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5-3 激しく

 川辺は赤く染まっていた。霧に視界は悪く、向こう岸は見えないながらも、水面を夕日が照らしている。カキアはそのまま水辺に足を進めた。ロエも続く。

「深いとこ気をつけなよ。足滑らせて溺れても知らないからね」

 泳げない癖に水に怯える素振りのないロエに、カキアは呆れの混じる言葉をかけた。キラとの会話の名残りで、語調柔らかに英語が口をついて出る。

 川の水温は生ぬるく、こびりついた血をこすり落とす。筋となって川に溶け、流れる血は、夕日の赤と混じって見えなくなる。

 ドボンと、派手に水飛沫が立った。

 振り返ると自分より長身なはずの影がない。

「《お前は馬鹿なんだな》」

 水面下の岩の不安定さは把握の内になかったらしく、ロエをカキアは引っ張り起こした。全身ずぶ濡れになったロエに、カキアはため息をつく。

 川岸に上がり、てきぱきと支度すると、右手のひらを上に向けた。風を逆巻かせてしばし、ライターが現れる。カキアは着火用の木っ端に火を付けた。それを火元に、焚火を起こす。

「《便利だな》」

「《そう都合よくはない。単純な物体はいいが、構造のある物は割と疲れる》」

 葉っぱで風を送るカキアの手元からは、もうライターは消えていた。

「《おい、火に当たる前に血を落としてこい》」

「《落とした》」

「《顔にまだ……、……こっち来い》」

 引きつれて水辺に戻り、手に水をすくってカキアはロエの頬に残る汚れをすすいだ。目元をこする指先にロエは目蓋を少し伏せがちにするが、すぐに見開いてじっとカキアを見つめる。夕焼けの赤にも負けない青色の強さに、今度はカキアが目を細めた。

 その隙とも言えない一瞬の動きに合わせて、ロエが上半身を傾けて顔を寄せた。

 咄嗟にカキアが仰け反っても、一瞬唇が掠めるのは防ぎようがなかった。


 年若い面々が、火を囲んで話し込んでいる。

「いやもう、その距離で目閉じるとか押しどころじゃね? ヘタレかよ」

 密やかであったはずの声音は興奮に上ずり、過去の体験を語った話の主を茶化す。戦時の野営と言えど、戦略も戦術も関わりのない新兵などは気も緩みがちだ。故郷の話が下世話な相槌から猥談に繋がることも少なくない。

 一際身体の小さな少年は何もかもを不思議そうに聞いている。この場の多数が同意する内容を、そういうものなのだと覚えていく。

 盛り上がりの果てに、部隊長の檄が飛んだ。大慌てで解散し、食後のひとときは終わった。


「《歯ぁ食いしばれ》」

 宣告と行動はほぼ同時で、カキアの拳はロエの顔を殴り飛ばした。勢いに体勢が崩れ、ロエが倒れる。

「《侮辱じゃないのはろくでもない情景で伝わったが、俺は一応概念的に男だ》」

 見上げてロエが目を瞬かせる。

 その心底意味が通じていないであろう表情に、カキアは苦悶に目を閉じた。生前の敵軍の、男色に抵抗のない文化性など、カキアは知りたくなかった。

「《にしてもどっかで殴られるだろ》」

 一縷の望みをかけて問いかけても、ロエは心当たりのない顔でキョトンとしている。

「《本気か、お前》」

 カキアは愕然とした。言い寄って落ちなかった相手はいないと自慢された心地だ。絶対ロエにそのつもりはないが。

「《もしかして万事その調子か? よく分からん刷り込みをクソほど恵まれた顔面やら肉体やら、才能やら天運やらで押し通して来たわけか? そのやたらと上から目線の精神性で? 神に愛されすぎだろ、お前。もう一回殴らせろ》」

 ロエが体勢を整えて、歯を食いしばった。

 殴られる気らしい。

 カキアは殴る気が失せてしゃがみ込む。

 視座の違いからくる実感の薄さか、極端に素直なところがある。お陰でされて嫌なことは人にしないという定説が通用しない。ただでさえ薄い共感性が、念入りに機能しなくなっている。

 この思考回路を御するのに、しろとするなという言葉を使うことにした貴婦人の選択は、今のカキアには必然に思える。

「《……駄目なのか?》」

 唸ってばかりのカキアに、ロエは尋ねる。

「《そんなの決まって》」

「《好きだって言ったのに駄目なのか?》」

「《は?》」

「《好きだって言えば、叶えようとしてくれるんじゃなかったのか》」

 好き嫌いを、カキアは繰り返し問うた。カキアにはキラの前例があったから、世界への関わり方をそうやって誘導しようと。できるだけ意思表示をするように、欲求を持つように、叶うように、手助けしようと。

 けれどロエのそれは、カキアの方針とはあまりに相性が悪い。

 なぜなら。

「《何で駄目なんだ》」

 唯一の執着に、傲慢が牙を覗かせる。

「《カキアは一度も俺が嫌いとは言わなかっただろ》」

 天性の鋭さで、何もかも見透かして詰めてくる。

 カキアは、止めていた呼吸を意図的に細く吐いた。強張った喉を緩める。

「《自分を殺した奴なんて嫌いに決まってる》」

 ああ駄目だと、舌から滑り落とした言葉にカキアは思う。これではまるで足りない。拒絶というには生易し過ぎる。

 空の青。ずっと高いところの濃く深い空気。心が希求するもの。それと同じ色を持つ勇者は、その瞳で、あの頃と同じように魔王を見抜く。

「《嘘だ》」

 小手先の戦闘術、神になど遠く及ばぬ拙いエーテルの扱い、何より元より守る気のない国を守っていた歪み。勇者はすべてを見抜いて魔王を下した。

「《──俺が殺してやったから、何かを叶えたんだろ》」



  ※ ※ ※



 湿度の高い森は下草も潤いに満ちている。少し前までの落ち葉を踏むような季節とは落差が激しい。蔦に擬態して枝から垂れている蛇を掴み、縄投げの要領で遠く、茂みの向こうに放る。ゲストの集まっている洞窟からは離れる方向だ。見回りと、ロエからの逃亡に名前をつけて、カキアは夜の森を歩き回っている。

