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3-3 川は滔々と流れる

 入り口の封鎖のため、横付けされたパトカーの脇、見覚えのある姿にカキアは片手を上げる。

「避難は?」

「完了。……いや待て待て、退避エリアにゲスト連れで行くやつがいるか。テーマパークじゃねぇんだぞ!」

 ポール間を結ぶ封鎖の縄を、カキアに続いて跨いでいるロエをデイブは掴んだ。

「ホントそうだよねぇ。けど、僕と離れたくないみたいだから見逃してちょうだい」

「マジかっ、何かあったら始末書どころじゃねぇだろ!?」

 戸惑いに緩んだ手から逃れ、ロエはカキアに続く。

「まぁ、それもゲストの選択の自由ってもんなんじゃない?」

 欠片も思いの籠もらない言葉を残して、カキアは係留場の奥に足を向けた。その後を、ロエは追いかける。

 辺りには霧が立ち込めていた。夜明け前のそれに似た状況だが、一区画だけに立ち込める様子は自然現象ではない。

 濃霧、それは兆しだ。

 ヨットや小型船が係留されている木製の桟橋に辿り着き、足を止める。霧が深いながらも、揺れる水面が見えた。

「ワクワクしてるんじゃないよ、まったく。《三途の川(ステュクス川)の例え、覚えてるか》」

 隣に立ったロエの顔に横目を向け、呆れ口調でカキアは説明を始める。

「《ここは死後の世界、この中洲は中間(ミドル)。そしてこの島を取り囲むのは三途の川(ステュクス川)。そうすると発生する》」

 水面の揺れが激しくなる。

 波と思って、ロエはここが川であることに混乱する。押し寄せる波は、川の水量が増した時に起きる、方向性のあるものとは違う。

 その波は、まるで何かが寄せてきているような。

「《誰にも弔われず、誰にも悼まれず、渡し賃も払えない奴らが》」

 霧の向こうから現れた化け物に、ロエは目を丸くした。

 形は水の瘤のようなものだ。ただ大きさが人ほどもあり、それが両の指では足りぬほど川の方から岸に向かっている。更に一体、人の三倍ほどの身の丈のものがおり、その胴体をぬらぬらと光らせて、水を進んでいる。透明であるはずの水と違って、ロエの目に映る姿は増水した川の如く濁った黒だ。

「《大人しくシャトルバスの順番も待てずに、川に入ってこのザマだ》」

 カキアが風を纏った。コートの裾がなびき、癖の強い髪が揺れる。

 期待通りの展開に、ロエは顔を輝かせた。

 カキアが手のひらを上に向ける。一部の風が圧縮されていく。逆巻く風はどんどんと範囲を狭めて勢いを増し、密度を増して──弾けるように散った。騒乱の終わった後のカキアの手には、古めかしい剣が一本握られている。

 妙に低い音が、水の瘤が近づくに連れて辺りにこだまする。喃語めいた音声は人間味をわずかに残しつつも、知性の欠除をあからさまに感じさせる。

 木製の桟橋を、最初の一匹が絡みつき上がろうとする。トッと革靴で軽く地面を蹴ったカキアが風で加速した。一足飛びに距離を詰め、瘤に斬りつける。膜めいた表面は裂けるが、浅いのか、すぐさま水が満ちる要領で閉じていく。瘤はとうとう桟橋に乗り上げ、人間と同じぐらいある全長を晒した。水辺ではあった丸みが失われ、軟性の体が伸びている。

 その見た目に、ロエは(ひる)を連想した。

「はいはい、ここは君らが来る場所じゃない──よっと!」

 地上に横たわる体へ、カキアは上から剣を突き立てた。暴れる体を踏みつけてそのまま、傷口から沁みだす淡い光の帯を風と共に巻き取る。エーテルを奪われた体は見る見るうちに萎み、一抱えほどの大きさに変わった。膜に覆われているだけの不安定なそれを、カキアは容赦なく蹴りつけた。ザボンっと大きな音と共に水柱(みずばしら)が立ち、その後化け物は浮かぶことなく消えていく。

 そうこうしている内に、他の個体も陸上へと這い出す。カキアは作業というには軽やかに、化け物を相手していく。風を駆る様は飛翔にも似て、もはや人間技ではない。上陸前の個体まで対象と見なし、宙を舞う。

 それを見て、ロエはうずうずする。

 ロエは自分でも、なぜこれほどまでにカキアの傍が心地いいのか分かってはいない。ただいつも、存在するだけで目立って見えて、カキアが力を振るう(はた)にいると自分の芯が震える。

