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9-3 淡々と沈み行く

 南公園の東岸、護岸を臨む柵にカキアは背を向けて、もたれていた。

 雪は止んでいる。夕方以降人通りが減る公園には雪が残る箇所も多く、入り口からカキアの足元まで、一定の歩調を示す足跡が続いている。風はない。いつもの霧が今夜は重く地上を漂い、逆に赤い橋の巨大な影がはっきりと濃い。渡る車のライトに、時折黒から本来の赤さにちらつく。

 カキアの指に挟まれた煙草が、妙な形に紫煙を上らせる。輪っかに、波々に、ハテナ型に。鼻先に届く匂いも有無、濃淡が刻一刻と変わる。

 カキアにはもはや、それが一人遊びなのか、同胞の寄り添いなのか、区別がつかない。あまりにも長く、その身は半端な生を刻みすぎた。カキアが望むから応えてくれるのか、ただカキアが従わせているのか。

 それでもこれは、この街に来てから手に入れた、唯一の(よすが)だ。

「ぃよっす、カキアっち、たそがれ〜? 時刻は夜だせぇ」

 柵に座る男が現れる。銀髪、青灰色の瞳。自分で腰掛けた癖に、つめたッと叫んで慌てて下りている。

 座った時についた雪を払って尻を叩いてる男を、カキアは一瞥もしない。

「シカトとか大人げないと思いますぅ」

「《うせろ》」

「だいぶ、まいってんじゃん。かわいそー。おかげで魔王さまムーブに戻ってんぜ」

 煙が、くるくると渦を巻く。それからふわっと、四散した。

「まぁまぁ、オレはちゃあんと上司として来たのよ。転職考えてるんだって? そりゃ上司として助言せずにはいられないじゃん」

 ロエとカキアのやりとりを、いつ知ったのか。どうやって知ったのか。そんなことは聞くまでもない。彼らは耳をそばだてさえすれば、この街のすべてを把握できる。

「《……俺もゲストだ。選択は尊重されるはずだ》」

「もっちろん、初めにオレそう説明したしね。そんな中でゲスト支援ってお仕事やってもらって、オレも感謝してんのよ。だから、門出を迎えようとするカキィの、背中を押してやろうと思って」

 男の歩いた足跡は、不思議と牡鹿のように小さい。カキアの傍らで、男は立ち止まる。

「 つーわけで、──いい加減腹括ろうぜ」

 男が、カキアの右手首を取った。

 赤い小さな火が、軌跡を描いて落ちた。雪の上で湿り、煙草の火は徐々に消えていく。今際の際の吐息のような煙が一筋、最後に上った。

 そこに、二人の姿はなかった。

 雪の上の足跡は、途切れていた。



  ※ ※ ※



 一瞬の視界の明るさ、それから背中にかかった圧力と浮遊感。あまりに突然のことに、風は間に合わない。

 ざぼんと、体感で音を知る。凍えるほど冷たい水が、カキアの身体を捕らえ、離さない。

「さすがに長すぎっしょ、──千年は」

 泡が口から溢れる。水は隙を逃さず、入り込む。

「もうずっと歯に物でも詰まってる気分。劇薬ぶっこんだら化学反応起きるかと思ったら、何あいつ、むしろ変化止めやがるんだもん、びっくりしたぁ。なに仲良しこよしやってんの? 仮にも魔王と勇者だろが」

 頭上とおぼしき方向に、ごく一瞬だけ赤い光がちらつく。

「オレら、ちゃあんと択は用意してやったじゃん。生前望むべくもなかった、風に戻るも選択肢に入れてやっただろ? 何で尻尾振って飛びつかないわけ?」

 恨み言は耳元で聞こえ、うるさいと返す息はまた泡となる。

「時間の問題かと思えば、ゲストの世話なんか始めて、お陰でめんどくせー役割、オヤジに増やされることになるしよ。効率悪すぎんだろ。そんだけ肩入れする割に人間にもならないとか何なん?」

