だかはすり潰して毒にするか、魂だけを使って呪うか、はたまた使役するかは人によりけりである。

「要するに今回はそれを人間でやってるんだよ。トイレ、映画館とね」

 と気づけば彼はもうそこにはいない。聞けよ。

 燃え盛る映画館から最後に脱出したN氏は今、MVPを取った後のヒーローインタビューのように記者達に聞かれまくっていた。ズボンも履いてないくせに。

「見たところ怪我は少ないようですが、一番酷い箇所はどちらでしょうか」

 また愚かな質問をすることだよ。N氏も何か言ってやれ。

「右手ですね。取っ手が熱くて火傷しました。バカのせいで」

 私をそんな目で見るな。そんな目で見られたら、欲情しちゃうじゃないか……。

 ふざけていると、私は膝ほどの身長の女児にぶつかってしまった。見ると、ジーンズにソフトクリームがべっとりとくっついている。

「え、ちょ」

 七歳くらいだろうか。ツインテールの女児はキョトンとした顔のままである。数秒間見つめ合うと、彼女は自分のソフトクリームの大半がなくなったことに気づいて泣きはじめた。どうすればいいのかわからぬ。傍に親はいない。

「ごめんごめん。君、お父さんかお母さんは?」

 高いところから言ったのが怖かったのか更に泣き出した。慌ててしゃがんで目線を合わせ、おだやかな声を出す。

「お父さんかお母さんは? おばさんとかおじいちゃんとか、誰かと一緒に来た?」

 首を横に振った。

「お家がどこかわかる? 近く?」

 泣きながら首を縦に振った。それならまあいいか。

「名前は?」

「ふ……えぐっさくら」

 さくら、ね。

「どうした」

 N氏がやってきた。ロリ趣味のある彼にあまり関わらせたくはないが。

「この子はさくらちゃん。ぶつかってソフトクリーム落として、泣き出したんだ」

 巧妙に私の不注意が原因だということを隠しておいた。

 N氏が近寄ろうとするとさくらちゃんは少し引いた。彼の顔に若干哀しみがよぎった。

「そりゃあ残念だったなあ。よし、俺がアイス買ってやろう」

「いや〜ごちになりますぅ」

 N氏が私の頭をはたく。ずれた眼鏡をかけなおす。さくらちゃんはそれを見てけらけら笑った。

「じゃ、行くか」

 彼女は、ぽてぽてぽと歩いてN氏と手を繋いだ。彼はこのうえなく幸せそうである。大丈夫だろうな、アイスで釣って誘拐したなんて言われないだろうな。

 ついでに服も買えるように、近くのデパートに向かっていると、ふとさくらちゃんが立ち止まった。

「おにいさんたちは、つきあってるの?」

 N氏の表情がにこやかなまま凍り付いた。そのまま釘でも打てそうなほどの急速冷凍である。

 かわりに私が答える。

「いや、ただの知り合いだよ。知り合い以下かも」

「ほんにかいてあった。きちくめがねっていうんでしょ」

 嗚呼嘆かわしいことよ、BLの魔の手がこんなところにも浸透していようとは。

「あの……現実に鬼畜眼鏡はそうそういないし、いたとしても『オッス! オラ鬼畜眼鏡!』なんて答えないと思うよ。性癖についていきなり聞くのは誰に対しても失礼だからね。あ、性癖っていうのは……」

「さくらしってる。まぞとかさどとか、ていねいごぜめがすきとかにゅうりんがおおきいほうがいいとかぜんりつせんぷれいがすきとか、そーいうことでしょ」

 隣では可哀相にN氏が耳を塞いでガタガタ怯えている……! おそらくこの少女にではない。こんな少女が育ってしまった世界にである。

「そ、そーいうコアなのじゃなくても、性別とかね。誰が好きとかはわざわざ話さなくてもいいことなんだよ」

 テンションの上がったさくらちゃんは歯止めが効かない。

「どっちがせめ? あなたがうけ?」

 はてそういえば考えたことがない。私は鬼畜攻めか? 襲い受けか? いや襲ったことはないが。何かしてN氏にツッコんでもらいたがってる節もあるから誘い受けだろうか? じゃあN氏は何だ? ヘタレ攻めか? 面倒見のよいお母さん属性の受けか?

