II:獅子
「あんなところで女子どもを囲おうなんて、よほどの“変態”だな」
熊のような手に小さなペティナイフを握り、指先ほどの丸い実の種を器用に刳り抜きながら、鼓膜に響くバリトンの声は端的に言い捨てた。まだ灯りも無い冷えたバーで大きな身体を丸め、店主は流れるような手つきで淡々と食材の仕込みをこなしている。板張りの床付近には何処からともなく冷気が吹き込み、厚手の消音ブーツの中まで凍るように冷たい。隅の暖炉をちらりと見遣った。火はまだ幼く、どうやら薪は焚べられたばかりのようだ。男は、背を丸めてカウンターチェアの足掛けに靴底を乗せた。店の外壁は真空構造ではあるものの、中央都市からの安定熱供給が為されていない店内は、夜が更けて客が増えるまで、いつもこんな調子だ。 高層集合住宅の外れ、郊外私有区域にほど近い、この残骸の地を好んで店を構えた理由は、旧き時代の営みを知る者たちの単なる懐古主義と、統制化されつつある監視網を避けるためでもある。その代償として一般市民の生活に於ける利便性と快適さを捨てたのだ。あまつさえ、この図体からは想像できないほど用心深いこの店主は、穴蔵でウィーゼルたちが独自開発した最新型の電波遮断設備を土地の四方と天井裏に仕込むほど警戒に余念がない。そのお蔭もあってか、寒さはともかく、このカウンターに腰を降ろすと全身の緊張が一気に緩むような安らぎと心地良さを感じることができた。 丸い実をナイフと手の内で纏めて小皿に移し終えると、次に硝子の容器を引き寄せ、酒に使う果物を小気味よく切り刻み始めた。その熟れた様子を眺めながら、調理とは無縁の男はカウンターに両肘を突いて、組んだ手の隙間から不機嫌なため息を漏らした。
「この拗れた話を、ただの変態で済ますのか」
「その野郎が何者にせよ、獲物には、しばらく手を出せないってことだ。おあずけだな」
着古した薄手の紺色のセーターを捲り上げている太い右腕の袖元に、手首に向かうほど先の掠れた深い傷痕が覗いている。明らかに背後から受けた裂傷だ。瑞々しい果物を見ていればいいものを、自惚れた習慣とは皮肉なものだ。男はその傷に半分気を取られていたが、咄嗟の反発心が俯く温厚な顔に喰って掛かった。
「 ─── 泳がせるつもりか」
「お前は中央都市と地下都市の両側から“鎖の持ち手”を引き摺り出すつもりだろ。違うか?」
低い眉の下から、人の良さそうな大きな瞳が、身の程知らずな顔をじろりと見上げた。忠告めいた視線に呆れを見た男は、湧き熾る感情のままに、饒舌に火花を散らした。
「集結協和都市への優遇を蹴って、永続的な“食肉”の提供を条件に議会への参加を要求してるんだぞ。ヤギと子どもを抱えてな。目的は明らかに権力と支配の侵略だ。これが、あんな廃墟の小者ひとりの思想か?」
「 お前は、そう感じたのか」
「あの男がただの狂人なら、今頃オオカミかワシの餌にでもなってるだろうよ」
「 ─── 単なる思い上がりの類いも捨てきれないが、確かに、そんな話は地下の連中の大好物だな」
「放っておけばその内、地下都市との均衡が崩れる。あの子どもたちは人質状態なんだぞ」
「おい、忘れるな」
不躾に掛かる火の粉を物ともせず、店主は冷静にナイフの刃先を持ち上げると、音もなくその顎先に突きつけた。今この場に四、五人の強盗が乗り込んで来たとしても、この店主にはその剛腕と小さなナイフさえあれば、充分だろう。それを知る男は反射的に口を噤み、茶色の髭に埋もれた口が、やがて開くのを大人しく待たざるを得なかった。たとえ刺すことはないと信じていても、喉元の神経はぞわぞわと騒めいている。
