幼女幻症騒動
「食材を多く買い過ぎた。腐らせるのもなんだから食べに来ないか」
メールの文面を眺めると、微かにくすんだ靄のような感情が漂っているのがわかった。
タダ飯が食えるなら行くよ、と返信してすぐさま向かった。薄暗いアパートは白い肌に苔を生やしていた。鍵の掛かっていないドアを開くと、N氏は奥の部屋で窓辺に立っていた。
その事件の後、N氏はじっと窓から外を見ていることが多くなった。
私も横に立ってみる。
町のそこかしこに潜んでいた影がゆっくりと膨らみ、世間を覆っていく。現実が異界と混じり合い、撹拌されていく黄昏の時間。
隣を見ると、黒目がちな瞳は無表情に夕陽を映している。
無口なN氏は自身について多くは語らなかった。どこから来たのか。どうしたいのか。どう死ぬのか。彼に何が見えているのか。
私には「それ」が見えたことはない。
しかし「それ」が見えなかったことならある。
私には見えなかった。
恐らく世間には彼一人にしか見えないものが数多くあったはずである。当時の私にしてみればそれは非常に「怖い」ことであったけれど――しかし彼は夕陽から目を逸らさずに言うのだ。
「怖いと思うから、何だって怖くなるんだよな」
どうやら全てはそういうことらしい。
★★★★
脳みそに電子音が突き刺さる。暗闇に光る携帯を見ると、N氏から着信である。手にとってしばし逡巡したのち、出た。
「おー、やっぱり起きてたか。聞きたいんだが」
起きていたのではない起こされたのだ。私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐のN氏を除かなければならぬと決意した。しかし奴は私を待たずに続けた。
「小学生のパンツって、どうやったら手に入るんだ?」
携帯を持つ手からへなへなと力が抜けた。
「こっちゃ眠いんだよ、冗談はよしこさんですよ。時計見た? 見てないよねえ。だって見てたら普通の人はなかなかこんな時間に電話できないもの。遠慮しちゃうもの。後日改めようとするもの。さすがN氏さんだあ、私にできないことを平然とやってのけるなあ。そこに痺れる憧れるなあ」
一気にまくし立ててやった。電話の向こうが静かになる。やがて水が一滴落ちるように、ポツリと声が聞こえた。
「……めんどくせ」
「ああ!?」
それから数分後、私は怒りよりもN氏が心配になってきていた。
「パンツって……ジーンズとかじゃなくて」
「ああ。年齢としちゃ、小学校二年くらいかな。パンツが欲しいんだが」
なんのこっちゃ。N氏はとうとう人ならぬ修羅の道へと踏み出しているのか。
「男の子のパンツ?」
「おいおい、女に決まってるだろうよ」
決まっていたのか。いやどちらにせよ問題なのは確かであるが。
「それはもちろん履いたあとのヤツだよね」
「なーん、履いてないやつだって! いったい俺を何だと思ってんだ」
どうやらN氏は想定外の事態に直面しているらしく、要領を得ない。仕方なく私は午前三時に原付を走らせ、途中のコンビニで小さい子用パンツ(ハートキャッチプリキュアがプリントされている)を買った。
それだけだと不審に思われる気がしたので、熟女系エロ本も買う。これでバランスがとれ、立派な成人女性に興味がある人間である。
……逃げるようにN氏のアパートに向かった。
ドアの前でインターフォンを押す。押す。押す。手応えがないのでドアを叩くとすぐに開いた。
「はい、コレ幼女のパンツな」
手渡そうとすると、N氏は手招きした。
「静かに。とりあえず中に入ってくれ」
普段と変わらぬペットボトルや段ボール箱だらけの散らかった部屋だったが、私はどこか違和感を覚えていた。
