或る日のこと
駅近くのスーパーを出ると、青く広く晴天。
にもかかわらず雨がぱらぱら降っていた。濡れた道路からあの独特のマーガリンじみた匂いがしてくると、夕陽を浴びた雨粒が名呑町をセピア色に染めていく。
私はその光景に見とれつつ立ち尽くす。
ああ、傘が無い……。
さてどうしたものか。
★★★★
常ながらN氏は体調を崩しやすい虚弱体質だというのに、傘など持たぬという間違った漢らしさを発揮している。然るにその日も濡れ鼠になりながら国道沿いの帰路を急いでいたらしい。
俯きがちに走っていた彼は、ふと気配に顔を上げる。瞬間、トラックのライトが水滴まみれの眼鏡を光らせ視界がホワイトアウト。
彼はさすがに危険かと立ち止まり、トラックが過ぎるのを待つ。顔を拭いてため息を吐いた。
眼鏡をかけ直すと、そこにOL風の女が倒れていることに気づいたそうだ。
交通事故に遭ったわけではないようだが、口の端から泡を吐いている。しかし道行く人々は誰も見向きもしない。彼は不愉快な気分でその女の手をとり肩を揺すった。明るい色の髪が滑らかに揺れ、手にさらりと触れた。それは僅かに濡れており、幾度も通り過ぎるトラックの光を受けるたびに輝く。
美しい人であった。
N氏は緊張した……ようだ。本人は語らなかったが、どうせそうに違いない。
すぐに女は気を取り戻したが、動くことができないので家まで連れていってくれと頼んだ。彼は渋々了解し、彼女のアパートまで負ぶってやった。
部屋には食べたばかりのカップ麺や缶ビールが散乱していた。湿った万年床に彼女を寝かせる。スーツの上着をハンガーに掛け、水を飲ませてやった。
するとその女はN氏に抱きつき、どこへも行くなと泣くのである。切れ長の目から流れる涙。何があったかは知らないが、しばし膝枕をしてやるとまた眠りに落ちた。安らぎを絵にかけばこうであろう、という顔だったらしい。
仕方なしに部屋を片付け飯を炊くと、棚の上にお稲荷様を奉っているのがわかった。もしやと思い、眉に唾をつけるとそこは雑草が腰まで伸びた空き地であった。
N氏はすがりつく女を引きはがし、走って逃げた。追う女は次第に狐へと変化しつつも、淋しくてやっただけだと言い続ける。
彼は息も切れ切れになりながら駅までやってきた。大声で助けを求めていた。
そこへたまたま出くわした私は、スーパーの袋から買ったばかりの油揚げを引っ張り出してバラ撒いた。黄金色の四角形は風に遊ばれ交差点に落ちた。
走ってきた女は油揚げに吸い寄せられるように飛び出し、トラックに撥ねられあえなく死んでしまった。
道に残った大きな狐の死骸を車たちが迷惑げに避けていく。
私は彼を助けたのである。だからN氏が落ち込んだ顔をしたのも私のせいではないし、時折何か言いたげにこちらを見るのも筋違いである。
私は悪いことはしていない。絶滅したと思われていたこの名呑町最後の大狐だったとわかっても動じはしない。あの狐は生存競争に負けただけ、こんなことは世にいくらでも起きていることである。
そうN氏に伝えると頷いた。頷いたが目を合わせなかった。
彼が墓を作るというので、私はついていって穴を掘って埋めるのだけは手伝った。
私がN氏を手伝う?
妙な空模様に気分がおかしくなったのかもしれない。
そんな天気を「狐の嫁入り」と呼ぶのを初めて知ったのは――あれはいつだったか。