嵐の前の静けさ
「ふあぁ――」
カイレンが両腕をぐっと上に伸ばして背伸びをした。
肩でこきりと凝りの音が鳴ると、彼は目をこすりながら天井を見上げた。
『ああ、リスの部屋で寝たんだった。』
ベッドの上には、まだぐっすり眠るリスティア。
規則正しい寝息、わずかに動くまつ毛、枕にこぼれた赤い髪。
その姿が妙に愛おしく、カイレンは口元を緩めた。
『うちの子は寝顔まで可愛いな。』
起こしてしまわぬようそっと戸を閉め、廊下へ出た。
眠たい目をこすりながら向かったのはスンウの部屋。
『二日くらい休むんだ、先に言っておかないとな。』
カイレンは身支度もせず廊下を歩いた。
コツ、コツ――
硬いブーツの踵音が静かな邸宅に響く。
階段の下には、この家の古参メイド、メリーが両手をきちんと揃えて立っていた。
「ご主人様、ご起床でございますか。」
「ふあぁ…ああ、君も朝からご苦労だ。スンウは?」
「スンウ様は、まだお部屋におられるようです。」
「ほう? あいつが寝坊とは、らしくないな。」
「私が起こしに参りましょう。」
その言葉にカイレンは首を振った。
「いや、私が行く。伝えることもあるし。」
「では、朝食の支度をいたします。」
うなずいて廊下を進み、スンウの部屋の前で足を止めた。
カイレンは何の気なしにドアノブを回した。
「おい、スンウ! まだ寝て――」
にこやかに扉を開けたカイレンの表情が、瞬時に固まった。
数時間後、正門前。
カイレンとリスティアは外出の支度を終え、スンウとシアが見送りに出ていた。
「わざわざ見送らなくてもいいのに。」
「私も邸の家族ですから。ご挨拶はしないと。」
「くく、口だけはもっともらしいな。ここの古株はもうそんなことしないぞ? 私はそんな堅物の貴族じゃない。」
「だいたい堅物ほど、そういうこと言いますよ。」
スンウが軽く受け流したが、カイレンは気にしなかった。
リスティアに同年代の友達シアがいるように、カイレンには近頃よく気を回してくれるスンウがいたからだ。
『最近の仕事の半分は代わりにやってくれるし、大目に見るか。』
「カレン、行こ。馬車が来た。」
リスティアが指した方向から、二頭立ての馬車が近づいてきた。
「よし。じゃあスンウ、それからちび…も、私たちは行くよ。あとで会おう。」
「はい、いってらっしゃい。」
「……」
シアは無言でうなずいただけだった。
その視線に妙な圧を感じたが、カイレンはあえて無視した。
馬車に乗り込む前、カイレンは最後にひと言付け加えた。
「それからな、ちび。私は見なかったことにするから、そんなに睨むな。」
シアはカイレンをちらりと見て、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、本当に行くぞ。おい、ジェイコブ、出発だ。」
扉が閉まり、邸が遠ざかると、カイレンは大きく息を吐いた。
「はぁ…まじか。俺はいったい何を見たんだ。」
顔を覆うカイレンを、リスティアが横目で見ながら言った。
「いったい何を見たらそうなるの? それとね、ノックくらいしなよ。私に礼儀作法を教えた人がそれでいいの?」
手厳しい正論に、カイレンはなおも上の空だった。
「はぁ…ほんと。スンウが心配だ。」
唐突な言葉に、リスティアは首をかしげた。
「何を見たの? シアがスンウでも食べてた?」
「それならまだマシだ。思い出すだけで五感が痺れる。」
カイレンは腕をさすりながら落ち着こうとした。
見かねたリスティアがぐっと身を寄せ、にらみつける。
「冗談はやめて、早く言いなさい。」
「見抜かれたか。」
カイレンはにやりと笑い、彼女の手をぱしっと握った。
「リスティア。」
突然低くなった声に、リスティアの肩がわずかに強張った。
「うん。」
「好きな人ができても、“刻印”は絶対にするな。」
「…なんですって?」
「あの神獣スンウに、“香の烙印”をしていた。」
香の烙印。
術者の気を刻み、対象に自分の香りを残して「自分のものだ」と宣言する行為。
その先の“刻印”は、相手の心魂を結びつける行い。
カイレンが扉を開けた時、眠るスンウの胸に銀の香を擦りつけているシアが見えた。
あまりのことにシアはカイレンを見るなり固まり、カイレンも同じく固まった。
『あ……悪い?』
『失せろ!』
カイレンの謝罪で我に返ったシアは、神聖力を込めたノックバックで思い切り押し飛ばした。
ドン!
