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Prologue

 獣の臭いがする。それは、護り、争い、喰らい、育む、生命(いのち)の“におい”だ。太い喉を震わせ、戦慄(わなな)く孤独な息遣い。雪原を跳躍する吐息の群れ。その筋肉の躍動は勝算と信頼に満ちている。この眼はまだ見えているのか、それとも、ひと足先にその役目を終えたのか。光の無い世界に、生ける音だけがまざまざと情景を(えが)き出す。荒い呼吸に絶望が混じる。まるで助けを求めるかのように、すぐ間近にまで迫っている。荒ぶる(うな)り声が幾重にも折り重なり、ほどなくして、けたたましい断末魔が深雪の静寂を(つんざ)いた。

 膝に(うず)めた額を少し浮かせた。月明かりに蒼白い現実が幻想のように浮かび上がる。いつの間にか吹き込んだ雪で、散乱した瓦礫はほとんど覆われていた。(いびつ)外郭(がいかく)の残る壁の向こうで、石灰色のオオカミたちが仕留めた獲物の周りに群がっている。ある者は獰猛(どうもう)に唸り、ある者は仔犬のように甲高い声を上げながら互いに牙を()き、牽制(けんせい)し合う。その中心で、ひと際大きなオオカミだけが(くび)を下げ、その(はらわた)に喰らいついていた。横たわる老いたアカシカの口元からは、まだ微かに白い影が立ち昇っている。

また、ひとつの終焉を見た。


ピシッ


瞬時に空気が張り詰めた。獣たちは耳を(そばだ)て、(くび)を上げる。彼方のフクロウの呼声や、揺れる針葉樹の微かな葉音の中から、この雪原の“異質”を鋭く嗅ぎ当てようとしている。息を殺して視線を上げると、凍てついたシャワーの先端から細い氷柱(つらら)が幾つかぶら下がっていた。しかし、風も吹いていなければ小動物の影すらない。(いぶか)しむ間もなく、それは重力に任せて降って来て、無情にも抱えた足先にザクっと音を立てて突き刺さった。その直後、光る眼が一斉に音の方を振り向いた。眼が合っているのかどうかさえも定かでないが、その威圧はまるで稲妻のように見る者すべてを震撼させ、気づけば息まで止まっていた。しかし、もうすべてが手遅れだ。多くは顔を上げるか獲物を取り囲んで守備していたが、若い一頭が警戒に(くび)を上下させながら、一歩、一歩と近づいて来る。それを見た仲間が尾を辿るように連なって、数頭がその背後に続いて来た。


このまま、いずれ餓死するものと予想していたが、ここで、生きたまま喰われるのか。


その顔は苦痛に歪んでいるのか、それとも、その先の安息に包まれているのか。視線はいつの間にか息絶えたアカシカの顔を見つめていた。血気盛んな若者たちの後ろに大きな影がぎる。前衛のオオカミたちは警戒を散らし、しきりに振り返りはじめた。


・・・来る ─── 。


本能がそう覚悟した矢先、食事を中断したひと際大きなオオカミが群れを割って現れ、鋭い唸り声とともに血濡れた牙を剥いた。すると彼らはすぐに耳を伏せ、降伏の姿勢を表して道を譲ってゆく。リーダー(アルファ)だ。群れの先陣に進み出て月下に悠然と立つその姿は神々しく、まるで雪原の王と対峙しているような気高き威光を放っていた。

黒く(いろど)られた凛々しい双眸(そうぼう)と、しばらく時を共にした。王は、敵意の怒色は見せず、穏やかさすら湛えているように感じられる。しかし、その口元は肉を切り裂き紛うことなき鮮血に濡れている。今手元には充分に群れを養える食料がある。邪魔者をどうすべきかと今一度冷静に見定めているのだ。そして、怯えも逃げもしない痩せ細った新たな“肉“を、不思議がっているにも違いない。彼らは到底知る(よし)もない。その理由が、熱と筋肉を失った足はとうに動かず、絶望の向こうを知った意識が、ただ目の前の光景を見つめているだけに過ぎないことなど。

ウサギは捕食されると悟った時、恐怖のあまり自ら心臓を止めると聞いた。

ヒトにもそれは起こり()るのだろうか。

乾く眼を何度か濡らす間に、琥珀色の瞳が目と鼻の先まで迫り来た。間近に見るオオカミは、山のように大きく、大口を開ければひと呑みにされてしまいそうなほど巨大だった。しかし王はその牙を見せぬまま、厳かに佇んでいる。その瞳には聡明さが灯り、何かを語りかけられているような気さえした。




 光の春が訪れようとしている。罅割(ひびわ)れた石の(ひさし)を一歩踏み出すと、雲間から陽の恵みがあたたかく頬に降り注ぐ。(ようや)く長く厳しい冬を乗り越えたのだ。新たな生命(いのち)が寂れた大地に色を(もたら)し、始まりの到来を告げている。思わず右手を胸元に当て、そのぬくもりに深く沁み入った。給仕と洗濯の仕事から解放された子どもたちは、授学(エチュード)が始まるまでのささやかな自由時間を、小さな中庭で思い思いに過ごしている。血色、体格、活発さ、中には少し貧弱で気に掛かる子も居るが、(おおむ)ね健康的に育っている。年頃にばらつきがあるにも関わらず、仲睦まじく駆け回ったり寄り集まったりしている子どもたちを眺めていると、口元が薄っすらと(ほころ)んだ。腰ほどの背丈の少女たちと連れ立って歩いていた黒衣の奉賛者(ディアコニア)がその様子に気づき、(にこ)やかに微笑み返した。何と平和な光景であろうか。しかし、その内のひとりの少女が振り向いた瞬間、針を呑んだように硬直した。


