嵐の前の静けさ 3
ルイス商団の支部は、ほかの店とは明らかに空気が違っていた。
精製された香油のほのかな香りが空気に染み、床の黒木は磨き上げたばかりのように艶めいている。
あちこちに掛けられた水晶灯が温かな光をこぼし、室内を静かに照らしていた。
シアは敷居の手前で足を止めた。
「匂いがちょっと強くて、少しつらいかも。外で待ってるね」
「大丈夫?」
「うん、あまり心配しないで」
スンウはもう一度だけ心配そうな視線を送り、店内へ入っていった。
敷居をまたぐ直前まで、二人は肩が触れ合うほど近く寄り、低い声でささやき合っていた。
その光景が、リスティアの胸のどこかをちくりと突いた。
『私にもカイレンがいてくれたら』
空いた心が押し寄せたが、リスティアは顔を上げ、その感情を押し戻した。
扉が開き、従者服の男が足早に近づいてくる。
「いらっしゃいませ。お嬢っ……いえ、リスティア令嬢。ご無沙汰しております」
その声音には、丁寧さの裏にほのかな緊張が混じっていた。
リスティアは軽くうなずき、やわらかく微笑む。
「いつもご苦労さま。そんなにかしこまらなくて大丈夫よ」
店員たちは一斉に腰を折った。
その合間を縫うように、ひそやかな囁きが空気を流れていく。
「血がつながっていないのに後継に据えたらしい」
「運のいい小娘だよ、あれは」
ざわめきは波紋のように広がったが、リスティアの表情は微動だにしない。
竜である彼女に、人間の陰口など、ただの微風にすぎなかった。
彼女はいつもどおり、カイレンに教わったとおりに、気品を失わず顔を上げていた。
そのとき、反対側の扉が開いた。
銀髪に薄い眼鏡の男が現れる。白い魔法衣の袖口から、鑑定用の水晶球が指先に揺れていた。
「やあ、レグマン氏」
「お目にかかれて光栄です、令嬢。ご用件は?」
鑑定担当の魔法使い兼支部長であるレグマンが、恭しく頭を下げた。
リスティアは傍らのスンウを顎で示し、ひと呼吸ためらってから、いたずらっぽく微笑む。
「兄上が鑑定を依頼したい品があるの。保証は私が引き受けます」
『ちょっと待て、“兄上”? リスティアの口からその言葉?』
頬がかっと熱くなったが、スンウは周囲を意識してどうにか表情を整えた。
「承知しました。では、鑑定室へご案内いたします」
三人はレグマンの部屋へ入った。
室内は整然としており、壁には各種の鉱物と金属標本がきちんと並ぶ。
中央の円卓には鑑定用の魔法陣が刻まれ、その上の水晶灯が静かな光を落としていた。
レグマンが席に着き、静かに告げる。
「では、品物を拝見してもよろしいですかな」
スンウはうなずき、胸元から小さな革袋を取り出した。
コトン——
重みのある金属が卓上に降ろされた。
銀の表面は鏡のように輝き、水晶灯の丸い輪がくっきりと映り込む。
レグマンが目を細める。
「これは……純銀のインゴットですかな?」
「はい。取引価値があるか、知りたいんです」
淡々としたスンウの声。
レグマンは鑑定石を置き、指先で魔法陣を展開した。
「――ラミエス、オパラ」
短い詠唱が終わると、空気がかすかに震えた。
青い光の魔法陣が銀塊を包み、ゆっくりと回転する。水晶球の内部では微細な波動が揺らめいた。
やがて、水晶球の表面に文字が浮かび上がる。
純度 99.9 不純物反応なし。
「……信じがたい」
レグマンの声が低く落ちる。
「この純度、帝国の精錬所でも容易ではありませんぞ」
「本当?」
リスティアの瞳がきらりと光る。
「なら、かなり高く売れそうね?」
「そのとおりです、令嬢。ですが……ひとつ妙な点がある」
