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10-2 風とか


 カキア!


 それは音だったのだろうか。あるいは単なる、こぼれ落ちた情報の残滓だったのだろうか。

 自分の名を呼ぶ声を、それでも確かにカキアは捉えた。

 自分の名。定義された形。風を失い、邪悪を纏って、カキアはたくさんの人間を殺した。そこに情などなかった。老いも若きも等しく殺戮した。己が目的のため、身勝手な計画のために、あまりにも多くを殺した。

 だから、──嫌われていると思っていたのだ。

 魔王とまで呼ばれたのだ。敵対者である勇者が、魔王を憎んでいないわけがない。

 それが蓋を開けてみれば妙な懐き方で、よくよく知ればカキア以上に勇者は人間に無頓着で、そんな感性の癖にカキアには好きと主張を始めて。

 訳が分からなかった。一時は本気で、一千年遭遇したこともない未知に恐怖した。もっと自己愛の強い、他人を虫けら同然に見る者はいた。もっと独善的な、自分こそが愚者を率いねばという者もいた。そういう者達に見る熱が、勇者にはなかった。

 なのに、カキアを見る目に熱が籠もった。

 何だそれはと、理解不能さに距離を置きたくなるのも仕方ない。ほとんどの人間を憐れむ男が、カキアだけを分けて見る。なるほど確かにカキアは特殊だが、それが勇者を魅了する要素になり得るとは、思いようがない。

 一方でカキアは、一度も勇者を嫌ったことがない。あの戦場で嫌った敵はいない。嫌った人間は、味方ばかりだった。妹を汚そうとした人間は、全員未遂の内に片付けた。殺せぬまでも嫌いな人間は、味方には王を筆頭としてたくさんいた。

 敵はそうではない。どんな人間かも知らない敵を屠って屠って、魔王と呼ばれた。嫌ってはいないが嫌われている。当たり前に、そう受け入れてきた。

 だから死後の再会でも、そういうスタンスで勇者の前で魔王ぶった。同郷の縁で妙な依存が起こらないように、時がくれば自分の道を選択するように。

 なのに、やっぱり好きだなんて世迷い言を勇者は口にする。欲しいのはカキアだけなんて戯れ言を告げる。

 ──神なのだと言われ、強烈な納得感があった。

 茫然としたのは、その衝撃もある。かつて随分神に愛されているとカキアは揶揄したことがある。それがなり損ないでも神なるものの類いだったのなら、これ以上ないくらいの納得感だ。

 それでも、勇者は人間だった。生い立ちを探った時、確かに勇者は人間として生き、傷つき、毒で死んでいたのだ。

 行き場のない激情を隠し、カキアは日常を演じてみせた。生い立ち程度では見えなかった奥の奥、本人さえ知らぬ領域に踏み入るため、想い通わすフリさえしてみせた。最後まで、勇者の感覚を掻い潜ってみせた。

 目にしたのは、この世で一番憎むものだった。

 箍が外れた。すべてまとめて拒絶した。

 ──それでも、嫌いになったわけではない。

 生き方に納得がいった。憐れと周りを見なし、願いに応え、指示に従い、自分の命すら簡単にくれてやる。けれどそんなものの見方をしても、勇者は確かに人間として生きていたのだ。生きて周りに手を差し伸べ、生きて人々の欲の渦に散った。どうしようもなく無感動な心を抱え、どうしようもなく不自由な肉体で過ごし、どうしようもない世の流れに流された。その歩みは、ひと時であっても確かに人間のものだった。

