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連なる夢そして初陣

脱け殻から出たセミが熱気を吸い込み、最初の声を上げる夏。


みんなが汗を拭いながら歩く歩道の上。


その間を、少年が母と妹の手を左右でしっかり握って歩いていた。


そして、彼らを少し離れた場所から見守る一体の神獣。


シアはその風景の中で、一歩だけ立ち止まった。


桜はもう散り、桃色の記憶は葉脈の濃い緑へと染み込んでいた。


風に舞っていた花の香りは消え、代わりにアスファルトから立ちのぼる熱気と蝉時雨が昼を満たしていた。


シアはゆっくりと周囲をなぞり、かつて確かに立っていた角度を探すように視線を固定した。


「ここは……」


スンウと一緒に花見に来た場所。


あの時の明るい桃色は消えたが、同じ場所はまた別の季節の顔でシアを迎えていた。


春が残していった空白を、夏が熱く誠実に埋めていた。


ところがシアの視線は、なぜかさっきの少年に引き寄せられた。


見慣れた目元の笑み、唇の曲線、骨格の比率……そして、遠く離れていても鼻先をかすめる、その子だけの匂い。


『……スンウ?』


目を閉じても輪郭を描けるほどに馴染んだ今のシアには、答えはあまりにも容易に見つかった。


「香の刻印のせいだね。幼いころのスンウが見えてるんだ。」


シアは本能のようにその前に立ちふさがってみたが、少年はシアを見なかった。


夢の中だからだろうか。


シアの存在は空気のように透明で、声も手振りも彼の視線を捉えられない。


「スンウ。わたしだよ。」


そっと呼びかけても、反応はない。


手を振っても、顔を近づけても、少年の黒い瞳にはシアが映らなかった。


「まあ、夢だし。無理か。」


シアはため息のようにつぶやき、ただ少年と、その手を握る妹スンア、そして彼らの母に並んで歩いた。


その瞬間、場面が波のように揺らいで裂けた。


色と音が混ざり合って薄れ、シアの足もとが別の床へと変わる。


「ここはまた……どこ?」


戸惑って首をめぐらせた彼女の目に、やがて見慣れた後ろ姿が映った。


スンウだった。


彼に駆け寄ろうとした刹那――


パチン!


