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Ⅸ:鬣犬

“裁きは、公平に”それが君主(モナク)ブラトヴァの信条であり、教えのひとつでもあった。

壇下の少女は、伏していた青い瞳にもう一度光を観ることを赦した。同情と救済に満ちた方々(ほうぼう)の視線を直視し続けられるほど強くはなれなかったが、啓蒙所(プリトヴォール)に漂う甘美な芳香が、永い間待ち焦がれていたこの瞬間の陶酔を誘い、心は潤み穏やかな諦観の微風(そよかぜ)に包まれている。こうして裁かれている時間を、罪に処される我が身を、この場に集められた見物の目を通して、少女は永遠の記憶の烙印として、その身に焼き付けようとしていた。


「─── さて皆、お菓子は行き渡ったかな。今、手にしているそれは、皆が協力してくれた名誉(めいよ)の証だ。奉賛者(ディアコニア)にお茶を淹れてもらって、あとでゆっくり皆で悦びを分かち合うといい」


誰かの視線や声が、常にこの世界の空気に混じって充満している。深夜の寝息の中か、トイレの小室に逃げるわずかな時間以外は、すべての言動が評価の対象に観られ、いつも試されているような気さえした。身形を整え、背筋を伸ばし、求められるままに微笑み、望まれるままに返す言葉の応酬は、所詮、誰かの期待に応えられたという傲慢な欲が満たされると云うだけで、“やさしい”だの“親切”だの“ありがとう”だのという美辞麗句は本来の自分とはかけ離れた対極の評価であり、ただ自らの渇きを癒やそうと苦心し続けた、狡猾で卑しい打算の結果なのだ。すべては涸れかけた泉を満たしたいに過ぎなかった。そして、その本性を孤独に抱え続けた苦しみから、ようやく解放されるような、そんな正当さと清々しさが、今まさに、ここに在る。


「では、今日は、幇助(ほうじょ)という言葉を教えよう。これは教唆(きょうさ)と言われることもある。難しい言葉だが、意味はとても簡単なことだ。私の教えに(そむ)く者を手助けしたり、誘ったり、(そそのか)したりすること。つまり、この孤児養護施設(オルフェス・テッサ)と、皆の安全を脅かす者と同じことをしている、と云うことになるのだ」


シビルに対してもそうだ。失った弟の身代わりとして、埋め合わせに利用しているに過ぎない ───。

あの日、あの家で起きた誰も知らない真実を、そのあまりに(むご)い記憶を、どうにかして塗り変えたかった。どうかあの日の償いを、罪滅ぼしを ─── それには“誰か”が必要だった。


目を離さないで、という母の言いつけを破ったこと。


弟を独りにして、庭で遊ばせたこと。


物憶えが悪いことに苛立ったこと。


また急な癇癪を起こして、小さな手が瞼を打った時、

居なくなればいいのに、と思ったこと。


そして、あの日、あの庭で、白い悪魔に()かれてしまった弟を、


独り抱きしめて、息が止まるのを待ったこと───。


シビルの決して語らない紺碧の瞳は、幼くして心を()ざした弟とよく似ている。暗闇をも呑み込んで星に昇華する夜空のような、あの希望の瞳。誰もがやさしさだけを求めて、蜜を求める蜂のように、熱につられる蚊のように、無邪気に、無闇に誘われ近寄って来る。しかし、愛を()らない無知な子どもとは違い、シビルには、卑しさも(すが)りも何の偽りも無く、樹や花や虫たちと同じように、超自然的に、ただ純粋に、本能のままに存在している。幼くして無常さを識り、成熟した炯眼(けいがん)で人々を見透し、決して誰にも媚びることなく、挫けず、孤独に、健気に闘う姿は、畏怖と怯えが蔭で(さげす)む、まさしく“狼の仔”のように、ただそこに居るだけで美しき強さを分ち、尊厳や勇気を思い出させてくれた。

