Epilogue
尖塔の先に留まる鳳の如く、男は蒼鉛結晶のように聳え立つ夥しい直線の群れを眺めていた。円弧に林立する高層ビルの狭間にはスポークのような管状道路が貢献格差の専用区域を繋ぎ、この護りに徹する都市の礎の地を、強硬な境界崖壁地が取り囲んでいる。
その外界の生命のすべてを排斥する砦を越えた広大な景色には、突如大地に生えたモーターコイルのような異物を白い眼で見つめる、無常な果てし無い大自然が拡がっている。
後悔はないか ───。
自ら復讐心を植え付けた少年に何度もそう訊ねかけ、何度もその言葉を呑み込んだ。
自身でさえ、すべてを投げうって、この雄大な自由の大地に何故逃げ出さないのか夜毎問い詰めたくなる。時には何のために闘っているのかさえ見失い、ある日には本当に解らなくなる。
少年を引き取ったのは、その意味を見出したいと希ったからだ。しかし少年の心は北の大地に凍てついたまま、短い春を過ぎ、熾烈な太陽に曝されてもなお、いつまでも融ける兆しは見せなかった。
鳳は翼を閉じ、引き込まれるように暗い剣山の底を見下ろしていた。その深淵の奥深くには、貪欲な禽たちが巣食う冥獄が蔓延っている。この空にもあの下にも、居場所は無い───。
すると、その深くから一羽の鳥が飛び立って瞬く間に空へと舞い上がり、自在に身を翻して太陽の白い閃光の中へと消えていった。
男はぎらぎらと輝く眩しさに眼を細め、やがてその眼が灼けるまで、天高く散っていった白い鳥を陽光の中に捜し続けた。
何故戻ったの、あなたは自由になれたはずなのに。
助けを求めていたから。
何故受け入れたの、ここに来ることを。
解らない。
あなたの本当の望みは何。
強くなること─── 闘うこと。
何のために。
闘わなければ、護れない。
何を護るの。
現在を。
栄誉、勲章、名声、あなたには何ひとつ遺らない。
必要ない。
隣人、安全、生命、あなたはこれらを奪われるかも知れない。
自分で護る。
では、あなたの本能はどちらを望む、
“獣たち”の仲間として生きるか、それとも───。
フェンリル・マキナ・ジェヴォーダン───その厳格な言葉のひとつひとつは、どれも鋭く研ぎ澄まされていた。
議会の中で最も過酷な任を担う防衛角の代表と真っ向から対峙した時、その見る者を射抜くような半眼の眼差しは、冷淡に応えた少年の記憶に一指を触れた。
争いを恐れ、悉く闘いから逃げ、自身のみならず、家族にまで我慢と忍耐を強いた父を。
現実に目を瞑り、陰に隠れて夢や理想に縋り続け、子どもたちだけに希望と癒しを乞うた母を。
そしてすべてに反発し、生まれたままの血を以って在るがままで生きることを、ただただ希っていた姉を。
在りし日のその姿は、交じり合う死の氷柱となって少年の内側を静かに凍らせていた。その氷結の瞳は触れるものすべてのぬくもりを奪い、悔しさや、怒りや、寂しさの、狂暴で純粋な青さの蟠を巻いて、今も静かに少年の熱を奪い育っている。
脳に根を張る煩悩を眺め、人口植物が茂る空中の透明な遊歩道を気侭に歩いて時間を潰したのち、男は呉天室に続く長い廊下の背に腰を下ろした。すると示し合わせたように先端の扉が開き、少年を連れた、真っ白な典雅な姿が現れた。
「心から礼を言うわ。あのひとを海に撒いてくれたこと」
「自分の娘にも、永年連れ添った相棒にも立ち合わせないなんてな」
「あのひとはまた何処かで旅をしている─── お蔭で私はそう思える」
高貴な風を纏った豊かな白髪の、冴えた三日月のような横顔を、男はそっと盗み見た。粗野で奔放なシリウスの相棒だとは俄にも信じ難いなと思い続けて来たが、滅多に私情を口にすることのない涙の似合わぬ鋼鉄のフェンリルが、その薄く堅い頬に淡い想い出を浮かべた時、はじめて男はその愛を知った。
「─── 俺を選んだ理由は」
「唯一弱みを見せられたんでしょう、同じ男として。あなたの心を信じている、それは私たちも同じ」
