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Ⅳ:仔羊

 今朝、早くに悲鳴を聞いた。浅い微睡(まどろ)みから跳ね起きると、あたたかな毛皮のぬくもりは跡形も無く、時を奪われた繰り返しの光景が広がっていた。長い部屋に鉄筒の骨が露わになった寒々しいベッドが連なり、足を向け合う蓑虫(みのむし)ばかりが根雪のように横たわっている。白濁した意識の中で“白い悪魔”が遺して行った瓦礫(がれき)と灰色の街が(よみがえ)る。過去か幻影か現実か、曖昧な境界に苦悩するまでもなく、今ではそのすべてが事実と知っている。過去に幕を下ろしてから、ゆっくりと(まぶた)を上げ、現実の時を見渡した。高い円天井の広間は薄暗く寝静まったまま、誰ひとり起き上がる気配もない。蓑虫の頭を端からひとつひとつ数えてみた。どれも無防備に寝入っており、空のベッドはない。


ソーニャの居る部屋の方だろうか ─── 。


鎧戸(よろいど)の隙間から漏れる仄白い光を見遣った。夜明けは近い。長い大部屋の突き当たり、廊下の方へと耳を立ててみると、声らしき抑揚が微かに聞こえて来る。あの大扉の傍に寄れば何か聞き取れるだろうと考えてみるも、冷たい床に足を下ろす気にはなれなかった。錠が解かれるには、まだ早い。胸騒ぎに冴えてしまった意識を窓の外や廊下へ凝らした。しかし、あれから悲鳴を聞くことはなく、奉賛者(ディアコニア)たちが騒いでいる様子もない。冷たい鉄枠に背を当てたまま、秒針の音すらない部屋で眼を開けて、ただただ座っていると、一刻が無限のように延びてゆく。やがて、冷たい肩にやわらかなぬくもりが触れ、次第に景色が夢現(ゆめうつつ)に滲みはじめた。誰かにそう促されるまま、重たい布団を持ち上げると、冷えた身体を寝床に滑り込ませ腹を護るように背を丸めた。



「さあ、起きなさい、朝ですよ」


大扉から、通る声と眩しい朝陽が一気に差し込んだ。蓑虫たちはもぞもぞと動き出し、早い者は寝ぼけまなこで布団とシーツを整え、壁際に枕を立ててからベッドの下に揃えてあった粗末な紐靴を履いている。そして中道に列を成し、出入口側の先頭から順に扉を押さえて待つ奉賛者(ディアコニア)の顔を見上げて挨拶を交わし、(ようや)く、陽の照らす廊下へと解放されてゆく。


あの悲鳴は夢だったのだろうか。何の変哲もない日常の踏襲に、徐々に確信が(むしば)まれはじめる。

喰われてしまえば、終わりだ ─── 。

ぞろぞろと前を歩くふくらはぎと、同じ靴の足首を眺め飽きた頃だ。陽の当たらない薄暗い通路を抜けて中庭に差し掛かると、茂る林檎の樹の向こう、円柱(まるばしら)の陰に両手で顔を覆う若い奉賛者(ディアコニア)の姿を見た。もうひとり黒衣はサーロスだ。あの背丈は間違いない。肩を(さす)り顔を覗き込んで珍しく親身に(なだ)めている。さすがに目敏く、対岸の列に気がつくと、さっと奥の暗がりに身を隠した。首を垂れ、視線だけを探りに向けていると、取り乱した若い奉賛者(ディアコニア)が首を振り、その顔が陽の元に(あらわ)になった。潤んだ目つきは虚ろに何かを訴え、何か(おぞ)ましいものにでも取り憑かれたかのように怯えていた。しかし、それはほんの一瞬で、すぐさま腕を引かれて柱の向こうに見えなくなった。


