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幼竜の気配

「ねえ、シア。」


「うん、スンウ?」


「どうして俺たち、こんなことしてるの?」


「ただ? 私がそうしたいから。」


「…強引だな。」


二人は互いの背中を合わせて座っていた。


暖炉の残り火が静かに燃え、部屋にはほのかな赤い明かりが広がる。


その光のあいだで、二人の影は重なっては離れを繰り返した。


仕事を終えて部屋に戻ったスンウの腕を、シアは無言で引いた。


そしてそのまま、今までずっとこの姿勢だ。


『ここ最近…嫉妬が強くなった気がする。勘違いかな。』


スンウは息を飲んで小さく首をひねった。


彼の肩に、シアの髪が触れる。


銀色の髪が、彼の首筋をくすぐった。


「二人、ちゃんと話してるかな?」


「さあ、うまくやってるだろ。」


スンウが上の空で答えると、シアは唇を尖らせた。


「なにそれ、本気が感じられない。」


「それよりシア。」


スンウは真剣な顔で視線を向けた。


「本当に大事な話がある。」


「本当に大事な話?」


シアが首を傾げる。


半分開いたカーテンから差し込む月明かりが、彼女の金色の瞳に宿った。


銀の髪がふわりと揺れ、彼女の輪郭を柔らかく縁取る。


スンウはシアの肩にそっと手を置き、彼女の体をこちらへ向けて向かい合わせにした。


「君の家族…帝国の祭りに一度だけ来たって言ってたよね?」


「うん、そう。私が誘拐される前に。」


短い返事だったが、その一言でしばし沈黙が落ちた。


スンウはそっと手を上げ、シアの頭に置いた。


髪をゆっくり撫でながら、心の中でつぶやく。


『平然と話すほど、余計に胸が痛む……。』


スンウは静かに誓った。


二度と、シアを一人にしない、と。


「そのときのこと、何か覚えてない? 領地の名前とか、周りの景色とか、些細なことでもいい。」


「ううん…」


シアは一度呼吸を整え、そっと彼の胸元に潜り込んだ。


胸に頭を預け、目を閉じる。


小さく息を整え、記憶を手繰りはじめた。


『あのとき、何があったっけ……。』


お母さんとお父さん。


それから数人の護衛。


世界のすべてがきらめいて見えた、あの頃の幼い自分。


そして──


「ラウル!」


不意に出た名に、スンウの肩がぴくりと動いた。


「ラウル? なんで急にラウルが?」


けれどシアは首を振りながら言った。


「そうじゃなくて…ラウルが祭りに行ったのは一度きりなの。」


「その祭りに、君も一緒に?」


「うん! 正確には、私の家族と一緒に。」


「……」


「こ、これじゃ…だめ?」


スンウがすぐ返さないので、シアは気まずそうに笑った。


だが彼は、ただ考えに沈んでいただけだった。


しばらくして、スンウの瞳がきらりと光る。


「そうだ、勇者が訪れるくらいの祭りなら、規模も大きいはずだ。」


彼の口調は徐々に速くなる。


「記録もきっと残ってる。閉鎖的な神獣の里にラウルが行った記録はないだろうって諦めてたけど…なら、帝国の祭りの記録からラウルを辿ればいい!」


スンウは今にも立ち上がりそうな弾む声で言った。


「よし、それだ! やっと糸口が見えたよ、シア!」


言い終えるより早く、スンウはシアをぎゅっと抱きしめた。


「す、スンウ…?」


シアの顔は一瞬で真っ赤になった。


彼の腕の中で、鼓動がはっきりと聞こえる。


「ははは! やっと君の家族への手掛かりを見つけた! よかった。」


心からの喜びが、そのまま顔に浮かんでいた。


シアはそんな彼の顔を見つめ、そっと心の中でつぶやく。


『すごく…うれしそう。』


胸がどくんと鳴る。


けれど唇は、固く閉じられたままだ。


『“家族と一緒に暮らそう”って、今言うべきかな?』


顔を上げると、目の前には眩しいほどに笑うスンウの顔。


その顔を見るだけで、もう十分だった。


その夜、シアは何も言えなかった。


ただ彼の幸せそうな表情を胸の奥深くに刻み、その温もりに寄り添いながら、静かに夜を過ごした。