彼は銀塊を指先で軽く叩いた。
コツン——
澄んだ金属音のあとに、魔力の残滓はまるで残らなかった。
「通常、この純度の金属は周囲の魔力を吸収したり蓄えたりします。
しかしこれは逆でして、魔力を“知らない”金属と申しましょうか」
「つまり、魔法を吸えないってこと?」
リスティアの問いに、レグマンは水晶球を軽く叩いて首を振った。
「いえ、注ぎ込めば過剰に反応します。
長く飢えた獣が餌に飛びつくように、瞬く間に魔力を吸い上げる。私の魔力では危ういほどです」
外から低いどよめきがかすめる。
「自発吸収のない金属だって……」
「錬金術師でも見たことないはずだ……」
リスティアは腰に手を当ててうなずき、口元にまだ悪戯めいた色を残した。
「やっぱりね。うちの『兄上』が平凡な物を持ってくるわけないもの」
『今日の彼女、どうした?』
リスティアがカイレンを真似るみたいにくすくす笑うと、スンウは咳払いひとつで気恥ずかしさを飲み込んだ。
「ただの……偶然手に入っただけです。古いインゴットですよ」
「この純度と反応性なら、研究価値は大きい。ルイス商団として、希少鉱物として買い取りたい」
リスティアが軽くうなずく。
「その方向で。代金は後日、我が子爵家へ請求して」
レグマンは即座に身を低くした。
「令嬢のお言葉どおりに」
スンウはひと息ためらい、恐る恐る口を開く。
「あの……ひとつお伺いしても」
「そういえば、お名はまだでしたな」
「ユン・スンウと申します。スンウで結構です」
「承知しました、スンウ殿。どうぞ」
スンウは視線を落とし、静かに言った。
「……もしできれば、前金を少しだけお願いできますか」
言い終えて初めて、自分の声がどれほど切実だったかに気づく。
『ああ……気恥ずかしい』
短い沈黙ののち、レグマンが豪快に笑った。
「ははっ! もちろんですとも。商団は信用を重んじます。ましてや令嬢の保証付きとあれば!」
彼は書類に数行したため、合図して従者を呼ぶ。
「金貨を十枚、ただちに」
「はい、支部長」
まもなく従者が小袋を手に戻ってきた。
レグマンはそれをスンウの前へ差し出す。
「前金としては十分でしょう。残額は鑑定書類が整い次第、正式手続きで送金いたします」
スンウはしばらく袋を見つめ、深く頭を下げて受け取った。
「ありがとうございます。助かります」
「いえいえ。商団は常に信頼第一で」
『金貨十枚……銀貨にすれば二百枚に近いか。ここの価値って、まったく』
スンウの口元が、自然と持ち上がる。
そのとき、リスティアがそっと近づき、低くささやいた。
「これで満足でしょ、スンウ『兄上』? 食事は兄上のおごりね」
「え……いきなり俺が……?」
穴があったら入りたいほど気まずかったが、周囲の視線もあり、スンウは無理に笑顔を作った。
「……もちろんです、令嬢」
こうして二人は商団を後にした。
外には、肩を落としたシアが立っていた。
「シア」
「スンウ……来たの?」
まだ香に酔っているのか、シアの返事には力がない。
『強い香りじゃなかったはずだけど……別の理由?』
「仕方ない、抱えていくよ」
スンウはためらいなく彼女の脚をそっと抱え、半ば胸におさめた。
シアは彼の首の後ろに腕をゆるく回し、細く目を閉じて肩に頭を預ける。
「……あったかい」
かすかなつぶやきとともに、シアの体重が完全に預けられた。
スンウは歩幅を狭め、慎重に歩き出す。
「子どもでもないのに、そんなに甘える?」
リスティアが不満げに言う。
「ん……私はスンウ限定で子どもだよ。あなたもカイレンに抱っこしてもらえば?」