 と悩んでいると視界に入ったN氏はもはや白い顔を一層青白くしてこの世を悲観している。

「何それ、お兄さんにはよくわかんないや」

 ああ、子供の言うことに真面目に向かい合えない大人にだけはなるまいと誓った中学生の自分が泣いている……。こうして人は大人になってしまうのか。

 さくらちゃんは口の端を歪ませて笑った。

「こんなこともわかんないの?」

 イラッ。

「そうだ、さくらちゃん、プリキュア好き?」

「あんなこどもっぽいのみないよ〜」

 悪かったな、毎週欠かさずに見ているダメ人間で。こちとらキュアミューズの正体が誰かについて本気で悩んでんだよ。

「あ、でぱーとだよ! あいすー!」

 七歳女児が駆けていく。急に無邪気。これだからガキは嫌いなのである。私は座り込んだN氏を引きずり上げる。

「ホラ、アイス買ってやれよロリコン」

「いや、なんかあいつ違うじゃん……ロリとかそういうんじゃないじゃん……」

 さくらちゃんは振り返り、入口でぴょんぴょん跳ねて叫ぶ。買い物カゴからネギを飛び出させたおばさんがクスクスと笑っていた。我々は一体どのような集団に見えるのだろう。

「はやくはやく、えぬしー!」

 我々はデパートに入店し、アイスコーナーに直行した。ガリガリくんは溶けやすいのでおっぱいアイスを買った。N氏はホームランバーのバニラ。

「あたしこれとこれ」

 さくらちゃんが手にもっていたのはレディボーデンとハーゲンダッツである。我々二人が買った合計のおよそ八倍の価格である。

「よおし、まず俺の話を聞け」

 N氏はおもむろに全員のアイスを冷凍室に一先ず置かせると、畏まった態度になった。

「なー、さくらちゃんよ。お前さん、こんな話を知ってるか」

 彼女は楽しそうに顔を向けた。

「あるところに普通の斧を使ってるきこりの男がいました。男はある日誤って湖に斧を落としました。途方に暮れていると湖の精が現れて、こう言いました。『あなたが落としたのは金の斧ですか、銀の斧ですか』。それに答えてきこりは『普通の斧です』と答えました。湖の精は『正直ですね。そんな貴方には普通の斧を返しましょう』と言いました。きこりは自分の斧を返してもらって幸せだったとさ」

 その話は、私の記憶では最後に金も銀も全てもらえていたような気がするが。

「じゃあよー、これまでの話をふまえてこたえてくれ。さくらちゃんが落としたせいぜい二百円相当のアイスは、五百円もするレディボーデンチョコ味パイントサイズでしたか? それとも三百円以上もするハーゲンダッツノーマルサイズリッチミルク味でしたか? 正直に答えてください」

