11-1 霧が晴れ
霧が晴れる朝焼けの瞬間は、世界が息吹を取り戻す様にも近い。そっと吐かれた吐息が霧を追いやり、夜の気配さえ押し流す。停滞と活動。夜と朝。島外の世界は眠らぬ街という呼称を生みだし、島を見下ろす赤い橋は昼夜変わらぬ通行量を誇っても、この街にはその境目が今もある。
今日も島とは隔絶された赤い橋を、カキアは煙草を手に南公園から見上げている。着古したコートの裾が、風に弄ばれる。
「よっ」
そこに珍しい客人が姿を現した。私服姿のデイブに、カキアは首を傾げる。
「珍しい。夜勤明け?」
「うんにゃ、出勤前。昨日お前んとこの美人さんに会ったら、何か体調不良で休んでるって聞いてな」
「ありがたいんだけど、ドーナッツで体調は回復しないのよ」
デニムに厚手のボンバージャケット姿で近づいてくるデイブは、いつも通りのドーナッツ屋の袋を差し出してくる。
「ここにいるんなら多少良くなったんだろ。これ食って、とりあえず今日乗り切る活力つけろ」
「……うん、じゃあ貰っちゃおうかな。ありがとね。周りにもお裾分けしてもいーい?」
「あったり前だ。うまかったら、毎月ゼロがつく日はスタンプ倍でお得だぜ。つまり今日」
「君はドーナッツ屋の回し者なの?」
受け取ったドーナッツの袋は思ったより重たく、カキアは予想より下まで手を下げて受け取る。どう考えても今日、追加で買いに行く量ではない。
思わず、ヘラヘラと笑みを浮かべる口角が普段より深くなる。
デイブが薄く残って氷のようになっている雪を払ってから、カキアの横で柵に凭れた。
「つけねぇのか、火」
示されるのは、カキアの指先で弄ばれているだけの煙草だ。
「……いやぁ、なんかいいかなぁって」
「お、禁煙か? 俺としちゃそんな苦いもん好きなヤツの気がしれねぇから応援するが、ロドリーのバーチャンには睨まれるぞ」
「……雑誌と新聞で勘弁してもらえないかなぁ」
もしくは、初めからろくに味わいもしていなかった不届き者の禁煙は歓迎されるかもしれないと、カキアは僅かな希望を抱く。
風がカキアの癖毛を揺らす。
二人並んで見上げる赤い橋には、今日も長い車列が続いている。大型バスに乗用車、時には二輪車。多種多様な通行の形が窺える。一方通行の道路を、整然と車は過ぎていく。橋の上と、中洲は交わらない。シャトルバスの窓の内、微かに見える人影と目が合うことなどもない。
この街は、逸脱してしまったものの居場所。
「……そういえばさ。仲直りしたんだよね」
「……ぉおっ?」
唐突な宣言に、理解まで数秒掛けた後、デイブは声を裏返らせた。
「直す以前がろくでもないからむしろ仲良くすることにしたって方が正しいんだけど」
手遊びに使っただけの煙草を、カキアは箱に戻す。視線はそのまま、しばらく俯けた。
長く沈黙が落ちる。
「おめでとさん」
それでもたくさんの事柄を咀嚼して、デイブはちゃんと心の底からの祝いを告げた。
「ありがと。時々見苦しいもの見せるかもね」
「俺にゃあのニーサンはもう犬にしか見えねぇ。すっげぇ顔がいいはずなんだがな」
「人間、顔じゃなくて行いってことじゃない?」
少なくとも自分が好むものはそうだと、内心を含ませる。
「車で来てるから早めになっちまってもいいなら送ってくぞ」
「きゃー、行いが男前ー」
「せめて、一オクターブ上げろー」
常日頃と変わらない声音の称賛はからかい成分が強すぎて、デイブは要望する。
デイブの自家用車は、濃い青の、丸みを帯びた形が特徴の車だった。赤い橋とは対照的な流線型に、風が好みそうだとカキアは思う。扉を開けて乗り込む。走り出し、過ぎる街並みはカキアが見慣れた、いつもの街だ。冬なので街路樹はいささか寂しい景色が続く。
そんな木の一つ、エルムの木の傍らに見つけた影に、カキアは目を軽く見開く。
一瞬だけですぐに過ぎ去ってしまった、白い子鹿。
見間違えかと思うほどの一瞬を、カキアはそうは捉えない。
「……あらまぁ、随分な折檻受けちゃって」
運転席のデイブにも聞こえないほど小さく、カキアは呟く。その瞳は愉快さを浮かべるでもなく、いつも通りの濃さだ。
バスが庁舎前に停車するのに合わせ、デイブはその手前で車を止めた。
「治ったからって無理すんなよ」
「きゃー、気遣いが男前ー」
「一オクターブ高くてもやっぱ嬉しくねぇな……」
努力は身を結ばずに終わることもある。ひらひらと手を振って車を見送り、カキアはドーナッツの袋を小脇に、まだ通勤者も少ない庁舎へと入って行こうとした。
その前に、バスから降りて先を歩く、見知った姿を見つける。背後から足早に近づき、カキアはその肩に手を回した。
「やぁマイケルくん、出勤早いね。えらいえらい」
盛大に身を震わして飛びのかれ、すぐにカキアの手は中空に浮く。
「おおおはようございますぅ。僕また何かやっちゃいましたかぁ?」
怯えを隠さないマイケルに、カキアは胡散臭さしかないと自覚のある笑みを浮かべる。
「ちょっとね、僕と内緒話しようか?」