窓にはN氏の知らないうちに付いていたという手形がある。内側だが何故か彼のものとは明らかに大きさが違う。
押し入れの戸には炭のようになったお札。何故か張替えてもすぐに黒くなるので放置しているらしい。
壁からはギシギシアンアンと喘ぎ声が響く。何故か野太い男の声しか聞こえないが、これはおそらく――。
「消え去れ」
N氏は舌打ちして壁を殴った。静かになる。
全ていつも通りの部屋の様子である。しかし私は気づいた。違和感の正体は、部屋中に散らばっていたエロ漫画の類が姿を消していることであった。これはどうしたことか。ライフワークたるエロ収集を辞めるとは、いよいよN氏は煩悩を捨て悟りの境地に達したか。
「プリキュアか……まあいい。ホラ履けよ」
彼はわざわざ封を破ってパンツを差し出した。
真顔。いつも通りの死相の出た白い顔。暗がりで見れば圧倒されて声も出ないであろう。
少しだけ迷う。これは新手のギャグか何かなのか。素直にノって無理矢理履いてみるか。やれやれ。沈思黙考の果て、然るのちに手を伸ばすと叩き落とされた。
「何考えてんだ。お前じゃない、アヤノのだ」
私は周囲を見回すがよくわからない。はてアヤノとは誰なのか。ここにはN氏と私しかいないのである。
彼は台所から箸を持ってきてパンツに突き刺す。キュアブロッサムの顔にめり込んだ。
「……これで大丈夫か?」
お前の頭が大丈夫なのかと口から出かけたが、怖かったのでやめておいた。N氏は満足げに数回頷くと、穴の空いたパンツをすぐに捨ててしまった。
「さて」
N氏は私に蜜柑を放ってよこした。受け取り、座る。
「やっぱりお前にも見えてないんだな。アヤノは」
ふむ。この蜜柑は頭がおかしくなりそうなほど甘いな。
★★★★
事の始まりはこうである。昨晩、N氏は近所の墓地と事故の多発している踏切と無数の鳥居が落書きされたトンネルを抜けて帰ってきた。
「どれが原因かはよくわからないんだ。普段からよく通るし」
とにかく帰ってきたらついて来てしまっていたらしい。何が。
「アヤノが、だ」
「その子、今ここにいるの」
静かに頷く。物音一つ聞こえないが。N氏の部屋に居座って追い出せないらしい。
「ことあるごとに邪魔してきて面倒なんだよ。このままでは俺の寿命がストレスでマッハだ」
N氏はどうやら子供が苦手らしい。まァ素でアダムスファミリー入りを果たしそうな彼が子供達と楽しげに遊んでも、保護者の方に通報されかねないが。
「で、パンツは」
「小便漏らしやがったからよ……さすがに局部を野ざらしにさせたままなのはよくなかろうと思ったんだが」
なんとまあこれはこれは。彼が可哀相かどうかは性癖によるのでまずはノーコメントである。
「まあ、良いんじゃないかな。N氏はロリもいけるんだよね?」
「小便臭いし犯罪だから三次元のロリは駄目だ」
意外とマトモな返答。
「倫理感が強いね」
「建前はな」
表情に陰を残してぼそりと呟いた。その含みのある言い方はなんなのか。
「小さい子の前で――しかもお前、自分を父親と間違えてるような子だぞ――そんな子が俺の膝の上で寝てるような状況で、ロリはいいね……人類の文化の極みだよ、なんて言えるか?」
別にそこまで言えとは思っていないが。
「N氏を父親と思ってるのかい、その子」
見えないが、眠っていると聞き少し緊張が和らいだ。ごろりと横になると足に何かが当たる。構わず伸ばすとペットボトルの砦が崩れた。
「ああ。そうなんだよ……っておい、なんてもの広げてんだ」
おもむろに開げた熟女エロ本を、取り上げられる。
「子供の前だぞ!」
合点がいった。だからエロ本の類が全て片付けられ、アグネスを呼んでも問題ない部屋になっているのである。N氏は膝の上にいる見えない何かをそっと布団の上に運び、毛布をかけてやった。その顔はいつもの無表情である。
