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Ⅶ:孤狼

「あいつが居るぞ」

「本当だ、近づくと食べられるぞ、おい、早く行こうぜ」


ひそひそと噂する(わら)い声が聞こえた。背中に見えない腐った卵を投げつけられた気分だったが、白痴な戯れ合いに関わる気もなく、(ほうき)で床を履いていると、揉み合っていた気配は急に駆け出し、足音はすぐに遠去かって消えた。しばらくその場に立ったまま、呼吸を抑えて耳を(そばだ)てていた。幕を隔てた風の音、微かな家鳴(やな)り、ヒトの声も混じっているが、これは断続的で曖昧だ。奉賛者(ディアコニア)たちは、(やかま)しく賑やかな方へ気を取られているらしく、この問題児の見廻りを怠っている。半開きで放置された扉を敢えてそのままにして、シビルは箒を壁に投げ出した。掃除の時間は、この孤児養護施設(オルフェス・テッサ)の迷路を自由に動き回ることができる貴重な時間だ。大した広さはなく一見すると単純な構造のように思えるが、物陰に意味深な柵があったり、大人ひとりが横這いでようやく通れるほどの壁の隙間があったり、明からさまに立入禁止とされている棟があるなど、抜け道となるであろう隠された(みち)が随所に存在している。


はじめはただ、柵を越えて大地に駆け出せばいいだけのことだ、と考えた。しかし、あの無防備で粗末な格子柵(ラティス)が、何故か不気味だった。ヤギもニワトリも子どもたちも、その気になれば、壊すなり跳び越えるなりして簡単に逃げ出せるはずが、誰も近寄ろうとしないのだ。庇護も屋根もない荒涼の平原で、イヌワシに(さら)われることを恐れるのか、雷雨に打たれることを恐れるのか、それとも飢えを、孤独を恐れているのだろうか。もしかすると、あの柵には、見えない猛毒が塗ってあるのではないだろうか。


肉体的な死か、概念的な死か。すべては、本能がその選択を拒むのだ。


シビルは付き纏う見張りの隙をついては、(つぶさ)に建物中を嗅ぎ廻った。講堂、食堂、就寝室は子どもたちが日常的に行き来する場所だが、渡り廊下の途中を曲がって奥まった先にある、沐浴場やトイレ、貯蔵庫の辺りは人の動きが少なく普段は暗く澱んでいる。その先にある中庭に面した炊事場、少し進んだ右手の扉の処置室は火器や刃物、薬品があるせいか、安全のためと称して常時鍵が掛かっており、掃除の際も解放されることはない。そして、客室と呼ばれている開かずの間も、扉が開かれたのを未だ見たことがない。回廊から見える食堂裏から、狭い石階段を降って行く半地下の聖所(ハギオン)への地下道は、芋や林檎を保管している、食堂の地下食糧庫へ通じていることが分かった。無論、途中の鉄柵は施錠されており、位置から推測しただけで実際の道順を辿ったことはない。しかし、ある雨の日の湿気の中に漂う青菜や酵母の独特の匂いを嗅ぎ取った。それ以来、関心は建物の下へと移っていった。

運動時間に、唯一親和性を感じられるヤギを眺めていた時だ。産まれたばかりの仔ヤギの寝床として敷き詰められた藁の、ほんの隙間から見えた鉄格子が、偶然にも新たな地下空間の存在を仄めかしていた。しかし、屋外では見張りを巻くことも難しく、度々阻止されて未だそこへ至る道筋は見つかっていない。地下墓地(カタコンベ)なのか防空壕(シェルター)なのか不明瞭だが、通気口が在るなら、人が長時間留まることができるという推理に繋がった。


翌日の掃除時間に、あの通気口の上にあたる図書室を探ってみたが、地下へ繋がる扉などは見当たらなかった。しかし、その隣室に連なっているのが、開かずの間とされる客室だというのも余計に怪しさを増している。何処かに隠し扉がある可能性もある。もっと入念に細部まで探りたいところだが、入り組んだ本棚や中二階まである狭いダンジョンのような図書室は、しばしば、子どもの恰好の遊び場となる。掃除道具を持ったまま、そこら中にぶつけるのも構わず騒ぎ立て、柱や本棚の陰から毒ヘビのように飛び出して来るので、あの無邪気さが邪魔で仕方がない。子どものひとりやふたりなら、腕にでも噛みついてやればいいだけの話だが、その後には間違いなく面倒が待ち構えている。


