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2-1 ドーナッツは

 寝返りを打った時のスプリングの揺れは、小舟にも似ている。

 記憶の共鳴を端緒に、ロエは深い眠りから意識を持ち上げた。目を開く。夜明けにはまだ早いようで、カーテン越しの外は暗い。身を起こし、ベッドを降りる。壁際の金属の設備に近づいた。暖房用の鋳鉄製放熱器(ラジエーター)だ。独特の蛇腹にも似た形状の上においていた衣類を手に取るとほんのりと温かく、ロエは寝巻から運動用の軽装に着替えた。

 リビングに移動して、ロエはソファの上に目をやった。そこに人影はなく、雑に放られたのか落ちかけている毛布だけがある。暗いまま近づいて拾い上げる。柔らかな感触に残る熱はない。四つ折りにしてソファの背にかけ、足はキッチンへ向ける。棚からシリアルを、冷蔵庫の冷えた一クォート瓶入りの牛乳を取り出せば、朝食は揃う。とはいえ、ロエはあまりこの朝食が好きではなく、牛乳に浸したシリアルをただ作業的に口に放り込む。

 この家──カキアの家にロエが滞在し始めて、一週間が経った。技術の進歩に感動することしきり、さすがに落ち着き、日常生活なら一人でこなせるようになった。

 食べ終えて、シンク前に立つ。蛇口を捻って水を出し、洗って脇のラックに置いた。手を拭って、ロエは外出の準備を始める。

 部屋を出ると、天井に電気がついている。正面には吹き抜けの階段だ。カキアが五階に住むこのアパートメントには、エレベーターはまだない。ロエは軽快に階段を下り、一階の郵便受けがあるロビーを抜け、外へと出た。

 扉の先は暗く、霧が深く、視界が悪い。周囲の気配を感じにくい世界を、ロエは数日前に目撃したランニングを真似て、今日も走り出す。

 やがて太陽が昇り、霧は晴れていく。頭上の大きな赤い橋も、逃れようもなく存在感を主張している。

 その頃に辿り着くのは公園の柵に凭れ、手元でタバコの煙をくゆらしている男の元だ。

「《いつ寝てるんだ?》」

「《年寄りは朝が早いんだ》」

 声をかければ、カキアは一瞥もないまま返してくる。

 強い風に前髪があおられている。いつもは影に隠れる深緑の瞳が光の下で見えて、ロエは足を止めた。

 乱れた呼吸を整え、カキアが見ている方角に目を向ける。中洲の霧はほとんど晴れたが、赤い橋の袂、此岸の様子はなおも濃い霧でまったく見えない。それでもこんな朝早くから、車は霧を抜けて現れ、彼岸へ向かって走り、また霧に消えていく。

「《経費精算も溜まったし、今日はこのまま庁舎に行ってくる。そろそろ慣れて、俺がいなくても問題ないな?》」

「《あの車ってやつに轢かれない限り、即死の危険がなさそうなのは分かった》」

 レターサイズの紐付き封筒を掲げて見せるカキアに、ロエは頷く。言葉にはまだ不自由しているが、生活の仕方については充分身に付いた。治安としてもロエの生きた時代、地域より、よっぽど平和だ。

 歩き出す前に、カキアはスーツの内ポケットに手を入れた。小さな紙片を、ロエに差し出す。

「迷子札。《何かあったらこれ出せ》」

 手のひらほどもない小さな紙には、ロエが習ったばかりの文字──アルファベットで何か書かれている。一つだけ、カキアの名前が刻まれているのはロエにも判別できた。

 内容はカキアの名刺だ。ゲスト対応室の一文は、この街では大きな意味を持つ。

 後は黙って歩き出したカキアの背を見送った後、ロエはランニングを再開する。見通しのいい南公園(サウスパーク)は風も強い。謎のモニュメントのある南の突端でぐるりと周り、今度は此岸沿いの道を北上する。明けてからの公園には、ちらほらと人の姿も現れ始める。時々何事か、かけられる声には全部片手を上げて応じる。

 途中、フェンスを越えてきたバスケットボールにはさすがに少し行動に迷う。言葉は分からないまでも、少年達が返して欲しがっているのが分かる。普通にフェンス上に投げかけて、ロエはふと何度かここで見かけている風景を思い出した。見様見真似で、フェンスを越えるように高く、その上でそこに立つリングに届くように投げた。かしゃんと綺麗にリングの内、ゴールネットを揺らす音が響く。一拍の静寂の後、少年達が歓声を上げた。分析できない言葉の洪水に、ロエは曖昧に応じてまた走り出す。

 島の外周をおおざっぱに走り切り、ロエはアパートメント前に帰り着いた。心地いい疲労感を抱えて階段も駆け上がり、そのまま一直線にシャワーに向かった。汗を流し、今日はどう過ごすかと、首にタオルをかけたままリビングに戻る。外出は制限されていない。言葉の勉強用品は買い与えられていたが、家で聞き取り能力は培いづらい。

 ひとまずソファに腰掛けようとして、雑然と散らかったテーブルの上に視線を奪われた。新聞、雑誌、筆記具、洗わずに置かれたままのマグカップ、──灰皿。

 ロエは顔をしかめる。カキアが時折燃やす小さな棒。匂いがきつく、コーヒーと合わせて、煙草は理解できない嗜好品の一つになっていた。

 その灰皿がテーブルの端にはみ出していて危なっかしく、ロエはぐいっと中央へ押しやる。逆側から数日分積まれていた新聞が倒壊し、床に散らばった。ロエは閉口する。拾うためにしゃがみ込んだところで、ソファの下からはみ出す白い紙に気付いた。端をつまんで引っ張り出すと、文字が並んでいる。ロエは前日の夜、経費精算(ケイヒセイサン)がどうのこうとぼやいて書類を作成していたカキアを見ている。アルファベットも数字も軽く教わったが、その記述の意味が分かるほどではない。

 ロエは少し考えた後、その紙を手に外出することに決めた。身なりを整えて、落ちていた紙と、別れ際に受け取った名刺を手に持つ。後は渡されている少量の現金。

 一週間前に訪れた庁舎の場所を思い出しながら、ロエは家を出た。

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