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9-2 茫々と吹き荒ぶ

 遊び疲れて目をこするティッチを、二人は煙草屋に送り届けた。帰宅は珍しくバスへとカキアが足を向けた。

 ロエは匂いに顔をしかめつつ、徐行気味でのろい車窓風景の流れを眺め続けた。寒そうな歩行者を風のない車内から見る心地は、テレビを見る心境と変わりない。

 けれど、吹雪く風に耳が痛む感覚や、匂いをほとんど感じない空気の冷たさが、今のロエには想像できる。寒さにカキアの癖毛から覗く耳縁が赤くなっていたこと。カキアの側に立った時だけ思い出したように嗅覚が働いて、コートに染み付いた煙草臭さを感じたこと。大して感情が揺るがない経験も、カキアの存在が結びついて鮮やかな思い出になる。

「……君にぜぇんぶ見られて今更だけどさぁ」

 カキアが口を開いたのは、アパート近くのバス停で降りた時だった。俯きがちな目元は、歩きながらだとロエの視点からは見えない。

「僕の身の上なんてまともなもんじゃないわけよ。君が言った、近いってやつ、分からんでもないの」

 ロエの視座。白黒テレビの画面越しの世界。

 世界はいつも、自分とは違う表層で成り立っている。上にも、下にも。

「けど、僕は君みたいに駄目だったでハイそうですかにならないわけ。お偉方が放置気味だから余計にね」

 人間を嫌う。生前は欲深さに、死後はあまりの儚さに。設定される街の住人でさえ、カキアにとっては人間だ。強大な力の前で、知らずに踊らせ続けられる道化。指先一つでかき消される駒。

 儚くもきらめく、愛しき存在。

「僕の流されなさなんてそんな程度」

 カチャリと、アパートの部屋の、鍵が回った音が吹き抜けに響いた。外の雪は激しさを増し、往来が控えられた街はどこも普段より静かだ。小さな物音が、いつもより耳に残る。

 部屋に入りながらカキアがコートを脱ぎ、ばさばさと雪を払った。

「いやぁ、濡れたね。風邪引くからシャワー浴びてきな」

「カキアは?」

「僕は後でいいよ。風邪ひくとかいう概念ないし。君は体調崩すとかあるの?」

 問われた内容に、ロエは生前を思い返す。

「風邪引く。腹壊す。毒で死ぬ」

「……君本気で自分が殺されたことに何も思ってないんだね」

 ただ事実を羅列しただけの面持ちで、ロエは立っている。その背に回り、カキアはロエの上着を脱がせた。薄着になった背を叩かれ、ロエはシャワー室に追い立てられる。

 タオルを頭にかぶりながらリビングに戻った時、そこにカキアはいなかった。キッチンの方に気配がある。

「カキア。出た」

「はーい、ソファ座ってちゃんと髪乾かして。キラちゃんの指導が入るから」

 呼びかけにそう返って、キッチンに入りかけていた足を止める。大人しくソファに腰掛け、タオルで髪の水気を拭う。

 気配が傍らに立って、ロエは顔を上げかけた。先に視界を遮るタオルの端から、こちらに伸びる腕を捉える。目前のローテーブルに、湯気の立つマグカップが置かれる。

「風邪引く可能性あるなら、それ飲んで温かくしな」

 マグカップに満ちる白い液体。置かれた振動で、少し表面が揺れている。

「カキア、沸騰させた?」

「え、嘘、それ見抜くぐらい料理上達させてんの?」

 温められた牛乳の表面にできる膜が、普通のホットミルクより分厚い。揺れて表面にできる皺に特徴が出る。

「強火でやった」

「見てたみたいに当てるじゃん」

「カキアはおおざっぱ」

「そうですよぉ、僕はどうせ戦力外ですぅ」

 タオルから手を離し、マグカップを両手に取る。口にするそれはどう考えても適正温度を超えている。子供なら火傷していたところだ。口当たりも沸騰した牛乳特有のなめらかさを失ったもので。

