8-3 好意と嫌悪はいかように
「ちなみにあの御仁の専攻、数学ね」
「うわわ、一番恥ずかしいやつぅ。専門家に変なアプローチしたぁ」
帰りの車が回されるのを待つまでの間、カキア達はロビーのソファに腰を下ろしていた。少しばかり緊張感を解いて交わす言葉は崩れる。素に近い反応を見せたマイケルに少しの安心感を抱きながら、カキアは隣のロエに目を向けた。
柔らかいソファに身をうずめるでもなく、泰然とした佇まいで見るでもなく周囲に目を遣っている。横顔はどこか、観察者めいた冷徹さを漂わせる。
「《今更だが何か慣れてるな、お前》」
「《堂々として、あとちょっと不機嫌めな顔してたら大体大丈夫だって言われた》」
「《その指示者は優秀だな》」
険しいとまではいかないものの、冷ややかさは完成された容姿と相まって、一定の近寄り難さを生む。謎のロエ様像もあって、パーティ会場でも囲まれるような事態にはならなかった。
「《一応教えとくが、ゴーヴィンダなんかは金持ちパトロンの人生相談しながら、世界の外と文通しつつ研究を続けてる。ゲストとして、そういう生き方も》」
「《いらない》」
きらびやかな富裕層の世界を選択に示され、ロエは即座に否定する。振り返ってカキアを見る瞳は、周囲に向ける色とは違っている。
「《カキア以外はいらない》」
ティッチを、自分を、物珍しいものだから並べて悦に入りたいだけかと拒絶した好きを、唐突に言葉を変えて突き付けられる。
カキアは思わず息を止めて、その濃い青の瞳に射すくめられた。
なぜそうなるのか、今もってしてカキアには分からない。
「あ、着ましたって」
傍らへ寄ったボーイに車の到着を告げられ、マイケルが腰を上げる。流れにカキアは視線を外し、立ち上がった。別に答えを必要とした言葉でもなかったのか、ロエも無言で続いて玄関口へと足を向ける。
その時、会場からロビーに入ってきた一団がいた。
どこか浮ついたカキアの感覚が──目にした姿に急速に引き絞られた。
エントランスへ出ようとしている二人を他所に、カキアはその一団に向かって足を進める。
「やぁやぁ随分とご無沙汰だ、室長殿」
カキアの向かった先にいるのは、少し小柄な青年だった。品はあるが少々軟派な印象で飾った銀髪の青年は、カキアを見て、その青灰色の目を見開いた。
「げっ、カキアん」
「部下を変なあだ名で呼ばない。三ヶ月も出張とは大変な難事に対処しておられると思ってたけど、こんなところで会うとは。万事快調にご解決かな?」
カキアが、へらへらと口元に笑みを結ぶ。
今は遮るもののない深緑が、真っ直ぐに青年を濁った色で見つめる。
「いやぁ、解決っつーか、調べるのに苦労したっつーか、お陰でちょっと息抜き長めに欲しいなぁって。やっぱ働き過ぎは効率を落とすっていうじゃん。カっちゃんも、たまには有給取りなぁ」
「三人の部署って分かってる?」
「真面目だなぁ。そんなんだから──オヤジに拾われちまうんだぜ」
濁りが、湧き立つ。
すべては一瞬だった。それを知覚できたのは何人か。
「──止まれ!」
重く放たれた威圧の言葉に、ロビーの誰もが動きを止めた。音源を探った面々は、それが会場中の注目だった金髪の美丈夫と、黒髪の男がいる場であることを知る。さらにそこに一人、元々連れの若い男ではなく、別の青年を見つける。
正対する黒髪の男と、銀髪の青年。何かをしようとして、半端な姿勢でいる金髪の美丈夫。制止したのは黒髪の男、制止されたのはおそらく金髪の美丈夫。
「……いや、失礼」
声を張るわけでもなく、黒髪の男はロビー全体に話しかける。
「ロエ様の足元に虫が。お履き物が汚れてしまいますので焦ってしまい。申し訳ない、お騒がせした」
軽薄に笑みを浮かべ、黒髪の男は周囲にぐるりと改めて顔を向け、謝辞を告げた。 ざわざわと腑に落ちない感情がざわめきとなって満ちるが、ホテルの従業員が動き出したのに合わせて客達も思い思いの行動に戻り始める。
「……室長、明日の出勤でご報告たまわれますか?」
「やーん、カッキーおっかなぁい」
「お待ちしてますよ」
一方的に言い捨て、カキアは身を翻した。ほとんど横に立っていたロエの背に軽く手を触れ、移動を促す。
玄関口前に立つマイケルに合流する。 抜け出たエントランスの冷たい空気に、カキアは白い息を吐いた。
「マイケルくん、スタッフへの促しありがとう」
「知らなかったんですけど、カキアさん、もしかしてめちゃくちゃ対応室室長大っ嫌いですか?」
「この上もなく」
濁る瞳でカキアは言い切る。
一切躊躇のない断言に沈黙しながら、三人は迎えの車へと乗り込んだ。