澄んでいながら刃のような音が空気を裂いた。


スンウの母の掌が、少年の頬に正確に張りついた。


少年の顔はわずかに横を向いたが、表情は揺れなかった。


驚きでも、怒りでも、理不尽でもない。


ただ、黙然。


冷えた黒い石のように静か。


シアの心臓が先にどさりと沈んだ。


本能で彼の肩を抱こうと手を伸ばしたが、シアの腕は空を切って波のようにすり抜けた。


夢の身体では抱き締められなかった。


「おばさん? どうしてスンウを――」


シアは顔を上げ、彼の母の顔を確かめた。


そして、その表情に目を見開いた。


確かに手を振り下ろしたのは母なのに、まるで自分が打たれたかのように悲しそうだった。


恐れと切なさが絡み合った顔。


その眼差しは叱責よりも深い絶望を宿していた。


スンウの母は震える手で彼を抱きしめた。


「スンウ……それは駄目だよ。どんな理由があっても、駄目なんだ……」


今にも泣き出しそうな抑えた声が震える。


まるで誰かが崖際へ駆けていき、今この腕ででも引き留めなければ、遠くへ消えてしまいそうな不安のせいで。


そこでようやく、シアの視界が横へひらけた。


「うわあああん……!」


スンアが泣いていた。


膝には擦り傷、肘には赤くむけた肌、そして濡れた服。


その周りの地面には壊れた玩具の欠片と剥がれたリボンが転がっていた。


少し離れた場所には、同じ年頃の男の子が三人、よろめきながら座り込んでいる。


割れた唇、流れる鼻血、腕には足跡のような黒い痣が広がっている。


壁面には、誰かが乱暴に叩きつけられた跡。


『……スンウがやったの? あのスンウが?』


シアはようやく場面の空白を埋めた。


公園でスンアをいじめていた子ら。


そして彼らにためらいなく突っ込んだスンウ。


小さな拳がずしりと肉を打つ感覚が、まだ空気の中に残っているかのようだった。


彼のつま先は正確で、拳はためらいがない。


理由を問うより先に結果を優先した動き。


守るという名のもとに、線を越えてしまった行為。


残酷で、嗜虐的な光景。


スンウはやはり沈黙していた。


母の腕の中で、背筋を真っ直ぐに保ったまま、ぜんまい仕掛けの人形のように両腕だけが彼女の腰を回す。


その胸に身を預けながらも、瞳には温度がなかった。


温かいはずの場面から、温もりだけが抜け落ちた場所。


彼女は目元をぐっと押さえ、低く言った。


「他人を殴るのは……どんな理由でも駄目。スンウ、あなたは私とスンアには優しい。だけど……それが優しさの全部じゃないの。私たちにだけ優しいのは、優しいことじゃない。わかる?」


