7-2 殺さず
男三人の靴底で、脚を進めるごとに木の桟橋がガタガタと音を立てる。
晴れた日の川は穏やかで、少し外形から凹ませて作られた係留場では、流れも意識的に見ないと方向が判別できない。それでも遠い向こう岸はいつでも霧に包まれており、その向こうがどのような世界なのかを伺わせない。
その船は桟橋の一番奥に係留してあった。
「ゲスト対応室だ」
見張り役の警官にデイブがカキアを示しながら声をかけ、二人を奥まで連れて行く。
エンジン式の小型ボートだった。ごく単純な作りで後ろ側のエンジンを動かして推進力を得、付属した舵で方向を決定する。船舶免許もいらない、初心者でも分かりやすい構造だ。
その船底に、缶などの保存食のゴミが散乱している。
「君は来るな」
ぴったりと背後に着いて歩くロエを一瞥もせずに告げ、カキアはデイブと船に近づく。
「持ち主への確認は?」
「まだだが街への登録番号は届け出通りだ」
「ま、十中八九だね。靴跡は……ある感じじゃないな。乗り込んでいい?」
「一応ひと通りの現場検証は済んでて、お前が見た後に物も引き上げる手筈だからいいぞ」
「お仕事早いね。それで指紋も?」
「缶の一つを回してる」
「惚れ惚れする手並み。嫁さんも惚れ直すだろうさ」
「惚れ直す前に惚れてもらわねェと始まらんのよ」
とんっと桟橋を蹴り、カキアはボートに乗り込んだ。しゃがみ込むと、エンジン脇に中身を失ったリュックと毛布がくたりと落ちていた。
「触っていーい?」
「毛布か?」
「うん」
「いいぞ」
許可に手を伸ばす。寝室で使うような厚手の、チェック柄の毛布だ。握り込むと、冬空の下で放置されていたものだが外側に冷たさはない。羊毛だろう。ただ毛がはらむ空気に温かみもない。畳んだ指を伸ばし、今度は表面を撫でる。
ガタンと、桟橋で踏み出す音がした。
「動くな」
もう一度大きく言い放ち、カキアは毛布を見つめていた目を閉じた。
長い沈黙が落ちる。
ロエは踏み出してしまった足を戻すこともできず、そのままカキアの方を見つめていた。静寂の長さの分、何が行われているのか、ロエには推測が付いていた。
カキアは繋がれる。おそらく物から持ち主へも。
だがそれは、人に触れた時の比ではない。
物という指向性のない対象への接続は、片っ端から扉を開けて回るような行いだ。羊、牧場、工場、機械、店、製造に関わった人間、一度でも触れただけの人間。そこからカキアが見たい持ち主の記憶だけを抽出する。扉を一度に大量に開け過ぎれば情報の圧力に負ける。かと言って本当に一つずつ開けていっては永遠に終わらない。
その境で、カキアは情報を読み取っている。
息の詰まるような静けさを、水流の響きが覆う。滔々と、川は流れ続ける。
「──ヴァシーリイだ」
終わりを告げる声は、一度だけロエが聞いた名前を口にした。
帽子を上げて、カキアに挨拶したゲスト。真面目な会社員。
「指紋照合の結果出たら報告書作るから連絡して。関係各所への通達は先に出しとく」
立ち上がり、カキアは軽やかに桟橋へと乗り移る。
「あの子、どこ住みだったかねぇ……。賃貸整理の時、一人誰か回してもらっていーい? 改めて事件性とか出ないとは思うけど、念のため」
踵を板に落とすと同時に歩みを始める。
「日程決めは結果受け取る時でいいよね。とりあえず今は庁舎まで送ってもらえると僕嬉しいなぁ」
「そりゃ構わねぇが」
「ありがたい。ついでに、ごめん。五分ちょうだい。ちょっとここで煙草吸っていきたい気分。今日天気いいよねぇ。青空の下での喫煙ってまた味わいが違うっていうか」
会話も足取りも、淀みなく。カキアは立ちはだかるロエを避け、脇を通ろうとする。
ロエは腕を伸ばした。カキアを遮り、身体を抱え込む。それからデイブに目を向ける。
「車、借りたい」
「無免許運転は逮捕すんぞ。ってか、お前さん英語喋れるようになったのか」
「五分だけ、場所借りる」