 儚く、きらめく、ロエという人間の生き様。

 ただどう足掻いても、人間としては頭がおかしくはあるが。


 蒼穹の瞳。


 あの美しき双眸を忘れるのは少しばかり惜しいと、カキアは剥がれた情報に思った。

 ──思っていたら、目の前にその瞳があった。

 暗い水の底、色も判別できない世界で、それでもその瞳の空は美しかった。

『カキアっ!』

 ごぼりと吐き出された音が泡になって水面に上がっていく。

 急な実存性に、カキアは人としての驚きで目を剥く。

 じたばたと見苦しいとしか言えない動きでロエが水をかき、カキアの身体を捕まえた。後は腕力で強引に縋り、抱き締める。

 カキアは呆気に取られる。

 馬鹿かと、言いたくなる。

 泳げない癖に馬鹿かっ!?、と。

 同じようなことを言った馬鹿馬鹿しい記憶がよみがえる。

 案の定、大きく空気を吐いてしまった顔は苦し気に歪む。それ以前に目元が真っ赤な気がするが、それは水底の暗さにうまく判別がつかない。

 苦悶の末に、投げだし気味だった意識を切り替える。

 まずは酸素。水にも気体は溶けている。微量でも微弱でも、人の呼吸に必要とされるものを水中から風の要領でかき集める。苦しさに暴れそうになっているロエの体を押さえつけ、唇を重ね合わせた。吹き込む息で、どうにかこうにかロエの呼吸を助ける。

『違う違うそうじゃないっ、舌を吸うなっ、息を吸え!』

 思わず罵りたくなって、唇の間に泡が溢れた。

 その小さく開いた距離さえ許さないとでもいうように、余裕を取り戻したロエの腕は強くカキアをかき抱く。

 絡まる舌。粘膜同士の接触は深く、道を繋ぐ。


 女神のすすり泣く声に重なる、赤子の泣き声。涙に流され、川を流れ、それでもずっと赤子は声の限りに泣いていた。

『ぼくはなに? なぜここにいるの?』

 子であれば必ずある、生まれた瞬間の認知。早かろうと遅かろうと、望んでいようと望むまいと、腹より産まれた子供に女は認知を授ける。

 私の子。

 けれど、この赤子にそれはなかった。産まれたことにすら気づかれず、()の子という最初の定義すら受けず、赤子は流された。神の未熟児、なり損ない、非認知子。赤子はその身に神の子という最大級の祝福を授かりながら、神の子であるという定義をなされなかった。

 流れ流れた先で、紫色の衣を纏う貴婦人の腕に赤子はおさまる。泣き続ける赤子に、貴婦人は柔らかな微笑と共に告げる。

「あの子のように、壮健にお育ちなさい」

 愛する我が子。すれ違った我が子。赤子を通り越して、貴婦人は嫡子に愛を注ぐ。

 あの子のように。赤子は、貰えなかった認知のかわりを、そこに得た。

 あの子のように。己はそうあるべきと。

 あの子のように。

 だから──人間になった。


 あぁと、呻く隙間すらカキアには許されていない。ロエの手は縋る切実さでも、その膂力は人の上限にある。まともに感覚がある状態であれば、骨が軋む領域だ。

 だがそのお陰で、カキアには何もかもが見える。


 人とは何か。

 人とは、二十年近く長い時間をかけてひどく遅々と育つもの。

 人とは、山羊を素手で裂かず、他人の資産を侵さぬもの。

 その内に刷り込みは分岐して増える。

 男は、勇敢であるもの。

 兵士は、武功を挙げるもの。

 英雄は、色を好むもの。

 そして勇者は、魔王を倒してこそ。

 死に方だけではない。生き方だけでもない。産まれた形すら、赤子は応えた。自我もなく、意識もなく、記憶にもなく、ただその在り方として。

 己は、人間だと。

 人間は流れに逆らえない。

 勇者もまた、人間として生きた。だから産まれてから死ぬまで流され続け、終わってからもこの街に流れ着いた。

 そして辿り着いた先に、死してなお流されぬ淀みを見た。すべてを孕んで濁る深緑。生前唯一ロエが近く感じた存在。

 魔王カキア。

 ロエの瞳に生前、もっとも眩しい光を灼きつけた男。


『いやいや、そういうのじゃないだろ、魔王()は』

 再会の際の奇行の背景を垣間見て、思わずカキアは唸る。

 裸のロエにコートを着せてから前に回り込み、一番上のボタンを留めるカキアが、なぜか輝いていた。例えるならば彩色が鮮やかで明度が高い。言うならば若干目に痛い。死に際に編んでみせた、エーテルの(きざはし)に影響されたのか。印象深かったのは理解できても、なぜ本人を輝かせるのか。