少年の瞳が、ごく一瞬、微かに揺れた。


だがすぐに、また静まった。


「あなたがこうすると……お母さんは怖い。あなたを失いそうで……どこかへ行ってしまいそうで……お母さんは、すごく怖い。」


彼女は言葉を継げず、ため息のようにすすり上げた。


シアは唇を噛んだ。


触れられない手を宙に止めたまま、自分を見ない彼をただ見つめた。


生き延びるために固くまとった殻。誰かを守ろうとする思いが強すぎて、時に刃になってしまう子。


彼の母は少年の頬を両手で包んだ。


片手にはまだ赤い手形が残っていた。


「約束して。もう二度と、こんなことをしないって……約束して。」


しばらくの沈黙ののち、少年の唇がとてもゆっくり開いた。


声はなかった。


ただ、小さく、一度。


そして、もう一度。


機械のように正確な頷き。


それは返事だろうか、それとも場を収めるための形式だろうか。


スンアの泣き声は少しずつ弱まり、


しかししゃくり上げはそのまま、夏の風の中に長く尾を引いた。


蝉の声も、さっきの騒ぎを証言するかのように、さらに大きく満ちた。


シアは彼らに合わせて、一歩、また一歩と歩みを進めた。


助けられないという事実が重かった。


それでも、シアは最後まで目を逸らさなかった。


この場面を心の深いところに押し込めるように、ひとつひとつを覚えた。


母の手の震え、水に濡れたスンアの服、遊具に刻まれた鈍い痕、そして……少年の瞳の中の、温もりのない平静。


そこには、自分の罪が何なのかすらわからない混乱と、名付けようのない悲しみが宿っていた。


「この頃のあなたは、こんなにも苦しかったの?」


そのとき、場面が再び揺らいだ。


色と音が集まり、別の風景を作ろうとする刹那、シアは最後に少年の頬を撫でるように手を上げた。


触れない指先からさえ、不思議な温かさが広がった。



#



「スンウ……」


「シア? 大丈夫?」


目を開けると、シアは広いベッドの上に折り重なるように横たわっていた。


シアは呼吸を整えながら首を巡らせた。


スンウがいた。


夢の中の冷たい眼差しとは違い、今の彼の黒い瞳には星が灯ったような穏やかな光が揺れている。


「スンウ……?」


もう一度確かめるように問うと、スンウは静かに微笑んだ。


「ああ、シア。僕だよ。思い出せる?」


シアは記憶をたどった。


ルイス商団の前で力尽きて倒れた自分。


スンウの腕に抱えられて馬車に乗ったこと、そしてまた邸に、この部屋に戻ってきた瞬間を。


「あ……」


唇が自然に震えた。


スンウの手が布団の上へゆっくりと降りてきた。


その動きは慎重だった。


何かを確かめるように、あるいは壊れやすいものを扱うように。


シアは息を止めた。


夢の中では、どれだけ手を伸ばしても届かなかったから。


彼の指先が触れた瞬間、シアの瞳が微かに震えた。


今度は違った。


たしかに、届いた。


たしかに、温かかった。


「大丈夫だよ、シア。」


彼の声は低くて確かで、同時に優しかった。


「どんな夢を見たのかは知らない。でも、夢はただの夢だ。」


シアはそこで初めて、自分が涙を流していたことに気づいた。


けれど涙を拭うより先に、手を上げてスンウの頬をそっと撫でた。


あの時の赤い手形が浮かぶ。


そして、その上を覆う、今の自分の温もり。


「スンウ。」


シアは静かにささやいた。


「もう……ひとりで泣かなくていい。」


――わたしがいるから。


その最後の言葉は胸の内に飲み込み、シアは眠りに落ちた。


スンウの瞳が微かに揺れた。


スンウはシアの涙をやさしく拭い、ゆっくりと身を起こした。


窓から差し込む月明かりが、シアの顔に柔らかく降りていた。


スンウは静かにその前に立ち、自分の影でその光を遮った。


月光の代わりに、彼の温もりが彼女を包んだ。


これでシアは少しだけ深く、少しだけ安らかに眠れる。


#


数日後。


スンウは、なおも覚醒熱に苦しむシアを見下ろしていた。


額に粒々と汗がにじみ、荒い息が布団の上に熱を吹き上げる。


彼女の体温から伝わる熱気が、部屋の空気までも熱くしていた。


『……大丈夫だろうか。』


シアは上気した息を吐きながら、スンウの手をぎゅっと握っていた。


まるで離してしまえば、すぐに遠くへ行ってしまうかのように。


その時、扉から軽いノックの音がした。


『リスティアか?』


この邸で、ああいうふうに礼を尽くしてノックするのは、彼女と数人の従者くらいだ。


「入っていいよ。」


扉が開き、赤い髪がやわらかな光を引いて入ってきた。


「お邪魔するわ。シアはどう?」


