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6-1 風の記憶

 世界は(エーテル)に満ち、(エーテル)は何にでも変容した。変容の確率は、対象の事象に依る。風はその中でも容易な部類で、瞬間的な変容は世界のどこででも起きていた。

 あまねく(エーテル)であったものが風となる。それは世界の中で定義を得、独立するということ。とは言え風は群れで、次の刹那にはエーテルに戻ることもあるもので、意思性のない戯れのような変容でしかない。

 だからその瞬間まで、風はただ駆けていた。


 重い音を立てて金の(ゴブレット)がテーブルの下に落ち、転がった。器に満たされていた葡萄酒が床に水たまりを作る。

 おそらくは、女神の置き場所が悪かっただけだ。金の杯は重すぎて、その時近くを過ぎた風程度には動かせない。

 けれど女神は機嫌を損ねた。その不満をぶつける先を求めた。女神の指先が、風を摘んだ。群れから、風は引き離された。個にされ、風の定義を剥がされ、風だったものは突然の恐慌に群れに手を伸ばした。

 伸ばした手が、握り返された。孤独を慰める手に、風だったものは縋ってしまった。

 女神は窓から、摘み上げたそれを外界に放り出した。腹いせを終えれば女神はもはや結果を見もせず、テーブルへと踵を返した。


 二人の少年と少女が、森の中で震えている。

 少年も少女も、淡い緑がかった白髪の、人としては異質な容姿だ。少年の短い髪は癖が強く、目元に重くかかっている。少女の髪は豊かな波打ち方で、足元まで長く伸びている。うずくまる少女を抱き締め、己も震えながら少年は強い眼光で目前を睨みつけていた。

 対峙する位置にいるのは兵士とそれに(かしず)かれる王だ。互いの間には、幾人かの兵士の死体がある。

「貴様が我が兵を殺したのか」

 死体にはどこかしら傷がある。爪痕、噛み跡、潰された片目。だがどれも致命傷にはなりえない傷。

 王の問いに、少年は応えない。

 捕らえよと命じられ、兵が少年達ににじり寄った。丸腰の少年は、それでも少女の前に立ち、兵士達を阻もうとする。取り押さえようとする兵士の腕に、暴れる少年の爪が掠めた。薄く血が滲んでいる。

 光が、淡い光が、溢れた。空気に溶けかけるそれが風に吹かれたかのように揺れて、繋がり、帯状に伸びた。その先は少年に吸い込まれ、見る見る傷つけられた兵士の顔色が悪くなり、膝をつく。周囲が騒然とする中、とうとう兵士は倒れた。

「おもしろい。貴様のその力、我がために使え。かわりに貴様の宝、守ってやる」

 一人殺しても多勢に無勢。少年は押さえつけられた地面から忌まわしげに、少女の髪を一房手に取った王を見上げた。


 傷をつけて綻びを生じさせ、エーテルを抜き取る。戦場で敵対者を、国内で犯罪者を、吸い取り吸い取り、殺して殺して。


 高く明かり取りの窓から光が差し、少女を照らしている。髪は緩やかな曲線で光を反射して煌めき、白磁の肌には穢れ一つなく、長い睫毛で縁取られた緑の瞳は人の訪れない湖畔の如き静謐さを湛えている。

 変わらぬ少女を前に、少年は扉を過ぎたすぐのところで立ち止まる。決して触れることのない距離で、影の濃く暗い位置で。

 影に光の帯が滲み出す。少年の身体から溶け出したエーテルは宙を漂い、少女の身体に消えていく。少女は瞼を緩く伏せ、心地よくエーテルを浴びる。

 はっと息つくような仕草で少女が桃色の唇を動かす。音なく投げかけられた問いに、少年は首を振る。

 黒く染まってしまった癖毛が、その動きに揺れる。

 命は穢れでなくとも、エーテルは純然たる力でも、互いは互いに不純物でしかない。少女に渡すためにろ過した残留物は、もはや少年の身体と同化していた。天空の輝きは失われ、魂は肉と結び、二度と空に帰ることもままならない。

