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9-1 深々と降り積もる

 世界の静けさに、ふっとついた息が思ったより大きく耳に返った。口にしたトマトスープの温もりは喉を下り、すぐに意識できなくなる。スプーンを置き、隣のスライスパンにハムとチーズを挟んだだけの、料理と呼ぶのもおこがましい食べ物で黙々と腹を満たす。それでも昨日食べたカナッペよりは食べ応えがあり、ロエとしては満足できる。

 午後からは何をしようかと考える。

 昨夜の窮屈さの反動で、早朝の運動は長めにやった。呼吸で喉が痛み、肺が空気の冷たさに縮む心地だった。今日はいつもより寒い。

 同じく昨夜の影響か、午前中テレビをつけてもあまり楽しめなかった。視覚にばかり華々しいパーティー会場は、ロエの好むものではなかった。表層的な娯楽を楽しむ気には今なれない。

 三つ目のスライスパンサンドにかぶりついたところで、焦点をソファ向かいの本棚で結ぶ。

 木製の頑丈そうな、四段の本棚が二つ。中は書籍で埋まっており、空いている部分はきちんとブックスタンドで遮られ、置き物が置かれている。本の種類は雑多で取り留めもないが、逆に言うと広範囲を網羅しているという特徴がある。娯楽系のSF小説。実用系の育児書、心理学。学術系の歴史、科学、数学、宗教。元からあった絵本と、ロエが来てから足された絵本。何と分類することも難しい、呪術に関する書。

 食べかけで、ロエはソファから立ち上がった。

 改めて本を眺める。ロエには大半が表題の時点で読めない。学術書の類いは題名すら難しい。

 手に取った濃い赤の装丁の一冊が、金文字で聖書とロシア語で書かれていることも。数学の本がゼロについての考察書であることも。呪いに関する本が、眉唾物だとて解呪を目的としていることも。

 ロエには、分からない。

 ただこの本棚を埋め尽くすだけの時間を、それだけの誰かとの関わりを、ロエは感じた。

 カキアという男は人間ではない。その素性のすべてを、ロエは繋がって知った。この死後の世界においても、カキアはその曖昧な状態で存在している。食事も睡眠も、娯楽も学習も、本質としては必要としていない。快も不快も切り替え一つで操作でき、知識は情報として拾い放題。

 だがそうやって得たものに、人としての共感や納得は生まれない。

 カキアは人として、人と向き合っている。

 ロエが立ち尽くす中、玄関の方で物音がする。

「さっぶい! ちょっとちょっと表見たかい? 九時ぐらいから急に吹雪いて積もりだしてるよ!」

 賑やかに帰り着いた家主を、ロエは本棚から振り返る。

「うん? 何、読書? そんなことより」

 ロエの手元から、カキアは本を抜いた。

 雪にまみれた癖毛は湿り気を帯びて重く、ロエからあの深緑は見えない。

「──僕と楽しいこと、しに行かない?」

 笑って口角を上げる口元だけが、表情として見えた。



  ※ ※ ※



 顔面に雪玉の直撃を食らい、ロエは身体を傾けかけて踏み留まった。

「ロエおにいちゃんっ、だいじょうぶ!?」

「だいじょぶ」

 肩車したティッチの身体が落ちないよう、直立に戻る。顔に残る滴を鬱陶しく振るって払い、駐車された車のボンネットからまだ薄っぺらい雪をかき集めた。

「いける?」

「うんっ、がんばる!」

 雪玉を補充されたティッチがやる気にみなぎる声を上げた。威勢のいい応答に、ロエは街の景色に目をやる。街並みはほんのりと白く、雪に装われている。道路脇の歩道部分には、頭に薄く雪をかぶった青色の郵便ポストが立っている。歩道部分の雪はあまりなく、人の行き来で解けてアスファルトの色が濃い。