スンウは短く笑って答えた。


「まだ辛そうだけど、もう少し耐えればすぐ良くなる。」


「そうね、すぐ良くなるわ。で、あなたはどうしてそんなに平気な顔をしてるの?」


リスティアが指でスンウの顔を指した。


垂れた目元と重い肩。


疲労がねっとりと張り付いている。


「あなた、何日眠ってないの?」


「ん……三日くらい?」


「はあ……ほんと。どうして二人とも、こういうところまで似るのかしら。」


口ではたしなめながら、目は心配に濡れていた。


「私が看るわ。看病する人が先に倒れたら困るでしょう。ひとまず外に出て少し寝て。シアが目を覚まして、その姿を見たら絶対何か言うわよ?」


スンウが気まずく笑いながら立ち上がろうとした瞬間。


ぎゅっ。


シアの手が彼の手を強く握って、離そうとしなかった。


リスティアが目を丸くする。


「……この子、起きてるんじゃない?」


「いや、多分違う。僕が少しでも出ようとすると、必ずこうして手を握ってくるんだ。」


スンウが困ったように笑う。


リスティアはため息をつき、手を掲げた。


「リリース。」


細い赤い糸がシアの指の間に染み込む。


固く握っていた手が、結び目が解けるようにゆるやかに緩んだ。


スンウの手を締め付けていた圧が一枚、軽くなる。


「ふう……」


スンウが長く息を吐いた。


「ありがとう。」


「まだ。終わってないわ。」


リスティアはもう一度、手のひらをシアの額にそっと載せた。


「クールダウン。」


二度目の術が落ちると、ほのかな冷たさが額に広がる。


上がっていた熱は均衡を取り戻し、荒かった呼吸がゆっくり整っていった。


「よし。これで深く眠るわ。」


シアの手が最後に微かに震え、布団の上に静かに横たわった。


スンウの手の甲に残っていた手形のような圧痕が、うっすらと消えていく。


リスティアはそれを確かめてから顔を上げた。


「もう行って。あなたのまぶたも限界よ。」


スンウはシアにもう一度視線を留め、それからようやく頷いた。


「わかった。シアを頼む。」


「心配しないで。ちゃんと見ているから。」


そう言うと、スンウは部屋を出た。


廊下を歩きながらふと、頭をよぎる考えがひとつ。


『そういえば、まだ買えてない材料があったっけ。』


リスティアがシアを看てくれている今が、一番の好機だ。


『今を逃すと、また時間が取れない。』


スンウは短く息を吐き、決心した。


カイレンに外出の許しを得て、彼が用意してくれた馬車に乗り込む。


夕風が頬を撫でると、不意にシアの指先の感触が蘇った。


しっかりと握り締めていた、あの微かな力。


スンウは薄く微笑んだ。


『すぐ良くなるよ、シア。』


そう思いながら、馬車は茜の塵を裂いて速く進んだ。



#



陽が傾いた。


晩春特有の湿り気が低く漂い、商店街の路地口が橙色に染まる。


スンウは紙袋を片手に、ゆっくり歩いた。


すっ――。


足もとの影がふと別の影と重なり、一拍遅れてずれた。


目で見れば取るに足らない刹那の差。


スンウも違和感を覚えたが、深く確かめはしなかった。


『……今の、なんだ?』


足取りは止まらない。


むしろ少しだけ速度を落とし、ショーウィンドウに映る後ろを盗み見るように流した。


ガラスに最後の茜色が薄く滑った刹那、点り始めた灯の影に紛れて、黒いフードがかすめるように消えた。


「やあ、道に迷ったのかな?」


背中から、低くなめらかな男の声。


振り向くと、あまりに普通すぎて、かえって焦点の合わない男が立っていた。


埃ひとつないマント、艶のある革のブーツ、輪郭がすべり落ちる顔。そして腰の剣。


「よければ、目的地まで案内するよ。」


「結構です。この辺りは慣れてますから。」


短く返して一歩退くと、男の笑みがごく浅く折れた。


その浅い曲線の下で、わずかに上下する息づかいが見える。


人というより、匂いを選り分ける獣に近い呼吸。


「ふむ……いい香りだ。」


男が鼻先で笑った。


「ここで嗅ぐには生の香りだ。ベルの木の樹皮と月影草、それから……神聖の痕跡。」


シアのためにスンウが買い足した薬草の香りだった。


指は紙袋の持ち手を強く握る。


「香水は使いません。」


「香水、ね。」


低く笑いが漏れる。


「そうだろうね。これは人間がこしらえられる香りじゃない。」


『人間?』


道が妙に空いていく。


さっきまで賑やかだった商人、辻音楽、雑踏は、皮をむくように薄れていく。


この路地に二人だけが残ったかのように、音と風の織り目が薄くなった。


そして男が一歩、近づいた。


近づくほど、肌に当たる空気が冷えた。