悪辣(あくらつ)なサーロスの教育により“君主(モナク)の教えを破った者、皆の安全を脅かす者は、直ちに奉賛者(ディアコニア)に報告すること。さもなくば、友にも愛にも幸運にも見放され、永久に孤独の井戸を彷徨うのだ”とされており、ことある毎に、中庭の涸れた井戸を囲って、底無しの闇を順番に覗き込ませて刷り込んだ。そのせいで、無垢な子どもたちはゲームのように互いを監視している。摘発者はまるで、鬼の首でも取ったように競って告げ口に走った。勝者は仰々しく聖画像(イコン)の元で賞賛され、褒美として特別に甘い焼き菓子を受け取る。そして君主(モナク)が両頬に手を添え、顔を覗き込んで“今在る恩恵は、あなたが正直に生きてきた証だ”と、純粋な瞳の奥の脳髄に、その経験を(ほまれ)として焼き付けるのだ。

吊し上げられた者はといえば、特別教育だと云って数日姿を見なくなるか、時には、そのまま里子に出されたと云うこともあった。しかし誰もが、見放されたに違いない、と信じ噂していた。そのため、子どもたちは大人たちに従順だった。誰もが眼を光らせ、誰もが他人の眼に怯えていた。


シビルは何度も調べた半円筒型の就寝室をうろうろと歩きながら、爪先立ちで細いアーチ窓の外を覗いたり、(ひび)の入った漆喰の部分を箒で小突いたりしてみたが、手応えは虚しく、頭上の丸天井を途方もなく見上げた。屋根の上に出る策も無いが、それ以前に箒の柄ですら到底届きそうにない。ベッドの骨組みを足場に壁の中腹までよじ登ったとして、窓には金属の湾曲した鎧戸が取り付けられていた。(ことごと)く硝子を破って頭を捩じ込んでも、肩がつかえてしまうだろう。向こうの建物は骨組みが重厚な石造りのため、抜け道を探し当てない限り到底歯が立たない。多少強引な希望を感じているのは、この離れの棟だけだ。破壊されて修繕したのか、戦傷者のために突貫で増築したのか、この就寝室と向かいの塔は、どうやら木造と煉瓦(れんが)を組み合わせた建築構造のようだった。


扉の隙間から吹き込んだ風に乗って聞こえてきた遠くの声に、無意識に廊下の方を見遣った。正面に位置する鐘楼塔へ続く棟には、奉賛者(ディアコニア)たちの単身部屋(セル)が並んでいるようだが、日中は古風なウォード鍵と南京錠で厳重に(とざ)されており、中の様子は探りようがなかった。就寝室を出て左側はすぐに突き当たりとなっており、小窓の下に飾り台と野草を生けた小さな花瓶が置いてあるだけだ。右手は中庭に続く渡り廊下が向こうの建物まで延びており、壁は無く単身部屋(セル)の棟を外側から眺めることができる。小枝の合間にわずかに見える縦長の小窓から、片方に六部屋はあるようだと推測できたが、あのひとつの窓がひと部屋なのだとすると、独房のような狭さだろうと想像した。その棟の行く先は、その(すみか)であろう君主(モナク)の許可無しには、奉賛者(ディアコニア)たちでさえも出入り禁止とされているらしい。おそらく塔の鍵は君主(モナク)自身が持ち歩いているに違いない。しかし今は、あの男の寝首を掻くことが目的ではない。


同じ背丈ほどの長い箒を手に、白々しい遺体安置所のような部屋の中道をぶらぶらと歩いた。いつも寝ているベッドの前まで来ると、何気なく腰を下ろす。馴染む気もない居心地の悪い施設だが、自分の寝床だけは妙に落ち着くことが、返って不快だった。退屈さに嫌気が差し、せめて自分の寝床くらい掃除をしようかとベッドの下に屈み込み、箒を構えたその時、カリカリと引っ掻くような不自然な音が聞こえてきた。耳を澄ますと、それは壁の下三分の一ほどを覆っている、油膜の剥げた腰板の中から聞こえており、徐々に隣のベッドの方へと移動してゆく。内側には板が嵌っているとしても、表の壁面は煉瓦造りのはずだが ───。不可解に思いながらも、身体は既に腰板に張り付いていた。屈んだまま、這うようにして音を追いかけ、ベッドの下を次々に移動した。そして目の前に行手を阻む壁が現れたところで、はっとした。朽ちた腰板が裂け、黒く欠けた部分の傍に小動物の門歯の跡がある。興奮を抑え、頭を押し付けて耳を(そばだ)てると、微かにネズミのものらしき鳴き声が聞こえた。咄嗟に頭をぶつけたのも構わず、ベッドの下から飛び出て一目散に箒を取りに行った。滑り込んで戻ってくると、突っかえて邪魔なベッドの鉄脚を闇雲に押し除け、裂けた板の隙間に箒の柄を思い入り差し込んだ。上下左右に力任せに抉ると、朽ちて脆くなった腰板は、バキバキと音を立てて割れ、その下から漆喰らしきものがぼろぼろと剥がれ、何処かへ落下した。確かに、落ちた ───。それも、遥か奥底の方までぱらぱらと音が吸い込まれて、掻き消える。すぐさま、箒を放り出して床に這い(つくば)り、深い闇を覗き込んだ。