「それで……あー、相談なんだが。どうしたらいいと思う」
彼は目を泳がせて言った。
「さあね。よくわからない。案外座敷わらしかもよ」
N氏はいつも体質的によくわからないものを連れてきやすく、その周囲にいる者も巻き込まれるのである。
「あいつ飯まで食うんだぞ。真面目に考えてくれよ」
「マジに言えば、病院に行――」
N氏の顔が強張ったのでやめた。
「じゃあお祓い。成仏」
彼もその辺りで話をつけようと思っていたらしいが、その引き攣った笑顔は気が進まないことを物語っていた。
私は気付かなかったフリをして無視した。
★★★★
というわけで翌朝。ぴりりと冷えた空気にスズメの声がまじる。
「だから父親じゃねーって!」
怒声とともに目が覚めた。N氏がこんなに声を張ることは滅多にない。
「百歩譲って俺が父親だとしても、何故トイレを覗かれなきゃならんのだ」
事態は逼迫しているようだ。私は起き上がる。
「お前も見に来てんじゃねー」
五分後、私は正座して説教を受けていた。隣にはおそらくアヤノちゃんも同じ姿勢でいるはずである。
「お前、アヤノに笑われてるぞ」
そんなのN氏の匙加減一つだろうが、とは言えなかった。彼女はそこに存在しているらしいのだから。
「あ、どうして?」
N氏が急に尋ねてきたが、私から視線がズレているので答えない。
「そんな、ブリブリ博士じゃあるまいし」
一人で笑っている。なんだこれ。
「じゃあ飯にするぞ」
昨晩の鍋の残りがテーブル中央に出てきた。大根の千切りとおろしでみぞれ状態にされ、そこに柚子胡椒・胡麻を効かせた鶏団子と白菜、エノキ、豆腐。よくダシの染みたそれらをポン酢で食べると、うまみにあっさりとした酸味が加わり、飯が進む進む。
「おかわり」
「もう飯がねー」
よく見ればもう一人分、飯と小皿が取り分けられている。飯には縦に箸が突き刺してある。
「あそこのは食べていい?」
あ。
まずい。
N氏の眉間に皺が寄った。
「子供がまだ食べてるでしょうが!」
そうなのか。見えないからわからないのである。配慮が足りなかったか。アヤノが霊的な飯を吸収したらしき後、私は物質的な飯を食わせてもらう。
「それはそうと例の件だけど、とりあえず公園に蟲っちょを呼んでおいたから」
「ムシッチョて誰だよ」
それを聞かれると頬が緩んで口許がだらしなくなるのを止められないが。
「私の彼女」
「死ね」
茶しぶの取れていないコップに茶を注ぎ、一気に飲む。冷たい麦茶が口内をさっぱりさせていった。
「凄い反応の速さだね」
「あーあ、前回が終わってから何だ死ね。先輩か死ね。腹立たしいな死ね。お前が幸せだと俺が可哀相だ死ね。皆死ねばいい死ね。世界なんて終わればいい死ね。一周して大陸横断レースでも始まればいい死ね」
急に死ね死ね連呼してやさぐれ始めたN氏を見ていると、アヤノちゃんは何をもって彼を父親と間違えたのかふつふつと疑問が沸いてくる。
「でも確かに蟲飼先輩の顔ならなんとかできるかもしれないな」
N氏はにやりと笑ってアヤノちゃんのいるであろう空間を見た。
★★★★
……というN氏の期待は見事に外れた。蟲っちょは不安げにマスクとサングラスを着けなおし、見る者を昏倒させかねない顔を隠した。
「どうなったの。ダメなのかしら」
N氏は苛々しつつ腕を振り払い続けたが、しばらくして諦めたように言った。
「あー、先輩の顔は怖がってるんですけど、余計俺に纏わり付いてきました」
泣きそうな顔でN氏の裾を掴んでいる女の子が脳裏に浮かんだ。
「かわゆすかわゆす。ハアハア私こういうのダメだ、鼻血が出そう」