 別の記憶に移っても、死後のカキアはすべて、同じように輝いている。


「今後の方針を一つ話そうか。君、好きとか嫌って思うことはあるよね? 《先についての話だ。お前、好き嫌いはあるな?》」

 ロエをソファに座らせて尋ねるカキア。英語の後には丁寧に、けれど少し強い言葉選びの古代ギリシャ語が必ず繰り返される。

 ロエは頷く。

「じゃあ、君のそういうこと、ちゃんと口にして言うようにしてもらっていいかい?」

 まだ理解の浅い英語も、続く古代ギリシャ語も、ロエはしっかりと聞いてから口を開く。

「《……何でだ?》」

 ロエにだって、好き嫌いはある。好きは近くに置いておきたいもの。嫌いは遠ざけたいもの。

 けれど嫌いは弱みになるから口にしてはならない。そして好きも主張し過ぎるのははしたないし、弱みになるからやっぱり言ってはならない。

 そう、教えられた。

 好きと言った料理に毒が入れられ、好きだった侍女がいつの間にか好きでないものに変わっていた。

 好き嫌いは主張しても良い方向には向かわない。取り揃えられた中から、多めに手を伸ばしたり、少し避ける程度に留めるべきわがまま。

「──だって教えてもらえないと、僕が君の好きを応援できないでしょ?」

 カキアが幼子を導くように言葉を重ねる。古代ギリシャ語の言葉はひどく素っ気ないのに、その空気感は変わらない。

「全部叶えるとは言わないけどさ、君のここでの生活がたくさんの好きに囲まれるよう、僕は助けたい。あと、嫌いはやっぱ克服か誤魔化しで少量に抑えたいとこだよね」

 生い立ちを覗き、カキアはロエを勘違いした。

「ここで君は指示に従わなくていい。君の好きと嫌、いっぱい聞かせてよ」

 この街で好きを望んで良いのだと、教え込んでしまった。


 自業自得の根源を目にし、カキアは苦虫を噛み潰したような顔になる。ロエを解き放った己の言葉が演出過剰にこだまする。その上、指示に従わなくていいと言いながら、すぐステイと言い始めた二枚舌も自覚させられた。

 ロエの動きが鈍くなってきた。雪が降った後の川だ。その冷たさは容易に人の命を奪う。大気中であれば風の摩擦で多少熱を作れても、呼吸分で必死な水底では不可能だ。エーテル操作でも、この状況を挽回できる単純構造の物体は思い浮かばない。

 そんな状態だというのに、ロエはまだ張り付いたようにキスを続ける。

『無理するな、分かってる』

 先程から記憶にない、輝いている自分の姿。これは、過去そのものではなく、ロエの意識を通した過去だ。ロエは、そうやってすべてを曝け出して、カキアに縋っている。今更神と暴かれ、拒絶され、それらと一緒ではないと必死に説明している。

 カキアの抗いを、娯楽になんてしないと。

 だって。


「《俺とあの子を並べて次は神でも狩りに行く気か》、蒐集家(コレクター)?」

 突き付けられた言葉が、どれだけ感情を装われても敵意に近いことは悟れる。

 だから漂う気配との落差に、ロエは愕然とする。時折緩急があったとしても、カキアは常に穏やかな心を保っていた。

 その、はずだった。

 ティッチのことを淡々と語るのは演技。その根底にはもっと思い入れがある。ロエを邪険にしつつ普通に接するのは演技。その強引さに腹立ちがないわけがない。

 ならば出掛けるのに付いていくと言い張った時は。キラとの間を邪魔した時は。頭を撫でてくれた時は。

 分からない恐れを、ロエは初めて抱く。

 カキアが何を考えているのか分からない。

 人間ならば当然の困難に、ロエはぶつかった。

 そうしてすべてを知り、手に入れた気になっていた虚構を思い知る。その深緑は深く、今なお抗いに陰る。強引に伸ばしたロエの手など、当たり前に拒絶する。

 悟って、怖くなって、それが──ロエは楽しくなった。カキアを思って心が弾む。嫌われたくなくて胸が痛む。そうやって揺れる感情が楽しい。それをもたらしてくれるカキアが、ロエはもっとずっとたまらなく欲しくなった。