「おいしい」

 それでもロエは、心の底からそう思った。

 ソファの隣が沈む。

「次はもう少しおいしく作ってあげる」

 言葉と共に、タオル越しに手が触れる。極力揺れないような力加減で、髪が拭われる。

 ロエは、マグカップを置いた。

 カキアの瞳が見たいと思った。

 横向き、タオルの庇が邪魔で顔を上げる。カキアとの距離は近い。前髪の隙間に一瞬見えかけた瞳は、けれどロエの視線の前に閉じた。

 何でと追い縋るような寂しさは、次の言葉に消える。

「……この距離で、目ぇ閉じてたらそういうことなんでしょ?」

 生前、ロエに刷り込まれたたくさんの普通。あの原始の夜にカキアに垣間見せた記憶。

 少し慌てて、ロエはカキアに唇を寄せた。

 触れ合う。触れ合った箇所から境界が消える。通じた穴から、風が吹き込んだ。

 ──何もかもなぎ倒す勢いで、荒々しく激しく。


 川。

 滔々と流れる川。

 赤子の声を置き去りに、川の流れを無視し、風は川を逆流する。川上へ、遠く遠く、赤子を運んできたその源へ。

 風は駆け上がり、とうとうその場所に辿り着く。


 男神と女神は思いを通わせた。綴る幸福な日々。明日の想いを疑うことなどなく、互いを一途に愛していた。

 それを妬んだ男神の友がいた。友は女神に恋をしていた。つまらない横恋慕。けれど友は確かに男神の友で、女神もまた男神の友を信じていた。

 吹き込まれる嘘、図られるすれ違い、心の隙間に入り込む甘い言葉。

 計略の末に、男神は女神の元から去った。

 女神は悲しんだ。優しかった男神を思い、それが戻らぬことに悲しみにくれた。悲しんで悲しんで、腹に宿っていた子供が流れてもなお、悲しんで悲しんで、涙は川となり未熟な赤子を流してしまった。

 紫の衣を纏う貴婦人が無聊を慰めていた、その川まで。


「あぁそう君……──ホントにそっち側なんだ」

 離れた唇の隙間、落とされた言葉は軽薄な口ぶりでも、震えを誤魔化しきれていない。

 開いた深緑の瞳は、暗く重く、淀みを孕んで煮え滾る。

 その瞳の理由は、ロエにも見えた。

 境界から吹き込む風は強く、少し進んでも先は堅固に閉じられていた。

 その手前に、これ見よがしに置かれた記憶。


「おや室長、そろそろ昼も近いのに大した重役出勤っぷりで」

「朝苦手なんよ、許してちょ。あれ? キラっちは?」

「室長が出勤なさるとのことで、外回り行かせましたが何か問題でも?」

「えっ、オレここの責任者なのに?」

「責任取ってくれたことある? 肩書で扱い変わるとしたら悪い方ね」

 ロエも知るゲスト対応室で、カキアと昨夜の銀髪の男が喋っている。

「えぇじゃあ情報出し惜しみしちゃおうかなぁ」

「ああじゃあそういうことで、僕も外回り行きますね」

「ちょちょちょ待って。カッキん対応中の新参者のことよ? 聞かないと後悔するぜぇー」

「室長が惜しむものに縋る気ないです。あと僕の名前の原型ほとんどなくなってる」

「室長命令、聞け」

「……手短にお願いしますよ」

 本当に立ち上がって出て行こうとするところを止められ、カキアはやる気なく銀髪の男と向き合う。

「あれね、新参者のゲスト──あれ神だから」

 言葉は無造作に、投げられた。

 カキアは呼吸を止める。

「正確に言うと神のなり損ない。権能を定めてない、ちょっと適応力が高いだけの存在。常識定着ができないのもそのせいだわな。色々関係者の口重くてさぁ苦労したんだよ。したら出るわ出るわのどろどろ愛憎劇。いやぁ表沙汰にしがいあったよねぇ」

 動けないカキアに、銀髪の男は顔を近づける。

「どう、カーくん? 因縁の勇者さまが、お前を散々苦しめてるオレ達と同じ存在だったって知って」

 冷たく青灰色の瞳は、カキアを見つめる。

「──今どんな気分?」


「《今度は俺の抗いすら娯楽にする気か?》」

 憎悪が吹き出す。怒りに頬が震えている。

 全霊でカキアは、ロエを──神と呼称する者達を拒絶する。それは未だ消されぬ反抗の熾火。一度たりとも枯れ果てぬ抵抗の萌芽。

 ロエが欲したもの。ロエが焦がれたもの。

 けれどその深緑は、ロエを見ない。

 嫌だと、ロエは思って手を伸ばした。これほど近いのに、指先は届かない。風が拒絶する。伸ばした手は風に弾かれる。

 代わりにカキアの手が、ロエの胸ぐらを掴んだ。引っ張り上げる動きに風が乗り、ロエは投げ飛ばされる。したたかに床に背を打ちつけ、仰向けに倒れて呻く。

「《頃合いだ。茶番は他所でやれ》」

 過ごした時間の何もかもを否定する。

「《違うっ、俺は知らなかった!》」

「《お前が出自を知ろうと知るまいと、これは質の話だ。自分の視座に納得がいっただろ。明日にはお前に本当に近い奴を担当にしてやる。気が合うかは知らんがな》」

「嫌だ! ここにいる!」

「《──なら俺がここを出てく》」

 ゆっくりと、カキアは立ち上がった。

 起き上がろうとするロエを、風は容赦なく圧し潰す。みしりと床が鳴る。

「《お前らの見世物になるぐらいなら、全部くれてやる》」


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