その冷たさは風の寒気というより、じわじわと体温を奪う影のよう。


スンウのつま先から緊張が満ちる。


「訊く。お前の小娘はどこだ?」


「……何のことか、わかりませんが。」


「とぼけるのか。良い兄だ。だが――」


男が懐の暗影結晶をひねって砕くと、外の景色が押し潰されるように暗くなった。


「あの子の香りが、お前に濃くまとわりついている。」


『香り? こいつ、さっきからいったい何を……』


スンウの手がそっとズボンのポケットへ。


その瞬間、男はマントを払って顔を晒した。


「っ!?」


左右に伸びた角、覗き込めば切れそうな犬歯、白目まで墨のように染まった目。


肌の下に滲む黒紅の気配と、鉄臭い息。


『……魔族?』


スンウはカイレン邸の図書室を思い出した。


ラウルという勇者がいないと聞いたあと、スンウは魔王と勇者に関する年代記や伝承を漁り、最後には付録の図鑑まで開いた。


粗い木版画に刻まれた魔族の標。


黒く染まった白目、二叉の角、過度に発達した犬歯――今目の前の姿と重なる。


注には短くこうあった。


――魔王の腹心にして手先。人の姿に近いが、眼と歯と気が真実を暴く。――


『そんな奴が、なぜ俺の前に?』


それでもスンウは落ち着いて声を整え、口を開いた。


「なあ、お前。何が欲しくて俺にこんな真似を?」


「ハハハハ!! 欲しいもの!?」


男は狂ったように笑い、両腕を広げ、まるで自分の顔を見ろとばかりにさらした。


「お前は餌だ。お前をぶら下げておけば、あいつ――その小娘が勝手に来る。俺はその子だけ連れていけばいい。」


『狙いはシアか?』


スンウが後ずさろうとした瞬間。


コツン。


いつの間にか、黒い幕が男とスンウを囲っていた。


『なんだ、これは。閉じ込められた?』


「どこへ逃げるつもりだ?」


男――いや、魔族が大股で詰めてくる。


スンウはためらわず拳を突き出した。


タク。


手首が、笑ってしまうほど軽くつかまれた。


「いきなり攻撃とは、寂しいじゃないか?」


舌先を覗かせ、気味の悪い笑み。


左手で追撃を入れようとしたが、それも易々とつかまれた。


「ククク、これで両手がない。どうする? 次は足か? さあ、振ってみろ! どんな攻撃でも受けてやる。」


挑発めいた台詞。


スンウは逆に口の端を上げた。


「バカ野郎。」


「なんだと?」


つかまれた手をゆっくり開く。


親指と人差し指の間に挟んだ小さなガラスのアンプルがきらりと光る。


「目、よく開けてろ。」


パキ――


「ポン、だ。」


アンプルの首を折ると、松脂、メントール、唐辛子エキスを混ぜた刺激性の香油が霧のように弾けた。


熱い蒸気が正面から魔族の目と鼻腔を叩く。


「ゴホッ!?」


黒い目が反射で閉じ、手首を締めていた力が一拍、緩む。


スンウはその隙を待っていたかのように踵で相手の足の甲を踏み抜き、身をひねって抜けた。


「うぎゃっ! このガキが!」


体勢を崩した魔族の向こうに、黒い幕の境目が薄く震えるのが見えた。


床と幕が噛み合う隙、影が微かに薄くなる一点。


『あそこだ。』


スンウはすぐさま走り、近くの看板支柱をつかんで斜めに払った。


鉄の先端が鈍い抵抗を削ると、幕がガラスのようにヴィンと震えた。


「バインド!!」


我に返った魔族が腕を振ると、影が綱のように伸びた。


最初の束は払ったが、最後の一本を取り逃した。


黒い糸がぼこぼこと立ち上がり、左の脛を巻く。


『ちっ! すべて避けたつもりだったが。』


歯を食いしばって脚を捻る間に、魔族の黒目に怒りが油のように広がる。


「お前、楽には殺してやらん。」


「はは、できるもんならやってみろ?」


魔族の顔から嘲りが消え、毒気が立ちのぼる。


「その台詞、最後まで言えるといいな。」


手がスンウを狙って握り込む。


「クラッシュ。」


影が圧力を加えるように締まり、脛骨が悲鳴のようにうなる。


「ぐあああっ!!」


脚が破裂しそうなほど締め付けられ、息が詰まる。


意識が霞む。


スンウは歯を食いしばり、呼吸を数えた。


大事の前にいつも繰り返してきた、自分だけの作法。


四つで吸い、六つで吐く。


肋の間を刺す痛みを押し流すように、散った焦点を一点に集めた。


『落ち着け。まだ手はある。』


魔族が口元を歪め、嘲るように、鼻先まで詰めてくる。


「キャハハ! ミミズみたいにのたうつだけだな。ゆっくり遊んで、最後はその首を、あの小娘の目の前に突きつけてやる。そうすりゃ自分から這い寄ってくる。」


「な――」


ゴス。


言葉を継ぐ間もなく、左脚を押し潰す。