「大事なのは“均衡”よりも“共存”だ。それ以上の感情は一切持ち出すな」
冷徹な言葉とは裏腹に、深い翠色の虹彩の奥には、覗き込む相手を見透かしたような懸念と熱情を宿していた。刃先を突き付けられたまま、男はまた一瞬、太い腕の傷痕に視線を奪われた。訊くことも無ければ、決して語られることも無かったが、誰もが様々な過去をその身に刻んで生きている。
「飼い慣らしておけ。さもないと喰われるぞ、お前自身にな ─── 」
獅子の威圧に動けぬまま火花を噛み殺していたが、行き場を失った血の気は、やがてナイフの鋒に落ち着いた。まだ燻ってはいるが、漸く鎮火した様子に満足すると、店主は静かに刃先を逸らし、俎板の上を手早く片付け、カウンターに背を向けて角張った金属のポットで湯を沸かし始めた。今し方ナイフを突き付けておきながら悠々と背中を見せる店主の余裕に呆れ、カウンターの男は見えぬ刃で己を刺し、薄い自嘲を浮かべた。
─── 俺は腹癒せに、誰か憎む相手を探しているに違いない。
カウンターに両肘を突いて手を組み、拳に頬を預けて少し曇った窓の外をぼんやりと眺めた。ぽつぽつと通り過ぎる顔を、ひとりひとり確かめる悪癖がまだ消えない。芳しい焙煎の香りと湿ったあたたかさが、やさしく胸の傷を抉るように沁み込んでくる。未練を振り切って往来から顔を引き剥がすと、肘の間に湯気の立つ小さな銀色のカップが、すっと差し出された。礼代わりに視線を上げると、店主は低い下がり眉を持ち上げて軽く首を傾げ、何やら、のそのそとカウンターの中を横へと移動し始めた。小さなカップを指で摘み口元に運ぶと、円やかに弾ける泡の向こうから、深い苦味と熱が喉を灼いた。
「酒を入れやがったな」
「ひと息つけよ、この先、長丁場になるぞ」
蓄えた髭と絡み合う鬣のような後ろ頭が、大様に応えた。味は、悪くない、と喉の奥で呟き、もうひと口味わった。冷え尖った身体の芯に、じわりとぬくもりが灯されてゆく。この店に、このぬくもりに出逢わなければ、今頃手のつけられない狂犬として、其処らで腐っていたに違いない。男は顎を上げ、ひと息にそれを飲み干した。底溜まりの酒にまた喉を灼かれ、思わず鷲鼻の付根に皺を寄せ、カップの底を覗き込んだ。怪訝な顔で音のする背後を振り返ると、店主は球根が連なったようなバルボスレッグの見慣れない椅子を片手で持ち上げ、黙々とテーブルから降ろして回っている。昔はもっと粗末な椅子だったはずだが、新調したのだろうか。ふと気付いて見渡してみると、暖炉の両隣に並ぶ年季の入った木製のキャビネットが目に入った。出窓の周りやマントルピースの上にまで、味のある置物が酒瓶と入り混じって乱雑に並び、しばらく見ぬ間に随分と店が賑やかになっている。
「図体に似合わず、ロマンチストにでも目醒めたのか?」
突拍子もない嫌味に、店主は眼を丸くして顔を上げた。悪戯な笑みを浮かべる男の視線を辿り、やれやれと云った風に吐息を漏らした。
「客が勝手に置いて行くんだ。要るならくれてやる、ここはもうじき畳むからな」
そう言って最後の椅子を降ろし終えた丸い背中に、少し疲れが見える。予想もしていなかったその台詞に、カウンターの男の頬は次第に萎れていった。
「─── 引退にはまだ早いだろ、レフ」
「移るんだよ。安定した集結協和都市に“巣”を構えるそうだ。いよいよ本腰を入れて縄張りを拡大するらしい。組織も再編成される。これが終わったら、この愉快な霜焼け暮らしとはお別れだぞ」
「道連れってわけか」
「俺もお前も、シリウスのオヤジがまだ”船頭”だった頃からの仲だろ。当然、アテにされてるのさ」