 N氏は順を追ってとつとつと話した。さくらちゃんは神妙な顔で頷いて聞いていたが、やがて口を開いた。

「さくらがおとしたのは、さんちちょくそうじゃーじーぎゅうにゅうでふらんすじんぱてぃしえがつくったせんごひゃくえんのそふとくりーむです」

 負けたN氏は仕方なくレジに行って買ってやっていた。

 そもそも私が買うのが筋だったような気がしなくもないが、黙っていた。そぞろ歩きながら出口に向かう。

「本当に食べ切れるのかお前? 食い切れなかったらわけてくれよな」

「やだ」

 完全に幼女になめられているじゃないかN氏。と、急に彼は頭を抱えて突然膝から崩れ落ちた。

「ちょっとお前、あれ見てくれよ」

 視線の先には、デパートの出口が……あったはずだった。しかし現在それは人混みで見えない。また閉じ込められ出られなくなっているのは明白である。

「それじゃ、行こうか、さくらちゃん」

 私は彼女の腕をとり、N氏を置いていく。彼女は彼といたかったようで暴れるが、腕を持ち上げて口にアイスを放り込めば黙った。所詮子供である。

「え、おい」

 N氏は捨てられた子犬のような目をしたが、生憎私は猫派であった。

「私とさくらちゃんなら出られる。出られる奴から出る。合理的だろう。あと、蠱毒野郎なんかと同じ場所にいられるか」

「お前それは死亡フラグだぞ」

 返事はしない。私は誰とも目を合わせず話も効かず外に出る。私とさくらちゃんの前ではモーセのように簡単に人混みは割れ、扉は押せば開いた。

 外は日差しが強いわりに、風は冷ややかであった。パトカーがサイレンを鳴らしながら無線で叫んでいた。

「この周辺地域で細菌が漏れた恐れがあります。住民の方は至急屋内へ避難してください。なお、名呑町から繋がる道路は全て封鎖されます」

 やがて遠ざかっていき声もサイレンも止んだが、私の頭には網戸に張り付いた蝉の如くしつこく鳴りつづけていた。

 細菌だと?

 店内は人混みで締め切られて戻れない。罠だったのだ。

 私は自販機脇のベンチにさくらちゃんを座らせた。それから周囲に目を走らせ、細菌以外におかしな奴や奇妙な現象が起きていないか確認……OK。

 少し真面目な話をしなければならないのだ。

「さくらちゃん、しんがりはカッコイイと思うかい。あ、しんがりっていうのは」

「しってる。せんじょうでさいごまでのこりながらたたかうやくめでしょ。かっこいいと思うよ」

 幼児性の皮を被った歩く知識庫。歪みを抱えた彼女は、しかし屈託なく笑うのだ。

「……さくらはかしこいな」

 シャアの声真似をしてみる。

「こどもあつかいしないで」

 さすがにこのネタは通じるわけがないか。

「じゃあ、君を大人扱いしよう。大人は責任をとる。君は、蠱毒の呪いをN氏にかけたことを謝らなければならない。そして呪いを解くんだ」

 彼女は黙り込み、ため息を吐いた。脚を組んでベンチのひじ掛けに頬杖をつく。一瞬にしてその横顔だけがひどく大人びたものに変化する。

「どうして私がやったと?」

「初歩的な問題だよ、ワトソン君。この話は推理モノではないから、容疑者らしい容疑者が他にいないのだよ」

 さくらちゃんは呆れた様子で眉をひそめた。

「それ、書いてる人の責任で、私は何も悪くないじゃない。結果論だし」

「まあ他の根拠もあるさ。君と会ってからN氏が何をおいても君を最優先したことだ。違和感はデパートに入った時だった。上半身にはチェックのシャツ、下半身にパンツという状態で、衣料品売場を素通りしてアイス売場に直行するだろうかいいやそんなことはない反語。その後も君に説教し、膝から崩れ落ちる間ずっとパンツだった。まあ彼が天然を発揮してズボンを買い忘れてた可能性も考えられるわけだけれども、どちらにせよ面白いから黙ってたわけだけれども」

