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5-1 優しく

 住宅街の街路樹を見上げ、子供二人と大人一人が困っている。

「やっぱり絶対降りれないんだって!」

「助けてあげてよ、デイビッド!」

「いや、うーん、いやぁ〜?」

 落葉を終え、丸裸になったエルムの木の枝に、黒猫が一匹座り込んでいる。幹を背にこちらを睥睨する瞳は金色で、デイブには動揺の一欠片さえ見出せない。

「休んでるだけじゃねぇかなぁ」

「そんなこと言ってデイビッド登れないんだ!」

「いいよっもう!」

「いやいや、落ち着けって」

 今まさに駆け出さんとする少年、少女を捕まえ、デイブは唸る。これはもう猫自身がどういう状態かは関係ない。少年達の思いを汲み、重い腹をくくらねばなるまいかと、最後にもう一度猫を見上げた。

 その視界の端を、黒猫と変わらぬ黒の癖毛が通り過ぎる。

 歩みは気怠げに、背には疲労を漂わせ、カキアは木の根元に立った。黒猫は首を巡らせ、視線を運ぶ。カキアに覇気はなく、黒猫も警戒心を見せない。ただ急に吹き始めた風に、黒猫は目を細めた。地上に風はなく、カキアの癖毛も、コートの裾も揺れない。黒猫の短い毛並みだけが、柔らかく撫でられたようにそよぐ。心地よさそうに頭を一度伏せた後、黒猫は立ち上がってくわっと大きく欠伸(あくび)をした。そうして、身軽に枝を伝って下りだす。デイブ達がいる方とは逆で地面に着地し、何事もなかったように去っていく。

「心配してやるのはえらいが、次はもうちょい助けを呼ばれてからにしようや。自分でやろうとしてんのに、ニーチャンとかカーチャンが手ぇ出してきてヤな時あんだろ?」

 何が何だか分からないが問題が解決し、デイブはしゃがみ込んで少年達に説いた。

 その横を、カキアは一言も喋らずに去っていく。

 なぜか、少年達の視線はその背を向いている。

「あのおじちゃん、大丈夫?」

「うちの叔父ちゃんに似てる。叔父ちゃん仕事なくなったんだって」

「おっとぉ」

 子供の際限ない優しさに感服しながら、デイブは何とか少年達を安心させて別れた。

 数分後パトカーに戻ってきたデイブは、カキアの姿を後部座席に見る。大して広いわけでもない座席に横になっている。

 実はこの姿を、デイブは朝からずっと見ている。

 デイブは運転席に乗り込んだ。

「パトカーは移動ホテルじゃねぇぞ」

「今日は帰りたくない」

「オッサンに言われてもまったくうれしくねぇ台詞だな」

 遭遇時からおかしさはあった。無言でパトカーに乗り込む輩がおかしくない訳がない。自首でも署の方に行く。人恋しさでもあるのかと放置してきたが、子供達を見習ってデイブは口火を切る。

「どしたよ、ホント朝から。お前さん、今ゲストに付きっきり対応中だろ」

 触れた話題が大当たりだったらしく、短い沈黙が落ちる。少ししてからボソボソと何事か呟く声に、デイブは頭を後方に寄せて耳を澄ました。

「……業務対象に好きって言われたらどうする?」

「嫁さんはいつでも募集中だ」

「職業倫理」

「警官が公私分けてて命張れっかよ」

 良きも悪きも私人としてこの街を愛してこそ、デイブは警官でいる。愛してもいないもののために命は賭けられない。

「相手が男なら?」

「……うちのバーチャン、つむじ鑑定人でな。ジーチャン、トーチャン、俺のつむじは一緒らしい。んで、俺はひ孫の鑑定もぜひ頼みたい」

 多少の動揺を飲み込んで、遠回りに遠慮を表明する。

 そしてお陰でカキアがどういう状況にあるのかは察せられた。子供達の嗅覚の鋭さに舌を巻く。これはいわゆる途方に暮れているというやつではないか。

 デイブは助手席に置いていた紙袋を取った。

「ドーナッツ食うか?」

「いらない」

 心遣いはにべもなく断られた。しょうがないので、デイブは自分で食べ始める。

「まぁ、迷うぐらいならコックの導き通り本能に従えば」

「迷ってない。後、僕不能だからそういう意味では人類皆対象外」

「お、あ、そう」

 デイブはドーナッツの味を感じられない人生初の経験をした。

「……いや、ま、人工呼吸割とがっつりいってたし、なんか思い入れくらいあんのかと」

「救命行為茶化すのマジで止めなね」

「それより前にもドーナッツ屋の前でお前らがキスしてたってタレコミあったり」

「どこの下世話な井戸端会議だ。風の噂を鵜呑みにするもんじゃないよ、お巡りさん」

「けどいきなり抱きつかれてたろ」

「僕しっかり嫌がってたでしょ」

「じゃあ面と向かってなしだって言やぁいいだろが。何でこんなところでうだうだやってんだ」

 否定の連続に、デイブは根本的なところを問いただした。

 沈黙が、長く落ちる。

「──怖い」

 絞り出された声は、少し掠れていた。

「いや、怖くない? 過去含めて何でそうなる? 理解できなさ過ぎて怖い。思考回路が意味不明過ぎて対面きつい。頭おかし過ぎるだろ」

 正直な感情の吐露。

 デイブはバックミラーの位置を少し下げた。見えるのは横たわる腹の辺りだけだ。

「なぁ、カキア」

 とんでもない難局にあるらしい男に対して、デイブは労る声音を紡ぐ。それが己が寄せる勝手な友情でも、男の方もそう嫌がりはしないと信じている。

「忘れんなよ、お前さんもゲストなんだ。尊重されるべき自由はお前さんにもある。支援放り出したって怒られは……するかもしれんが、誰か別の奴がケツ拭いてくれるだろ」

「朝一で市長んとこ乗り込んで、鉄壁の秘書止まりだよ。キラちゃんにアレ任すのは絶対ない」

「お前、上司いるんじゃ?」

「コネ採用上司は長期出張中」

「……ドーナッツ食うか?」

「ありがとう。君がお食べ」

「少しだけでも幸せになれるぞ?」

「……ホント、君のそういうとこ、僕好きだわ」

「悪い、つむじ鑑定四代目は譲れん」

「早く嫁さん見つけな」

 軽口を叩き合って、カキアは身を起こした。デイブが反応するよりも先に、後部座席のドアを開け、外に出る。

 カキアの感覚は、異変を捉えている。

 パトカーから少し離れて、カキアは振り返った。その口元に浮かぶ、いつもと変わらないはずの薄い笑み。

 それがなぜだか無性に悲しげに、デイブには映った。

「だから……人間は嫌いなんだよ」

 世界が、鳴動している。

 座標だとか、地盤だとかの話ではなく、それは概念、情報の話。

 カキアの目の前で、すべてが塗り替えられていく。

 街並みも、車も、──友も。

「じゃあね」

 別れを告げるカキアの姿を最後の光景にして、デイブという概念は──途絶えた。


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