#



この日、カイレンはわざわざ自分の部屋の外に出ていた。


理由は単純だ。


久しぶりに向き合うリスティアを、少しでも早く見たかったから。


彼は壁にもたれ、腕を組んだまま静かに廊下の先を見つめていた。


窓の隙間からほのかな月光が差し込み、長い影を落とす。


『いつ来る。』


やがて一時間ほどが過ぎたころ。


コツ、コツ──


規則的な足音が、静かな廊下に響いた。


『来た。』


アルテイン邸は三階建てだ。


生活の中心となる使用人たちの住む一階、スンウとシアが使う客室のある二階中央の廊下、そして三階の東端にカイレンの部屋、西端にリスティアの部屋。


そのおかげで、カイレンは廊下の端から歩いてくるリスティアを正面から見られる。


赤い髪、赤い瞳。


月光を受けるたび、リスティアの髪は火の粉のように揺れた。


歩みに合わせてスカートの裾が軽く波打つ。


今でも十分美しいが、いずれ間違いなく絶世の美女になる少女。


彼はふと、口元に微笑を浮かべる。


『よく育った……本当に。』


あの日、半分は気まぐれで、半分は好奇心で彼女を連れてきてから、もう六年。


親に捨てられ、人間に石を投げられていたあの子。


絶望の中で消えかけていた瞳は、いまや髪の色と同じく紅く輝き、生命力を宿している。


『あの日リスティアを連れ帰ったのは、人生で一番の選択だった。』


そして今、その子が自分のほうへ歩いてくる。


彼の視線は静かに彼女を追った。


一歩ごとに、胸のどこかがわずかに揺れる。


喉仏がひとつ、上下に動く。


『これからも、そして自分が死んだ後も、リスティアのためにできることは何でもしてやりたい。』


たとえそれが、独りよがりな欲であっても。


カイレンはそう思い、いつもの軽口を装った顔つきを作った。


作り慣れた笑みを無理に載せ、彼女を迎える。


手は平静を装ってズボンの縁に置かれた。


「リス、どうしたんだい?」


一時間も待ったくせに最初に出た言葉としては、あまりに見え透いた台詞。


いつもならリスティアは笑って受け流しただろう。だが、今の彼女は違った。


「カイレン。」


短く、硬い呼びかけ。


リスティアは廊下の端で足を止め、紅い瞳でまっすぐカイレンを見据える。


指先がスカートのひだを軽くつまんでは離れた。


いつもの愛称「カレン」ではなく、本名。


その一語に込められた重さを、カイレンは即座に悟る。


『これは…やり過ごせないな。』


カイレンの笑みは徐々に消えた。


顎の線が固まり、肩がわずかに落ちる。


表情は真摯に引き締まり、瞳は静かに沈んだ。


「そうか。とりあえず中に入ろう。座って話そう。」


カイレンはドアノブをひねって扉を開け、身を引いて道を譲る。


掌で「入って」と合図した。


リスティアは無言でうなずき、部屋に入った。


扉が閉まると、暖炉の炎が二人の影を長く伸ばした。


パチ、パチ──


小さく火の粉が弾ける。


カイレンは椅子に腰を下ろし、指先で書類を脇に寄せ、向かいの席を手で示す。


背もたれに一度身体を預け、姿勢を整えた。


リスティアは少し迷い、そこに腰を下ろす。


膝を揃え、手を重ねた。


短い静寂。


暖炉の音だけが部屋を満たす。


「リスティア。」


カイレンが先に口を開く。


視線は正面ではなく、炎に照らされたテーブルの上に落ちていた。


「君の部屋から出されたあと、俺も色々考えた。」


その言葉に、リスティアの肩が微かに震えた。まつ毛が短く揺れる。


彼女は裾をぎゅっとつまみ、頷きだけを返した。


「自分の考えを押し通しすぎたんじゃないかってね。突き詰めれば──いや、実際にスンウとシアの前で君の名を損なったのは、俺だから。」


カイレンは淡々と告げた。


だが、その平静の底には、長く澱んだ悔恨が沈んでいた。


「君はもう子どもじゃない。なのに俺は、ずっと君を子どものままだと思っていた。…ただの独りよがりだ。君を“人間社会に属する竜”としてきちんと育てたい──そういう俺の我欲。」


