嵐の前の静けさ 2
朝。
窓の外では小鳥たちがさえずり、青い空の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
休暇中だったスンウは、ゆったりとやかんを手に取り、洗面鉢に温かな湯を注いだ。
温もりが指先を伝うと、彼はゆっくりと顔を濡らした。
頬を伝う水滴とともに、昨日カイレンが口にした言葉がふと蘇る。
『ラウルという勇者は……誰だ? 俺の知る限り、そんな勇者はいないが。』
「……いない、か。」
スンウは低くつぶやき、視線を落とした。
カイレンの話によれば、最後の勇者が現れたのは二百年前。
それ以降、魔王も勇者も姿を見せていない。
スンウは水面に沈む自分の視線を追った。
水に映る顔がゆらめき、思考が波紋のように広がっていく。
『もしかして、地球からエラリオンへ転移したとき、時間が急激に進んで未来に来たのか?』
すぐに首を振る。
そんなはずはない。
もしそうなら、「ラウル」という名はすでに歴史に残っているはずだ。
『じゃあ逆かもしれない。俺たちは……過去に来たのか?』
ラウルが登場するより前、まだ勇者という名が世に現れていないのなら――。
『……それは困る。』
それはつまり、今そばにいるシアとは別に、過去のシアがすでに存在しているかもしれないということだ。
『もしそうなら……最悪だ。』
シアは家族のもとへ帰るために転移を行った。
だが、その家族がすでに幼いシアをそばに置いているのなら――まだ誘拐される前のシアがいることになる。
「……厄介だな。」
スンウは低くつぶやき、額を押さえた。
温水が指の間を流れ落ち、小さな音を立てる。
『結局、答えを得るには真実を確かめるしかない。神獣たちの群れ、彼らが暮らす村を探さなければ。』
水滴が洗面鉢に落ち、かすかに響いた。
静かな部屋には、その音だけが余韻のように漂った。
『でも、どうやって?』
スンウは顔を上げ、鏡に映る自分を確かめた。
この世界では、何の力もないただの人間。
運よくカイレンの信任を得たが、その幸運がいつまでも続くとは限らない。
今、スンウに最も必要なのは情報――神獣たちの居場所の手がかりだった。
『結局、千里の道も一歩から……か。』
スンウは口元にかすかな笑みを浮かべた。
鏡の中の黒い瞳が、固い決意を灯している。
視線を横に移す。
まだ眠っているシア。
銀色の毛並みに、朝の陽が柔らかく降り注いでいた。
『必ず……家族のもとへ帰してやる。俺とは違って。』
スンウは静かに誓った。
静かな朝、その決意は波紋のように部屋へと広がっていく。
#
食堂。
まるで示し合わせたかのように、四人は一緒に食事を取っていた。
スンウはシアの皿に肉を取り分けながら、慎重に口を開く。
「カイレン様、お願いしたいことがあります。」
「お願いだと?」
カイレンはナイフを止めて顔を上げた。
スンウの真剣な表情に、リスティアも自然と視線を向ける。
「売りたい物があるのですが、どこで売ればいいのか分かりません。」
「売りたい物?」
カイレンは興味深そうに眉を上げた。
「何だ?」
「とても貴重な物だと思うのですが、俺の考えが正しいかどうか……。」
「もったいぶるな。回りくどい話は嫌いでね。」
その言葉にリスティアがちらりと睨みを向けたが、カイレンは気づかぬふりをした。
スンウは懐から慎重に何かを取り出す。
――コトン。
卓上に置かれたのは、指二本ほどの長さの銀色の塊だった。
ろうそくの灯りを受けた表面は滑らかに輝き、他の金属とは明らかに違う光沢を放つ。
カイレンの目が見開かれる。
「こ、これは……?」
「銀です。」
正確には、地球から持ち込んだ一両分の純銀インゴットだ。
『地球にいた頃、資産のほとんどを銀か金に換えておいたからな。』
スンウは、今はまだ一片だけを見せるのが賢明だと判断した。
カイレンは慎重にそれを持ち上げ、灯りにかざす。
重みと輝きが彼の表情を引き締めた。
「この純度……鍛冶工房の腕じゃない。」
カイレンは低くつぶやく。
「この精錬技術は帝国でも滅多に見られん。不純物がまるでない。」