カイレンが吹っ飛ぶ音と一緒に、扉も閉まった。
『うぐっ…』
加減のない一撃らしく、カイレンは痛みに顔をしかめた。
腰をさすり直しながら、カイレンは渋い顔で言った。
「とにかく、好きな人ができても香の烙印だの刻印だのはするな。被施者は自分の体に香りが付いていることさえ気づかない…気味の悪い儀式だ。」
リスティアは窓の外を見ながら、無言で耳たぶを赤らめた。
『…私、もうやっちゃったけど。』
カイレン、あなたに。
最後の言葉を飲み込み、リスティアはただ外だけを見つめていた。
カイレンとリスティアが去り、二人が残った。
シアは腕を組んでつぶやいた。
『カイレン、あの人はノックもしないでどうして勝手に入ってくるのよ!』
もっとも、自分もリスティアの部屋にはノックなしで出入りするのだが――それはそれ、これはこれ。
「二人、ちゃんと仲直りしたみたいだね。」
「そ…そうだね、よかった。えへへ。」
シアがぎこちなく笑うと、スンウは小首をかしげた。
「ともあれ休みももらったし…さて、何しよう?」
「じゃあスンウ! この前言ってたやつやろ! 私が教えるって言ったでしょ!」
シアが彼の手をぶんぶん振った。
不意の言葉にスンウはしばし考え、ぱっと目を見開いた。
「魔法のこと?」
「うん!」
「じゃあ、まず場所を変えようか?」
「それならいい所、知ってる。」
シアに手を引かれて向かったのは、二人が転移してきた森の入口だった。
「ここでやるの?」
「うん! 魔力の流れが安定してるの。私の言うとおりにやってみて。準備いい?」
シアは両手を腰に当て、得意げに顎を上げた。
「準備できました、先生。」
「よろしい、弟子よ。我が言葉に従え! まずは指先に力を集めるイメージ!」
スンウが両手を上げて集中したが、指先に反応はない。
「何も起きないけど…?」
「え? 本当に?」
シアは自分の指先を持ち上げた。
銀の灯が、トン、と芽吹いて、やわらかく広がる。
「こうやるの! ぴゅん!」
口で効果音まで足して草の葉を揺らして見せると、スンウは困ったように笑った。
「……その効果音、本当に必要?」
「大事だよ! リズムが生まれて魔力も流れるんだから!」
「僕の魔力、そもそも流れないんだけど…」
シアの目がまん丸になった。
「本当? まったく感じないの?」
「うん。どれだけ集中しても、何も感じない。」
シアは腕を組み、目を細めて真剣に言った。
「ふむ…じゃあ、もう一回! こう、こうやって手を振りながら心を開くの! ぴゅん、ぴゅん!」
「……。」
スンウは諦め顔でため息をついた。
横を見ると、シアは汗がにじむまで、あれこれ手振りをして手本を見せていた。
「ぴゅん! ぴゅん!」
その妙な効果音を口にしながら喋るシアを可愛いと思い、しばらく真似してみたが、スンウの指先は最後まで静かなままだった。
そうして一時間が過ぎた。
部屋へ戻る道すがら、スンウの顔には物足りなさが浮かんでいた。
「大丈夫だよスンウ! 一杯目からお腹いっぱいにはならないでしょ!」
「その言い方、どこで覚えたの。」
「えへへ、TVで!」
スンウはふっと笑ったが、苦みは消えなかった。
シアは神聖力も、その応用も軽々とこなすのに、自分だけが何の反応もない。
『やっぱり僕は…ただの普通の人間か。何か特別なんじゃないかって思ったけど。』
その時、廊下の端から聞き慣れた声がした。
「スンウ。」