言いながら、カイレンはゆっくり顔を上げ、リスティアを見た。


彼女は視線を避けなかった。


手の甲の力が少し抜ける。


カイレンは深く息を吸い込む。


『もしかして、これは欲なのかもしれない…娘のような存在を、自分の視界にだけ置いていたいという、歪んだ保護欲。』


彼はこめかみを押さえ、うつむいた。


呼吸が不安定に揺れる。


『吐き気がする…結局、俺も変わらない。伯爵位のためにリスティアを奪おうとした両親も、彼女を虐げた人間も…同じ穴の狢じゃないか。』


カイレンの瞳がわずかに揺らいだとき、リスティアが静かに口を開いた。


声は低いが、語尾は確かだった。


「カイレン、私は竜だよ。本質的に人間の社会には属せない。」


カイレンは顔を上げ、笑みともつかぬ表情を作る。


「そうだ。君は自由だ。誰にも縛られない、竜だ。」


「なのに、何も知らない年の私を連れてきて、子爵家の後継に座らせた。私はいまだに、その理由を知らない。」


「……。」


「ただ、あなたの言葉に従ってきただけ。帰る場所があって、そこには私を迎えるあなたがいたから。」


「それは…ありがたい。」


カイレンの声色がわずかに和らぐ。


だが、リスティアは言葉を止めなかった。


「でもね、カイレン。最近、この邸がだんだん息苦しくなってきた。私のためって言うその行動は、結局、私を閉じ込めるのと何が違うの?」


「リスティア…それは──」


「私はあなたの言う通り竜。ときどき魔力を放ちたいし、あの広い空を飛びたい竜なの。」


リスティアの声はだんだん熱を帯びる。


膝の上の掌が、ゆっくり握っては開いた。


「でも、そうしたら君が──」


「冒険者に捕まろうと、闇商人に解体されようと、最終的には私の選択だよ。」


一瞬、カイレンの目が鋭く光った。


背もたれにつけていた背が離れ、上体が前へ傾ぐ。


拳が無意識に握られた。


「…何が言いたい?」


「自由になりたいの、カイレン。人の社会じゃなく、あの高みを飛ぶ自由な竜でいたい。」


「つまり、屋敷を…出たいのか?」


「違う。ただ、あなたの“保護”が、今の私には息苦しくなってきてるってこと。」


その言葉に、カイレンは唾を飲み込む。


喉の奥に一度、水がたまる感覚。


彼の内側のどこかから、古い声がにじみ出た。


なぜだい、カイレン?


自分は違うとでも思ったの?