あの子が、居ない。


青褪(あおざ)めたのを自ら察して、狼狽(ろうばい)の浮かぶ彼女の笑顔に硬く微笑み返すと、平静を装い、すぐさま黒衣を(ひるがえ)して裏庭に向かった。風化に黒ずむ教会(エクレシア)の壁伝いに裏庭へと向かう途中、振り返る猫のような機敏さで何度か中庭を見回したが、やはりその姿は見当たらない。苛立ちと、焦燥に歩調が荒ぶる。幾つか並んだ窓を越え、壁の終わりを折れ曲がったところで、その焦りは突如消沈した。


 草を喰むヤギは、いつまでも見ていられる。足元にまだパン屑が残っているらしく、桃色の唇を(せわ)しく動かして草の根まで器用に摘み取り、その陰にあるほんの小さな欠片を拾っている。欲の衝動に従順ながらも、その横長の瞳孔は警戒を解かず、反り上がった角の先は常に傍観者へと向けている。ヒツジのように豊かな被毛に覆われた大きな丸い腹の向こうでは、小さな仔ヤギが一心不乱に乳を飲んでいた。一昨日生まれたばかりのあの時は生死を危ぶまれるほど脆弱に震えていたが、無事に今日まで育っている。片時も離れず見護っている母の支えの賜物(たまもの)だろう。いつしかあの小さな頭にも、反り上がった(かた)い角が芽生えてくるのだろうか。


「柵から離れなさい」


厳格な声に見つかった。乾いた砂を蹴る足音が無神経にもみるみる近づいて来る。あの影のような姿が恐いのか、ごそごそと退くヤギの親子に無言で別れを告げた。


「可愛い仔ね。でも危険よ、母親は何をするか分からない。子どもを護るためならね」


不穏な気配を感じて柵に(もた)れていた手を素早く引き離すと、間一髪で猿のように大きな手が空を掴んだ。不服そうに真横に立ち(すく)む黒い影とは目を合わすことなく、遠景に(かす)む白く険しい山肌に、かつての自由と“仲間たち”のぬくもりを想い馳せた。


慈悲を絶やさぬ心に、ひとつの葛藤がある。


この子どもを“人間”として見るべきか、それとも“獣”として扱うべきか。


囲いの外に拡がる、厳しくも雄大な獣たちの世界。あの弱肉強食の残酷な自然を生き抜いた無防備な生命(いのち)は、正に奇跡としか言いようがない。それを思い知らない無学な子どもは、貴重な恵みを何度も野に放ちかけ、隙を見てはあの過酷な世界を恋しがるのだ。


「みんな、ここの方が安全なの。外に出たらオオカミやヒョウに襲われるかもしれないでしょう」


言葉を知らないのか、それとも道すがら声を失ったのか。語らぬ口では知る(すべ)もない。せめてもの慰めに肩を並べて同じ景色を眺めていた。幾度となく(さと)してきた虚しさにも(くじけ)ず、救いの手を払い退け心を(とざ)し続ける(あわ)れな仔羊へと辛抱強く寄り添った。白く眩しい山々は美しく、この努めを奨励されているような心地に満ちてゆく。ヤギのひと声にふと気がつくと悩みの種が忽然(こつぜん)と姿を消している。はっと振り返ると、か細い背中はいつの間にか遠去かり、今にも曲がり角に消えようとしていた。あとを追う気にもなれず、無情に立ち去ってゆくその後ろ姿を、ただ茫然と見送った。胸の内で清浄に押さえ込んでいたはずの煩悩の(ふた)が沸々と煮え上がってくる。


声もなく、気配もなく・・・幽霊のように不気味な子どもだ ─── 。


「イリーナ」手招きをするまでもなく、眼が合うと従順な若い奉賛者(ディアコニア)は、子どもたちに一声掛けて中庭の端からいそいそと傍まで駆け寄って来た。まるで身に覚えがないと言わんばかりの怯えた眼と強張った愛想を浮かべている。


「シビルの監視を。必要なら“鎖“を使いなさい」「鎖を・・・犬のようにですか?」「罪の意識など無用。あれは“オオカミの仔”、もはや常識の手には負えないわ」「首長(メテル)サーロス・・・お言葉ですが、私には ─── 」「勘違いしないこと。頭を使いなさい、イリーナ。私たちは秩序を護るのが最善です。そしてそれは安全にも繋がる」


イリーナは権威を(たた)えたサーロスの顔色を上目遣いに窺いつつ、試されているような謎掛けに当惑していた。酷薄な眉の厳しい視線は今も中庭の隅を歩く孤独なシビルを追っている。問い直す勇気もなく、揃ってその様子を観察していると、美しい白金の髪を揺らすひとりの少女が白い蝶のように駆け寄り、何やら甲斐甲斐しく顔を寄せた。口もきかず、機械のように顔も動かぬ子どもと話して、一体何が得られるというのだろうか。少女はシビルの細い肩を抱いて静かな隅の木陰に座り込んだ。サーロスは目尻に(しわ)を寄せ、時折見せる冷酷とも取れる表情(かお)を浮かべた。


「あの()は特別なようね」「ええ、ソーニャは分け隔てなく、とても献身的で・・・まるで姉弟のようです ─── 」


イリーナはその不気味な意図を汲み取れず、曖昧な相槌で手応えを探っていたが、サーロスの顔が幾らかほころぶの見て、次第に声が消えていった。


「 ───見つけたわ。シビルの“鎖”を」

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