カウンターに戻る道すがら、景気付けに肩を叩いて通り過ぎようとしたが、レフは何か違和感を感じてすぐに振り向いた。その異様に膨らんでいる下腹を黙って睨んでいると、男は降参して仰け反り、開いたムートンジャケットのファスナーを中ほどまで慎重に降ろした。訝しげに覗き込むと、桃色の耳と丸くなった白い毛玉が小さく息づいていた。
「何だ、イタチか?」
「仔猫だ。病院に連れて行って欲しいとせがまれたんだよ。潜入できたのはこいつのお蔭だ」
レフは呆れのあまり自然と傾いた首のまま、戯けて誤魔化そうとする無鉄砲な顔を茫然と見つめた。
「“専門家”を呼べって言いたいんだろ? それも考えたが、サーペントは遠征中で、ヴァイパーは任務中だったか?とにかく、ヤツが居ない隙を突いたんだ。待つ余裕が無かったのさ」
「・・・お前の鼻は確かだろうが、相手が女子どもだからって近づき過ぎると ───」
「ああ、もちろん、用心したさ。ただ、どうも妙な感じだ。まるで俺が独りで妄想に取り憑かれてるような気分になる。確かに旧いが建物は清潔だし、ヤギやニワトリも健康そうだ。それに、他所者の俺をすんなり中へ入れて、お茶まで出すような人たちだぞ」
「 ─── お前がそうして、そこに座ってるってことは、飲まなかったんだな」
威すような低い声で、静かにレフは囁いた。カウンターの男は動揺を隠せず、固唾を呑んで傍の銀色のカップの底溜まりを恐る恐る覗き込んだ。先ほどから鼓動がやたらと跳ねているのは、この男が入れた強い酒のせいだ。そう己に言い聞かせた。
「若いな”ジャッカル”。いや、今は”ルイス”か」
「黙れよ”バーナード”」
ジャッカルはレフを睨みつけて拳をカウンターに叩きつけた。捨てたはずのその名を呼んでもレフは同じ土俵に乗るつもりはないらしい。急に、独り相撲に嫌気が差して、ジャッカルは板張りの天井をひと仰ぎすると、あからさまにため息をついて項垂れた。
「いい面だな。俺たちの仕事は善人探しか?人のことを言えた義理じゃないが、このご時世だ。世話焼きな連中を真っ先にに疑うべきだ。お前が感じた違和感を歪ませるな。いつも言ってるだろ、俺たちが住んでる世界は ───」
『見せかけだ』
嫌味ったらしく声を揃えると、レフは戯けて両手を開いて見せた。諄い講義が終わりの合図だ。ジャッカルは、その愉快そうな顔に鼻息荒く舌打ちをした。そして気を抜くと、性懲りも無くまた窓の外の顔をひとつひとつ追いかけはじめている。白いコートの女が寒そうに肩を縮めて、虫の居所が悪い男に気がつくこともなく、足早にその視界を通り過ぎようとしていた。やわらかそうな素材のはためく裾を眺めていると、不意に白金の無垢な姿が重なり、薄曇りの窓を過ぎった。
「なあ、もしあの教会が閉鎖されたら、あの子どもたちはどうなるんだ」
「俺たちの手に負える話じゃないな。だが、オヤジのことだ、見捨てはしないさ」
軽食の支度をしてやろうと使い込んだ黒いフライパンを取り出しながら応えたが、返事はなく、翳りのある声だけが、いやに尾を引いて作業の手を遮った。急に静かになった背後を振り返ると、カウンターの男はまだそこに座っており、先ほどまでとは別人のように物憂そうに沈み俯いている。あの澱んでいた頃と同じ蒼い顔つきだ。漸く血の気が戻って来たと云うのに、またぶり返したのか。レフは濃い眉を顰めてその様子を見据え、しばらく掛ける言葉に迷っていた。下手な慰めや励ましが上手くいった試しはない。柄にもなく、長い指でそっと仔猫の頭を撫でるその手つきを見ていると、ふと、野生の勘がその予感を齎した。
「おいルイス、お前また・・・もう懲りたんじゃなかったのか」
「 ああ、懲りてるさ ─── 」