結局、名誉と権力と家名のために竜を欲した私たちと同じ。

君だって我欲で彼女を縛っているだけだよ。


君も大して変わらない。


カイレンの両親は伯爵位を狙う者たちだった。


たった一人の息子を「家の道具」として育て、罪悪感のかけらもない、悪魔にも劣る者たち。


寝れば怠けだと叱り、剣が遅ければ鞭が飛ぶ。


傷と痣こそが、彼の成長記録だった。


『我々は貴族だ。お前の体は家のものだ。』


その言葉は幼い頃から、彼の耳に深く刺さっていた。


『黙れ……どうか黙ってくれ、母さん、父さん。』


カイレンはこめかみを押さえ、うつむいた。


顔が歪む。


あの日、両親を手にかけて以来、こうした幻聴は折に触れて彼を苛む。


そして今、リスティアの前でも響いている。


「…カイレン?」


カイレンの肩を見つめ、リスティアがそっと呼んだ。


赤い光のようなその声が、闇を裂いて彼の意識をつなぎとめる。


あの時と同じ、彼女の知らぬところで彼を救った光に、カイレンは顔を上げた。


深く吸い込んだ息が、ゆっくり吐き出される。


その瞬間、幻聴は霧のように消え、カイレンは静かに呼吸を整えた。


「えっと…そうか。今、どうしても謝らなきゃいけない気がする。許してくれるかい、リ…スティア?」


懇願にも似た声色に、リスティアは目を見開いた。


『何これ…冗談なの?同情を買うつもり?いや、冗談にしてはカイレンの表情があまりにも…悲しそう。』


彼の本心が読めず、リスティアは視線を揺らし、軽く俯いた。


その時、カイレンが続ける。


「今すぐに許せないなら、後でもいい。それだけ俺が悪かったんだ。」


肩を落としてかすかに笑ったが、その笑みはすぐ消えた。


「でも…あまり長くはかからないといい。俺が言える立場じゃないけど。」


カイレンの声は次第に小さくなった。


部屋には暖炉の残り火と、二人の呼吸だけが残る。


リスティアは唇を開きかけ、言葉を探していた。


指先がテーブルの縁をかすかに撫でる。


その時だった。


ぽとり。


静かな部屋に、小さな音が落ちた。


リスティアの視線が床へと落ちる。


木の床に、透明な雫が一つ、落ちていた。


「…カイレン? 泣いてるの?」


リスティアの声が震える。


「え? いや…どうしてこう…。」


カイレンは手の甲で目元を拭おうとしたが、涙は止まる気配がない。


壊れた堤防のように、止めようとするほど溢れてくる。


リスティアは固まったように彼を見つめた。


唇が微かに震える。


彼を泣かせるつもりなど毛頭なかったし、自分のせいで彼が泣くなんて、想像もしなかった。


「どうして…どうして泣くの?」


「自分でもわからない。どうして…。」


声は嗚咽に濡れてはいなかったが、涙だけが流れ続ける。


手の甲が濡れ、顎のラインを伝った雫がテーブルに落ちた。


『私のせい? 本当に? あのカイレンが?』


混乱した表情で見つめていたリスティアは、ぎゅっと唇を噛んだ。


まぶたがゆっくり閉じて、また開く。


『止めなきゃ。』


彼が泣く姿は、リスティア自身にも胸が痛かった。


方法を探していたその刹那、ふと脳裏をかすめる。


昔、眠れない夜に泣きながらカイレンを探しに行った自分。


そして、自分を慰めてくれた彼の仕草。


リスティアはゆっくりと立ち上がった。


椅子の脚がカーペットの端を擦り、小さな摩擦音を立てる。


カイレンは俯いたまま、その音にも反応できない。


彼の指先が涙を拭っていると、リスティアはそっとその手を取った。


二人の体温が薄く重なる。


「やめて。」


囁きとともに、カイレンの手が降りた。


彼女の指が少しだけ留まり、静かに離れる。


その瞬間、リスティアの瞳が静かに揺れた。


ちゅ。


カイレンの額に、短い口づけが落ちた。


リスティアの息が一拍止まる。


とても短い、けれど永遠のような瞬間。


彼の額には、あたたかな余韻が残った。


「……」


「……」


互いに、何も言わなかった。


リスティアは恥ずかしさに視線をそらし、カイレンは不意を突かれて顔を上げられない。


静かに流れる時間。


暖炉の炎が穏やかに揺らめく。


いつものように、先に口を開いたのはカイレンだった。


「これは…とても貴いものだね。」


どんな宝よりも、という言葉は飲み込んだ。


彼は、彼女の唇が触れた額をゆっくり撫でた。


昔、眠れないときにリスティアが「おでこにして」とせがんだことがあった。


『どこで覚えたんだか。…思ったより、度胸があるんだよな。』


ひとりの男の古い罪と、ひとりの少女の傷が、同じ炎の下で静かに溶けていく。


「もう一回、してくれない?」


カイレンの顔に、いつものとぼけた笑みが戻る。


目尻がいたずらっぽく折れた。


「な、なに!? ばかじゃないの? 慰めようと思っただけなのに、すぐ調子に乗って!」


リスティアの顔はみるみる赤くなり、慌てて両頬を手のひらで隠した。


カイレンはそんな彼女を愛おしそうに見つめ、穏やかに言う。


「はは、そうさ。君がいないと、俺はすぐ馬鹿になってしまう、リス。だから、ちょっとだけ見逃して。」


「な、なにそれ。」


口では拗ねながら、瞳の奥に淡い笑みが浮かぶ。


「…リス、受け入れてくれてありがとう。」


「勘違いしないで。まだ、怒ってるんだから。」


「我らが姫のご機嫌を直すには、俺はどうすれば?」


カイレンは、さっきまで泣いていたとは思えない明るい笑顔になった。


緊張がほどけ、肩が一度、ふっと落ちる。


「…休んで。」


「え?」


「明日は休んで。あの日以来ずっと働きっぱなしだったじゃない。」


『最近は、仕事はほとんどスンウがしてるけど。』