リスティアも目を丸くして身を乗り出す。
「本当。顔が映るくらいピカピカね。」
カイレンはうなずき、インゴットの刻印に視線を落とした。
「それに――この刻印の書体が異質だ。数字の配列、文字の筆致、その間隔……帝国の標準とは明らかに違う。」
小さな文字を凝視するカイレン。
その時、リスティアがぽつりとつぶやいた。
「ファ……イン……シルバー……?」
カイレンとスンウの視線が同時に彼女へ向く。
「リスティア、どうして読める?」
「私はドラゴンよ。」
リスティアは肩をすくめた。
「古代語はともかく、こういう単純な文字体系なら大抵読めるの。」
「だよね、私たちみたいな存在は皆そう。」
シアが得意げに割り込む。
スンウは苦笑した。
『そういえば、シアも地球に来たとき、すぐに韓国語を使っていた……。』
その時ようやく、スンウは神獣としてのシアがどれほど特別な存在かを実感した。
スンウは再び口を開く。
「これは、昔旅の途中で偶然手に入れたものです。非常時の蓄えとして持っていたのですが、いざ売るとなると場所が分からなくて。」
「旅の途中で、か……。」
カイレンはなおも疑わしげにインゴットを回し、やがてうなずいた。
「この純度なら、神殿で供物に使われる等級だ。値は相当に張るだろう。」
「では、売ることはできますか?」
「可能だ。」
カイレンはきっぱりと言う。
「ただ、どの店でも買うわけじゃない。出所を証明できなければ“密輸品”と見なされる。」
スンウはうなずいた。
「ですので助言を。安全に売れる場所をご存じありませんか?」
カイレンは少し考え、答えた。
「アルテイン北方に“ルイス商団”がある。金属の取引に長けた商団だ。我が領にも支部がある。手を貸そう。」
そう言って、カイレンはインゴットを丁寧にスンウへ返した。
「ただし一つ、注意しろ。
その刻印のせいで余計な興味を引くかもしれん。
商団でも『帝国産ではない』と見抜くはずだ。」
「肝に銘じます。」
スンウは頭を下げ、インゴットを懐へ戻した。
銀色の欠片が最後にきらりと光り、ろうそくの灯を呑み込む。
カイレンは意味ありげな目つきでスンウを見つめ、軽く笑った。
「お前が平凡だなんて、最初から思っていないさ……ますます正体が気になるな。」
スンウは静かに微笑むだけだった。
「俺を頼りにしているんだろう?」
「はい。大いに。」
「はは、男に頼られるのは苦手だがな。――それはそれとして、今日は休暇の最終日だ。行くなら今日がいい。」
「承知しました。」
「よし、なら食事が終わり次第すぐ出るぞ。」
「……え? 一緒に来られるんですか?」
「手を貸すと言っただろう。それに――お前には俺に、もっと借りを作ってほしいんでね。」
「……理由は聞きません。」
「はは、物分かりがいい。」
卓上に笑いが広がった。
だが、その笑いの奥にはそれぞれの算盤が静かに軋んでいた。
人の縁は計れず、糸のように絡まり合う。
スンウは、カイレンとの縁が一ヶ月で終わるとはどうしても思えなかった。
#
食事を終えると、四人は屋敷の前で待つ馬車に乗り込んだ。
窓の外から春の柔らかな風が流れ込み、
青空の下、アルテイン領の畑は新芽で覆われている。
「シア、部屋で休んでてもよかったのに。」
「リスティアこそ、少し休めば? 昨日出かけて疲れたでしょ。」
二人は互いの同行者を気遣ったが、当の本人たちは同時に首を振った。
シアとリスティアは並んで座っていたが、口を開かずとも別の会話を交わしていた。
――魔法を通じて、である。
――ねえ、カイレンに“香の刻印、ちゃんとやったの?
――うん。あなたに教わった通りにしたけど……これで合ってる?
シアは鼻をひくつかせ、匂いを確かめる仕草をした。
――ふむ……まだ甘いね。もっと頑張らないと。身体中から私の香りがするくらいが本物よ。
――ちぇっ、でも私はカイレンと一緒に寝ることなんてほとんどないんだってば。
――言い訳。無理ならこっそりでもやりなさい。
――私があなたみたいな真似、すると思う?
――どういう意味それ?