「な、何言ってるの! 私はもう抱えられたりしない!」
「昔は抱えられてたんだ」
「コホン」
短い沈黙ののち、リスティアの耳たぶがうっすら赤く染まった。
そのときだった。
「……待って」
リスティアの足が止まる。
スンウは彼女の表情を見て、首をかしげた。
「どうした?」
リスティアは答えず、ゆっくりと顔を巡らせる。
午後の陽光が街を照らし、人々は何事もないように行き交っていた。
だが――
空気が違う。
風の流れがわずかに途切れ、かすかな魔力の残香が宙に漂った。
『今……どこかで誰かが、私たちを見てる』
竜の本能が即座に反応する。
目には見えない視線の棘が肌をかすめ、冷たい気配が背筋を伝って下りる。
「リスティア?」
スンウが低く問う。
リスティアはしばし沈黙し、押し殺した声で言った。
「……何でもない。気のせいかも」
そう口にしながらも、視線は路地の入口に固定されたままだった。
群衆が落とす影の奥、つい先ほどまで誰かが立っていた。
刹那、指先に微かな魔力が揺らめく。
攻撃の魔法陣が形になりかけた、そのとき——
「スンウ……」
シアのかすかな声が、スンウの腕の中から触れる。
「頭が痛い……まだ少しふらふらする……」
リスティアは顔を戻し、彼女の顔色を確かめた。
意識はおぼろで、血の気が引いている。
彼女は短く迷い、結局、魔力を沈めた。
「カイレンと合流しよう」
「うん、そのほうがいいね」
歩き出しながらも、リスティアはもう一度だけ振り返る。
影は消えていた。だが、形なき視線だけが、なお付きまとうように思えた。
『……よくも』
リスティアの瞳に、一瞬、冷ややかな光が走る。
同じころ、離れた建物の屋上。
黒いマントを深く被った男が欄干に身を預け、一行を見下ろしていた。
「赤髪のあの娘……何だ? 俺の気配に気づいたな」
視線はリスティアの赤い髪から、シアの銀髪と金の瞳へとゆっくり移る。
男の脳裏に、ひと月前の命令がありありと蘇った。
『帝国南方のアルテイン領へ向かえ。
銀の髪に金の瞳を持つ少女を連れ戻せ』
低く圧のある声。聞くだけで胸郭を押しつぶす重みがあった。
あの時、男は本能的に背を丸めた。
『仰せのままに』
そして今、男は冷ややかな笑みを浮かべる。
「見つけた」
屋敷へ戻る馬車の中。
「シア、大丈夫?」
スンウがそっとシアを抱き寄せて問いかける。
「ん……大丈夫……」
返事はあったが、その声には力がなかった。
『地球でも滅多に体調崩さない子なのに……どうしてだ』
向かいに座るカイレンが、しばらく様子を見てから口を開く。
「スンウ。お前、神獣についてどこまで知ってる?」
「え? あ……正直、あまり知りません」
シアがつらそうなのに何も知らない自分が、スンウの胸を重くした。
『神獣の資料なんてほとんど無いし……もっと調べておくべきだった』
「スンウ。これは俺の私見だが……」
カイレンが手の甲で口元を隠し、声を落とす。
「何かご存じなんですか?」
「確証はない。だが、成長痛だと思う」
「成長痛、ですか?」
スンウの目が見開かれる。
カイレンはうなずき、隣のリスティアへ視線をやる。
「うちのリスも十歳のころ、急に熱を出して寝込んだ。前日まで元気だったのにな。俺もお手上げだった」
リスティアがうなずく。
「そう。あの時は本当に起き上がれなかった。
身体が熱くて、魔力が内側でねじれている感じ……」
カイレンは視線をシアへ戻した。
「ちょうどその神獣も、今年十歳だろう? 竜と神獣は種は違うが、成長の起伏に共通点があるらしい。だから、シアは神獣の成長痛の可能性が高い」
リスティアが添える。