 彼女はN氏をどうしたかったのか。私はそれが最も気にかかる。動機が不在だ。

「それに君は今日初めて会って名前も教えていないのに『N氏』って呼んでたね。カキョーインテンメイって奴だ。ありがちなミスだけれども」

 彼女は強がって私を睨む。少し興奮する。私はそれなりに彼女のことが好きなのだ。

「さっき貴方がそう呼んでたからよ」

「その言い逃れ方もありがちだ。だって私は君と会ってから意識的に彼を『N氏』とは一言も呼ばないようにしていたからね」

 さくらちゃんは黙る。沈黙は潮が満ちるようだ。気づけば膝の高さにまで波が押し寄せ、意思の疎通が難しくなる。

 負けないように声を出す。

「どうしてこんなことをしたんだい」

 彼女は肩をすくめ、諦めた様子で話し出した。

「貴方は『N氏とは何か』って考えたことある?」

「……ないけれども」

 さくらちゃんは額を押さえて、じゃあわからないでしょうねと態度で語った。蔑みの目。胃の裏あたりに快感がヌルリと首をもたげる。

「N氏とは、歴史のターニングポイントにいつも現れる謎の存在。古くはピラミッド地下にヒエログリフで書かれていた『暗黒のファラオ』に確認され、近代では演説しているヒトラーの後ろに立っている顔色の悪い眼鏡の男。ヒトラーを操っていたと言われている。全く同じ容貌で文化大革命や9.11のビル写真にも写っている。ソ連やソマリアやルワンダとも関わりがある。そしてその全てに言えるのは、N氏が登場した場所には奇妙で恐ろしいことが起きるということ」

 何それ。

「じゃあ君はそれを防ぐために蠱毒を?」

 彼女は首を振った。頭が大きなせいでぐらりと身体も揺れた。

「私はN氏を信仰する者の一人。今日の放火も、細菌騒ぎも、呪いも全ては私達『とある科学』がやっていること。王の器の癖に、全く目覚める様子のない彼を王にするために。N氏が世界の王として君臨すれば、不幸を撒き散らし、外宇宙から神を呼ぶ。それはそれは楽しいことになるわ」

 不幸を撒き散らす。とんでもないことだ。扇風機にうんこがぶつかるくらいとんでもない。自分で言った比喩ながら本当にとんでもない。

 この女の子に言わせれば、N氏は王の器らしい。ううむ、ただの霊媒体質と思いきや何やら壮大な設定を抱えているとは、N氏あなどりがたし。

「それで何故蠱毒を……って、もしかして」

 さくらちゃんは指を弾いた。耳が痛いほど大きな音だ。反射的に閉じてしまった目を開くと、彼女は右手を銃の形にして私を狙っていた。

「そう、王権(おうけん)神授(しんじゅ)説」

 蠱毒の根底には、最後に残った者には何らかの力が宿るという考え方がある。

 こういった「生き延びた者」に対する特別視というのは人類の文化で共通らしく、例えば西洋における王家の始まりなどもそうである。どうして王家は民の上でふんぞりかえって搾取して命令して良いのか?

 それはまず幾度も戦争に勝って生き残った者は「すげえ、何かパワーがあるに違いねえぜ!」というわけで、その者は畏怖の目で見られるようになる。そこへとってつけたように宗教者が権力者に絡んで「神に選ばれたからです」と言う。

 こうして王家は神の代行として民を統べる権利を得るというわけだ。これを「王権神授説」と言います。試験には……多分出ない。

「火事の映画館で、おかしな場所から最後に救出される。人々の注目を集める。細菌が漏れた町で最後に脱出する。また注目を集める。核がメルトダウンして県全体が封鎖され、最後に脱出する。『N氏』は死ぬことがないから大丈夫」

 あんなに死相が出ておるというのに、死なないと申すか。まあ、N氏は絶対に死ぬのだけれども。

 視界の端にチラリと宇宙服じみた黄色い防護服を着た男達が入る。

「酷いことをする。N氏は君がわりかし好きなんだと思うよ。ロリまっしぐらペディグリーチャムミキサーだから」

 防護服の男達は篭った声で私達に警告をする。はやく検査と消毒を受けて室内に入りなさい、と。

「でも君は許してもらえないだろうね。この町は――それなりに、彼の思い入れのある場所だから、細菌をばらまくなんてことをすれば当然だ」

 私は、もう感染しているのだろう。防護服の男が腕を掴んで私と彼女をワゴン車へと連れていく。

 細菌は彼女らがついた嘘かもしれないと淡い希望を抱いていたが、本当だったようだ。彼女はワクチンを打っているのか、それとも殉死する信者の満足か――勝ち誇ったように口を歪ませて笑った。

「今更何をしようともう遅い。貴方は死ぬ。床にこぼれたミルクは戻らない」

 彼女は高笑いしてワゴンに乗る。

 遅い?