フェンリルは多忙を極める素振りは片時も見せず、白金のブラウスと月白のスーツの優美な裾をはためかせ長い廊下を悠然と闊歩しながら、エレベーターに辿り着くまでのわずかな時間を、同胞でもあり、戦友でもあり、息子でもある、気の置ける男とのささやかな会話を愉しんだ。
「新天地はどう、あのひとの贈り物は気に入った、ルイス」
「見透かしてるだろ、フェンリル」
「敢えて言うなら、あの赤い車は、私もひと役買ったの」
「何があっても、手放しはしないさ」
ルイスはつい先日見送ったばかりの得意げな顔を想い、記憶に流れるその声を聴いて独りニヒルな笑みを浮かべた。
繊細な直線の襞のような金属の繰形に装飾されたエレベーターの前まで来ると、男は顔色ひとつ変えない少年の凝り固まった面持ちを見据え、微かな覚悟を秘めてようやく訊ねた。
「それで、質問の応えは」
「─── 仲間ではなく“同類”。はじめてよ、こんな応えは」
フェンリルは静かに振り向いて徐に屈み込むと、長い裾が床の埃を浚うのも厭わず、旧い言葉の壁を築き続ける無口な少年と視線を合わせ、その動かぬ紺碧の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「美しい言葉ね。あなたは何処に行っても、決してその誇りを失うことはない」
その鋭く美しい矢を放ったような響きに、少年は思わず薄い唇を微かに開いた。その、声にならない声を認めると、フェンリルは仄かに微笑んで、またすらりと立ち上がった。
少年はその白い姿を追うように顔を見上げた。それは、ほんの一瞬の出来事だった。
夜の海に浮かぶ大地を思わせる、その稀有な瞳に見た琥珀の輝きは、あの月夜に出逢った雪原の王の姿と重なった。
「新しい言葉を憶えたら、今度は直接話をしましょう。では新たな旅を、愉しんで」
軽い愛想を振る男と少し離れた無愛想な少年を順に見送ると、フェンリルは優雅に身を翻し、執務室である代表の厳格な玉座へと、風を纏って颯爽と戻って行った。
息を呑んで、男は目醒めた───。また、あの水辺の夢だ。
浅い呼吸に肺の辺りが重く沈んでいる。暗い自室で大きく息を吸い込んでみるも、胸の重さは消えなかった。不規則な任務と増えた雑務と中途覚醒を繰り返す気まぐれな不眠に加え、新しく広い家に慣れないからか、日増しに魘されることが多くなった。
枕元の直感通信端末を手で探り当て、眼を細めてスクリーンを確かめると、男は両手で瞼を覆い、鈍い痛みに澱む眼球を憎らしく押さえ続けた。その痛みに飽きると不機嫌にシーツを蹴って跳ね除け、暗がりで無駄な広さの孤独なベッドにしばらく腰掛けていた。
洗面台で荒々しく飛沫を飛ばして顔を洗い、見る気もない鏡と眼が合うと、評判の悪い人相の目元にさらに陰を落とす青い隈が滲んでいるのを見せられた。男は自分の顔にため息を吹きかけて、気晴らしにシャワーを浴びるべくシャツの裾に手をやった。
すると、どさりと鈍い物音が聞こえ、男はシャツを巻き上げかけて、はたと動きを止めた。そして耳を欹て、慎重に扉を開けて廊下の先へ頭を覗かせると、突然白い何かが騒がしく迫り来て、男は咄嗟に身を躱した。
蹌踉けた拍子に掴んだカーテンを離して大雨の音に振り返ると、頭から服を着たまま濡れそぼった蒼白い幽霊が佇んでいた。その怯えた眼は排水溝の渦を見つめ、流れてゆく亡霊に疲れた顔はゆっくりと落ちて、やがてシャワーの雨粒の下に身体ごと座り込んだ。
青年に差し掛かろうとする少年の未だ変わらないその有様は、眠れぬ夜のまたひとつの要因にもなっていた。それに気づいていながら、男は少年を責めることもできず、手を貸すこともできず、何ひとつ目に見えることはできないままでいた。
ただ虚しくその様子を見ていられなくなり、徐に背を向けて戸棚を開けると、男は手近なその一枚を取り出した。そして、大粒の雨に濡れるのも構わず腕を伸ばして蛇口を戻し、決して過敏な肌に触れぬよう気を遣いながら、無反応な少年の少し大人びてきた顔の前に大きな白いタオルを差し出した。
「風邪ひくぞ」