「また幽霊を見たんだ、三本足の黒いのが裏庭の方を通り過ぎた」

「三本足?どうせ怪我したオオカミか何かだよ、オレグは恐がりだからな」

「オオカミじゃない。あんなに脚が長いの見たことないよ、気味が悪い」

「じゃあ、狼男かな」


細い格子窓が並ぶ食堂では、また変わらぬ朝が繰り返される。長いテーブルの両脇に並ぶ等間隔の座席は奥から詰めて埋まってゆき、中央をやや過ぎたところで背(もた)れを引く番が回ってきた。目の前には左手にヤギのミルク粥、右手の奥に薄紅色のジャム、手前には赤玉のゆで卵がひとつ転がっている。どうやらまた週が変わったらしい。後続の列が到着したようだ。聞き覚えのある澄んだ声に顔を上げると年長者のソーニャが斜め向かいの椅子を引きながら、隣り合わせの少年と笑顔を交わしていた。人知れず胸を撫で下ろしている視線に気づき、伏目でやわらかく微笑みかけてからゆっくりと椅子に腰掛けた。それが彼女のいつもの挨拶だった。どうやら向こうの部屋にも異変はなかったようだ。子どもたちが白いクロスの長テーブルに着き終えると、支度を終えた奉賛者(ディアコニア)も顔を揃え、下座の席を埋めてゆく。

その重い気配を感じて、大きく開かれた扉の方を振り向くと、陽光の舞台に、まるで王のような風采の堂々たる君主(モナク)が姿を現した。恰幅の良い大きな腹の傍らには、昂然と少女の肩を抱いている。一頻(ひとしき)り注がれた視線を堪能すると、浮かない顔で佇む赤毛の少女を席へ着くよう促し、悠然と黒いマントを翻しながら厳かに上座へと腰を下ろした。そして静粛な一堂の顔ぶれを見回し、食前の儀式をはじめようとしたところで、珍しく遅れてサーロスが扉の端から入って来た。不本意な注目を浴びながらも颯爽と上座に進み寄り、(いぶか)しむ君主(モナク)に素早く要件を耳打ちし、一切の脇見もせずに下座の席に落ち着いた。その瞬く間の出来事を目で追っていた子どもたちは、声を控えてはいるものの、交わす顔には幾らか動揺の色が浮かんでいる。下座の空席を見るに要件の内容は探るまでもない。誰もあの中庭の陰に気づかなかったのだろうか。君主(モナク)はわずかに太い眉を動かしたが、さして顔色も変えず、改めて一堂に微笑んで、何事もなかったかのように感謝の祈りを執り行った。


「タニア、おめでとう。お家が決まったんでしょう?」

「この間の、やさしそうなひと?」

「いいなあ、うらやましい。私も早く誰か迎えに来てくれないかなあ」

「・・・まだ、健康診断があるの」

「そんなの平気よ。誰も戻って来てないじゃない」


「ねぇ、ソーニャも決まったの?」

「あの背の高い人?」

「ううん、あのひとは・・・リリィを連れて来てくれただけよ」

「一緒に家族にしてくれたらいいのにね、そう思わない?」

「そうね、もし迎えに来てくれたら、きっと、しあわせね ─── 」


ミルクだけを飲み干し、誰よりも早く食事を終えると両手を膝に預けたまま、皿に残った燕麦(えんばく)の粒を数えながら、ひそひそと囁く雑談に気のない耳を傾けていた。それがこの苦痛な時間を凌ぐ唯一の方法だからだ。斜向(はすむ)かいの顔をちらりと覗くと、頬に儚げな淡い期待を浮かべて、ソーニャは白いミルク粥をぼんやりと見つめていた。


「タニア、どうしたの?食べないの?」


そのひと言が、遥か上座の君主(モナク)の意識を引いた。重たい視線を感じて隣の頭の陰からそっと盗み見ると、頬の垂れた寸胴の顔を上げ、眼窩(がんか)に埋まるワニのような眼が、既に無言の尋問をはじめている。カタン、と椅子の音がして振り返るとサーロスがすっと席を立ち上がっていた。その瞬間、辺りは水を打ったように静まり返った。冷徹な眼をやや細め口を固く結んだままタニアの傍へ歩み寄ると、サーロスはその背後から背筋を伸ばしたまま覗き込んだ。


「これが、みんなと食べる最後の食事です。いつか、この味も懐かしくなるでしょう。さあ、食べなさい」


サーロスが両肩に手を置くとタニアはますます深く項垂(うなだ)れ、悲痛に歪んだ顔はだんだんと小刻みに震えだした。取り巻く子どもたちは恐る恐る関心を向けながらも、サーロスの顔色を窺って、どうすることもできずにいる。すると、大きなため息と共に、鼓膜に響くような声が不気味なほど穏やかに語りはじめた。