「そこ」

 足跡など残らなくても、ロエの目は厚みを見抜く。

「えいっ」

 回り込んだところで郵便ポストの影に身を潜めるカキアに、ティッチは全力の一投を見舞った。なお投げられた雪玉の製造元はロエのため、それなりに固い。

「痛っ」

 割れた雪玉が、カキアの癖毛に絡んで白く彩った。

「やったー!」

「やぁ、負けた負けた」

 降参を表明し、カキアは両手を上げて立ち上がった。

 散歩しながらの雪合戦は、ティッチかカキアが雪玉を受けたら負けの勝負だ。カキアは絶対にロエを狙い、ロエは絶対にカキアを見失わないので、勝敗は最初から決まっている。

 公園に差し掛かったところで、ティッチがロエから降りた。芝生に残る薄い雪にティッチが駆け出し、小さな足跡が残っていく。金属製のベンチにはこんもりと丸くなる程度の雪が積もっていて、ティッチが喜んで丸め始めた。うまく雪が掴めなくて手袋を脱いでしまった指先は、青黒さに赤みが重なって染まる。

「おまえっ、おまえ、アレだ!」

 その小さな背が、びくりと震えた。集めた雪が、両手の中で固く握られる。

 ティッチが振り返った先に、彼より背丈が少し大きめの少年が立っている。公園の他の入り口から入ってきたのか、少年の足跡はティッチの足跡とは交わらず、その背後の方に続いている。

 ティッチは雪玉を落とし、毛糸の帽子に手をかけた。引っ張り下げて顔を隠そうと力を込める。

「──かくれんぼ名人!」

 俯いて少年を視界から外していた耳に、その言葉は入った。

「……へ?」

 緊張に強張っていた喉から、幼い困惑は零れた。

「とおちゃんがいっつも言ってるやつ! 全然会えねぇから、とおちゃんおばけ見てんのかとおもってた! ほんとにいた!」

 少年は躊躇いもなく、二人の間のまっさらな新雪に足跡を刻む。

「おれのとおちゃん、ドナルドっ、床屋!」

「あ……髪きってくれる、おじさん」

「そう! おまえんちはタバコ屋のこわいばあちゃんだよな。でもあそこついてったらアメ買ってもらえるから店は好き。ばあちゃんは? あのおっさん達と来たのか?」

「おばあちゃんは……寒いのにがてだから、知り合いのおじちゃんとおにいちゃん」

「雪なのにばあちゃんもったいないな! おまえは雪すき?」

 赤く染まった指先を、ティッチはすり合わせる。

「すき」

「だよな! いっしょにあそぼうぜ!」

 無造作に手を取られ、ティッチは思わず一歩を踏み出していた。そのまま走りかけ、はっと気づいたかのように振り返る。

 その視線の先で、カキアは小さく手を振って見せた。

「僕らちょっと疲れちゃったから、ここで休んどくよ。……ちゃんと見ててあげるから、行ってらっしゃい」

 ティッチの指先が、繋いだ少年の手をきゅっと握り返した。マフラーの縁から見える口元は、笑っていた。

 雪の厚みがある日陰の方へと、二人で駆け出していく。

「好き」

 呟きに、カキアは隣を見る。二人の背を追っていた瞳をロエは引き戻してカキアの顔を見た。

「あれは好き。選ぶのは好き。選ばされるのは、嫌だ」

「……なに、君の蒐集家(コレクター)精神の話?」

 制度、同調圧力、設定。少なからず人間生活に付きまとう流れ。ロエはその仕方なさを知っている。人間は、そういうものだ。限られた空間、時間、枠組みの中で生きる人間は、順応する生き物だ。

 だからロエは、願われれば応えてきた。流される中でのほんの小さな抗いを、助けてきた。

「カキアが好き。カキアは、流されない」

 吐いた言葉が、白く空気に残る。

 女神に落とされてなお、人として大地に縫い止められるのを拒絶した。王に囲われてなお、国に利することなく逃げおおせた。

 そして妹の救いにさえ、その手を離して孤独のうちに消えようとした。

 血に汚れ、泥に濁り、憎悪と悲憤を流し込まれても、すべてを飲み込んで淀みを湛え続ける。

「キラも好き。ティッチも好き。でも、欲しいのはカキアだけ」

 その魂が、ロエは欲しい。


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