 耐えきれず、ロエは足を踏み出した。

「はぁ!?」

 カキアはちょうど、風から降りて桟橋の板張りに音高く着地したところだった。右手の剣は構えたまま、深く膝を畳んで衝撃を殺す体勢でいた。

 その横に、後方で見学中なはずのロエがいた。あまりにも自然にロエはそこにいて、あまりにも無造作に手を伸ばした。カキアが剣を握る右手を、その手は掴んだ。

 ロエは風を覚えていた。風が吹き込む繋がり方をもう学んでいた。だから繋げて、風を辿っていった。そこに、自分の記憶と重なる情景も探し出せると確信して。

 匂いが、混じる。

 霧の濃い湿度の匂いではなく、砂埃の乾いた匂い。


 魔王と、勇者が、対峙している。

 激しく打ち合わされた剣身が火花を散らした。互いの呼吸すら感じ取れる距離で鍔迫り合い、次の一手に思考を巡らせる。

 槍での機先はどちらも制し損ねた。少々の傷と少々の時間さえあれば勝利に近い魔王相手に、勇者は類いまれなる身体能力で対抗する。

 気づけばうねるような戦場の騒乱は静まり、中央での一戦を誰もが固唾をのんで見守っている。何度となく行われた戦いの終焉を、不思議と誰もが予見していた。

 それは戦う勇者、ロエさえも例外ではなかった。

 覗き見る黒髪の隙間の、深い緑の瞳が、一際沼めいた淀みに沈んでいる。この戦場で、敵側としては自分だけしか知らぬであろう瞳。知った者は知った途端に死んだ。ロエだけが、その瞳を知って生きている。

 勇者だけが、魔王に対抗しうる。

 長い戦いの果て、力の乗りが浅いカキアの一撃を、ロエは盾で外側へと弾く。

 無防備な腹に、一直線に剣を突き入れる。軽装を好む魔王の体に鎧はなく、驚くほど軽い感触で剣先は吸い込まれた。勢いのまま身体をぶつからせれば、身を折るカキアの顔が至近距離にあった。

 男は、笑っていた。どこまでも重く、陰った瞳で、けれど口元は笑っていた。

 帯が、見知った淡い光の帯が、魔王だった男の体から滲みだす。

 それは眩しいほどの輝きになって──ロエが次に目を開けた時には消えていた。残されたのは、ただ重くロエに倒れ込む、男だった肉体だけだった。

 それでも光の奔流が天に昇る光景は、ロエの目に灼き付いて離れなかった。


 ロエは確かに、その情景がそこにあることを感じた。ただ満ちるだけの情報に、過去も未来も、今も関係ない。すべてがそこにある。

 だから、その場面から、取り出す。

「うわぁ、悪趣味ぃ……」

 ロエの右手に具現化された、己を殺した剣に、カキアは嫌そうに声を上げた。

 それから全力で、繋がれた手を振り払う。

「《やりたいなら勝手にやれ》」

 言い残し、次の個体の処理にカキアは離れた。

 ロエは使い慣れた剣を手に、手近な化け物に駆け寄って一斬りを見舞った。まさに水を切るような短調な斬れ味の結果、浅い傷はすぐに修復される。なるほどと、その感触にロエは悟る。少々の損傷では話にならない。カキアならばエーテルに干渉できるが、ロエにその手段はない。

 ならばと、ロエは剣を握り直す。

 圧し潰す勢いで倒れてきた化け物を避け、再度斬りつける。今度は修復が起こらない。推測の正しさを思い、ロエは攻撃を続ける。ロエが繰り出す、削ぐような一撃で、結合を解かれた部位がべしゃりと水に返って桟橋の板に染みを作った。

 相手が水で損傷を修復するというのなら、その容量自体を減らせばいい。

 化け物の抵抗は鈍い体当たりしかなく、繰り返される斬撃に化け物はどんどん萎んでいく。胴体が剣の刃渡り以下になったところでロエは中央を縦に割った。同じ体積だが、片方は弾けて水に返り、もう片方は身を縮こまらせてぷるぷると震えるばかりになる。

 これが魂なのかと、ロエは不思議な心地になる。世界の制度に沿わなかった末路。もはや生前の形はなく、ただ陸を求めるだけの化け物。川へ蹴りだす足は、わずかに抱いた憐れみで少し弱かった。ただ水中へ消えた後は、残る心もなく次を探している。

 その視界に、足場のない水上で立ち回るカキアが映る。

 あれがいいなと思えば、ロエも桟橋を踏み切っていた。飛んだ先の個体に斬りつけながら、素早くその体を蹴って別の一匹に向かう。踏みつければ膜は形を歪めて堪え、跳躍に足る抵抗を産む。一匹一匹を殲滅はできないが、カキアの軌道に合わせて傷をつけて回れば、エーテルの操作の範囲で一網打尽になる。