 国内では名付けを厭うて拒絶しても、国外では避けようもない。すでに少年は地上で定義づけられていた。戦場を荒らす暴威を、敵国兵はあだ名する。

 邪悪(カキア)と。


 進軍が止まった。王が戦に飽きたわけではない。単純に負け始めた。劣勢の側が連合を組んだ。国は勝ちすぎたのだ。カキアは戦場をいくつも駆け回ったが、エーテル操作の技能があろうと覆せる戦況には限界がある。敗退が続き、王都での防衛戦が始まった。

 しかし戦場を渡り歩く必要もなく、戦局も見通しやすい王都の防壁前での戦いは、カキアにとっては好都合だった。

 今もなお変わらぬ、それどころかより美しくなった少女のため、カキアはあの頃より伸びた腕で剣を振るう。あの頃より伸びた足で地を蹴る。そこに少年といえる幼さはもはやない。

 襲い来る大軍勢をエーテルに還元する日々。


「戦局が捗々しくないようだな」

 あの頃には生えなかった髭を剃り落としている場に、王が取り巻きを引き連れて現れる。

「我を差し置いて、魔王などと呼称されて図に乗っているのではあるまいな」

 水で濯ぎ、顔を上げる。癖毛が首元をくすぐる。伸びた髪も鬱陶しく、すぐ伸びる爪も面倒臭い。

 人外じみた呼称が定着する一方、カキアの身体は人間としての営みに染まる。青年という歳さえ超え、その佇まいは将軍として貫禄を備え始めていた。

「負けることあらば、貴様の宝は」

 みなまで告げさせない。重い前髪に目元を隠していようと、取り込んだエーテルの圧力で意思は示せる。

「……勇者などというふざけた輩、とっとと始末するがいい」

 王が取り巻きともども去っていく。

 勇者。余裕のはずの防衛戦の戦況を乱す駒。

 始めはただの、何となく目につく、何となく動きのいい一兵士に過ぎなかった。認識したのはいつも通り淡々とエーテルを吸い上げていた時だ。死にたくないと嘆く若い兵士がいた。その兵士にいつの間にか近づき、小柄な体躯で肩に負い、そちらを向いた時には群勢に紛れて逃げおおせた。それからもこちらの想定とは違う動きで戦況をかき乱す。叩き伏せられるかと思えば、恐れもなく敵陣側に突っ込んで混乱に姿をくらます。救出を邪魔しようとすれば、思い切りよく仲間を見捨てる。思考回路が読めないうちに、小柄だった身体は育ち、今やカキアを超す上背で、カキアに勝る動きをする。

 潮時なのだろうと、カキアは皺の黒ずんだ手を見る。この戦況ではエーテルは思うほど集まらない。

 だから、潮時だ。


 剣身をぶつかり合わせる。刃の切れ味など関係なく、これはもう金属同士の耐久試験だ。鍔迫り合い、顔を寄せる。

 蒼穹の瞳。

 希求してやまないその空を、今この瞬間に眼前に晒される。皮肉さに剣を押し返す力は強くなる。

 一太刀浴びせられれば、勝負は決する。だが勇者は身を翻らせ、深くしゃがみ、素早く飛び、剣先に追いつかせることはない。もはや兵士として、カキアの追いつけない領域にいる。

 だから潮時で、──だから頃合いだ。

 腹部を深く貫いた剣に身を折る。終わりの瞬間、最後にもう一度と縋って勇者の目を見る。

 二度と戻れない場所。群れであり、(ぜん)であった場所。

 エーテルが滲み出す。今まで溜めていた分、この戦場で吸い取った分、──それから自分を形成していた分。今自らが扱えるすべてのエーテルに指向性を施す。彼女の元へ。この地上で決して穢れることのなかった彼女の元へ。己の魂さえ削り捧げ尽くして、穢れなき彼女を天に送る。その一念でエーテルを操作する。

 カキアは手応えに笑った。

 エーテルが変質し、天への(きざはし)になって網膜を焼いた。

 その瞬間、カキアは個となり、──正しく独りになった。どうしようもない喪失感を胸に、カキアは笑って、生を終えた。



 カキアはちゃんと、終われたはずだった。

「うわぁ、ボロッボロじゃん。何でオヤジこれ拾ったの? しかも全力でこっち拒絶してるし、大人しく消滅させてあげるのが情ってもんじゃね? え、そんなもん俺らにあるかって? それなぁ」


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