 呼吸を止める。皮膚感覚を捨てる。曖昧な天秤を、ほんの少し傾けて、現状に耐えうるだけの形を作る。

「挙句に、消滅もしないとか、マジ何なん? 一回やったんだから、二回目も一緒だろが。スパっとスッキリ終わっちまえや」

 ──だからカキアは選ばなかった。

 得たはずの終わりを奪われた絶望を、悲嘆を、憤怒を、カキアは忘れない。すべての掌中から逃げおおせた先に待っていた、新たな檻。選んだ結果をことごとく無に帰されたあげく、ご丁寧に再度選択肢を並べなおしてくる。苦悩も葛藤もまるで無視して目前に突きつけ、他が見えないよう覆っておきながら、選択を尊重するなどと宣う。消滅すらも与えられた選択肢の一つに過ぎない。

 だから、カキアは選ばなかった。

 何一つお前らの都合に合わせてやるものか、と。

 絶対に流されてなどやるものか、と。

 その意思だけで、カキアは存在し続けている。

 ロエに伝えたのは偽りだ。そんな程度という言葉で表せる在り方ではない。すべては抗いの結果の連続であり、今もまた、そうだ。

 聞きたくもないぼやきではあるが、一応聴力は残す。言葉の中に現状の打開を探る。今何を求められているのか。どこが最低限の妥協点か。

「やだやだって、イイ歳して恥ずかしくね? ほら、さっさと選べよ。じゃないと全部忘れて河のゴミに成り下がるぜ。ここまで来てそいつはみじめだろ?」

 三途の川(ステュクス川)。もしくは忘却の川。踏み込めば自我をなくす。浸かれば亡者を生む。

 それは情報が剥がされるということ。己が己でなくなるとは、記憶と共に事実を失うこと。

 培った信仰も何もかも、水に溶かすこと。ヴァシーリイの最後は安らかだっただろうかと、少しだけ頭によぎった。

 時間制限付きの問答。提示された選択肢は三つ。風に帰る、人になる、消滅する。時間切れは濃霧に街を襲う波のように、意思なく陸を求める亡者に成り下がる。

 だが本当に、三択なのか。

 泳いで水上へ出ることはできるが、カキアはそうしない。それで終われる状況ではないことは、憤りを含む耳元の声で察しが付く。水圧に身体を預けながら、カキアは力を抜く。漂う身体は、水中の半ばに浮かぶ。

 何度どの時代どこの言語で読んでも、ほとんど理解できないゼロについての考察。何百年か前に住んでいた家の壁の色。今朝顔を洗った水の冷たさ。

 少しずつ、情報が剥がれていく。

 未確定の魂(ゲスト)への支援が採用された時の、嫉妬を浮かべた銀髪の男の顔。なぜかカキアに毎回吠える、島国生活時の隣家の犬の鳴き声。機能が薄いはずの味覚を香辛料の塊で貫通した、砂漠の街で世話したゲストの初料理。

 剥がれていく千年という時間。水に溶けて流れる情報のくだらなさに、カキアはそんな場合でもないのに笑いかける。

 カキアの心境を他所に、長い長い静寂の末、声は告げる。

「……どぉしても全部嫌で縋って頼むなら、オヤジが使いとして正式に飼ってやるって、カキアちゃん。そんかし、きびしー躾が待ってっけどな」

 四つ目の選択肢。

 時間制限。選択肢。最後の救済策に見せた本命。

 人間流の交渉術でも使ったつもりかと、暗い水中で濁る深緑の双眸を開く。お前が伝えたくなかった登用かと、嘲笑う。どいつもこいつもと、口を開く。

 千年、確かにカキアにとっても長い時間だった。

 だが、ここでカキアが選ぶ選択肢は一つだ。

 思い通りになどなってはやらない。せいぜい指示者に失望されるがいい。その高みで歯噛みして見てろと、僅かに残っていた空気すら吐いた。

 ──ざまぁみろ。

 暗い川底へ、カキアは自ら沈んでいく。


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