「ぎゃあああっ!!」


痛みが全身を凍らせた。


続く蹴りで、背後の黒い幕に弾かれ、身体が崩れ落ちる。


「ハハハ!! そう、それだ! 俺の欲しい響きはそれなんだ! 取るに足らないガキを連れてくるのに、ここまで手間をかけるとは思わなかったがな。」


「くっ……」


肋骨が、いや、全身の骨が総て罅割れたようだ。


「もう一度やってみろよ! さっきみたいな、閃くやつ!」


魔族が腰の剣を抜き、スンウの右脚に斜めに突き立てる。


ズブ。


「ぐあああっ!」


「ハハハ! もう逃げられないな?」


気が遠のく中でも、スンウはポケットの小さなハードケースを指先で探り当てた。


痺れる指先が、カチリ、と蓋を開ける。


『魔法もろくに使えん人間が、何を取り出そうと。』


魔族は鼻で笑い、身をかがめた。


「おもちゃか? もう手は尽きたか?」


その嘲笑の中でも、スンウの眼は消えなかった。


スンウは深く息を吸った。


もう一度、呼吸を整える。


土の匂いと辛い香りが肺を温める。


両手でグリップを締め固定し、身体を斜めに倒すように捻る。


背後の幕が押して半ば固定された。


脚は使えない。だが、上体の角度さえ合えばいい。


狙いの先に、魔族の眉間が引っかかった。


魔族は一歩詰め、肩の力を抜いた。


死にかけの人間。見たことのない道具。


油断するには十分な理由。


魔族がスンウの腕を斬り落とそうとした時、血に濡れたスンウの口角が、とてもゆっくり上がった。


『頼む、くたばれ。』


トリガーが短く、確実に引かれた。


その瞬間、スンウの身体から魔力が抜けた。


だが、すでに満身創痍の彼には、それを感じる余裕すらない。


「……なんだ?」


魔族は遅れて異常に気づいたが、もう遅い。


パン――パン――パン!


続けて五発が火を噴く。


スンウが地球から持ってきたガス式拳銃のペレットが、魔族の額とこめかみを順々に押し潰すようにめり込んだ。


黒い眼が粉々に砕け、人ならざる証の煤のような液が流れ出す。


「ぐっ――」


魔族は頭部に蓄積した衝撃でよろめき、倒れた。


頭は残ったが、両目は破れて癒着した。


「おもちゃは、お前の目玉の方だ。」


その刹那、黒い幕が一枚、はがれるように消え、光と音が路地に戻った。


そして、声が聞こえた。


「スンウ! 無事か!」


カイレンの声だった。


「スンウ!?」


傍らには従者のメリーもいた。


二人の姿を認めた途端、スンウの緊張がほどけ、上体が力なく折れた。


カイレンが素早く腕を伸ばして支え、傷の具合を一瞥する。


スンウの脚はズタズタで血が鈍く光り、


背や脇腹は、息をするだけで痛みがこみあげる有り様。


何かを握りしめた手は、痙攣に囚われたように震えていた。


「あっち……おかしな奴が……」


スンウが顎で示した先を見て、カイレンの表情が固まった。


「あれは……魔族じゃないか?」


黒い血、角、魔力の残滓からして、少なくとも中級。


『あれをスンウが一人で……? 熟練の剣士を十人付けても、やっと討てる相手だぞ。』


魔族が油断していなければ、スンウが勝てる道理はない。


だが奴は、魔力を使えない人間というだけで、スンウを見くびった。


その驕りの代償が、今のこの有様だ。


「それから……シア……」


カイレンの胸で、スンウが低く言った。


短い言葉。


だがカイレンは即座に理解した。


「はあ……こんな状況でもシアの心配が先か。いい、しっかり休め。シアはさっき目を覚まして、リスがちゃんと看ている。」


スンウは心の中で首を振った。


『いや、言わないでくれ。』


あいつ、俺が怪我すると、変に……怖くなるから。


だが口に出す力はなく、スンウはそのまま頷くだけだった。


「……はい。」


その返事と同時に、スンウの瞼が下りた。


カイレンはためらわなかった。


「メリー、主治医のところへ。最短で。」


「はい!」


メリーがスンウを支えて運ぶ間に、カイレンは倒れた魔族へ視線を移した。


脳裏をよぎったのは、帝国法典の一条。


――魔族は発見次第、処置すること。――


短く、鞘が鳴った。


風のような剣光が走り、躊躇なく首が落ちた。


『尋問できなかったのは惜しい。人目さえ少なければ……まずは遺体の回収だ。』


カイレンは商人と警備に簡潔に命じた。


魔族の死体はテント布で素早く覆われて運ばれ、血の匂いは晩春の風に薄く散った。

これからも連載を続けていくつもりです!

引き続き読んでいただけると嬉しいです!

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