 何がどうなろうと何かをするのに遅いなんてことはないのだ。私を殺すなどというのはN氏を殺すよりも難しいのである。

 何故なら、私は「生き残ってこの話を書いている」からだ。


★★★★


 肩を叩かれて暗闇の中で目が覚める。隣のN氏がぱくぱくと金魚のように口だけ動かして「寝るな」と言った。スクリーンには宇宙艦内でバットで殴り合う異星人が映っている。

 話はまだ中盤のようだ。私はリア充どもが騒いでいるのを尻目にシアターを出る。トイレに行き、譲り合って混んでいるのを係員に注意して立ち去る。

 映画館を出て周囲を探索し、裏口のゴミ捨て場で彼女を発見する。プラスチック容器から懸命にガソリンをぶちまけている。

「さくらちゃん」

 彼女は一瞬硬直して容器を落とす。それはバウンドして彼女の体にかかった。

「誰?」

「N氏と一緒にいることが多いし、私のことくらいは調べてるよね」

 彼女は引きつった顔で苦笑いした。

「どうしてわかったの」

 私は彼女と話をするつもりはない。いちいち説明するのは面倒なのである。

「書き手を敵に回しちゃ駄目だよ。N氏を巡る物語に、こんな悲惨な要素や壮大な設定や意味深な展開はいらないからね」

 彼女は警戒した猫のように微動だにしない。西部劇の決闘のように乾いてヒリヒリする雰囲気。ないまぜになった恐怖や緊張が体から漏れ出すのを防いでいる。

「蠱毒の行き着く先って考えたことあるかしら」

 私はおかしな奴らがいないか目を配りながら、答える。

「県、国、大陸が封鎖されて脱出する。次は、重力によって人々が閉じ込められている巨大な蠱毒――この星だ。地球の人類は君達が起こした何かのせいで殺し合いでもして滅んで、最後にN氏を王として脱出させるんだろう。外宇宙の神を呼ぶのか」

 言おうとしたことを先取りされ、彼女は口を閉じることができない。

「貴方は何者なの」

「私はN氏の語り手だよ」

 さくらちゃんがとっさにとり出したライターを彼女の小さな手ごと包んで閉じる。火はまるでハサミで切断されるように消えた。

「無駄無駄無駄って奴だ。この設定はなかったことにする。もう一度つまんないことをするなら『潰す』よ」

 彼女は泣きそうな顔になった。

「さあアイスでも食べよう。N氏におごってもらおうか」

 やがてN氏は困惑した様子で映画館から出てきた。

「あんなに楽しみにしてたのによー、映画見ないでいいのか? ん? なんかあったか」

「いや、別におかしなことは何も起きなかったよ」

 さくらちゃんを紹介する。N氏は嬉しそうに眺めていたが、やがてはたと我に返った。彼女にことわりを入れ、壁の近くで私に釘をさす。

「お前、面白くしようとか考えて変に捻り過ぎるから、余計な設定は絶対に付け加えるなよ……」

 ああ、それは後に天使姫(エンジェルプリンセス)にも言われてしまったことだ。しかしそれは彼女に言ってもらいたい。もう少しで妙な設定を加えられるところだったのである。これからの話の展開もN氏を巡る大スペクタクルになるところだった。

「例えばどんな設定さ?」

「あの子が実は男だった――とかだよ」

「ああ、そういうこと」

 ふと足元を見るとさくらちゃんが我々の話を楽しそうに聞いていた。私は戯れに聞く。

「さくらちゃん、名前は? フルネームで答えてあげて」

 彼女は――というか彼はお辞儀をして元気よく答えるのである。

「佐倉です。佐倉朔太郎です。男の娘やってます」

「あ―……もう」

 N氏が私の頭をはたいた。眼鏡が吹っ飛ぶ。慌てて拾いにいくと車にひかれかけた。

 さくらちゃんが何を考えているかは知らないが、知り合いが一人増えた。悪くないことである。

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