やはり優秀な人材、万能の人材スンウ。


カイレンはふと、彼の言葉を思い出す。


『もし和解できなくても、あんまり気にしないでくださいよ。うちのシアに頼めばいいんですから。』


その軽口を思い出すと、カイレンの眉間がわずかに寄った。


すぐに首を振り、心の中で苦笑する。


『あいつ、最近自分の価値を知ってきて、ますます大胆になってるな。』


それに、リスティアを慰める腕も只者じゃない。


もしかして…本当にうちのリスを──


そんな考えがよぎったとき、リスティアが眉を寄せて尋ねた。


「また、よそ事考えてない?」


「あ、いや…最近ちょっと大胆になったやつのことをな。」


カイレンの言葉に、リスティアは小首をかしげる。


「スンウのこと?」


「なんだって? スンウ?」


「うん、スンウのこと言ってたんじゃないの? そういえば、あなたもスンウの料理食べた? オムライスってやつ、美味しかったよ。」


『そういえば、スンウが教えた方法、ちゃんと使えてなかったな。』


普段は使用人と自分以外は「人間」としか呼ばない彼女が、スンウの名前を自然に口にすると、カイレンの胸に得体の知れない不安が走った。


まばたきするまぶたが、一瞬重くなる。


スンウは貴族ではないが、貴族社会とはそういう場所だ。


年がいくら幼くても、家の利になるなら老いた相手と結婚することなど珍しくない。


愛ではなく打算が、約束ではなく契約が、結婚を決める。


カイレンはふと、八年前──十二歳だった頃の記憶を呼び起こした。


剣士見習いとして過ごした学苑で見た、幼い貴族の少女たち。


彼女たちはいつも、年上の教官や名門の騎士に憧れていた。


純粋さよりも先に、世の冷酷さを覚えさせられたあの眼差しを、いまも忘れられない。


『あの子たちも結局、利用されて捨てられた……。』


その考えが浮かぶと、カイレンの胸のどこかが微かに軋んだ。


『スンウは…危ういほど完璧だ。』


有能で、誠実で、そこそこ整っていて、料理までうまい男。


加えて話術もある。


貴族なら当然、婚姻相手に望む逸材だ。


そう考えれば、感情表現が不器用なリスティアが彼の温かさに惹かれても、何もおかしくはない。


『でも、だめだ…俺の娘を──いや、リスティアは、まだ俺の庇護のもとにいるべきだ。』


カイレンの眉間がゆっくり寄る。


娘のように大切な子を、自分のように、あの冷酷な貴族社会の理に委ねるわけにはいかない。


「いや…食べたことはないよ。それより明日は──いや、二日ほど休もう。君と街に出るついでにな。」


その言葉に、リスティアの表情がぱっと明るくなる。


背もたれに寄りかかっていた背が、ぽんと弾けるように離れた。


「本当に? じゃあスンウにも言っておかないと。」


「…何を?」


「あなたが二日休むなら、あの子もそれくらい休ませないと。シアが言ってた。スンウ、あなたの仕事をずいぶん手伝ってるって。」


『スンウを雇ったのは失策だったか。』


カイレンは胸中でつぶやいた。


友達のいないリスティアのため、同世代のシアを友にするつもりだったのが当初の目的だったのに、今では逆に自分が縛られているようだ。


かといって、スンウは有能すぎて手放すこともできない。


「そうだね。そうするよ。僕から伝える。」


「うん、じゃあ明日は久しぶりに一緒に出かけて、いろいろしよ。」


「そうしよう。」


カイレンが立ち上がって出ていこうとしたとき、リスティアが彼の襟元をつまんだ。


ボタンが、かすかに「カチリ」と鳴る。


「ねえ、カイレン。」


「ん? まだ何かあるの、リス?」


彼女が唇を開くと、カイレンは目線を落として視線を合わせた。


「今夜…一緒に寝ちゃだめ?」


シアがいつも自慢げに、スンウと抱き合って寝るんだと話していたのを思い出したリスティアだった。


もちろん、神獣形態のときだけの話だが、その誇張がふと頭をよぎる。


「はは、久しぶりに甘えるね。」


カイレンはリスティアの頭を優しく撫でた。


指の間を、彼女の赤い髪がさらさらと流れる。


「いいよ。たまには悪くない。じゃあ、寝間着に着替えておいで。待ってる。」


「うん!」


彼女の足音が、廊下の奥へと遠ざかっていく。


部屋には再び静けさが戻った。


そして、夜明け前。


「…カイレン? 寝てる?」


カイレンは深い眠りに落ちていた。


ここ最近、リスティアとの冷戦で熟睡できなかった彼が、ようやく穏やかな呼吸をしている。


規則正しい息遣いが、毛布をゆっくりと持ち上げては下ろす。


「本当に寝てるよね?」


シアは小さく呟きながらベッドに上がり、ソファに横向きで眠っていたカイレンの体を、そっと仰向けに直した。


彼の肩の下に腕を差し入れてやさしく支え、毛布の端をまっすぐ整える。


カイレンの心臓のあたり。


その上に、両手をわずかな間を空けて重ねた。


ふぅうん──


「これで合ってるかな? シアがこういう感じって言ってたけど。」


『あの子、説明くらいちゃんとしてよ。ふぅうんとか、わああんとか、意味不明な効果音ばっかり。』


リスティアは小さく息を吐き、集中した。


指先に微かな振動が宿る。


そうして、シアがスンウの体に自分の気を分けるように、カイレンにもそっと注ぎ込む。


数分後。


「ふう…なんとか、できた気がする。」


リスティアは顎のラインを伝う汗を手の甲で拭い、もう一度ベッドに戻って横になった。


枕を二度、軽く叩いて形を整える。


このあとカイレンと出かけることを思い描きながら、彼女は甘やかにまどろみに落ちた。


最後の息が長く漏れ、肩がゆっくり沈む。

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