「メリー?」
振り向いたスンウは、うれしそうに彼女を見た。
シアにも見覚えのある顔だった。
リスティアの部屋にいると、時々見かける顔だからだ。
「今日は休みじゃなかった?」
「うん、朝まで働いて、その後はカイレン様が皆に休めって。」
「そうなんだ。ご飯は? 一緒に食べる?」
「いいね、でも夕食でいい?」
「うん、夕食にしよう。」
シアの手がぴくりと動いた。
彼女は無意識に、スンウの手をさらに強く握った。
メリーの柔らかな微笑みと、スンウの穏やかな表情、自然な呼吸の合い方が癪に障った。
メリーがそこで初めてシアに目を向け、微笑んだ。
「あ、シアね。今日はリスティアお嬢様がいなくて寂しくない?」
「いいえ、別に。」
シアはカイレンやリスティアのように自分を知る相手にはタメ口だが、他の人の前ではスンウの教えに従って礼儀正しく話す。
「ところで、メリーと…スンウは仲がいいの?」
メリーは目を細め、可愛らしげに彼女を見た。
「うん、執務室でもずっと一緒だったし。」
「そうなんだ…」
なぜか胸の片側がひりりと疼いた。
「じゃあ、あとで一緒に食べよう。メリー、料理うまいじゃない。」
「ふふ、私に料理させるの?」
「君が一度披露したいって。今日はその日なんだろ。」
「わかった。じゃあ材料、用意しておくね。」
メリーは軽く手を振って廊下を去った。
芳しい花の香りがその後に広がる。
『この匂い…嫌い。』
スンウが何気なくつぶやいた。
「やっぱりメリーは優しいよね。」
その瞬間、シアの目が冷えていった。
「…優しい?」
「うん。メリーは本当に優しい。邸に来た初日、構内図もわからない僕に親切に教えてくれたし。淹れてくれるお茶も美味しい。」
シアは無言でスンウを見つめ、薄く笑った。
陽光がシアの金の髪を照らして揺らす。
だがその内側で芽吹く感情は、もっと濃く、熱かった。
シアは、息が触れるほど近く、ぐいっとスンウの腕を引き寄せた。
「シア?」
返事の代わりに、シアの指先から香が立ちのぼる。
空気に漂っていた花の香りがゆっくり消えていき、シア特有の神聖な香りに塗り替えられた。
そして、シアの口元がわずかに上がった。
「どう? きみも魔力を扱えるようになれば…こういうの、簡単にできるよ。」
「匂いをしっかり消せるんだね。」
スンウが襟元をくんくん嗅ぐと、シアは目を細めて笑った。
「スンウ、眠い。」
その一言に、スンウはあっさり釣られた。
「そうだね、お昼寝の時間だ。部屋に戻ろう。」
「うん!」
そうして二人は、夕方まで昼寝をして過ごした。
#
帰りの馬車の中。
「久しぶりに二人きりで出かけるといいね、そうだろ? リス。」
「そうだね。」
素っ気ない返事にも、カイレンはおしゃべりをやめない。
「次はスンウとシアも一緒に出よう。スンウは領地を視察するとまた何か気づくかもしれないし。」
「カレン、最近スンウに頼りすぎじゃない?」
「はは、頼る価値があるからだよ。給金もちゃんと払うしね。君もシアがいて退屈しないだろ?」
「まあ、それはね。」
「あの二人のおかげで、俺たちの生活の質が一段上がった気がする。幸運の象徴ってやつかな。」
カイレンが笑うと、リスティアもつられて微笑んだ。
だが長くは続かなかった。
今日、街中で見たある男が脳裏をよぎったからだ。
黒いマント、漆黒の気配。
歩き方だけでもただ者ではない武人。そんな者が、こんな田舎領に?