蟲っちょも同様の想像をしたらしく、額に手を当ててベンチにへたりこむ。そんな貴女が大好きです。
N氏の視線が公園を走り、砂場へ向かった。それからため息を一つ吐いた。
「足が速いから、すぐどっか行ってヒヤヒヤすんだよな」
私は懐かしさに滑り台を逆から登ってみる。頂上に着くと視線が高くなって、まるで別の風景が広がる。小さな頃は怖くて目を開けられなかった。特に夕暮れ時は。
世界中が知らないものだらけだというのに、更に知らない異界へと変貌する恐怖に耐えられなかったのだ。今では自ら覗き込むようになってしまったけれど。
「正直、俺は寺も神社も近づきたくないんだよな」
低い声が現在へ呼び戻した。
「どうしてさ」
N氏は眉をひそめて顔を上げた。
「寺や神社は、なんか嫌な予感がするんだ」
彼にしては曖昧な理由だ、と思いつつ滑り落ちる。しかし大事なことはいつも曖昧模糊とした感情の底に沈んでいる。あるのかないのかわからないそれに名前をつけたところで、掬い上げることは難しい。
当人にしかわからないことは、当然他人にはわからない。
「……アヤノちゃんはさ」
私達は弱々しい太陽に当たり、じっと体温が上がっていくのを待っている。
「N氏のことを何て呼んでるんだい」
彼は口を開いてぱくぱくさせた後、背中を向けながらぼそりと呟いた。
「とっつぁん」
蟲っちょが口許を押さえて笑った。
「ぜぇ~にがたのとっつぁ~ん!」
彼女の物真似はミドル級で、そのあまりの半端さに私は思わず噴き出した。公園には金木犀の香りが息苦しいほどに充満して、秋の終わりを告げていた。
★★★★
それから二週間近く。
忙しさとイチャイチャにかまけてN氏に会わないでいた。近所のスーパーで酒を選んでいると偶然N氏に出くわした。
「よっす」
と声をかけたが考え事をしているようである。こんなに難しい顔をして食品売り場にいる男を私は知らない。
「ん、おー」
カゴには玉子が入っており、ネギやニラがとび出していた。手に持っているのはピーマンの袋である。
「珍しいね、ピーマン嫌いじゃなかったっけ」
「嫌いなんだが、今のうちこいつにピーマンに慣れさせておけば、俺みたいにピーマンでいちいち困ることもないだろうと思ったんだ。ピーマンは人生において出てくる頻度が高いからな」
などと熱く語る彼は立派な父親然としており、私は飛び級で海外へ進学していくクラスメイトを見ているような――残された人間の気持ちになった。
彼は足元を見て頷きながら笑う。ああ、どんどんN氏が向こう側の人間になってしまう。
「私の分も作ってよ、とっつぁん」
「だからよー……」
と言いつつも何だかんだで家にあがるのを許すN氏は甘い人間である。私はピーマンの肉詰めを作った。アヤノちゃんはおいしそうに食べたらしく、彼はそこはかとなく嬉しそうだった。勿論彼自身は箸をつけなかったので無理矢理一つ食わせてやったが。
「もう寝たの?」
私は缶ビールを片手に、ピーマンと塩こんぶをゴマ油で和えたものをつまむ。テーブル上の小さな積木箱から木製の球を選び、つつつと指先で転がしてみる。
「ああ。放っといてもアヤノって九時には寝ちまうんだ。生きてた頃の習慣かな」
N氏はソーダアイスを頬張った。宙に視線をさ迷わせた。
「生きてた頃の記憶? ああそういう設定ね」
彼は眉間に皺を寄せ、私を睨んだ。しかし何を言ってくるわけでもなかった。クルクル回る球はテーブルの端でどうすべきか迷ったように行き来し、やがて落っこちていった。
「あのさ」
私の本心を言えば。
「もう良くない? 十分楽しんだよ。小さい子ってのはドウブツと同じでカオスさ、なのにN氏は予想外の事態には陥ってないし。ドッキリにしてはスパンが長すぎるって。前に私がN氏を騙した仕返しかな?」