少年は無言でそのタオルを受け取ると、膝のあいだにそれを抱えて見つめたまま水溜りの中に蹲った。男は顔も上げない少年を黙って見据え、肩で大きくため息をつくと、額の辺りを手荒に撫でながら気晴らしを諦め寝室に戻った。
また、夢と現実の沼の波打ち際で溺れかけ、翌朝男は何度目かの眼を醒ました。窓に掛かるカーテンの裾から薄らと白い光が漏れている。もう起きてもいい頃だ。半分沼に浸かったような鈍い頭を強引に起こし、直感通信端末の緊急通知の有無を確認すると、もう一度凹んだ枕に頭を埋めてから、男は苦く濃厚なコーヒーを求めて重い足取りで階下に向かった。
顔を洗って早朝の食卓に顔を出すと、芳ばしい酵母の薫りが鼻腔に届いた。ふたり暮らしには大きすぎる四人掛けのテーブルに少年が独り、既に朝食の準備を終えて席に着いている。
食欲の無い男は、油断して一瞬眼を合わせた少年に「よう」と投げかけ、その解り切った反応も見ずにゆったりとコーヒーを淹れに行って、湯気の立つカップを手にして戻り、小さなパンの白い皿と紅茶のティーセットを広げている少年の斜向かいに腰掛けた。
ふたりのあいだに会話らしい会話はほとんど必要なく、ただ一方的な質問と、それに応える反応だけで大抵の遣り取りは成り立っている。そのせいで、少年の口から新しい言語を聞くことは、いつまで経っても叶わなかった。
“オヤジ”の置土産である旧い壁掛時計の、寸分狂わず律儀に続いてゆく淡々とした針の音を聴きながら、男は湯気の揺蕩うコーヒーを啜り、朝陽の透ける淡いカーテンの白さを何の気なしに眺めていた。
もしこれを家族と呼ぶのなら、愛想もない、笑顔もない、病的で不健全な家族に違いない。
寝起きの悪い、そんなの朝の憂鬱をひとつずつ想い浮かべて数えていると、唐突に視界の端から細く長い腕が伸びて来た。
見ると、蓋の開いた薄紅色の小さな瓶がそこに在る。何処かで見憶えのあるその瓶を眺め、差し出した少年の顔を辿って見ると、その腕は今度は隣の部屋の方へ風見鶏のように向けられ、扉に見切れた開けっ放しの荷物の箱を指差した。
世話焼きのレフが気を利かせて季節毎に贈ってくる、懐かしい北の大地の詰め合わせだ。当のレフにはまだ礼も伝えていないことを、ふと思い出したが、男はまたそれを後回しにした。
「何だ、俺にくれるのか」
少年は、いつも大事そうに棚の奥にしまい込む、その貴重なひと瓶から眼を逸らし、何事もなかったかのようないつも通りの無駄のない仕草で一心にカップを見つめて紅茶を呑んだ。
男が不意に片手を上向けに投げ出すと、微かに驚いた少年はひと呼吸置いて、その大きな手の上に少し高い所から小さなティースプーンを落としてみせた。それを確かに受け取ると男は片頬を歪め、少し考えてから何の期待もない素振りで顔を背けた。
「今から訓練だ、一緒に行くか」
カップで顔の半分を隠したまま、少年は自分で乱雑に切り揃えた重たい前髪の陰から覗く冷たい流し目で、軽く一度だけ頷いた。男はその一瞬を見逃さず、目元を和ませ顎で軽く反応した。
そして朧げな春を硝子の中に集めたような美しい小瓶を引き寄せ、手の中でそれを見つめた。澄んだ薄紅色をひと匙口に含むと、仄かな甘みと華やぐ蜜の薫りに癒され、澱んだ胸の奥深くまで澄み渡ってゆく。
味わいに浸る男を視界に滲ませ、少年もまた、あたたかな紅茶に融けた春の記憶に想い馳せていた。
紅い水面に揺れるその瞳の奥に映るのは、多くの生命が消えて逝った乾いた荒野で強かに生き続けるあの林檎の樹と、その花を摘む白く可憐なやさしい少女の微笑みだった。
男は淡く白むカーテンを見つめて、またひと口、コーヒーを啜った。その強烈な苦さに脆い甘さは朝靄の中に消えてゆく。その薫りは白昼夢のような微かな薄紅の余韻を遺した。
旧びた時計の淡々とした針の音だけが聞こえている。そこには、ただ静かな暮らしが、平穏な現在を紡ぐ細い生糸のように流れていた。
Thema Song「A Perfect Circle − The Noose −」
Thank You For All.
Produced and Edited by Jahiro Jocha