そして、差し出されたすべての手に牙を剥く“狼の仔”が、唯一触れさせてくれること。抱きしめさせてくれること。あの一時のささやかな甘えが、何よりも、愛おしかった。


あなただけは、どうか生きて 、シビル ───。


「皆、理解できたね。では、シビルと、彼を幇助したソーニャには、別室で一週間の特別教育を受けてもらう。首長(メテル)サーロス、連れて行きなさい」



茫然自失の視界には、ゆらゆらと揺れる灰色の土塊(つちくれ)の顔が映っていた。皆同じように髪は失く、目の在るべき窪みは煤黒(ばいこく)(くす)み、鼻や口の辺りには空洞が見える。まるで、亡霊の群れを見ているようだ ───。鼓膜は水中に沈んでいる。鈍いに沈み、(くぐ)もった旋回音が頭で低く響き続けている。これはあの空洞から聞こえているのか、自らの伽藍堂(がらんどう)から聞こえているのか解らない。いつからか身体が透明な水瓶(みずがめ)に浸かっ入っている。隣には、白くぼやけた光を放つものが立っている。その光はゆるやかに伸び、大きくなって、上から頭の辺りに口づけをした。光の粒が、ぽたぽたと顔の方に落ちてきた。やわらかな光が離れ、小さく、細くなってゆく。


あれは、母なのか ・・・姉なのか・・・ どうして、また、離れて───。


「さあ来なさい、シビル」


首長(メテル)サーロスは、ソーニャを奉賛者(ディアコニア)へ預け、瞬きもしない抜殻(ぬけがら)のように立ち尽くしている不気味な少年の肩に手を伸ばした。その乾いた指が、細い首の皮膚にそっと触れた瞬間 ─── ()たたましい咆哮(こえ)が小さな身体を引き裂いた。



「─── その銃を退けてくれないか。俺は腹を空かせた仲間に飯を届けてやらなきゃならない」


両手で黒い銃を突きつけたまま、引き鉄(ひきがね)を人差し指で弾いた。その撃鉄に通ずる金属音は、息を潜める地下洞に鳴り響き、背を向けて立つ襤褸(ぼろ)を巻きつけた男の耳にも伝わったことだろう。鉄格子から差し込むわずかな光を頼りに、ジャッカルは毛羽立った蛇が群がる後頭部を鋭く睨み据えた。擦り切れた襤褸衣(ぼろぎぬ)から覗く手製の粗末な義足、鹿皮らしき使い(ふる)されたブーツ ─── おそらく狩猟で生きる放浪者(トランプ)だろうが、この男は無防備ではない。左手に支える、その身形(みなり)とは不釣り合いな鋼鉄の杖、あれは、あの格子窓から危うく眼球を貫こうとした仕込杖に違いない。そして、右肩に提げた不穏な染みの大きな布袋 ─── 。

湿土が放つ、錆びた鉄と生温かな臭いに軽い吐き気を催し、ジャッカルは呼吸を抑え、気道を引き締めた。


「その“飯”とやらの説明が先だ。この血溜まりは何だ、ここで一体、何を捌いた」

「ヤギだよ・・・仔ヤギだ。このところ、上がロクな飯を寄越さないせいで、みんな飢えてるんでね」

「─── なるほどな、君主(モナク)の飼い犬か」


その途端、視界から男が消えた。頭を庇った左腕に岩の激突を受け、骨が()ち合う響動どよめきが肩まで昇った。二メートルほど先に居た男が突然、振り返りざまに遠心力を加え、重い布袋を投げつけたのだ。痛みに震える腕で乱れた銃口を即座に構え直すと同時に、弾かれた布袋は土壁に打ちつけられ、どさりと垂直に滑り落ちた。ジャッカルは、影に溶け込む男の両眼を睨み据えながらも、視界の端に映る(むご)たらしい色に何度も意識を取られた。解けた縛り口からは紅い肉や筋のついた白い骨が溢れ出て乾いた土の上に晒されている。そして眼と鼻の先には、(おぞ)ましい逆鱗のある、あの鋭い(もり)の切先が突きつけられていた。


