Ⅷ:土竜
「俺だって、たまにはハメを外したいよ」
助手席のカレロが唐突に、そう呟いた。最下層道路は真昼にしては珍しく移送用磁力に速度制限が掛かり、救急搬送車は前後の車両と均一の距離感を保ってのろのろと滑空している。蛇腹の防護膜越しに、半円状に聳える高集合住宅の鏡面の壁にびっしりと敷き詰められた小窓を朧げな視界に移しながら、今後の段取りを黙々と組立てていたパンサーは、止むなく思考を中断した。隣を見ると、カレロは糸が切れた操り人形のようにだらしなく座席に融けており、自分の鎖骨に顎を押し潰され唇を太々しく突き出して眠りに落ちている。憧れのジャッカルと、ひと言も会話できなかったどころか、除け者のように扱われたことが、よほど面白くなかったようだ。
レフのバーのガレージで「酒でも好きに呑んで来い」と遇ったジャッカルの言葉を間に受けたカレロは、店主不在の無人のバーで朝っぱらから独り酒を浴びたらしい。密談と仔ネコの治療を終え、ジャッカルを先に降ろして救急搬送車を帰路の方角へ回すと、眉間に稲妻のような皺を掘り込んだジャッカルに首根っこを摘み上げられ、足の縺れた顔面蒼白のカレロが現れた。そして、雑巾でも投げ入れるように車内へ放り込まれ、このざまだ。
おそらく、また鎮痛剤を盗んで、あの凶悪な白い酒と一緒に接種していたに違いない。
自律を主軸として理路整然と生きる青年には、思考と経験を乱し、人生の主権をあやふやにする酒や麻痺薬に溺れる人々が理解できない。
健康管理システムが非常に厳しく精密な、この集結共和都市に移住するより以前は、貧困や飢餓、PTSDなどを抱えた人々が、ある種の“悪意”によって逃避薬と称して齎らされた、砂糖や酒などのありふれた麻痺薬が原因で、ヒトが生命を落とす瞬間をこれまでも数多く診てきた。その医師としての性が、この排斥的な拒絶の根幹を成しているのだという自覚は充分にある。しかし、本当のところは、もっと根深い部分まで続いている。そんな人々を理解し許容してしまうからこそ、強く拒絶したいのだ。
“たとえ理解しても同調する必要はない”
そう言ったのは、レフだった。銃に触れたこともない青臭い男を“獣たち”の一員として、彼は快く招き入れてくれた。そして、かの第三次世界大戦を知る元軍人であり、誰よりも酒を愛する懐の大きな酒豪でもあった。否定も肯定も無い自然的なその言葉によって、青年の凝り固まっていた観念の枠は箍が外れたようにゆとりを持って拡がった。
レフはまだ世界が今よりも混沌としていた時代から、この広大な大陸の各地を旅し、点在する居住区域の住民たちや、道中邂逅した言葉も通じない放浪者たちと打ち解け、物資や知識を分かち合い、多種多様な酒の味を知っていた。その無類の人好きと美食家の趣味が昂じて、今や“獣たち”が気まぐれに立ち寄る“寄生木”という小洒落たバーを開いている。何でも集結共和都市の建設時に取り壊される予定だった残骸地の荒屋を居住地として手に入れたのだと云う。その古めかしい赤煉瓦の外観は、陽が落ちると無機質な銀色の景色に煌々と浮かび、管状道路も届かない辺鄙な立地にも関わらず、不思議と夜になると客足が途絶えないのだそうだ。そしてここは、“獣たち”が気まぐれに立ち寄る場所でもあるんだと、店主は愉しげに語っていた。
「あいつらの憩いの場を作りたくてな。昔はジャッカルと切り盛りしてたんだが、それでも夜には手が回らなくなって、あいつは短気だからな、よく不満を漏らしてたよ」
背を堅く張り詰めた青年は、緊張した手の平でテーブルの表面をゆっくりと撫で、何処にこんなにも美しい木材が遺っていたのだろうかと、店主の話にしっかりと耳を傾けながらも、半分は手元に感動していた。丁寧に磨き上げられた赤銅色の桃花心木のバーカウンターに、新入りの青年を独り座らせ、その凝り固まった空気を和ませるように、レフは冗談を交えながら豊富な旅の経験をざっくばらんに語り、かつて渡り歩いた土地々々の珍しい手料理を次々と振る舞った。中には、青年自らも“実践経験の腕試し”で立ち寄った僻地の思い出深い郷土料理もあり、強張っていた頬はいつの間にか朗らかに緩んでいった。木に宿る澄んだ薫りと暖炉の薪と焔が包む、ぬくもりの中で味わう彼の手料理は、自分が人間であることを芯から思い出させてくれるような、やさしい懐かしさを含んでいるような忘れられない味だった。