首長(メテル)サーロス、無理強いをする必要はない。まだ胸の内の整理がつかないのだ。なにしろ急に決まった別れなのだから。時間をかけて向き合うと良い。タニアの自由にしてやりなさい」


反論を呑み込んだのか、わずかに間を置いて「はい」と短く応えると、サーロスは冷ややかにタニアを見下ろして、すぐさま席へと戻った。たびたび見せ物にされ、打ち震えていたタニアは両隣の少女たちに慰められると、ついに大粒の涙を(こぼ)して泣き出した。その有様を見せられている観客の手はぎこちなく、義務に駆られて散漫に残りの食事を続けている。

まるで、気味の悪い時間だ。

演出じみた寛大さに自惚れる不可解な男を、幾つもの頭の陰から睨んでいると、鋭い炯眼(けいがん)に敢えなく捕われた。


「また、貴重な恵みを無駄にする気かな、シビル。食べないのなら、隣人に分け与えなさい」


その“隣人”たちの顔を見ると、皆慌てて首を(すく)め、誰ひとり眼を合わせようともしなかった。



週の始まりは、いつになく億劫な時間が流れてゆく。坑道のような狭い小部屋に長さの(まばら)蝋燭(ろうそく)が灯され、滔々(とうとう)と朗読の声が響き渡る。詰め込まれた子どもたちの体温で穴蔵はほかの部屋より暖かく、長すぎる語りを子守唄に、立ったままで舟を漕ぎ出す(くび)も見えた。空腹から意識を逸らそうと(まぶた)を伏せた。しかしどうにも落ち着かず、十秒もしない内に眼を開けた。するとまた閉塞的な空間が現れる。所々が崩れ、剥がれ落ちた壁は誰とも知らぬ掠れた肖像で埋め尽くされ、重厚な装飾の額縁や燭台が余白なく所狭しと取り巻いている。そのせいか、絶えず窮屈で得体の知れない視線に晒されているような居心地の悪さがあった。何度も無意味な空唾を呑み、壇上の君主(モナク)には決して顔を上げず、煌々と燃える蝋燭の炎を眺めては、ひたすらに時が過ぎるのを待ち堪えた。揺れる炎を無心に見つめていると、ふと一条(ひとすじ)の灯りの中に、母の乳を喰む白い仔ヤギが浮かんでくる。


死ぬのが先か、見送るのが先か。

ソーニャは、近い内にここを去るだろう。


あの安らぎの姿は、か細い(むくろ)に灯されたこの生命(いのち)を無情に吹き消すことなく、未だ繋ぎ止めてくれている。



長かった悪夢から醒めると、その印に小さなパンが配られる。いつもサーロスのしもべのように後をついて回るイリーナが、石の階段の上り口に布巾を乗せた銀色のトレイを持って現れた。イリーナは子どもたちの期待に口元を(ほころ)ばせながら、大きく丸いパンをその場で引き千切り、そのひと欠片を、並んで待つひとりひとりに笑顔で手渡した。その瞬間を待ち遠しく見つめていた子どもたちは、悦んですぐさま口に投げ込んで階段を上ってゆく。もしかするとそれは、甘く芳ばしく、ささやかな至福を(もたら)す褒美なのかもしれない。ましてや、肋の骨が浮き出るほどの腹には覿面(てきめん)だ。しかし屈する気など、ない。奥歯を噛み締め、甘美な誘惑を固い唾と共に呑み込んだ。まるでその施しが最上の慈愛であるかのような眼差しで、イリーナは誇らしげにひと欠片のパンを目の前に差し出した。無言でパンを取ると、口に含むふりをして通り過ぎ、前の背中に続いて、人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段に差し掛かった。歩調を緩めて数歩石段を上ってから、右前あたりの綿のシャツを摘み出してパンを包み、階段の中腹辺りで袋状に縛ってからまたズボンの中に押し込む。そして陽の元に頭が覗く頃には、平然と大手を振って出て行った。


たとえ、指を差されようとも、

たとえ、逸れようとも、

たとえ、飢えて死に逝くとしても、

はらわたまで蹂躙(じゅうりん)されるつもりは、断じてない。

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