宣言してから、ロエは片腕で捕まえたカキアを引きずるようにしてパトカーの方へと歩き出した。少し離れた入り口のポールがあるところまで戻る。警察車両のペイントがされた後部座席のドアを開け、カキアを押し込む。
「ちょっと僕のねだった五分、横からかっさらわないでくれる? 《俺の行動邪魔すんなって言ったよな?》」
車外へ足を向ける形でシートに座ったカキアを、ロエは自分の身体で更に押し込む。カキアは逃げて奥側に動くが、勢いに尻を滑らせる隙もなく、上半身が倒れて後頭部を奥のドアで打った。
「おいっ!」
倒れ込んだカキアにロエがのしかかる。そのまま狭い車内で、カキアはロエに抱きしめられた。
耳元に、呟きが落ちる。
「嫌だ」
「《それ言えば何とかなると》」
「ごめんなさい」
「は?」
ロエはあの日から、カキアの感情が感じ取れない。偽物に騙された。いつも変わらぬ穏やかな風。人間ぶることに疑問を呈し、全てを暴いてみせたロエに、カキアはそれだけを吹かせる。お前になど、気持ち一つ覗かせてはやらないとでもいうように。
だから触れる。触れていないと分からない。
触れてですら今は遠い感触を追いかける。
閉じ込められた風。どこにもいけない風。どうしようもなく荒ぶっているのに、行先のない風。
まとめて集めて閉じ込められて、──かき消される。
「《風を殺すな》」
ロエはそれを望まない。
「《俺が悪かったなら謝る》」
咄嗟に押しのけようと肩に置いた両手はそのまま、カキアは動きを止めた。
ロエの身体は重い。巨躯に覆いかぶさられて、身動きが取れない。閉塞感と圧迫感に、息が苦しい。
苦しみなど、いつでも切り離せる。カキアの身体はそうできている。半端な身体。意図すれば呼吸も心拍も消せる。痛覚も、神経も切り離せる。
なのに。
「……ヴァシーリイは」
何秒だって止めていられるはずの呼吸を、カキアは今欲した。
喘ぐように紡いだ音は、小さくなった。
「敬虔な信徒だった。……信じて信じて、秘蹟に絡め取られちゃった、正真正銘の聖者さ」
行きつく場所を失っていた風が、通じた穴から解放される。
「こんなとこに来てまで神様の行いに意味があると信じたんだ、すごいだろ。ただでさえ信仰に死後大打撃を食らったってのに、加えてあの時代、この時代って振り回されて、試練って言葉で耐えるには真っ当過ぎた」
語られる言葉と吹く風に、男の姿をロエは知覚する。
放り込まれた原始の世界。
始まりの森に、文明を、知恵を、理性を否定される。
生前、二十世紀の宿敵たる国、そして人類の原始の時代。すべての世界を受け入れる、土壌たる頭は勝手に耕されても、種たる心は芽を結ばない。
一夜の夢とするには、すべては現実的過ぎた。
それでも泥に塗れた信仰が、自死を許さない。
だから朝焼けの近い未明、霧の中に船で旅立つ。すべてが試練の途中かもしれないという、一縷の望みを抱いて。
それが正しい判断なのだと、光が差すことを願って。
そして霧に惑い、越えられぬ川に呑まれた。
「いつも通り、散歩に出てれば、見つけられたかもね」
一度世界が揺れ、戻った日、ヴァシーリイはマリーナから出ていった。それはいつもなら、カキアが街を見回っていた時間帯だった。
あの日、カキアは眠っていた。
「《俺が悪い》」
「冗談。恨むならお偉いさん方だ。あの子は、目の前に神様が現れてちゃんと人間楽しめって一言言えば、それだけで素直に人として死ねる子だったんだよ。それを大雑把に一まとめでこんなとこ放り込んで。一人一人のことなんか考えやしない」
カキアの口元に笑みが浮かぶ。
ロエの感じる風が、調子を取り戻す。少し強くも、乱れのない風に。
我知らず、ロエの唇は吐息をこぼした。小さな、安堵の息だった。
風は殺されない。内で吹く風も、外で吹く風も。どちらも同じ。
嬉しさに、抱き締める腕を強める。
「……あのさぁ、いい加減重いからどいてくんない?」
顎下をすくい上げる手のひらに、ロエの身体はあっさりと引き剥がされた。