リスティアは疑念を拭えなかった。
「…ねえ、カレン。」
「ん、リス。どうした。」
「今夜、二人と一緒に食べよう。」
「お? 君にしては急な提案だね?」
「どういう意味?」
頬をぷくっとふくらませるリスティアを見て、カイレンはくすりと笑った。
「いや、君らしくないというか。他人と食卓を囲むなんて、普段なら僕かメリー以外ありえないじゃないか。」
「ふん。あなたやメリーは長い付き合いだし。誰とでも食べるわけじゃない。」
「はいはい。うちのリスは社交性のあるドラゴンだからね。」
コンコン。
その時、御者が扉を叩いた。
「旦那様、到着いたしました。」
「話してたら、もう着いたか。」
カイレンは降りて、リスティアに手を差し伸べた。
「じゃあ今日はスンウが作ったという料理でも食べようか。興味が湧いてきた。」
「そうしよ。思ったより美味しかったから。」
「悪魔の実に療養食? そんなに美味いのか?」
「先入観はよくないよ、カレン。」
リスティアはカイレンに腕を絡め、スンウの部屋の前に立った。
ノックしようとした、その時――
「スンウ! 何をしている!」
カイレンがまたドアをがちゃりと開けた。
『こんなことなら、どうして私に貴族の礼儀作法なんて教えたの……。』
突っ込みを飲み込むより早く、二人の目に飛び込んできた光景が言葉を奪った。
そして、それはカイレンも同じだった。
シアが眠るスンウの胸に手を置き、神聖力を密やかに散らしていたのだ。
「……」
「……」
「……」
沈黙を破ったのは、三人の誰でもなかった。
「う…うん。」
ちょうど目覚めたスンウが身を起こしかける。
「…!」
シアは稲妻のように力を引っ込め、何食わぬ顔で彼の隣に転がり込んだ。
「ふあぁー、よく寝た。あれ? カイレン様? それにリスティア?」
半開きの扉、呆けた顔の二人。
スンウは首をかしげ、隣のシアを見た。
「シア、起きて。お二人が来てるよ。」
シアがさっきまでぐっすり寝ていた――スンウはそう信じていた。
『それに引っかかる?』
カイレンとリスティアは同時に同じことを考えた。
すぐ続いたシアの演技も完璧だった。
「んん…あれ? カイレンとリスだ。どうしたの、二人して?」
彼女の口元は笑っていたが、目は笑っていなかった。
『知らないふりをして。』
シアの視線がそう告げていた。
察したリスティアが先に口を開いた。
「夕食を一緒に食べようと思って。」
「あ~そうなんだ。じゃあ一緒に食べよ。いいよね、スンウ?」
「メリーとも一緒に食べる約束したんだけど、いいかな?」
「そ…それならいいよ。メリーなら、うちの家族みたいなものだし。」
カイレンが気まずそうにぼそりと言うと、リスティアが彼の肩を軽く叩き、目で合図した。
『流して。』
『いや。あれをこのまま流せって?』
カイレンは葛藤したが、ひとまずリスティアがそう言うので飲み込んだ。
こうして四人はメリーを連れて食堂に入った。
スンウ以外の三人が先に入る。
「私が料理してもよかったのに。」
気まずい空気を割り、メリーが先に口を開いた。
「はは。いいよメリー。俺もスンウの料理を食べてみたかったんだ。」
「でも、メイドの私がご主人様と同席なんて…」
「メリー、いつも言ってるだろ。そういうのは外でだけ気にしなさい。私はむしろ形式張るのが苦手だ。」
「そうだよ、メリー。私も大丈夫だから、気にしすぎないで。」
「…わかりました。」
その時、ワゴンを押してスンウが現れた。
「お待たせしました。」
てきぱきと皿を並べる彼に、カイレンは目を丸くした。
「スンウ、お前、給仕もやったことあるのか? ずいぶん自然だな。」
「ええ、昔ちょっとだけ。」
ビュッフェの給仕で鍛えた動きだった。
「まったく、万能だな。事務仕事もうまい、料理もうまい、できないことは何だ?」
「今日はやけに褒めますね?」
「人を茶化すのも得意だな。」
「ふふっ、とりあえず召し上がってください。美味しいですよ。」
カイレンは一口食べるなり、目を輝かせた。
「おお、本当に美味い。昔、帝都で食べたものよりも上だ。」
そう言って、カイレンはがつがつと口に運んだ。
その様子を見ながら、スンウは満足げに微笑んだ。
「ところで、カイレン様。」
「む、何だ。」
「勇者の事績はどこで調べられますか? この邸にはないようで。」
「勇者?」
カイレンは顎をさすり、目を細めた。
「勇者なら帝国の都ベラディウムで調べられるはずだ。だが、なぜだ?」
「勇者ラウルについて知ろうと思って。」
途端に、カイレンの眉間に皺が寄った。
メリーとリスティアの表情も同時に固まる。
思わぬ空気に、スンウの肩がわずかに強張った。
『なんだ。口にしてはいけない話題だった?』
確かシアからは魔王を倒した勇者だと聞いたのに。
その後に何かあったのか?
「おい、スンウ。」
「はい。」
緊張して答えるスンウに、カイレンは低く、堅い声で言った。
そして続いた言葉に、スンウとシアはエラリオンに来て以来、最大級に動揺した。
「ラウルという勇者は…誰だ? 私の知る限り、そんな勇者はいないぞ。」