「カレロという外科医がいただろう」
ベルトを少し下げて食後の余韻に寛いでいた時だ。もくもくと湯気が上がるカウンターに立つレフの背中が、前触れもなくその話題を切り出した。ほどよい幸福感に包まれていた意識はすっかり緩慢になっており、酒も入っていないというのに、その名を思い出すのに時間が掛かった。
「・・・憶えています。同僚でした」
「最近、連絡があったか?」
「いいえ」
「重度の手癖の悪さと更生意欲の低さが祟って、ついに集結共和都市を離れることになった。つまりは、追放だ。─── だが、議会としては、あれほど腕の立つ人間を手放すのは惜しい」
銀の装飾に包まれた硝子のカップと、壺にも見える鈍色のポットを手に振り返ったレフは、変わらぬ穏やかな動作でありながら、流れ拡がった茶色の髪や蓄えた口髭の先端までもが威圧に満ちていた。青年はさながら獅子の鬣のようにも見える悠揚な相貌から、のし掛かるような険しい重圧を感じた。
「要は、厄介な地下の住人を増やしたくないんだ」
次第にレフの思惑に勘付いてゆくにつれ、青年の繊細な神経の糸がキリキリと緊張しはじめ、同時に、呼び出された理由を懇親のためだと勘違いしきっていた自分の脚を両手できつく抓り上げた。レフは紅い水柱を作って紅茶を注ぎ終えると青年の前に差し出し、低い眉が際立たせる眼窩の大きな眼で、青褪めたその顔を真っ向から見据えた。
「カレロには、フィンという名のやさしい味方が居てな。はじめに魔が刺した時から気づいていたようだが、フィンはカレロを見逃し、それどころか、厳重な監視網を手玉に取って、ヤツの尻拭いまでしてやった。それも、何度もな。同情か友情か、事勿れ主義か・・・フィンの半端な善意が、この結果へと導いた。─── 今じゃ、あの熱心で優秀だった若者は、ただの廃人だ ─── そして裏切者は、俺たちにとって、危険因子でもある」
レフは心臓の奥底にまで響く、重厚な低い声で断罪を告げた。喜怒哀楽も覆い隠す、樹海のように濃い深緑の瞳に喉をきつく抑えつけられ、青年はもはや声を出すことすらできなかった。その真っ直ぐ伸びた歪みの無い背筋が辛うじて支える薄い胸板の中では、悔恨と呵責に心が潰れ、腫れ上がった悔しさに涙が溢れんばかりに込み上げていた。
「カレロをお前に託す。育てるなり鍛えるなり、お前があいつの運命を見届けろ」
額か、心臓か、頸か、銃弾が皮膚を焦がす痛みまで、ありありと想像していたパンサーは、思いがけず頭が混乱した。
「育てる、とは ・・・新入りの自分に、教育係になれ、と言うことですか・・・」
「パンサー、お前はもう“お人好しのフィン”じゃあない。そうだろ?」
青年は、混沌とした心の中に自信の所在を見つけられず、返事をあやふやに濁した。しかし、これはテストだ。おそらく、試されているのだ ─── その確信めいた直感だけが明白に在った。それは、混沌の嵐の中から目的の支柱を突き出し、目指すべき、はためく旗を掲げた。
「・・・理由を、訊かないんですか」
レフは無表情で額に波を描いて眉を持ち上げると、何も言わずに手前のカップに八分目まで紅茶を注ぎ、手近な黒い酒瓶を取って紅茶の上からトクトクと注いだ。青年はその勿体ぶるような一連の仕草を、まだ残る緊張の視線で見護っていた。既に仕事は終わりだ、とでも言いたげな鷹揚な振る舞いで大きな手にカップを包み込み、薫り立つ湯気をゆったりと堪能し、髭の中でひと口味わうと唇を巻き込んで渋い目尻に皺を刻んだ。そしてカップを片手に熊のような身体を屈めてカウンターに肘を突いてから、レフはようやく人の良さそうな笑顔を見せた。