 乱暴に従わせる方法はある。けれどそうやって力尽くで掴みとろうとする手はカキアの形を歪める。そうではない。抵抗の深緑。その陰りも濁りも強さも、そのままでロエはカキアが欲しい。

 だからロエはどうしたらいいのかわからないまま、恐る恐るカキアに指先で触れた。跳ねのけられなければ、今度は手のひらで触れた。触れ方、触れる場所、触れるタイミング。それは物理的な話ではない。邪険に、剣呑に、払われ、嫌がられ、それでもめげずに、カキアの心に触れる方法を探した。

 見通せぬ沼の奥、誰の目にも触れることのない輝きの源泉に。


『分かったから、とりあえず輝かせるのやめろ!』

 情報が主張強く取り巻いてきて、カキアはまいる。表現力が拙すぎる。それが生前の感性の希薄さから来るにしても、一辺倒過ぎて呆れる。それほど天への(きざはし)は眩しかったのか。

 もうカキアも分っている。

 これはアレなのだ。自分から名付けるには抵抗があるものの、ロエ自身の自覚がないようなので仕方なく教える。

『お前は俺に……』

 いや、少し違う。この感情の確定はこちら側だと口振りを変える。

『君──僕に、憧れたのか』

 すべてを憐れむ視座で、ロエが生前持ち得なかった感情。

 一際分かりやすい一場面に、カキアは意識を移す。


「悪かったね」

 おやすみと言って寝室に引き上げようとしたところで、言葉は届いた。振り返った視界には、ソファに腰掛けるカキアの、横顔が見える。

「僕に味方しようとしたでしょ。室長、あれでもあっち側の存在だから、揉めるのは止めとこうね。……僕が言いきかせられることでもないんだけど」

 あのホテルのロビーでの一悶着、ロエはカキアの敵意に反応した。カキアが敵対するものを自然と敵と認識した。

「僕ら二人でもけちょんけちょんにされちゃうからさ、もし一人の時に会っても、喧嘩売ったら駄目だよ」

 存在の格差を理解し、穏便に済まそうとする言葉。

 ロエは、戻ってカキアの横に立つ。

 反応して、カキアは顔を上げた。

「何?」

 前髪の隙間に、瞳が見える。電灯の下でも、人工的な弱い光になどその瞳は照らせない。どこまでも深く、すべてを飲み込み、濁りの奥に意思を隠す。

 決して、諦めてなどいない瞳。

 今なお、戦い続けている瞳。

 言葉とは裏腹に、瞳の強さは変わらない。

 ロエは嬉しくて笑った。

「……何でそこで機嫌良くなるのか、まったく分かんないんだけどぉ」

 銀髪の男を見て、カキア以上に近いものだとはロエも何となく感じた。だがそれだけで、カキアが敵と見なすならいらない。

 戦うなら、カキアの隣がいい。


 カキアはロエにできないことをする。ロエは流され続けた。何にも抗えなかった。カキアは違う。流されない。否定する。抗う。

 すべてをあの原始の夜に見ても同じだった。それどころか、ロエの貧弱な想像など及ばない領域でずっと、今もなおカキアは戦い続けている。

 好きだ。近くに置いておきたい。側にいたい。離れたくない。うまく伝わらない。怒らせてしまう。嫌われたくない。どうやったら伝わるのか。どうしたら許されるのか。

 かっこいい。強い。すごい。

 好きだ。

 欲しい。

 あの目が欲しい。

 違う、やっぱりあの魂が欲しい。

 違う、どうせなら全部欲しい。

 ──カキアが欲しい!


 冷たく凍えていくロエの身体に、カキアは腕を回して繋ぎ止める。

 やっぱり頭がおかしいと、唇を触れ合わせたまま思う。

 だからこれは、それに感化された愚かな行いだ。

『……いいよ。じゃあ僕の全部、君にあげる』

 触れ合わせた唇で語る。

 何にも譲らなかった己を、捧げる。

『だから──僕だけの神様になってくれる?』

 有象無象の神を名乗るもの達など否定して、自分が許す唯一の神と定める。

 誤った認知を断ち切る。張り間違えられたレッテルを剥がす。

 人という枷を、取り払う。


 ここに、神の誕生を言祝ぐ。



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