片端(かたわ)だからって油断したか。俺を()めるなよ。余所者がどうやって地下洞(ここ)へ入った」

「・・・食糧庫だ。中庭で出会(でくわ)した給仕の女性が話の解る人で、ツイてたよ」

「イリーナか、奉賛者(ディアコニア)は怯えた盲者ばかりだが、イリーナは俺たちにも親切だ。この冬の間は特に世話になった───。ここは元々、信者たちの避難所だった。大戦中は捕虜の収容所だったこともある。野戦病院だったこともな。人が絶えてからは、永い間、放浪者(俺たち)の寝ぐらだった。それを突然、あの男が現れて我が物顔で占領しやがった。それも(おんな)子どもを引き連れて・・・ んみんな恐れるからと言って俺たちを地下(ここ)へ追いやり、食糧と住処を保障して欲しいなら働けと言って、上から俺たちに“役割”を寄越した」

「どんな役割だ。この悪趣味な地下牢の管理人か?」


血の蒸れた臭い、腕の膨張する痛み、時折振れる意識を顔前に向けられた刃先に保ちながら、しかし決して退かず、ジャッカルは暗がりに浮かぶ二つの眼光と睨み合っていた。速さなら銃の圧勝だが、その上で、この理知的な口調の男には何か勝算があるに違いない。


(さば)くんだ、このヤギと同じように。あいつらが欲しがるのは臓器と肉、綺麗な髪や皮膚だけだ。俺たちは棄てられる肉と骨をいただく」

「・・・ 屍肉食(スカベンジャー)か」

「頭以外はな。喰えるものは糧に、遺ったものは灰にして大地に撒く。葬いとして、肥料として───。人間は、何度も飢えてきた。だが、またすぐに忘れる。この涸れた大地を見ろ」


男の眼光に促されるまま、鉄格子から覗く、四角く切り取られた色()せた景色を見遣った。淡い陽光に(そよ)ぐ数本の枯草と荒涼の砂塵を見つめるうちに、いつかの声が流れはじめ、やがてその情景までもが漂って来た。波に揺られ滔々(とうとう)と語る永遠(とわ)の声と、あの寂寥(せきりょう)の背中は、今でもこの胸の奥深くで揺れている。


“何日もかけて彼らを焼いた。俺たちには、埋葬してやる場所も気力も残されてはいなかった。

─── 最期は、海へ還した。敵も、味方も、みんないつか、故郷に辿り着くだろう。

もし、俺が死んだら、その時はお前が、この海へ俺の灰を撒いてくれ。頼んだぞ 、ルイス─── ”


地面に転がる、散乱した屍体であり、食糧であり、遺体でもあるそれらを眺め、ジャッカルは一時の間、過去を彷徨い言葉を失っていた。


「どんな生命(いのち)も、物も、一切無駄にはしない。それが俺たちの生き方だ」


男は目敏(めざと)く若い血潮の移ろいを認めたが、獣のように研ぎ澄まされた眼差しを持つ若者の隙を突こうという姑息な考えには至らなかった。


「・・・子どもだけか、ここに、運ばれて来るのは」

「子ども、大人、動物、様々だ。狩りが上手くいった日には俺たちから提供する場合もある。ケチな連中だ。安い条件しか呑まないがな・・・ いい加減、その銃を下げたらどうだ。撃つ気はないんだろう」

「・・・ 立場上、ひとつだけ、はっきりさせたいことがある。取引しているのは地下(した)か、それとも地上(うえ)か?」


男は愚問だとも言いたげに表情(かお)を緩ませ不適な笑みを浮かべると、再び頑強な面持ちで闊達に言い放った。


「俺たちは対等で自由を望む。相手が誰であろうが何処に居ようが、こだわりはしない」


“その男と争うな”