「冷めるぞ 」
その後、引き合わせに立ち会ったジャッカルの口から、フェンリルを説得してカレロを引き取ったのは、ほかでもないレフだと知らされた。それを聴いた時、おそらく自分もレフが救ってくれたのではないだろうかと、何故か青年はそう感じた。医学以外に何の取り柄も無い自分に、何か新たな可能性を感じてくれているのではないかと。そう考えると、根拠のない力が何処からか漲ってくるような気がして、いつしかそれは、パンサーという名に生まれ変わった青年の原動力になっていた。
「お前はハメを外しすぎだ、カレロ」
単調な無彩色の景色に飽き飽きして、パンサーは頸を傾けてフロントガラスから上空を見上げた。遥か最上層の高層道路では、太陽に透ける蛇腹の中を黒い影が目にも留まらぬ速度で流れている。ひとりなら、今ごろあそこを走っていた。しかし、こんな状態のカレロを連れていては、社会基盤施設へ辿り着く以前に、中央都市のチェックゲートで弾き出されるのは確実だ。周り道をしてでも、先ずは地下巣本部に寄る必要がある。
パンサーはようやく前方に左折ゲートを見つけると、方向転換指示を示した。
“百メートル先、左折します”
機械的な声が告げ、しばらく走ってから救急搬送車はゆっくりと左へ曲がり、人気のない路地へ入って行った。
高層集合住宅の下方部は、ほとんどが積上式駐車場となっており、ヒトが完全に絶滅したかのように、見渡す限りタイルの壁や鋼板の太い角柱、そして監視用のセンサーだけが存在する無機質な世界となる。それでも管状道路が敷かれているのは、工事車両、消火車両、そして救急搬送車を緊急時に円滑に通行させるためだ。しかし、あまりにも細い路地となると管状道路が途切れ、最終的に路面走行を余儀なくされる。パンサーは走行モードを切り替え、何のサインも無い黒いビルの地下へと向かう斜面へとハンドルを切った。
黒い壁に埋まった縦長の棒状のライトが延々と続く、無人の地下道を永い間走った。方角的には真っ直ぐ中央都市へと向かっているはずだが、いつまでも続く同じ景色に次第に自分たちだけが異空間に取り残されているような錯覚を起こした。助手席のカレロは、まだ眼を開ける様子もない。パンサーは時々横に手を伸ばして呼吸の有無と脈拍を数え、その存在の確かなことを確認した。
やがて眼の前に黒い鋼鉄の壁が現れた。地下巣本部の入場ゲートだ。速度も緩めず、そのまま壁に向かって行くと上部からセキュリティースキャナーが作動し、救急搬送車はフロントガラスからテールランプまで青い光線に見定められた。そして、黒い壁に回転する青い直線が走り、重装のゲートが順に六角形を描いて厳かに開いてゆく。同時に救急搬送車は自動で磁気浮上に切り替わり、その異次元のような青い六角形の空間に招かれるままに吸い込まれて行った。
「マグノリア」
窓に“B−13”という文字列を見つけて安堵と軽い疲労のため息を漏らした。硝子張りの作業用個室が蜂の巣状に並ぶ中、目紛しく動き回る忙しそうな人々に声を掛けそびれ、階段を登ったり降りたりを繰り返してあちこち彷徨った末、パンサーはどうにか目的の場所に辿り着いた。いっそ無線を飛ばそうかと何度か考えたが、その返答を想像すると、どうにも気が引けた。
「遅かったのね、早速行きましょう。私は忙しいの」
入口に現れたその姿を見るなり、マグノリアは微笑みもせず作業の手を止めて、すぐさま青年の目の前に迫って来た。その勢いに押されて後退りざまに道を開けると、葡萄色の豊かな髪を揺らして、女医はスタスタと氷河のように青白く透けた細身の階段を、慣れた足取りで降り始めた。彼女と逢うのはこれで三度目だが、会話らしい会話は交わしたことが無く、いつもこの調子だ。
「時間が無いから、一緒にウィーゼルのところへ向かう。歩きながら話すわ。カレロは今、処置室ね」
「はい、数値が安定するのに時間が掛かるので、しばらく預かってもらえないかと」