「この辺で見たの?」

「ひとりで行くなよ、あいつはオオカミなんだから、危ないんだぞ」

「そうよ、わたしたちを食べるつもりなのよ。だって、いつもみんなと同じご飯は食べないじゃない」

「ソーニャはどうして何であんな変な子にやさしくするの?」

「可哀想だから?───」


顔を上げると、扉に眼があった。驚いた対の眼がふたつ、片眼がひとつ ───。そのうち、ソーニャの青い瞳だけがそこに残った。不自然なほどの静けさに残された、わずかな時間に、揺れ動く青い瞳と見つめあった。それは、あの雪原で遭遇し時を共にした、気高き双眸(そうぼう)を想い起こした。しかし、今見下ろしている双眸には、失望と非難と葛藤が混濁し、そして人間らしい同情がその瞳の奥に満ちていた。ソーニャは肩で息をしながら、扉の陰に顔を隠した。そしてもう一度覗いた顔には切迫した緊張と涙が(あらわ)れ、扉から飛び出して来ると、座り込んでいる腕を掴んで力尽くで引っ張り上げ、そのまま廊下へ連れ出した。そして突然振り向き、両肩を乱暴に引き寄せて、まるで今生の別れのように、埃だらけの黒髪の頭をその胸に激しく抱き締めた。


「シビル、お願い、逃げて ───」


耳元で囁いた掠れて擦り切れそうなその声に、シビルは放心した。


肉体的な死か、概念的な死か、どちらかを選択する時が来たようだ ───。


シビルは、絡みつく罪滅ぼしの腕を振り解いて、鐘楼の方へと駆け出した。足が(すく)まぬよう、獣を宿して、ひたすらに草を蹴った。石壁も樹も柵にも目もくれず、前へ、前へと風を切って走った。その眼前の遥か遠くに広がる、無作為の大地を自由に駆け抜ける少年の背中が見える。柵を越えて解放された心と意識は、ひと足先に陽射しの原野に放たれていた。


「ソーニャを見棄てるのね!」


身体が意思に反して足を緩めた。誰かが口火を切ると、濁りのない声が次々に叫んで白熱してゆき、裏切者、薄情者、卑怯者と云う毒を詰めた腐った卵を、背中をめがけ、降り注ぐ矢のように投げ飛ばして来た。その異臭を放つ粘り気は、耳に張り付き、頭から顔や胸に纏わり、やがて脚にまで垂れ、白い柵に触れる寸前で、ついに爪先までべったりと重くへばり付いた。

シビルはまだ、少年を見ていた。草原を駆け、大空を見上げるその姿を、澄み渡った深い紺碧の瞳に焼き付け、ゆっくりと幕を下ろすと、一条(ひとすじ)雨雫(あましずく)が冷たく頬を伝い堕ちた。




雲が出て来た。唯一の連れ合いの前を行く影が、幻のように薄まり、呼び留める間も無く儚く消え去った。後には、ザクザクと砂利を踏む渇いた足音だけが、孤独に取り残された。時々、夢の中を歩いているんだったかと意識が錯覚を起こすほど、いつまでも距離の縮まらない乾草色(ほしくさいろ)の平原がだだっ広く続いている。こんな時にこそ、野ネズミかトカゲにでも出て来て欲しいものだが、姿形は何処にもなく、まるですっかり息を潜めているようだ。それとも一匹残らず強者の餌食に成り果てたのか、乾いた不毛の大地を棄て、逞しく、より険しい弱肉強食の森林に挑んだのかもしれない。顔を上げて、遠い山脈を見渡した。尾根には暗雲が立ち込め、白む山々と混じり融け合いはじめている。あの山の頂上に昇れば、大空を自在に舞う猛禽類のように、雲の上の景色というものを、少しは味わえるのだろうか。