彼は身を乗り出して聞いていた。私は何故か瞳をまっすぐ見ることはできなかった。
「ずっとそんな風に思ってたのか」
N氏は意外そうに呟いた。無表情で本心が見えない。ただひたすらに彼は頭の中で思考を巡らせ、その漏れ出た雑音が唸り声となって部屋に響いた。数分後、彼は力の抜けた様子でため息を吐いた。後頭部をがさがさと掻いて。
「まあ、仕方ないか。お前には見えないんだから。見える必要なんてないしな」
その諦観の篭った言い草が私のカンに触った。心の美しい者にだけ見える衣を目の前でジャパネット高田ばりに宣伝しておいて、お前は見えないだろうと決めつけられている。しかもやはり私には見えないのである。どんなに目を凝らそうと見えないのだ。
「あのさ、世界中でたった一人にしか見えない触れない聞こえないようなものがあるとしたらさ――それはやっぱりその人の幻覚だと思うよ」
私の言葉は静かな夜の部屋に霧散していった。N氏は執拗に何度も頷いた。そんなことは百年前から承知しているとばかりに。
「……でも俺がその幻覚なら、世界中でたった一人だけ自分を見れる奴に、否定されたくはねーんだ」
お互いに目を合わせず、私は酒を飲み、彼は傍のペットボトルをあおった。時間が経って気の抜けたビールは苦く、まるで飲めたものじゃない。
「なんか……ごめん」
「いや、いいよ。俺もしっかり言わなかったし」
私は缶底に残ったビールを飲み干し、落ちた球を拾いあげた。N氏はベッドの端に腰掛けて話し始めた。
「とっつぁんなんて呼ばれて、俺はいい気になってたのかもな。本当は全然父親なんかじゃない。アヤノはよく寝言でうなされて父親と母親を呼ぶんだよ、だから俺は全然――もう全然こいつを安心させてやれてないのが嫌でもわかる」
枕のあたりの空間を撫でた。傍らの絵本をしばし眺めて閉じると、私を見た。
「次の日曜、ちょっと付き合ってくれ。こいつがやりたいって言ってたことがあるんだ」
★★★★
その日の名呑町は人の流れが明らかに違っていた。呼び出された場所に近づくにつれ、化粧が濃く紫色の髪をしたおばさんだらけになっていく。時折中年のおっさんがいるが、肩身が狭そうにそこかしこでお互いに挨拶しあっている。
その流れから外れた、川沿いのブロックに腰掛けたN氏が見てとれた。
「やりたいことってこれかい」
我々は高いフェンスを見上げた。その向こうの校庭にはテントが設営され、人々はそこへ流れこんでいく。校門には「名呑小学校運動会」と書かれたゲートが作られていた。
「ああ、アヤノが走りたいんだとよ」
確かに二十歳を過ぎた男がフェンス越しに子供達が走り回っているのを眺めるのは問題だが、だからといって二人なら良いというわけでもなかろう。
「中には入れないのかい」
N氏に顎で促され入口を見ると、保護者とその関係者しか入場できなくなっていた。
「へえ、最近は厳しいんだね」
正直、小学校なんてものにはろくな思い出がないので胸を撫で下ろしている自分を見つける。
「おお、頑張れよ」
フェンス越しにアヤノちゃんが来ているらしく、彼は気合いを入れるように言った。
「何の種目に出るのかな」
「出たい種目に勝手に参加するだけだ。見えないから誰も気にしない。走るのが好きだから、徒競走がメインだとは思うが」
リレーには参加できないが、全員参加の競走ではかなり速いらしく、N氏は大興奮だった。棒倒し、綱引きと眺めていると昼過ぎになり、ジャージを着た教師が我々を汚いものでも見るような目で通り過ぎていった。
N氏は時折フェンス越しに話しかけ誉めたり励ましたりしていた。
「え……」
急に顔が曇った。