「相変わらず、その固い口調は治らないのね。今度は何を呑んだの、あなたのお友達は」
「モルヒネ系鎮痛薬と、ウォッカを三百ミリ以上は呑んでいます」
「まだ生きてるのが不思議ね」
大股で足早に歩く白衣の背中を小走りで追っていると、エレベーターのセンサーに手を翳した女医は、急にくるりと踵を返した。ほぼ同じ背丈のマグノリアの色香を醸す明哲な顔に勢い良く眼前まで詰め寄られ、青年は思わず頸を仰け反った。彼女はいかにも堅実そうな整った濃い眉の下から、朱月のような眼で、たじろぐ青年の顔を分析しはじめた。
「顔色がすぐれないようだけど、あなたの精密検査の方が先かしら、パンサー」
「───いえ、原因は、心当たりがあります」
「そう、それなら、問題無いわ」
髪色と同じ葡萄色の唇に一瞬、無感情の微笑みを残して、女医はまたくるりと身を翻し、到着したエレベーターに乗り込んだ。パンサーは冷静な氷板で護っている、胸の奥のやわらかな部分を掴まれそうになった気がして、その無事を確かめるように喉を撫で、その下の冷たい胸骨の辺りへ手を這わせた。そしてまた、その一部始終を横に並んだ女医に観察されていることも承知していた。
縦線状の細いライトが点る六角柱の空間は、甲高い空気の摩擦音を伴って、一瞬でさらに深部へと到着した。エレベーターを降りると、ふたりを感知したセンサーライトが、歩みを進める度に通路の前方を琥珀色に照らし、行先を親切に導いてゆく。パンサーはこのフロアの籠った静けさと圧縮されたように重たい空気を、少し息苦しく感じた。辺り一面、黒髪のような鈍い反射を放つ黒いヘアラインの壁が続くばかりで、扉や出入口らしきものは一切なく、黒いトンネルだけが迷路のように続いている。人が存在しているらしい有機的な気配は何もない。繊維質の埃、擦れた金属、電気類が放つ熱っせられた無機物の清潔な匂いだけが通路に充満していた。奇妙な感覚に包まれながらもパンサーは何も訊ねず、波打つ髪を揺らす相変わらず速足の背中をひたすら追って歩いた。
しばらく歩き通して突き当たりの何の亀裂もないただの黒壁に近づくと、マグノリアはさっと右手の平を差し出した。すると、沈黙する壁の中央に光った小さな六角形が、瞬く間に隅々へと拡がり、扉全面が甦ったように琥珀色のハニカム模様が浮かび上がった。青年が思わず口を開けて後ろで感動していることも知らず、女医は扉へ顔を近づけ、中央のパネルで虹彩認証を行なった。そして振り返り、すかさずパンサーにも促した。
「技術開発部は、はじめて?」
「ええ、このフロアは、まったく」
「中では口を慎んで、みんな、集中してるから」
眼鏡を外して琥珀色の小さなパネルに顔を寄せ、瞬く間に切り替わる放射線状の光や微細な目盛を覗き込んでいる間、傍で腕を組ながら珍しく待ってくれているマグノリアが小声でそう注意した。
自動で開いた二番目の扉の先を見て、パンサーは眼鏡を掛け直しながら、眼を丸くした。
そこはまさしく、穴蔵だった ─── 。
停電中かと思うほどの暗がりの中、背の高い遮光のセパレートで仕切られた、それぞれの作業場だけが乏しい灯りに丸く浮かび上がっており、光の角度で見え隠れする複雑に絡み合う影を辿って低い天井を見上げると、多角形に囲われたデスク中央の天井から、不揃いな太さのコードが垂れ、工具やアーム、拡大鏡らしきものなどがクラゲの触手のようにぶら下がっていた。その全貌は暗くて良く見えないが、さらに頭上には、まさにクラゲの頭にあたる処理装置があるに違いない。
そして入口が開いたにも関わらず、その集中力は凄まじいもので、誰ひとり声も出さず、顔すらまったく上げなかった。鈍いモーター音と空調らしき乾いた規則的な音の中に、カチャカチャと機械を弄る音や、小さな回転音だけが不規則に聞こえている。パンサーは、ここで作業しているのは人造人間なのではないかと、もしくは、それに近い存在なのでは、と勘繰った。