「始まると三日、長ければ四日はまともに起き上がれない。
その間は、スンウ、あなたが傍にいてあげるしかないわ」
スンウはシアの額にそっと手を当てた。
わずかに熱はあるが、顔色は少し楽になったようだ。
「……そうですか。よかった。あの、カイレン様——」
「休め」
「はい」
カイレンがふっと笑う。
「こいつ、もう自然体だな?」
「僕はカイレン様の補佐官ですから」
その一言に、カイレンの目がわずかに見開き、豪快な笑いが弾けた。
「ははは! よし、ようやく気が変わったか?」
「でも長期は無理です」
「わかってる。契約はシアが全快してからでいい。そのくらいの配慮はする」
カイレンが肩をすくめ、口角をくいと上げる。
『ほんと……嬉しそう』
リスティアは満足げにその横顔を見つめた。
自分を気遣うあまり、カイレンには同年代の友も少なかった。
だから、今みたいに晴れやかに笑う顔がたまらなく嬉しい。
そして、ふと無意識にスンウへ向けて口を開く。
「ねえ、兄上——あっ」
言い終える前に、手が自分の口をふさぐ。
だが、もう遅い。
沈黙。
スンウとカイレンの視線が同時に彼女へ注がれる。
幸い、シアは眠っていて聞いていない。
「兄上……?」
カイレンの表情に微妙な影が差す。
スンウは冷や汗をにじませ、慌てて手を振った。
「えっと……カイレン様、違います。リスティアが僕をからかっただけで」
腕の中のシアに配慮して、声は控えめだ。
カイレンが膝を二度ほど指で叩き、低く咳払いをした。
「コホン。リス」
その声はいつもどおり端正だが、どこか低い。
リスティアがわずかに肩をすくめ、姿勢を正す。
「うん、カイレン」
カイレンがゆっくり眉を上げる。
「俺にさえ一度も呼んだことのない呼称を、スンウに付けるとはな……覚えておけ。あれが自然になりすぎると、俺はちょっと嫉妬する」
リスティアが口元をわずかに上げる。
「嫉妬するの?」
「ほんの少し」
カイレンが親指と人さし指の隙間を紙一重ほどに広げてみせる。
「見えないくらいにな」
「けっこう大きく見えるけど?」
リスティアがからかうように目を細めると、カイレンは肩をすくめた。
「最初の“兄上”がスンウとは、気分がな……何とも言えん」
「……え?」
「いや、何でもない。ちょっと不思議でな」
口調は淡々としているが、指先が肘掛けをとん、とん、と叩いている。
スンウはつい肩をすぼめた。
『なんで俺が緊張してるんだ……』
馬車の中に、妙な沈黙が流れる。
車輪が石畳の溝を踏む音だけが、こつこつと続いた。
その静けさは、腕の中で眠っていたシアが、身じろぎして目を覚ますと、あっさり破られる。
「ん……頭、痛い……」
スンウはすぐに体勢を整え、シアの目元をそっとなでた。
「シア、大丈夫?」
指先が触れると、シアの口元がほんのわずかに緩む。
「うん……でも、力が入らない」
「大丈夫。神獣にある成長痛だって。僕が傍にいるから、心配しないで休んで」
「……そっか。わかった。傍にいてくれる?」
「もちろん。だから早く良くなって。心配させないでね」
「うん……えへへ」
シアは微笑んで、また瞼を閉じた。
カイレンが御者席と通じる仕切りの通話窓を半ば開ける。
「ジェイコブ、速度をもう少し落とせ。揺れないようにな」
「はい、御主人様」
「ありがとうございます、カイレン様」
「はは、いいぞ、我が補佐官」
『そういえば必要な準備は結局買えなかった。急ぎじゃない。今はシアが先だ。手元には使える護身具もある』
馬車は速度を落としながらも、着実に屋敷へ向かって進んでいった。