「駄目だ、俺は行けないんだ。ごめんな」
N氏はフェンスに手をかけたまま黙って俯いた。私は背中からフェンスに寄り掛かる。たわんだ編み目に肉が押し付けられる。数秒待って、N氏の周囲に漂う空気が少しだけ変わるのを感じる。
「何があったのさ」
「当たり前だよな。一人が寂しいんだ。アヤノは」
体操服を着た子供達が帽子を投げ合いながら走っていった。険しい顔をした母親が、娘を叱りつけていた。私は冷めた目でそれを見つめる。
「あたしのだいすきな人がそばで見ててくれないかなあ……って、そう言ったんだ」
彼女はN氏のことをとっつぁんとは呼ばなかった。実の父親とは違うということを知っていた。それでも見て欲しいと言ったのだ。
「行こうよ、N氏。ここで行かなきゃ、駄目だ。馬鹿だ。嘘だ。虚空だ。無念だ。後悔だ。絶望だ。クソだ」
沈みこんでいる彼を引きずって入口へと連れていく。まだ悩んでいるらしく、足どりはまるで足枷をつけた罪人のようである。
「いいって、お前だけで行ってこいって」
私は胸倉を掴んで起き上がらせる。彼の顔に夕陽が影をさした。
「あのさ、N氏。わかってるよね。私じゃ駄目なんだ。保護者しか入れない? N氏はあの子の保護者じゃなかったのか。少なくともここ一ヶ月くらいの間は、君は立派な……」
校庭をぼんやりと見ていたN氏の目が突如大きく開いた。かと思うと、私の腕を振り切って走り出していた。何かあったのだろう、私は追っていく。
人混みを掻き分け、入口のゲートを抜ける。そこで受付の教師に止められた。
「父兄の方ですか? 事前に配っていた証明書を出してください」
N氏は校庭の方しか見ていない。
「あいつが転んで泣いてるんだ。俺を呼んでる。俺が父親だと言ってる。それ以外になんか証明がいるか!」
私はN氏を突き飛ばす。彼は走っていき、私は教師と話を始める。騒ぎは大きくなり、彼はその渦中にいた。
これでいい。胸がすく思いだ!
目前の教師に謝りながら、口から笑いがこぼれた。体中が熱くなり、血液が巡っていくのがわかる。
私は遠くN氏の様子を窺った。モーセのように人の海が割れている。全員が彼を注視して、まるで時間が止まったようだった。
その中で彼は膝をついて、寂しそうな顔で笑っていた。手を振り、鮮やかな蜜柑色の空の端から群青色が迫っていくのを見上げる。それから下唇を噛んだままゆっくり帰ってきた。
N氏は私の肩を叩いた。
「なんか……ま、色々あったんだが親が迎えに来たんだとよ。笑いながら夕陽に消えてった」
その相変わらずの無表情な白い顔に、ごく僅かなノイズじみたものが見えた。
★★★★
その後ロリコン男二人が小学校に乱入したということで軽く地元のニュースになった。最近の若者は何を考えているのかわからない、という論調だった。
我々は様々な人から酷く怒られた。彼らが最も気になったのは動機だったが、正直に言ったところでわかってもらえるわけがなかった。謝って許してもらえただけマシである。
あれから彼は夕暮れになると、時々ベランダに出ている。何をするでもなくそこに立っている。あの子のことを考えているのか、それとも他に何か考えているのか、私にはわからない。
彼は余った食材で作った大量の食事をたいらげつつ話し出す。
「……『などとわけのわからないことを供述しており』か。そんなもんだよな」
私は同意する。
当事者でもない人間が理解できないのは仕方ない。私とて詳しいことはわからない。本当は全て彼の狂言だったのかもしれない。
彼が青椒肉絲のピーマンを口に運んだ。すぐに眉間に皺を寄せた。
「やっぱ苦いな……」
それでも彼が少しだけピーマンを食べるようになったのは、唯一確かなことだった。