人造人間は苦手だ。彼らは常に堂々と正しくて、いつも自分を疑ってしまいそうになる。
マグノリアは一番奥の席へ歩み寄って、その人物の背中を軽くノックした。少し驚いて顔を上げた人物は、大きなヘッドフォンに分厚い黄色のゴーグルを掛けており、女医と軽く会話を交わし、その蜂のような容貌のまま入口に突っ立っている青年の方を見た。異様な静けさと目元の見えないその視線に緊張しつつ、挨拶をしようと意を決して一歩踏み入ると、パンサーは思わず足元を見下ろした。足音がすべて床に吸収されている。
「それで、俺に話ってのは?」
ウィーゼルは、立派な人間らしい無粋で野暮な男だった。大きく目立つ矢印のような鼻の下と顎に生えっぱなしの無精髭を育てており、一日中地下に籠っているというのに小麦色の肌をしている意外は、痩せた細面の、筋力とは無縁の風体だ。何より驚いたのは、腰掛けていた作業椅子ごと床を滑って廊下へ出てきたことだ。訊くと、偏屈な口が途端に饒舌になり、このフロア全面に移送用磁力が敷いてあること、その椅子は自ら開発したものだと云うこと、磁力の調整で浮上レベルを調整できて、その椅子ひとつで高所まで移動できることなどを自慢げに語った。青年が「ぜひ医療機関に導入を」と愛想を言うと「ペースメーカーや機器との塩梅は難しい」と、最もらしい応えが返ってきた。
男の両脚は在るようだが、それが動くところをパンサーは一度も見なかった。
仮眠室と休憩室を兼ねているらしき、ドミトリーと壁に沿った椅子とテーブルのある個室へ案内すると、飲料水のある隅の席へ寄り固まり、ウィーゼルは早速本題に入った。目深に被った毛玉のあるニット帽の上にゴーグルを上げ、ヘッドフォンをマフラーのように首に掛け「さっさと話せ」と言いたげに鼻の脇に皺を寄せて肩を揉んでいる。
「今ジャッカルが追っている獲物の周辺について、調べたいことがあるんです。ある人物が、石油・走行発電車の車両で自然保護回復強化区域へ入り、獲物と接触しています」
「何だ、リッチな放浪者か?」
ウィーゼルは癖なのだろうか頸をパキパキと鳴らしながら、早計な半笑いで言った。マグノリアは少し疲れたような表情の上から気を引き締めて聴いている。実直で知識に貪欲な彼女の性格なら、多忙なりともすべての報告に目を通し、事のあらましを把握しているのは想像に難くない。
「いいえ、所属先は、医療機関です。これを見てください」
パンサーはジャッカルから受取り、手元に準備しておいた直感通信端末の録画データを、主にウィーゼルに向けて見せると、肌色と境のない分厚い唇を歪め、まつ毛の濃い眼を見開いて青年を睨んだ。
「俺の見解では可能性はふたつ。誰かが外部から侵入して成りすましているか、内部に裏切者がいるか」
「答えは内部のヤツだ、そこに出てるIDを調べれば一発だろ。そこらの連中が首脳AIを掻い潜るのは不可能だ。今ごろ、とっくに処分されてるだろうよ」
「IDチップは、虹彩、指紋、血液、DNAとも連結して管理されているのよ。たとえIDチップを体外に取り出したとしても再利用はできない。心肺停止、つまり血液の腐敗、もしくは違うDNAを読み取った時点で自滅するわ。一度発動したIDはその個体の細胞が死ぬまで一心同体。海馬や大脳皮質と同じように機能するの。そして、すべてが人工管理塔の情報保管庫に転送される。だから、何処で何をしようと、行動とその記録は明白のはず。たとえ、自然保護回復強化区域であっても」
パンサーは、マグノリアの真摯な顔が語る明朗な解説を、最後まで冷静に聴き遂げた。そして決して反論でも異論でもないという素振りで、宙に向けて慎重に持論を展開していった。
「キメラというものを、聞いたことはありますか」
「何だ?妄想の話なら専門外だぜ」
「これは医学上の話です。何らかの形で、ひとりの人間の中に、ふたつ以上のDNAが存在している状態のことをそう呼ぶんです」