耳元で、喉笛を震わす、あの独特の深い声が聞こえた。


─── シリウスだ。


今し方脳裏に甦った声と重なり、ジャッカルは一瞬幻聴を疑ったが、直後に、念のため右耳のイヤーカフの録音(レコーディング)モードと通信を事前に開放していたことを思い出した。


“聴こえてるか、ジャッカル。協力を要請しろ。彼らの要望を訊いておけ”


ジャッカルはそれとなく唇を微かに開けて「了解」と応答すると、ゆっくりと銃を下ろした。その動作を見るなり、銛を構えていた男は深いため息を漏らし、ようやく緊張を解放した。


「その脚は、大戦の生き残りか?」

「そうだが、これは地雷だ。国の強制で十代のガキがこんな北半球にまで飛ばされたが、逃げ回って無事生き延びたよ、戦ったのはほんの数ヶ月だ。─── 脚を失ったのは、そのあとだ。故郷に戻れなくなった俺たちは、壊滅したその土地に残留して復興作業に協力した。先ずは、残存爆弾処理員(ディマイナー)が居ないと始まらない。─── 共に戦って、共に生き抜いた仲間を何人も、あの集結協和都市(クラスター)の下で失った。家族も居たが、居住者に選ばれず地下に降りたよ。ヴァルチャーたちに(そそのか)されてな。もう、戻らないだろう」


図らずも、饒舌な男の語り口からこの一連の黒幕の確信に触れたが、ジャッカルは密かに固唾を呑み、あえて言及を避けた。沈黙のシリウスが、その判断の的確さに確信を添えている。ジャッカルはホルスターに黒い銃をしまい、多少大袈裟に打ち解けた素振りを見せた。


「はるばる赤道を越えてきたのか。俺は、氷河と海を渡ってここに来た」

「なるほど、お互い“冒険者”か」


男もまた親しげに返すと土壁の傍へ腰を屈め、骨と肉を拾い上げ始めた。その幼い骨に付着した冷めた血の黒ずみを目にした時、不意に地上で出逢ったヤギの、あの虚空の瞳が浮かんだ。


この男はおそらく、またあの雌ヤギが仔を産めるように仔ヤギの方を選んだのだろう。

そして、生き(ながら)えるために、この“役割”を選んだのだ─── 。


手を貸すべきかどうか、腹に渦巻く蟠りと葛藤しているうちに、男はすっかり拾い終え、布袋を大切そうに抱えていた。

この男には、まだ訊かなければならなことが山ほどある。しかし、それは今ではない。

ジャッカルは、鼻腔の奥にこびり付いた血の臭いに堪えながら、自らの“役割”を遂行すべく、騒ぎ立てる邪魔な感情をすべて殺した。


「この銃を渡す、追跡機能付きだ。それを追って物資と救助隊員(エイドマン)を送る」

「銃は棄てた。もう持つ気はない」

「護身用だ、この接触がブラトヴァに気づかれたら、危険が及ぶ可能性もある。ほかにもあれば言ってくれ、新しい脚も、あたたかい部屋も、必要なら人数分用意する」

「・・・同情か?逸れ者の身障者に手厚くして、あんたの組織に何の得がある」

「さあな。俺も昔同じことを訊ねたが、未だに返答はない」


受け取った銃を気のない手付きで懐に入れながら、怪訝に顔を曇らせていた男は、(おもむろ)に墨色の手を差し出した。ジャッカルはひと呼吸躊躇(ためら)ってから、垢と湿土が染み付いたその手を取った。受け入れた手は意外にもあたたかく、厚く温情を込めて握り返した。


「俺はフィスィだ。殴って悪かったな。あんたのことは何て呼ぶべきだ?」

「ジャッカルだ」

金胡狼(ジャッカル)か、どおりで、そんな眼をしてると思ったよ」

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