くだらない思考の暇つぶしに自嘲を浮かべていると、ふと胸元に動きを感じた。そういえば、今日はよく眠る小さな相棒を抱いていた。首には華奢な赤い首輪をつけてやったが、まだ痩せすぎていて大分輪が余っている。あれから、寝床に連れ帰ったはいいものの、常に気が気でなかった。目を離したほんの隙に小さな鼓動が止んでしまうのではないかと、眼が醒める度にベッド傍の籠に手を突っ込み、大抵は眠っている仔猫の、か細い肋に手を当ててはその脈動を感じて安堵した。そうかと思えば腹が空くと「にゃあにゃあ」と突然騒いで起こされる。朝までその繰り返しで、今日まで毎夜ろくに眠れなかった。パンサーに言われたとおり、決められた時間に薬とミルクを与え、毎日目ヤニを拭いてやると、小さな硝子玉のような青い瞳が甦り、見えているのか、だんだんと退屈で無骨な顔を見つめる時間が増えてきた。

だが、そんな寝不足の日々も、今日で終わりだ。


ようやく、あの朽ちかけた教会(エクレシア)が近くに見えて来た。白い格子柵(ラティス)の合間から、眼を細めて中の様子を窺ってみるが、庭先は閑散としており、砂埃と枯草だけが乾いた風に吹かれていた。相変わらずの、申し合わせもない勝手な訪問だったが、時間は前回と変わらぬ昼前だ。中で授学(エチュード)でも受けているのだろうか。まさか、全員引き連れて消えたのか、とも勘繰りはじめたが、けたたましいニワトリの声がその邪推を遮った。

そして、気味の悪い不穏な静寂に、おそらく、あの男が居るのだと、本能がその気配を感じ取った。


車両(ヴィークル)が一台通れる幅の、同じ背丈ほどの門扉と対峙すると、荒い間隔の木格子に取り付けられた、模造品とも思える、あまりに簡易的な小さな(かんぬき)と極めて旧いウォード鍵をしばし睨んだ。右の太い木製の柱に黒鉄(くろがね)の呼び鈴が下がってはいるが、どちらにも手を触れる気にはなれない。

あらゆる可能性を考え抜いたのち、足元や辺りを振り返って枯草の上やその向こうに(くび)を伸ばして何か棒のような物が落ちてないかと見回した。しかし目に止まるほどの物は、そう都合良く転がってはいない。仕方なく、左手で下の方から上着ごと仔ネコを支え、右手を開いた胸元に差し込んで、肩口のベルトからコンバットナイフを取り出した。前回の反省を踏まえ、今日の装備は万全だ。門扉の真正面を避けて傍の柱側に立ち変え、右手で刃先を掴み、絶縁素材の持ちグリップの部分で慎重に閂に触れると、鍵は押されるまま無抵抗に横へと滑った。そして、風か重力か、ギィと軋み声を上げ、まるで、招き入れるかのように、自然と不気味に門扉は開かれた。


締め忘れたのか ───。


ジャッカルは、あまりに杜撰(ずさん)な管理に、半ば呆れながらナイフをしまい、代わりに直感通信端末(ICD)を取り出し、爆発物探知(ダウジング)モードレベルを最大値に上げると、右耳のイヤーカフに指を充て、緊張を研ぎ澄まして、右足を一歩、慎重に敷地内に踏み込んだ。本物の廃墟さながら閑寂とした建物の窓を覗き込みながら、先ずはあの少年が佇んでいたヤギ小屋の方を目指して歩みを進めた。地中に含まれる多少のガスや金属を感知して微量のノイズは聞こえるが、今のところ、爆発物探知(ダウジング)に強い反応はない。どうやら待ち構えて罠を張っているわけではなさそうだ。古代の神殿を思わせる柱廊玄関を避けて、反対方向へと壁伝いに向かって建物の北側から裏手に回り込み、大きな三角屋根の小屋の方へ近づくと、家畜の発酵したような独特の獣臭さが鼻を突いた。建物の石壁と小屋を渡す、木屋根の下の柵の中には、一頭のヤギが座っている。あの少年に視線を重ね、その場から雄大な山の方を見渡すと、石壁の連なるその奥行が、予想よりも遠くまで続いていることに驚いた。あの女が言うように、ここがかつて野戦病院であったのなら、教会(エクレシア)というより修道院(モナスティーリ)に近い造りのようだ。独りでこの広さを把握するには、骨が折れる。裏庭には家畜たちが、充分な広さに放牧されている。数頭のヤギは口をもごもごと動かしながら、こちらを物珍しそうに眺め、十羽に満たないニワトリたちは、地面を(ついば)んだりしながら自由に歩き回って長閑にすごしていた。