「それは、母体の胎内での話でしょう?私も専門外だけど、確か二卵性双生児の受精卵が融合することで起こる、ごく稀な現象のはず」
「そうです、それは、奇跡に近い自然現象です。でも、もうひとつは、人間の手に寄って造られています」
「───まさか、移植?」
「そう、臓器移植です。臓器だけの状態なら、首脳AIは細菌やウイルスの検知以外無関心です─── おそらく、管理システムを通過して集結共和都市に持ち込めるはずです」
「誰かの手や足を自分の身体にくっつけて歩いてるってのか?気味悪い・・・吐き気がしてきたぜ」
ウィーゼルは露骨に顔を歪めた。普段、無機質なものとばかりつき合っているせいか、体温や血の気のある生々しい話には疎いようだ。彼の頭の中では、おそらく空想上の“キメラ”のグロテスクな姿が見えている。マグノリアはウィーゼルを一瞥して、青年に、またあの分析の視線を向けた。
「つまり、IDが二種類のDNAを感知してエラーを起こしても“移植手術”を受けたと言えば通る。─── すべては、あなたの居た医療機関で起こっていることなのね」
マグノリアは、パンサーの蒼みがかった淡褐色の瞳に翳りを見た。そのきめ細やかな蒼白の顔を見ていると、数多の戦場に赴いた、今にも頽れそうな兵士が気迫を奮い立たせて立っているような、何か脆く固い決意のようなものが伝わって来る。
「─── 臓器提供に関しては匿名であることも多く、人命の方が優先されるため医療機関では提供元は追跡しません。誰に救われたのかも解らず生きながらえている人たちが、集結共和都市には、たくさん居ます。在り来たりな言葉ですが、誰かの犠牲の上に、俺たちは生きているんです」
青年はいつの間にか、見つめる先に衛生兵として戦場に生きた、父親の顔を思い浮かべていた。
「おい、道徳のお説教は終わりだ。それでお前は俺に何をして欲しい、何で俺はこんな気味の悪い話を聞かされてるんだ」
「先ずは、キメラに反応するシステムを造ってください。今後の判断はシリウスとフェンリルに委ねます。傍受されないために、俺は直接ここへ伝えに来ました。今後も無線などでは絶対に口にしないようお願いします」
「良い考えだわ。誰かを殺してIDを奪っても無駄なことだし、虹彩や指紋も眼球や指を切断して保存しておけば誤魔化せる。確かにDNAの方を対象にすべきよ。ウィーゼル、同じ機能のIDチップを同時に持っていると相互干渉を起こすの。だからあなたにこのチップを開発してって言ったのよ、理解してる?」
マグノリアは、顔を歪めてだらしなく口を開けているウィーゼルに向かって、豊かな髪を揺らして露わになった白い首元をトントンと指した。
「・・・何でもかんでも簡単に言いやがって、話はわかってるよ、俺はただ血腥い話が嫌なんだよ・・・吐きそうだ」
「マグノリア、あなたにはこの男の身元と周辺を探ってもらいたいんです。おそらく、元の持ち主のデータが出てくる可能性が高いですが」
「もちろんよ。不自然な動向を探ってみる」
「俺は、裏切者の方を。臓器の入手元と、執刀医を探ってみます」
「───パンサー、あとで一緒にお茶でも呑まない?」
元居た穴蔵へ戻ってゆくウィーゼルの浮遊を見送っていると、不意にマグノリアが笑いもせずに言った。思いもよらぬ言葉に、あたたかな丸みのある真顔を恥ずかしげもなくじっと見つめ、パンサーは虚ろに「はい」とだけ応えたのを、散漫な意識の片隅に憶えている。
「俺は医者なんか辞めて、ガキなんて持たずに、アウトローになって渋く生きたいんだ、だから仲間に入ったっていうのによ、あの人は何でいつも俺に冷たいんだ?」
「ジャッカルは、誰にでもそうだよ。それにお前は、訓練だってサボってるだろ」
「レフやお前とは馴れ合ってるくせに、何だよ」
「俺だって、この間も胸ぐらを掴まれたよ」
パンサーは目が醒めても呂律の周りきらないカレロの相手を根気良く続けながら、点滴筒の流量を確かめていた。そして、薄い乳白色の手袋で細く透明なチューブを手繰り、中腹の三叉路のようになっている側管に横から注射器を差し込んだ。