二人の囁きがやり取りされる間、向かいの席ではまったく別の会話が続いていた。
「スンウ、金が要るのか?」
「はい。買いたい物が少し。」
「ふむ、俺に前借りを頼んでもよかったものを。」
「それはできません。定められた給料日に正式に受け取ります。」
カイレンはくすりと笑う。
「はは、実直だな。まあ、どうせ後でまた払うことになるさ。」
「僕は一ヶ月だけ働くつもりです。」
「そんな約束だったか?」
カイレンは茶目っ気たっぷりに片目をつむった。
「今はそうでも、先のことは分からんぞ。」
やがて馬車の車輪が丘を越えると、小さな村が見えてきた。
「旦那様、まもなくアルディンに到着します!」
御者ジェイコブの声が響く。
屋根は濃い茶の瓦に覆われ、道沿いには石塀と白壁の家々が整然と連なっていた。
土埃はほとんどなく、踏み固められた道には蹄の跡が穏やかに続く。
広場の中央には古いニレの大樹がそびえ、
その根元には村人たちが共同で使う井戸があった。
男たちは荷を馬車に積み、女たちは籠に果物を詰めて市の支度をしている。
素朴ながら整った、平和な田舎の空気がそこにあった。
「本当に静かですね。」
スンウが窓外を眺めながらつぶやく。
カイレンは肩をすくめた。
「それが取り柄だ。貴族とて、騒がしい都市は性に合わん。これくらいの静けさが心地いい。」
その声には、彼が治めてきた領地へのささやかな誇りが滲んでいた。
「ここの者は大抵が農夫か職人だ。税が軽いぶん心に余裕が生まれる。
だから他所者にも温かい。互いを家族のように思って暮らしている。」
リスティアがうなずく。
「分かるわ。アルテイン邸もそうよ。――うるさい人は一人だけだけど。」
「うるさい人って、まさか……俺か?」
カイレンがわざと深刻そうな顔をする。
「さあ、どうかしら。」
リスティアがくすりと笑う。
シアが隣で唇を尖らせた。
「違うよ。カイレンはうるさいだけじゃなくて、鈍感でもあるの。」
その一言に、カイレンとスンウは同時に笑い出し、
リスティアはそっぽを向きながらも小さく吹き出した。
心地よい空気が、いつの間にかシアを上機嫌にさせる。
彼女はするりとスンウの隣へ身を寄せた。
「スンウ、見て! あの馬、草食べてる!」
シアが野原を指さしてはしゃぐ。
窓に顔をぶつけそうになった彼女を、スンウが素早く抱き寄せた。
「シア、顔ぶつけるぞ。」
「へへ、平気。それよりあの馬、すっごく可愛いでしょ?」
「そうだな。お前ほどじゃないけど。」
その一言で、シアの頬はみるみる赤く染まる。
やがて彼女は上機嫌に鼻歌を歌い出した。
「ふんふん〜♪」
春風のような鼻歌が、馬車の中を満たしていく。
ほどなくして、馬車は村の広場の前で止まった。
「ここが我が領の心臓、アルディンだ。小さいが、必要な物は揃っている。」
スンウは首を伸ばし、周囲を見渡す。
鍛冶屋の煙突からは煙が上がり、
ハーブの香り漂う薬草店や雑貨屋が軒を連ねている。
スンウは懐から小さな紙片を取り出した。
手書きでいくつかの素材が記されている。
硫黄、硝石、木炭、鉄粉、点火用の金属片――。
どれも爆薬作製の基礎素材だ。
『力がない以上、せめてこれくらいは用意しておかないと。』
彼の瞳が一瞬、鋭さを帯びる。
穏やかな空気の中に差し込む決意は、どこか異質だった。
馬車を降りたカイレンが続けた。
「ルイス商団はあの北の丘を登った先だ。
俺は少し役人に会ってくる。スンウ、お前はリスティアと一緒に行ってこい。彼女は商団と顔なじみだ。いいな?」
「はい、承知しました。」
カイレンはうなずき、リスティアへ視線を向ける。
「リス、スンウを頼む。」
「ええ、任せて。」
「よし、じゃあ後で合流しよう。」
カイレンは軽く手を挙げて別れの挨拶をした。
「さ、シア。手、つなごう。」
「うん!」
きょろきょろと周りを見ていたシアの手を、スンウは自然に取った。
シアはぱっと笑顔になり、その手をぎゅっと握り返す。
『外でもくっついてるのね。』
リスティアが小さくつぶやき、視線を逸らした。
陽光が丘の石垣を撫でるように流れ落ちる。
静かな田舎の空気の中、三人の足取りはゆっくりとルイス商団へ向かった。
風は暖かく、頭上では小鳥のさえずりが響いている。
ただスンウだけが、胸の奥で熱く鋭い決意を燃やしていた。