「やっぱ頭おかしいよね、君!」

 空中の擦れ違い時に叫ばれた言葉が、誉め言葉でないのはロエにも通じた。

 化け物の配置、カキアの動き、すべてを認識した上で、一秒にも満たない時間で跳躍の道筋を判断する。ずば抜けた把握能力と処理速度。

 勇者であったものの資質。

 最後に大個体が残る。もはや一つの魂では存在できなくなった残滓が、徒党を組んで形ばかり大きくなった姿。

 だが処理の仕方は同じだ。ロエが斬りつけ、カキアがエーテルを抜き取る。

 水飛沫を上げて、大個体が悶える。

 さすがに危険を感じてロエは桟橋に戻ろうとして──蹴りつける先が急にぬかるんだ。

 ドプンと、水に飛び込む時の音を立て、ロエは呑まれた。

「《群棲個体は単体より形状変化が柔軟だ。油断したな》」

 風に乗るカキアはそう言いながら、慌てる素振りもなくエーテルの操作を続ける。幾ばくもなくエーテルを抜き取られた大個体は極小さな玉に分裂して、すぐに水に沈んでいった。

 板に靴底を擦りながらカキアは桟橋に戻り、風を解いて水上を振り返る。もはや化け物は一掃され、霧も薄まり始めている。事態の解決を確かめた後、その視線は水面に下がった。

 ロエを捕まえた個体はすぐに処理できた。枷さえなければ比類なき勇者サマはすぐさま泳いで浮いてくるだろうとしばし待ち。

「え、マジ?」

 数秒経っても静かな空間に、カキアは呟きを落とした。意味は薄いと分かっていながら、桟橋の縁に立って川を覗き込む。

 中洲を囲む川はただの川ではない。その水流は記憶を、定義を洗い流す。川の力の前には亡者もゲストも、上限を言うなら超越者の類いも等しく同じだ。少々ならまだしも、長い時間はまずい。

 そして普通に人間は息ができないと死ぬ。死後でも死ぬ。ゲストでも死ぬ。老衰、病死、事故死はまだ人間として死に、橋を渡る資格を改めて得るが、この川での死は最悪だ。亡者になればまだ良い方だ。定義を失う。魂を覆う殻を失う。世界との境界を失い、内包するすべてを一気に放出する。中身の安全性が担保されている状態なら問題ないが、場合によっては大惨事を引き起こす。

 もう数秒変わらぬ静寂が流れ、カキアはコートを脱ぎ捨てた。躊躇わず川へと飛び込む。

 一気に全身に重く水が纏わりつく。濃霧の影響で光は乏しく、カキアは目を凝らした。暗い水の中、沈みゆく白っぽい影が見つかる。全力で水をかき、その影に追いつく。

 意識を失い目を閉じたロエの姿に、思わず息を吐いた。空気の泡が、水上へと登っていく。

 自分より大きな身体を抱え込んで、カキアはその泡を追った。

 水上に出て、桟橋の高さに苦しみつつも這い上がり、ロエを板張りの上に寝かせた。

 呼吸の確認。胸が動かず、息の音が聞こえない。気道を確保する。位置を確認して素早く胸部圧迫。淀みなく応急処置を施すものの、人工呼吸にだけはどうしても苦悶の間が挟まった。


 赤ん坊が、泣いている。

 

 接触に、意図せず道が繋がる。状況を起点に、情報が顕在化する。


 川を、赤ん坊が流れている。


 それは今ではない。カキアは分かっており、救命行為に集中する。

 口を塞いで漏れがないよう、深く空気を送り込む。どこにどう空気がいけばいいか分からない以上、風では役に立たず、人間の手法に徹する。


 赤ん坊は泣きやまず、世界に呼びかけるが如く全霊で、声を上げている。長く、長い間、そうして川を流れていた。

 その身体が、色白き細腕にすくい上げられた。

 産まれたままの赤子を胸に抱き、貴婦人は紫の衣を濡らす。動揺する侍女達を鎮め、貴婦人は浅瀬から岸に上がって岩に腰掛けた。

 赤ん坊の顔を覗く。天の御使いが如く愛らしく、美しい子供に、貴婦人はじっと視線を注ぐ。

流れ(ロエ)

 白いものを白と、黒いものを黒と、川に流されてきた子を流れ(ロエ)と。

「この子を育てます」

 決定を告げ、侍女達を引き連れて貴婦人は去る。

 後には物言わぬ、滔々と水を湛える川だけが残った。


 何度目かで、ロエが息を取り戻し、少量の水を吐く。その体を横向きに変えてやりながら、カキアはどうしても言わずにはいられなかった。

「泳げない癖にあの立ち回りとかっ、馬鹿か!?」

「《は……え……?》」

 意識を取り戻した瞬間の罵倒に、ロエは応えられなかった。

 霧が晴れたため状況を伺いに入ってきたデイブが視界に入って、カキアは救急車の要請を頼んだ。

 その背を見送り、疲労というより脱力が強い仕草で立ち上がる。桟橋に放り出していたコートを拾う。それをかけるというには荒い動作で、ロエに叩きつけた。

 濡れた身体を覆うコートの暖かさにロエは目を丸め、それからわずかに残る温もりに目を細めた。


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