「なあ、フィン、何で俺だけ名前をもらえないんだ?」
赤く潤んだ惨めな瞳が、凛とした青年の瞳を捉えた。ぶよぶよと澱むカレロの目には、気のせいかその顔はいつもよりも冷たく映り、寂しさと不安が胃酸と一緒に込み上げて来る。
「あんな暮らしは嫌だってお前も話してただろ、今じゃこうして解放されたんだ。やっぱりあんなヤツらとは違うんだよ、俺たちは特別なんだ、そう思うよな、フィン」
パンサーは危うく腕を掴まれそうになり、咄嗟に素早く立ち上がった。その、初めて目の当たりにする明からさまな拒絶にカレロは愕然と怯え、みるみる狼狽えはじめた。
「誰だ───」
半分は涙に崩れ、唇だけがちぐはぐに笑う顔に向けて、パンサーは自分でも驚くほど澄ました冷気の声でもう一度「誰なんだ」と繰り返した。
カレロは自分が何を問い詰められているか、すぐに見当がついた。あの日から、胸に付着した小さな紅い染みを隠そうとする度に、染みはどす黒い紅さを増して拡がり、心を蝕み脳を侵し、安らかなはずの夢にまで喰い入り、もう素面では生きていられないほどまで腐っていた。そして“追放”と云う究極の見放しに遭い、カレロの穴だらけの心は、泣こうと喚こうと暴れようと、もう絶対に赦してもらえないことを悟った無垢な幼児に還った。
「・・・・・・シュトラオス、そんな名前だった、たぶん偽名だ。お前が居なくなる、半年くらい前のことだ。悪かったよ、謝るよ、でも、俺は・・・あいつは家族も居ない、意識もない、あの男はただ死んで逝くだけの運命だった・・・殺してなんかない、俺は殺してない」
パンサーは記憶を淡々と辿り、カレロがはじめて盗みを働いた時期と照らし合わせ、判断力が低下し、意識が混濁する中でも齟齬が起きないのかと不思議と感心した。
「遺体をどうしたんだ」
「死んでない・・・まだ繋いである」
感情はもはや、その在処が解らなかった。ぬくもりのあった心は、抑え続けた怒りがいつしか弾け、血潮が噴き出て、気づかぬうちに冷え固まったのだ。自分の背後から、もうひとりの自分が見つめているような自分ではない冷徹な感覚が何処かにあった。青年は点滴筒に手を延ばし、流量を増やした。カレロは弛緩した筋肉で上半身を起こそうと健気に努力したが動かせず、重力のままに頸を垂れ、まだ動く両腕で闇雲に空を掻いて掴み掛かろうとした。そしてできないと知ると、また哀しげな奇怪な苦笑に塗れた。
「・・・そうだ!今度一緒に暮らそう・・・お前、寂しいんだろ?・・・あんな広い家、寂しいんだ・・・俺は・・・一緒に、居てやるから・・・・・なあ・・・俺たち、親友だろ ───」
青年は人間がただの人形になる瞬間を見た。何度も、何度も見たはずのこの瞬間を、魂が抜け、空っぽの外殻だけがだらりと残る呆気ない瞬間を、決して眼を逸らさず、最期まで見届けた。
部屋が一気に死の静寂に包まれた。パンサーはベッドからずり落ちたままの、まだ体温の残る腕を取り、胸の前に載せ、胴体の向こうに投げ出してあった腕も同じように合わせた。衣擦れの音だけが異様に、鮮明に鼓膜に響いている。そして、カレロだった物の顔の上に手の平を運び、見開いたままの瞼を降ろすと、手の平に生温い水分が付着した。青年はその温度が冷え切るまで、細い血管が透けて見える蒼白い手の平を見つめていた。
その時はじめて、酷く動悸がしている自分に気がついた。心臓が胸を破りそうなほどに震えている。
意図して、生命を奪うことの恐ろしさか、
新たな、自分が生まれた畏ろしさか ───。
「───パンサー、あとで一緒にお茶でも呑まない?」
マグノリアの無愛想な声が脳裏に甦った。その親身に歩み寄ってくれた、人間らしい声を脳内で何度も繰り返し、青年は涙を流そうと試みた。まだ自分が、首脳AIに“正常”と判断される側の人間であることを、理性が必死に確かめたいと願っていた。