あの男は、食糧難の集結共和都市(クラスター)に対し、永続的な“食肉”の提供を条件に ───。と申し出たと聞いたが、この規模でそんな話を持ち掛けるとは、一体どう云う魂胆だろうか。


胡散臭さと獣の臭いに顔を(しか)めていると、一瞬、鮮烈な憶えのある、錆びた鉄の臭いが生々しく鼻先を掠めた。その源を探って地面の方を見回していると、裏庭から隔離された眼前の柵の中に、赤黒い不穏な影が眼に飛び込んできた。

血溜まりだ ───。

それは、敷き詰められた藁の上に重くのし掛かり、異質にべったりと垂れ、表面は既に固まりはじめている。隅で力無く座り込んでいる一頭のヤギの様子を先ず窺ったが、身体には何処にも傷らしきものは見えず、腹の下も血に濡れてはいない。そしてその腹を辿って異様に大きく膨らんだ桃色の乳房を目にした時、はじめてこのヤギは出産したばかりなのだと気がつき、ふと深刻に張り詰めていた気が緩んだ。だが、傍に居るはずの仔ヤギは見当たらない。ジャッカルは黒い血溜まりを眺め、もう一度、声も立てない静かなヤギの瞳をじっと見つめた。そうして、何か繋がりのようなものを感じた時、言葉にならないその心情が吸い込まれるように流れ込み、彼女が眼の当たりにしたであろう、残酷な、無惨な、非情な、またもうひとつの結果に辿り着いてしまった。

もう、立ち上がる気力もないのだろう。無感情な横長の瞳孔には、哀しみも、怒りも、絶望すらも無かった。魂の灯が消え、空洞の身体だけが生理的に、機械的に、ただ活動しているに過ぎないのだ。


─── だが、(お前)たちは強い。またいずれ灯が点り、立ち上がるその時が来るだろう。


ジャッカルは、無言でヤギの瞳に灯を託し、踵を返そうとした丁度その時、鋭敏な耳が石を打つような奇妙な音を捉えた。それは、何処か宙に響く幻聴のようで、身体を反転させて神経を集中するも、その音の方向感覚がまるで掴めない。しかし、上空ではないのは確かだ。衣服の擦れる音に苛立ち、腹の仔ネコを庇いつつ、その場に片膝を立てて屈みこんだ。すると、音は明瞭に聞こえはじめ、カツン、カツンと地面の方から確実に響いて来る。


地下室か ───。


ジャッカルは長い股下を活かして柵を(また)ぐと、血溜まりにも構わず、素手で石壁に掛かる藁を根刮(ねこそ)ぎ跳ね除けた。そして同時に、音がぴたりと止んだ。


しまった、勘付かれたか ───。


咄嗟に、石壁に肩をぶつけて息を潜めた。そして右手を背中に回し、腰の黒い銃を抜き取り、石壁と地面の隙間に現れた鉄格子に向けて銃口を構えた。音は途絶えたままだ。だが、慌てて逃げた気配もない。まだ、そこに居る。意を決して砂利が頬骨に刺さるほど地面に顔を近づけ、引き鉄(ひきがね)に神経を注ぎ、ゆっくりと鉄柵の隙間を覗き込んだ。


次の瞬間、身体が跳ね、顔中に電流が走った ───。


一瞬の金縛りから解かれ、ジャッカルは瞬発的に藁の上に転がり、鉄格子から仰向けに跳び退いた。


今、一体、何を見た ───。


あと一秒遅ければ、失明していた。脈が激しく頭の中に鳴り響いている。はっと懐を覗き込んで仔ネコ片手で抱き上げたが、だらんと身を委ねてはいるものの、大きな怪我はなさそうだった。振り回されて驚いているのか、青い瞳を眠たそうに瞬いている。ジャッカルは仔ネコを胸の上に降ろし、悪夢から眼醒めたばかりのように、藁の上に寝転がったまま木板の屋根を仰いだ。

何か鋭く尖ったものが、眼球を貫く寸前で光った。その向こうには血走った大きな眼玉が、ぎょろりと浮いていた。その形相が(おぞ)ましく強烈に刻まれ、意識を混乱させている。

冷静に記憶を整理しようと起き上がり、藁に(まみ)れた短髪を掻き乱し、仔ネコの頭を無造作に撫でた。

─── 痩せた顔つきだった。闇に融ける黒い顔、蛇の群れのような奇怪な頭、布切れを巻き付けた境のない胴。そして、片脚が一本欠けていた。

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