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1-1 魔王と

 閉じた目蓋の裏に、記憶がふっと繋がった。


 魔王と、呼称された生の回想だ。

 戦場は砂埃と血の匂いに満ちていた。攻めつ守りつ、雑兵達のぶつかる中心は波打ち際の如く一進一退で動いている。最前線よりやや下がった位置を、敵方の大将格の乗る戦車を引いて馬が駆けた。そこから投擲された槍が敵軍の勢いを助け、黒い装束の集団が攻勢に転じた。

 壁上の見張り台から確認した劣勢の気配に、出陣のために身を翻す。

 大門を開いて戦場に踊り出れば、見下ろしていた時ほどの視認性はなくなる。肌感覚で敵の勢いがある場所へ駆け付け、一人投げた槍で貫き、一人腰から抜いた剣で斬りつけ、それから──エーテルを吸い尽くす。傷口という物質的綻びから、宙へと淡い光が帯状に滲み出す。漂い、薄れかけようとするそれに指向性を施すと、男の回りで渦を巻き、その内光は肉体に吸い込まれた。それが、魔王と呼ばれた男の能力だ。男に傷つけられた者は、かすり傷でさえ生き残れない。恐れが先陣を切る猛者にさえ伝播し、敵の進軍が鈍る。

 好機と見るや、魔王の脇を抜け、味方の軍勢が押し返し始める。

 頃合いと、男は馬首を巡らせようとした。

「──カキア!」

 怒声、罵声の絶えない混沌をものともしない大音声は、聞き慣れた声で。


「あぁ──イヤなの思い出しちゃった」

 過去への接続は目を開けば一瞬で解けた。周囲を確認すれば、ちょうど夜明けだ。

 世界を閉ざす霧が身じろいだ。朝焼けと共に停滞していた空気が流れ出し、徐々に夜と霧の帳は晴れていく。やがて上空には、この島の象徴、赤い鉄骨造りの橋が大きく姿を現す。

 赤い橋(レッドブリッジ)。鮮やかな赤に塗られた橋を、住民は安直にそう呼ぶ。赤い橋は中洲の島に築かれたこの街に接続していない。ただ橋脚を島に打ち込むだけ打ち込み、上空、見上げる高さで右岸から左岸へと架かっている。島の南側の公園(サウスパーク)からはその無情なほどの隔絶具合がよく窺える。カンチレバートラス技法で設計された橋梁は、その赤と相まってあやとりめいた複雑さで見る者の目に写る。

 風が強い。公園の端、川岸の手すりに凭れる男──カキアはコートの裾を弄ばれ、上流に丸めた背を向けた。灯したライターの火が消えぬよう風除けの手を添え、咥え煙草の先を寄せる。吸い込む息に、先端が赤く瞬く。生まれた煙は、立ち上る暇もなく風に攫われてかき消えた。その一瞬の残滓に注意を惹かれ、カキアは焦点を遠くに運ぶ。

 無造作に向けた目が、違和感を捉えた。霧は薄まり、川岸の護岸に積み上げられた石が見えている。

 カキアは、ほとんど吸い込むこともなくタバコを指で摘まんだ。そのまま両手を手すりに置き、自分の目が捉えた物体に再度焦点を結びなおす。暗く濁った水流と、灰色の石積み。そこに異なる色を見つける。明るめの、二つに比べれば、白に近い色。

 人肌、人体、──裸の男。

 石積みに全裸の男が打ち上げられている。

 携帯灰皿で手早く煙草を消し、柵を飛び越えてカキアは走り寄った。うつ伏せの首元に手をやって脈を確認し、生きていることが分かれば今度は呼吸へ注意を払う。仰向けに身体を転がして──その顔に動きを止める。

 歳の頃は二十代前半。明るい金髪は水に濡れて束になり、顔に張り付いている。それに縁取られる顔は精悍さと甘さを兼ね備えたもので、人目を惹く華を目蓋を伏せた状態でも感じさせる。

 カキアは、その顔を知っていた。

 コートを翻らせて公園の入口に戻った。速足にバス停横に設置された、アルミフレームに透明なガラス壁の電話ボックスに滑り込む。投入口にポケットから出したニッケル硬貨一枚を入れ、七桁の電話番号を丁寧にダイヤルする。終われば、受話器から聞こえるコール音の終わりを待つ。

『ハロー……』

「ハァイ、お疲れのとこ悪いけどゲスト案件だよ。救急車を一台南公園までお願いできるかい?」

 夜勤明けで鈍い応答の声に、無情でありつつものんびりと告げる。息を呑む気配がしてしばし、詳細を求める声にカキアは状況説明を続けた。



  ※ ※ ※



「いやいや、サボりじゃないよー。業務だよー。むしろ早朝から対応し続けだから」

『巡回は我が課の担当業務外です。むしろ趣味の散歩(ボランティア)でまで業務なさらないでください』

「まいったなぁ。最速の初動対応、褒めてくれてもいいんだよ?」

『受け入れ体制を整えずに接触しても二度手間です。そのせいで今、確認の電話をおかけになっておられるのでしょう?』

「うーん、キラちゃんが冷たい……。書類の内容がこう、外出先でも見れたらいいんだけどねぇ」

『半世紀ほど横着ですね。──申し送り一件、確かにございます。男性体、肉体年齢二十代、身長一九〇センチ(六フィート三インチ)前後、体重九〇キログラム(二百ポンド)|前後、対象の名称は──』

 病院の廊下、木製の棚に備え付けられた公衆電話で会話しながら、カキアは視線をタイルの床へと落とした。薄い灰色だが、電話前は少し濃い。汚れから長年の利用者の気配へ意識を飛ばす。

 この電話で、数々の人生が繋がってきただろう。時には聞きたくもない事実を突きつけられた人物もいたはずで。

『──ロエ』

 今まさに自分のように。

 つらつらとカキアは他愛のない想像を続ける。単なる現実逃避だ。

『では、担当はこのまま室長代理が』

「なし寄りの保留で」

『なぜ?』

「合わないと思うんだよね」

『個人的感想での判断では承服いたしかねます』

「いや、感想というか」

 受話器を当てている右耳とは逆の耳が、院内に漂い始めた異変を捉えた。

 音の聞こえる廊下の先に目をやると、急ぎ足に過ぎる看護婦の姿がある。

 騒動、問題、事件。忌避する感情とは裏腹に、対応しようと働く意識は仕事中毒(ワーカホリック)に近い。

「だって──殺し殺された間柄だもん」

 その一言を最後に、カキアは通話を切った。


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