 カキアは睡眠を必要としない。必要としないというよりも、拒絶している。感覚の途絶とは、カキアにとって一時的な個の消失にも近い。ただでさえ目を閉じれば過去の情報が展開し、気を緩めれば周囲の情報の波に飲まれかける毎日で、夜にそんな苦行を繰り返す意味をカキアは見い出せなかった。

 鳥の鳴き声が時折聞こえる。葉っぱが擦れる音、小動物が茂みを駆ける音、──自分の心音。

 本物か、かりそめか、妄想か。今となってはどこからどこまで人間として機能しているのか、カキアは自身でも分からない。

 生前から、まともな人間ではなかった。

 余計なことを思った直後、闇に浮かび上がる儚くも美しい、薄緑色の髪をした少女を捉える。記憶情報の顕在化。現実にはそこには何もいない。側には、誰もいない。

 カキアは、風を欲した。首筋を生温い風が撫でる。目前で枝がしなる。ささやかな世界への働きかけに、もっとと欲する。煙が欲しい。風の形を教えてくれる、煙が。

 風が、鼻先を掠めた。匂いが混じる。

 背後からの一撃を、振り返りながら剣で防いだ。

「《どういうつもりだ》」

 風が教えてくれた殺意に、驚きはなく冷静に問いかける。

 弾かれた勢いで離れて着地したロエは、深く追っていた膝を伸ばした。

「《逃げるから》」

 一撃を受け止めた手に残る痺れに、遠慮はない。

「《その結果が暴力か》」

「《とりあえず捕まえたい》」

「《野生児か。……何がしたい?》」

「《ちょっとよく分かんなくなってきたから、カキアの全部見たい。見せて》」

 手っ取り早くと示唆する手法の横着さに、カキアは快く応じる気にはなれない。

「《また興味本位か》」

「《知りたい》」

「《人との関係の築き方、習わなかったのか?》」

「《相手がいなくなったら終わりだって》」

 否定のしようのない教えに、強引過ぎる勢いをなじる気持ちがしぼんでいく。

 殺して殺されて二人の関係は確かに終わったのだ。それが奇跡の御業をもって、再会の機会を得た。

 歓迎しかねる奇跡だと、かわりにカキアは剣を構えた。

「《抵抗する》」

「《……うん。うん》」

 二度、強く頷くロエの瞳は輝いていた。

 二人、原始の森で、強く地面を蹴った。

 二、三合打ち合ってすぐさまカキアは悟る。ロエの身体能力は人の持ち得る最大値に近い。カキアが覚えている生前の強さを確実に超えている。本来、肉体にかかっている、自身を壊さないための制限がほとんど機能していない。筋組織が裂けかねない挙動が、なぜか持続する。

 カキアは獲物を槍に変えた。突撃の前傾を取るロエの片目へ真っ直ぐに突き出す。

 ロエは一切の怯みを見せず、少し頭を傾けるだけで躱す。剣より広い槍の間合いに、動きが少しでも慎重になればというカキアの算段は外れる。もしもの時ぎりぎりで風に戻す準備も無駄に終わる。

 ただ耳の縁に、小さく傷は付いた。重い一撃を戻した剣で受け、完全に競り負けながらもカキアはエーテルを動かした。

 するすると、耳の傷から光の帯が宙に伸びる。

 とても、軽く、するすると。

 手応えのあまりの軽さに、カキアはすぐさまロエの膂力も利用して飛び退いた。そうして背を向け、躊躇いなく駆け出す。

 抵抗とは、真っ向から対立することだけが手段ではない。手段への固執は目的を見失う。カキアはそれを見誤らない。

 追いかけるロエが、額を枝で強打してふらついている。人間の身体構造の限界として、さすがに夜目はそこまで利かない。誘導の結果を確認し、また一つ情報を得る。

 重ねるのは検証だ。身体の損傷に多少の怯みはあるか、エーテルが吸えるか、夜目は利くか。そうして、制圧方法を検討する。一番簡単なのは、生前ロエと戦っていた時にはなかった風で圧することだが、ゲスト相手に向けたくない心理がカキアにはある。エーテルを動けなくなる程度に吸い取るのが一番穏当そうであったのに、あまりに抜ける勢いが良過ぎてカキアは日和った。あれでは生命活動分はすぐ抜けてしまう。死後のエーテル欠乏は消滅も招きかねない。あの手応えが普通なのか。死後でこれだけの戦闘をすることになった、はた迷惑なゲストはロエだけだ。判断つかない。

 通りすがりの獣をけしかけ、ぬかるみに落とし、風で加速して逃走を続ける。どう収拾をつけるか、徐々に面倒な気持ちになって──飛来した剣に、纏う毛皮の端を木に縫い留められる。

 ロエは夜目が利かない。

 だが、カキアとその他の区別は明確につく。

 ありえない事態にカキアは動揺する。突き刺さっているのは確かにロエの剣だ。手から離してまで定義を続けていられるのは、その座標を正確に理解している証拠だ。カキアにはできない。

「──ッ」

 焦りの息を吐いた喉は、襲来した腕によって締め上げられた。


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